「外はだいぶ寒いみたいだね。もうすぐ雪が降りはじめるよ、イヴ」
セシルは窓ガラスについた細かい水滴を見つけて部屋の中を振り返る。すっかり真っ暗になった外と対照的に明るいオレンジ色の光に溢れる室内では、暖炉のそばのソファに腰かけて一人の少女が熱心に膝に置いた本へと目を落としていた。その彼女が、名を呼ばれて顔を上げる。動きに合わせて、腰よりも長い白銀の髪がさらりと零れ落ちるさまが美しい。やや緩慢な動作でセシルを捉える瞳の色は、海よりも深く空よりも透き通った青。
ほっそりと華奢な体つきは、それでも年頃の娘らしい曲線を描いていた。
「……ゆき? つめたいの?」
「そう。冷たくて白いの。前に見たことがあるよね?」
「……うーん?」
外見よりもずっとあどけない口調で応えた少女――イヴは、本を閉じるとソファを降りて窓際に立つセシルのもとへ歩み寄った。服の長い裾からのぞく小さなつまさきが、やわらかな絨毯をなぞる。部屋の外と中を隔てている窓の近くはひんやりと冷たかった。
「そと、見えない……」
「こうすると見えるようになるよ」
セシルが手で窓を拭うと、半透明になったガラスにぽっかりと黒い穴があく。
「どうして?」
不思議そうにイヴは窓に触れた。細い指が、セシルの作った穴から透明な軌跡を描いていく。そのことにも興味津々でガラスに顔を近づけて、そこに映る自分自身に彼女はぱちくりと瞬いた。
「?」
「面白い?」
自らの指先についた水滴を眺めて首を傾げるイヴを、セシルは後ろからそっと抱え込む。男性としては華奢な部類に入るであろうセシルでも、女性のうちでも輪をかけて頼りない身体をしているイヴを相手にすればすっぽりとその腕で包み込めてしまう。背中に伝わる慣れ親しんだあたたかさに、イヴはほっと息を吐くと目を閉じて身を任せた。
「寒くない? 大丈夫?」
「うーん、ここちょっとさむい、かも……」
ひやりとした窓辺の冷気が身に染みて、身体が冷えてしまったことに気づいたセシルは腕の中のイヴを抱き上げ、火の爆ぜる暖炉のそばへと戻った。ソファに掛けて膝の上に少女を乗せ、彼は先ほどまでイヴが開いていた豪奢な装丁の本に手を伸ばす。
「本の続きを読もうか?」
「……いや」
セシルが開いた本を見て、イヴは少し拗ねたような顔をする。部屋の熱気でだろうか、ほんのりと薄紅に染まるその頬をつつきながら、セシルは優しい笑みを浮かべてみせた。
「どうして?」
「だって、あんまり読めないもの。……字、読むの、たいへんなのに」
「僕が読んであげるよ。この話、好き?」
読み書きを勉強中のイヴのためにこの日セシルが選んだ本は、とても美しい挿絵の描かれた有名な神話の絵本だった。
「んと、セシルが前に話してくれた、神さまのおはなしだよね?」
「うん。どこまで読んだの?」
「ここまで」
「じゃあ、続きから読もうか」
ほどよく暖められた部屋に響く、薪の爆ぜる小さな音と、耳に心地よい穏やかな声。物語に耳を傾けながら、イヴはそうっと彼の胸に頬を寄せた。やがて聞こえてくるのは、規則正しく鼓動を刻む心臓の音。居心地がよくて暖かなその場所で、気がつけばイヴは無意識に瞼を伏せ、くたりと身体の力を抜いて彼に寄りかかっていた。
「――というわけで、この世界は七人の神様が力を合わせて護ってゆくことになったのです。……イヴ?」
「……ん……?」
最後の一行を読み終えて、セシルはイヴが反応しないことに気づいて呼びかける。ぼんやりした声でかろうじて返事をするイヴは、子守唄代わりのセシルの声と掛布代わりの腕に抱かれて、夢うつつの間に落っこちていた。
「聞いてた?」
「……うん」
「ほんとうに?」
「……う……ん」
「うそつき」
「……ん、ぅひゃ!?」
不意に、頬をむにっと引っ張られて驚いたイヴが目を開けると、目の前には上から覗き込むようにしているセシルの顔があった。綺麗な濃紫の瞳の中に、イヴの姿が円く映りこんでいる。
「イヴ、寝てたでしょう」
「寝て……ない」
「そんな眠たそうな顔で言われても、全然信じられないね」
「寝……てない……も……ん……」
そう言い張りながらもイヴの声は不明瞭になっていき、語尾もだんだんと小さくなって、しまいにはセシルの膝の上でまるくなったまま動かなくなった。
「イヴ?」
軽く揺すってみても反応はない。セシルは諦めて、本を机に置いた。
この話は、この国で一番有名なものだ。学校に入れば最初の年から必ず学ばされるものなのだが、たいていの子供は皆、初等部に上がる前に親や祖父母から聞かされる。
そうしてこれがただの『神話』――伝説では収まらないこともまた、この国の者、さらには同じ大陸にあるどこの人間でも当たり前に知っていた。
テーブルの上に広げられた最後のページ、華やかに彩色された子ども向けの挿絵には、人と同じ姿をした七人の“神”が仲良く笑いう様子が描かれている。それに目を落としたセシルの、濃紫の瞳がかすかに翳る。彼は片腕でイヴを支えながら、手を伸ばして開いていた本を静かに閉じた。
***
「ん……」
「あ、イヴ起きた?」
明るい陽光の差し込む部屋の寝台の上で、イヴが僅かに身じろぎした。彼女の意識が浮上した気配を察して、枕元に手を付いたセシルが覗き込むと、白銀の睫毛がふるりと震えて真っ青な瞳がぼんやり覗く。
「……せしる?」
「お目覚めですか、おひめさま」
寝ぼけてふにゃふにゃした様子がおかしいのとかわいいのとでセシルがくすりと笑みをもらせば、ようやく頭のはっきりしてきたらしいイヴは数度瞬いて、どうして笑われたんだろう? とその頭を傾けた。
なんでもないよ、そう言いながらセシルは彼女を寝台から降ろす。
「イヴ、顔を洗っておいで」
「んー……」
未だ眠そうに目を擦る彼女の背中を促すように、ぽんぽんと背中を押す。覚束ない足取りで部屋の隅に据え付けられた洗面台へと歩いてゆく後姿を見送りながら、セシルは寝台を整えて着替えを用意し、戻ってきてぽたぽたとしずくを垂らしっぱなしのイヴの顔を拭いてやりつつ手渡した。とはいえ、彼女が一人で着替えられるかというとそうではないので、夜着を脱ぐ段から時々手を出して手伝ってやらねばならない。さすがに、肌着までは自分でなんとかさせるようにしているのだが。
イヴが夜着を脱ぎ去ると、真っ白な肌が陽の光にさらされて、冷えた外気に頼りない肩が小さく震える。
平素見ているだけでも分かる、触れることで余計に顕著に感じられる彼女の華奢な体つきは、まるで繊細な硝子細工を思わせた。だが同時に、その身体は言動の幼さとは裏腹の、女性らしい柔らかな曲線をも持ち合わせている。
その精神と身体のアンバランスさに、年月のあいだに慣れたこととはいえセシルはいつも複雑な思いを抱かされた。彼女の前で、表に出すことはしないけれども。
「ほら、袖も通さないと」
「……んぅ」
セシルがそう指摘すると、イヴは襟ぐりからようやく出した頭をふるふる振って、ちょっと不満そうに今度は袖と格闘しはじめる。セシルは相変わらずの不器用さに苦笑しながら、通しやすいよう袖の先を引いてやった。やっと出てきた小さな手を軽く掴んで袖口を整えてやると、縫い付けられたレースがふわりと揺れる。
もう片方も同じように通させて、仕上げに胸元のリボンを結ぶ。これで、着替えは終わり。
最後にセシルがリボンを器用に形作るのをぼうっと見下ろしていたイヴは、綺麗に出来上がったちょうちょ結びの輪をつまんでちょんと引っ張った。
「イヴ、ほどけてしまうよ」
「……ほどけても自分で」
「イヴは自分では結べないでしょう」
これまでに彼女が積み上げてきた数々の失敗を思い出して淡く笑うセシルに、イヴはむっと頬をふくらませた。
「がんばれば、できるもの」
「そうなの? じゃあ、今まであんまり頑張ってなかったんだ」
「…………」
少し意地悪くそう返せば、イヴはちょっと困ったように目を泳がせる。そんな素直さが可愛いらしい、と思いつつも口にも顔にも出さず、セシルはイヴの長い髪を撫でた。頬に落ちかかるこぼれ毛を耳にかけてやり、乗り上げていた寝台から降りて彼女の手をそっと引く。
「お腹空いたでしょう? 朝ごはん……もう昼だけど、用意したから一緒に食べよう?」
「ん、今日のごはんはなあに?」
「蜂蜜のトーストとバターオムレツとサラダ。蜂蜜が好きだったよね」
「あの、甘くておいしいの?」
聞き返しながらイヴは嬉しそうに笑って、セシルが手を引くのに従ってベッドからぴょんと飛び降りた。着地に失敗してよろけるのを抱きとめられ、彼を見上げて無邪気に顔を綻ばせる。
「あのね、セシル」
「なあに?」
「それでもね、いつかは、ちゃんとできるようになるからね」
そう言って胸元のリボンを指し示すイヴに苦笑して、セシルはよしよしと頭を撫でてやった。
「じゃあ、うまくできるように練習しないとね」
「セシルが教えてくれる?」
「もちろん。でもまずは朝ごはんを食べよう。おいで、イヴ」
差し出されるまま手のひらを重ねたイヴと歩調を合わせて、セシルはゆっくり廊下を歩いていく。
それがこの二人きりの暮らしでいつも変わらない、一日のはじまりの風景だった。
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