久しぶりの兄と一緒の昼食が嬉しいと思った数分後、シルヴィアは早くも、ひとり窮地に陥っていた。
折角だから兄妹水入らずでと辞退しようとしたセシルをアルフレッドは「シルヴィアが寂しがるから駄目」と説得して座らせ、そのセシルがもともと長方形だった食卓を円卓に変えて、今、シルヴィアはアルフレッドとセシルに挟まれて座っている。
そうすると話は自然シルヴィアのことに向き、普段の様子についてアルフレッドがセシルに尋ねたり、それにセシルが答えたりするから、落ち着かなくて仕方がない。
所在なくフォークの先をかしかしと噛んでいたら、「お行儀悪い」とすかさずセシルに叱られてしまった。
言われた通りなのでフォークを置いて、今度はこんがり焼かれたパンを睨みつける。なるべく無心に、セシルと兄の会話を聞かないように。
そうしたら、両隣からくすくすと笑い声が上がった。
「な、なに……?」
「いいや。私の妹は可愛いなあって、ね、セシルくん」
セシルは答え代わりににっこり笑っている。なんと返したらいいのか分からなくなったシルヴィアは視線を右に左に逃がしたあと、なかったことにしようと手に持っていたパンを小さくちぎった。
そこへ、セシルが腕を伸ばしてくる。
「シルヴィア、ここ、ジャムついてる」
「へ?」
「こっち向いて、動かないで……ほら」
セシルの指がそっとシルヴィアの口の端を擦って、離れた指先には確かに赤いものがついていた。
まるで子どものころみたい。
シルヴィアは恥ずかしくなってうつむいた。
「最近大人っぽくなったと思っていたけれど、そういうところを見ると昔のままだって安心するね」
「安心……どうして? お兄さま」
「セシルくんもそう感じたりしないかい?」
「セシルも?」
「……そうだね」
国王兄妹に揃って答えを求められ、セシルはちょっと困ったように微笑した。
同意の言葉はどこかためらいがちで、シルヴィアはそんな彼を見て首を傾げる。兄の言うこともよく分からないが、このセシルの返答の意味もわからない。
アルフレッドのほうを振り向くと、彼も意味ありげな微笑を口元に浮かべていた。
「どういうことなの、お兄さま」
「そうだね……お前が大人になるのを嬉しいと思う反面、いつまでもこのままで……と思うこともある、ってことだよ」
いつまでもこのままで――。
シルヴィアは小さく息を詰めて兄を見た。今朝交わしたばかりの、セシルとのやり取りを思い出す。
兄の何気ない一言に、別の意味を見つけることができてしまう。
このまま――そんなことを言いながら、いつまでも今のままではでいられないと告げたのは、他ならぬアルフレッドだ。
「……それは……それって、お兄さま、あの」
表情を硬くしたシルヴィアに目敏く気づいたアルフレッドはちらりとセシルへ視線を流し、またシルヴィアを見る。
意を決して問いかけようとしたシルヴィアを一瞬早く制して、彼は変わらない調子で口を開いた。
「セシルくんに聞いたのか」
「!」
「で、おまえはそれが怖いんだね」
シルヴィアは少し驚いた。
目を丸くして兄を見ていると、彼はシルヴィアの頭に手を伸ばして笑う。
「これでもおまえの兄だよ私は。それくらいわかる」
「お兄さま……」
「おまえには急な話で悪いとも思っているよ。けれど、国内も安定してきた頃で、時機としてはちょうど良いんだ。おまえを確かに王家の娘だと証明するにもね」
シルヴィアを撫でるアルフレッドは少しだけ国王の顔をしていた。シルヴィアに申し訳なさそうにしながらも、彼はいま妹を王女として、政治の向きも絡めて見ている。
「シルヴィアは亡き母上によく似ているが、……だが母上には故国に姉妹もいらっしゃる。王家に子孫が私独りしか居ない現状、都合の良い娘を駒として見繕ってきたなどと、万一にも思われないために」
シルヴィアは王家の血脈の証である、金の目も金の髪も継いでいない。代わりに妖精族であった母の血を濃く引いて、容姿も性質も彼らに近いところがある。
アルフレッドはそんなシルヴィアの白銀の髪を、愛でるように緩く梳いた。
「私の可愛い妹だ。おまえに不遜な目など、できるだけ向けさせたくないよ」
「その方法に、なにかお考えがあるのですね」
差し挟まれたセシルの口調は確認するものだった。その『方法』とやらにもセシル自身、見当がついているのだろうと思わせるくらい迷いがなく、だが戸惑いや疑問の代わりに彼が浮かべているのは憂いだ。
小さく笑み返すアルフレッドも、同じものを滲ませていた。
シルヴィアだけがなんのことかわからずに、ふたりの間で首を傾げる。
「セシル? アル兄さま?」
じっと見つめられて、アルフレッドは困ったように目じりを下げる。それから撫ぜたために軽く乱れたシルヴィアの前髪を指先で整え、腕を引いて真っ直ぐに彼女の瞳を見下ろした。
「光臨式だよ、シルヴィア」
「えっ?」
「今度の光臨式の詠唱者。おまえにやってもらおうと思ってる」
「え……」
尻込みするように目を見開いて動きをとめたシルヴィアに、その反応を察していたアルフレッドが微苦笑して息をつく。セシルは、予想を当てても複雑そうに目を伏せている。
シルヴィアはといえば、言葉を探して薄く開いた唇から、結局呼吸だけ拾っているありさまだった。
「式で詠唱を務められるのは王族の血を引くものだけだ。それも直系のね。言葉なら取り繕うことができても、魔法は誤魔化せないだろう?」
「…………」
「でも、今日のところはこの話はお終いにしよう。シルヴィア」
半ば呆然としているシルヴィアに、アルフレッドはそう笑いかける。けれどそのときにようやく我に返ったシルヴィアは、小さく首を振ってうなだれた。
「そんな……」
「ん?」
「そんな、役目が……わたしなんかに務まるの。お兄さま」
「おまえならできるよ」
「でも……」
ぽつりぽつりと揺れる言葉で呟くシルヴィアは、涙をこらえるのに必死だった。
こんなことくらいで泣けないと頑張ってみても、日ごろから脆い涙腺がどうしようもない。
せめて隠そうとますます俯くシルヴィアの頭を、アルフレッドは額に手を置いて上げさせた。
「おやまあ」
「アル兄さま……」
「よしよし、シルヴィア。あのね、よく聞いて。私はお前がちょっとばかり甘えんぼうなのも知っているし、不器用なのも知っているし、泣き虫なのもちゃんと知っているよ」
「…………」
「でもおまえには務まらないと思うなら、私だって別の方法を考えるさ。私は、私の大事な妹をそんなふうに放りだしたりしない」
はじめ追い討ちをかけられているのだろうかと思ったら、違った。
アルフレッドは懐からなにかの布きれを取り出して、それで優しくシルヴィアの目元を拭う。
「だから、大丈夫」
こくん、と頷いた拍子にこぼれた涙も丁寧に拭われて、シルヴィアはようやく落ち着いた。
――が。
またひとつ、そんなシルヴィアを衝撃が襲う。
「お兄さま、それ」
アルフレッドが取り出した布きれは、肌触りは良くとも国王の持ち物としてはなんだか質素すぎるように見えた。
生成りの、手のひらくらいの大きさのただの布だ。
その隅に赤と黄色の落書きめいた模様らしきものがくっついているのに目を留めて、シルヴィアはぴしりと固まった。
先ほどとは違う意味で、固まった。
「それっ!?」
「あ、気づいた? これシルヴィアが昔、はじめて私にくれた刺繍だよねぇ」
「な、な、なんで持ってるんです!?」
「そりゃあ、可愛い妹がくれた大事なものだからに決まっているじゃないか」
シルヴィアは眩暈を感じた。
あの、どう見ても落書きのような模様には覚えがある。幼い自分が覚えたての刺繍で、この国と王家のシンボルである太陽と不死鳥を縫い取ったものだ。いな、縫い取った『つもりの』ものだ。
兄が不器用と評したとおり決して器用でなかったシルヴィアは、リボン結びをはじめとしておおよそ一切のことが壊滅的に下手くそだった。
暇にあかして料理に取り組んだはいいが厨房を爆破し、以後一切の出入りを禁じられているほどに。ついでにいまだティーポットでさえ扱わせてもらえない。
今でこそ刺繍をはじめ編みものまで趣味にしているが、始めた頃はそれこそ指が傷だらけになったくらいだ。
その刺繍を許されたのも、たとえ手を血だらけにしようととりあえず爆破規模とは無縁だからにすぎない。
「お兄さま……他のも、まだ持っていらっしゃいます?」
「もちろん」
やらせてもらえたこと自体が嬉しかったシルヴィアの、兄への誕生日の贈り物は毎年刺繍のハンカチだった。満面の笑顔で頷かれては、嬉しいやら恥ずかしいやら。
そうやって過去の品々に思いを馳せていたシルヴィアは、はたとあることに思い至って恐る恐るセシルを振り返った。
「あの……セシルも、もしかして持ってる?」
答えを聞くのが非常につらい。嫌な予感を後押しするみたいに、セシルはにこっと笑う。
「持っているよ。小さいシルヴィアが、一生懸命がんばってくれたものだもの」
きゃー、とシルヴィアは両手で顔を覆った。
たしか記憶にある限り、一番最初に渡した相手がセシルなのだ。完成してその場で――出来栄えは考えたくない。
しかもあれは……。
「血だらけだったりして、時々心配したけどね」
「ひゃー!」
「でも渡されてすぐに血の跡は消えたよ」
このときほどシルヴィアは、自らの持つ妖精族の特質に感謝したことはなかった。
妖精族の場合、髪や体液、それらすべては本体から切り離されると、他者に取り込まれない限り光となって消えてしまう。半妖精とはいえ、シルヴィアの継いだその血は兄よりも随分濃い。
そうでなかったら、セシルの持つハンカチは未だ血まみれだったろう。
下手くそな刺繍もどきに血だらけの模様などもうどうしようもなさすぎて、どうしようもない。
「ずいぶん上手になったよね。並べてみると感慨深いよ」
「そんなことしてるの!?」
「時々ね」
セシルに訊いたら応えはアルフレッドから返ってきて、シルヴィアは卒倒するかと思った。
なにをしているのこのひとたち!
「もう二度と! やめてください! 恥ずかしいので!」
こんなに声を張り上げたのは生まれてはじめてかもしれない。
けれど。
「いいじゃない。きみの、頑張った証だよ」
とても嬉しそうな顔をして頷く兄と幼馴染相手に、もはや勝てる気がしなかった。
***
「セシル君」
夕食までともにしてからシルヴィアの離宮を辞したあと、セシルは王城の廊下でアルフレッドに呼び止められた。ちょっといいかな、と連れてこられた先は王の私室で、何の話だろうと少しだけ身構える。
執務室でないということはどちらかといえば個人的な話なのだろう。
「シルヴィアのことなのだけれど」
「殿下の……」
シルヴィアを殿下、と敬称で呼んだセシルに、アルフレッドは軽く笑った。
「セシル君は、本人のいないところではあの子のこと、もう名前で呼ばないんだね」
「それは……」
「いや構わないよ、どちらでも。済まないね、ふと思っただけなんだ」
座って、とうながされ、セシルは対面に置かれたソファの片方に腰かけた。シルヴィアの白や淡い色でまとめられた部屋とは対照的に、アルフレッドの私室は濃い目の家具で落ち着いた雰囲気を作り出している。
そう長い話ではないのだけれど、と前置きし、セシルの向かい側に座ったアルフレッドは「シルヴィアをどう思う?」とひどく曖昧な質問を寄越してきた。
長い話でないかはともかく、厄介そうな話だ。
「どう、とは?」
「そのままの意味なんだけどな。君が、あの子をどう見ているのかが知りたい」
「…………」
セシルは、すぐには答えられなかった。質問の意図を測りかねてアルフレッドを見るも、彼はいたっていつもどおりで――逆に言えば真意が見えない。
彼の意図を探ることは諦めて、セシルは軽く目を伏せ、考える。
どのような類の答えが正解なのか。『見ている』とひとくちに言っても、その意味合いはいかようにも取れる。
しばしののち、セシルは慎重に相手をうかがいながら、最も無難だと思われる選択をした。
「優秀な方だと思います。勉学の面もそうですが、作法や立ち居振る舞いも……気を抜くと元来の不器用なところが覗いたりもしますけれど、王女として、十分な教養と気品をそなえていらっしゃるでしょう」
昼間のように、と言えば、アルフレッドは苦笑する。そのくつろいだ様子に、とりあえず間違ってはいなかったらしいとセシルはひそかにほっとした。
「確かに。……兄ばかだと言われそうだが、かわいい子だね、シルヴィアは」
「そう思いますよ」
妹を思っているときのアルフレッドは、笑み崩れて兄の顔をしている。臣下の前で見せるものとは、さすがと言うべきか全く違う。
だが彼女を王女として見るとき、アルフレッドは王としての顔に変わる。
セシルにとっては主君となるその目で見据えられ、少し緊張して背筋をのばした。
「なるほど。では、外に出しても問題はないかな」
「そう……思います。父も、潮時と申しておりました」
「ジュリアンさまか。彼はシルヴィアの魔力についても、おおかた安定したと言っていたね。状況も、あの子の生まれた頃よりだいぶ変わった……今となっては、下手に隠すより存在を公表してしまったほうが守りやすいだろう。この国の王女となれば、簡単に手を出すこともできまい」
そもそも、本当に隠しておきたかった相手にはとうに知られている。十年前も昔から。
それはアルフレッドの言うように、王女の存在が知られていなかったからこそ起こった事件でもある。
その現場に立ち会った――そうして止められなかったのが他ならぬセシルだった。誰もセシルを責めなかったけれど、彼はいまだ当時味わった悔しさとおのれの無力さに対する怒りを忘れてはいない。
「フィエル王国第一王女、か……」
どこか感慨深げにアルフレッドがつぶやく。
シルヴィアのための、両刃の剣ともなり得る称号。
セシルとて王家のたった一人の姫君を、さすがにずっと隠しているわけにはいかないと思っていた。
だから覚悟はあったけれど、未だ現在の状況にさえ戸惑っているシルヴィアを思えば、立て続けの変異は可哀そうだという思いも抱く。
しかし、それは王の前でふさわしい意見ではない。そう思って口を噤んだセシルだが、アルフレッドには見抜かれたらしく、彼は眼差しを緩めて苦笑を浮かべた。
「きみは、シルヴィアに優しく在っていてくれないか」
「はい……?」
「これから厳しいこともさせなければならない、私の代わりに」
すこし寂しそうに加えられたそれで、セシルは言われた意味を悟った。
「可哀そうだとは思っても、今、この時機を見逃せないのは私がこの国の王だからだ。そんなことは君にも分かっているだろうね。だから、きみにはあの子にとって、変わらない存在でいてあげてほしいんだよ」
「彼女は、それだって貴方が自分を守るためだと、ちゃんとわかっていますよ」
「ああ、シルヴィアもあれで聡い子だから……。でも、わかっていても苦しくないのとはまた違う。今回のことは、長く閉じ込められてきたあの子にとって、大きすぎる変化になるだろう。そんななかできみまで離れていってしまったら、あの子も立っていられないよ」
「はなれるつもりは、ありません」
セシルが声音に意志をこめて告げると、アルフレッドは満足そうに微笑む。その瞳には兄のものと為政者のもの、どちらの影もちらついている。
「彼女がこの国の『王女』となっても、君は変わらずそばにいてくれるね?」
「はい」
「ならば安心だ。では、そんな君に問おうか。シルヴィアを、王女として立たせることに異存はない?」
どう思う。改めて訊かれ、セシルは大国の王として君臨する人物の視線を真っ向から向けられた。
もしかしたら、本気で判断を求められているのかもしれない。幼馴染としてか、教育係としてか、もしくはあくまで『セシル・エルヴィス』というひとりとしてか。
もしそのどれかの自分が『否』と言えば、アルフレッドはどうするのだろう。
そんなふうに頭の片隅では思いながら――けれどセシルは、つと表情を引き締めると目を伏せ、アルフレッドの前に頭を垂れた。
彼女を信じている。……それに。
「御意のままに。……陛下がどうなさるとしても、私はつとめを全うします」
どのようなことになろうとも、自分の役目は――そうして選択は、たったひとつしかないのだから。
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