何かのニオイが俺の鼻とハラをくすぐった。
何のニオイだろ……?
あれ? これってカップラーメン……じゃね?
だけど、カップラーメンでもコレはいろんなメーカーのニオイが混ざり合っているし。
……こんなに食ったの誰?
「う……ん?」
この時も、俺はやっぱり空腹が原因で眼が覚めた。
ああ、違うな。
前は課長とのえっちなシーンで目が覚めて、それからハラ減りモードになったんだっけ?
俺はその時にイレギュラーでタッチ……つーか、シッカリと掴んでしまった課長のバストの感触を思い出して、寝たまんまで顔を崩す。
え? ……課長?
俺はガバッと跳ね起きた。
「……あれ?」
誰もいない……つか、ココ課長しか居なかったよな?
だけど、課長は今ドコダ???
消灯している薄暗い室内を、俺は目を細めて見渡した。
さっきのカップメンのニオイの元も気になってるし……
「……」
……ナンだよ? ……この部屋……
俺の視線が宙を泳いだ。
脱ぎ散らかして放りっ放しになっている衣類。
脱いだままストンと落されただろう高そうなデザイナーズブランドのタイトスカートは、輪っか状になって床に落ちていた。
これって、課長の脱皮のアト……?
だよな?
ストッキングもそのままで、しかも点々と落ちているこの状態は、脱ぎながら移動していたな? 状態までもが簡単に想像つくし……
「……」
チョッとコレは意外だった。
社内での課長は、管理職の肩書きのせいかも知れないが、常に整理整頓を心掛け、率先して社員の手本になってたし。
提出された資料ファイルの数センチの乱れさえ赦せないのか、角を揃えてキッチリと積み重ねられている。
ナニもソコマデしなくっても……って、思ったのが第一印象だったくらいだ。
課長の整頓されたデスクにその周りに居る社員達までが感化されて、神経質なくらい片付けられていた。
俺は課長のデスクから随分と離れたドアのすぐ傍だし、捜し物がすぐ見付けられる程度の片付けで、テキトーだ。
だけど、散らかってる今のこの部屋って???
そして、ニオイの元のカップメンは、室内中央のガラステーブルに幾つも山積みに重ねられていた。
……少なく見ても、五食分は置いてあるぞ?
洗ってゴミ箱に分別してから棄てろよな? そんなコトも出来ねーのかよ?
俺だって遣ってるぞ?
それにしても……
もしかして、アレから何日も俺は意識不明で寝ていたのか……?
つか、このニオイが気にならねーんだろうか???
それも、課長のプライベートルームで……しかも、コレって課長のベッドだろうがっつ!
おっつ、俺の寝顔が……いや、まさか俺の身体がオカズ……ってか、イタズラされてんじゃねーだろーな……?
俺は慌てて身体を見回した。
一応、ダイジョウブみたいだけど……とっても不安。
俺は、課長に拉致られた時に見た、整然とされていた室内を思い出し、今この目の前の光景が錯覚ではないのかと疑ってしまった。
課長との契約が成立しているとすれば……俺はこれからこの悲惨な状態を毎日目にすることになるのか?
ンなのイヤだ!
夢なら醒めてくれーっつ。
ふと眼にした壁掛け時計が、九時過ぎを差していた。
それが昼なのか、夜なのか、遮光カーテンに包まれたこの部屋に居る俺には全く判らねー。
だけど、コレだけは俺でも判っていた。
遂に遣ってしまった……無断欠勤っつ!!!
あ〜あ……どうせ、会社はもうとっくにクビ……なんだろうな?
新卒で入社して、ホンの数ヶ月でクビ……かよ?
全く……ショボイなぁ俺って。
トホホだぜ。
死ぬ気で就職勉強遣ったってーのに、あの時の努力は一体ナニ???
こんなコトになるのなら、もっと遊んでおけばよかったなぁ〜……
俺は猛烈な虚脱感を覚えて、ガックリと
項垂れた。
俺以外、誰も居ない静まり返った室内に、隣から冷蔵庫の冷却モーター音が微かに聞える。
「……」
こうしていたって始まんねーよな?
俺は頭を二、三度掻いて、大欠伸。
……取り敢えず、起きよ……
これからどうするかは、それからだ。
大理石で出来た広い洗面台は、否応無く俺の不安を
煽った。
こんなトコロ、旅行会社のリゾート案内パンフレットでしか見たコトない……
海外にも幾つか拠点を持っている木村工業には、厚生部門でリゾート関連を手懸けている部署がある。
会社案内のパンフにもこんな大理石仕様のホテル写真を見たが……
どんだけ資産があるんだよ?
つか、一般貧乏人のこの俺にとっちゃあ落着かねーよっつ。
目の前のゴージャスな鏡に視線を移した。
紺色のチェック柄のパジャマを着た、痩せた俺が映し出され……る?
「ああッツ?」
……遣られたよ……
何気に見た鏡には、ラクガキされた俺の情けない顔が映っていた。
マブタの上に眼が描かれ、左右の眉が繋がっていた。
しかも両の頬には何かの漫画で見た事のあるようなぐるぐる渦巻きが……
って、コドモかよ?
「う……しかもコレって……油性ペン?」
ナカナカ落ちてくれねーぞ?
一体、トシ幾つだ?
あの女ぁ……
スミに置いてあるフタの閉まった洗濯機が、俺的には妙に気になった。
で、中をそっと開けてみる。
「……」
絶句。
これって単なる干し忘れ?
つか、この洗濯機は乾燥機能ちゃんと持っているんだぞ?
洗濯し終えた状態の衣類が絡まったまま、干乾びてミイラ化していた。
まあ、これでも少しは本人が努力しようとは……して……いたんだろうな?
きっと。
もう一回やり直し。
シャワーを浴びようと、俺は自分の着ていたパジャマを一緒に投げ込んで、再び洗濯機のスイッチを押した。
今度は最期の乾燥まで設定してだ。
「……あ?」
シャワーを浴び始めてからすぐに、俺は自分の着換えを持って来るのを忘れていたのに気が付いた。
ま、ゲストルームとココからはスグだし、課長は居ないみたいだからダイジョウブ。
取り敢えず、マズは何か食ってからアブ(虻川)のオヤジ(車の修理屋)に連絡して、それから……
俺は時間を確認していたにも関わらず、そんな暢気なコトを考えていた。
会社の終業時間は通常五時。
工場なんかの製作部門だと、三交代制で二十四時間フル稼働になっているが、設計関連の製造業ではこんなモン。
木村工業はデカイ会社だし、会社内外からの組織監査の干渉や、社員組合とか労働基準法なんかで俺達社員は保護されている。
だから、個人の業務さえ段取り付けておけば、定時に帰宅したって
咎められたりはしない。
第三設計課は、商品のクレーム改善やメンテナンス関連を請け負っている。
ユーザーが使用中に発生した不具合を特定し、その場での改善や一時凌ぎ的な応急処置を指示したりする、いわば救急病院みたいな部署だ。
まあ、商品として市場に出すのには、幾度も行われる厳しいテストをクリアしないとダメだから、ヒッパクした緊急事態は年に数える程度。
で、それ以外の通常は商品の仕様書とか、メンテナンス向けのテキスト図面なんかをPCで製作している、ワリと静かな部署。
だから、女性である課長がそんなに遅くなるまで残業するのはマレだってコトを、俺はスッカリと忘れていたんだ。
「う〜〜〜サッパリしたぁ」
俺は上機嫌でそのまんま浴室から出た。
「〜〜〜!!!」
「いっ☆?」
ドアを開けっ放していた脱衣所から出ようとして、俺は自分と真正面に向き合ったヒトが居るコトに気が付いた。
モチロン、誰も居ないと思っていた俺は、別に隠すコト無くフルオープン状態。
な、ななっ、何でだっつ???
それはコッチが聞きたいよ!
恐怖映画に出て来そうな、もの凄い悲鳴が室内中に響きワタル……
「かっつ……課長?」
「いやあああ!!!」
タイムリーに帰宅した課長から……
俺は三度目の平手を喰らった。
「もぉおお! おっつ、驚かさないでよッツ!」
そう言っている課長の視線が、前を両手で隠している俺のコカンで止まっていた。
……あんまり……見ないで?
「早く着替えて車出して?」
「え?」
「聞えなかったの? 車、出して?」
課長は赤面し、眉間にシワを寄せて怒った。
「は……ぁ」
俺は釈然としないままだ。
俺のそんな様子に、課長は一変してにこりと微笑んで見せた。
……その微笑に何度、騙されたコトか……
もお、騙されねーぞ?
身構える俺。
恥ズイ格好で身構えるもナニもねーんだが……
「隣町で夏祭りがあるの。連れて行って?」
「はいぃ?」
夏……祭り……?
って、コドモかよ?
身構えていた俺は、拍子抜けした。
だけど、コレも課長からのオーダーなんだ。
聞かねーワケにはいかないし……
* *
結局、俺は課長のフィットで隣町の夏祭りに、課長を連れて行くコトになった。
自分で行けよ? って思ってしまう。
見た目、何の変哲もない彼女のフィットは……タダのそこいらへんにあるフィットじゃなかった。
マンションの専用駐車場に停めてあったその車の前輪は、左右ともアウトサイドが極端に磨り減って、溝が無かった。
タイヤ、ツルツルじゃん……
人のコトをどうこう言えたギリではナイが……マジで課長の運転の荒さが窺える。
へぇ〜、オマエもご主人様と同じジャジャウマなんだな?
感心していると、やっと課長が遣って来た。
「お待たせ〜」
課長はいつの間にか、紺色の生地に鮮やかな同系色で描かれた蝶の浴衣に着替えていた。
朱色に山吹色の細いラインのアクセントが入った帯を締めて、軽く襟足を抜いたその姿が
艶やかで、カッコ良かった。
俺はその着換えで遅れて来た課長の顔を、じいい……っと見詰めた。
ドコから見ても、イイ女……じゃん?
とてもこの車のドライバーだとは思えねー。
こんなにカワイらしい顔してるのに……あ、いや、それはチョット褒め過ぎかな?
「な、ナニよ……?」
俺のアツイ視線にワケが判らず戸惑って、課長は妙に警戒した。
イヤらしい視線に見えたのかな?
「その浴衣、似合ってますよ?」
そう言って、俺はくすっと笑った。
あれ? 今の、ホントーに俺のコトバ……なのかぁ???
ケツがむず痒くなりそうだったが、本当にそう思ったんだから仕方ねーよ。
俺のその一言で、課長は真っ赤になってしまった。
そして、無意識に手にしていたウチワで口元を隠す。
あれ? 普通に反応出来るじゃん?
車内に乗って更に驚いたのは、この車が今時ミッション……マニュアル車両だったってコトだ。
なんと、左足で操作するクラッチまで付いている。
今時のオートマチック車両でもある程度の加速は十分に体感出来るし、通常の走行なら全くモンダイ無い。
だが、それもある程度まで……
モチロン、ドライバーの腕にも依るが、ミッション車両の加速とは比較にならねー。
俺はマニュアル車両賛成派だが、レーサーでも無いのに女性でマニュアル車両を運転しているのって、課長くらいじゃないのかぁ?
「課長?」
俺は、ダサダサの普通のシートベルトを装着しながら、助手席に滑り込んだ課長に問い
質す。
「え?」
「これ、モロにミッションですよね?」
「あ、ゴメン……運転出来なかった?」
俺をナンだと思ってるんだあああ……?
って、言いたかったケド、勝手に俺が決め付けている入社式当日の勝負で、勝ったのは課長だったんだよな?
俺は事故ったし……
「運転なら出来ます」
少しムッとなった。
「あ、そう?」
課長はそう言ってから……コソッと小声で『そうなんだ』ってツブヤイタ。
あれ? ナンだか課長、嬉しそう?
「???」
俺はその課長の不思議な反応を気にしながら、フィットを出した。
軽ッツ!!!
ステアリングの軽さに少しばかり戸惑った。
「で、さっきの話ですけど……」
運転しながら、俺は話を戻した。
「あ? ああ、マニュアル車の話ね?」
「今時……って言ったらシツレイ……なのかな? けど、どうしてオートマに乗らないんです? オートマの方がダンゼン……楽でしょ? エンストするリスクも無いし……」
「だって……免許取ったのミッション車だったもの」
少し、恥ずかしそうに呟いた。
「その……忘れちゃうと……なんだか勿体無いって気がして……」
「……」
大企業のご令嬢が「勿体無い」……なんて言うか?
フツー?
とにかく課長は俺が思っていた以上にフツーじゃないご令嬢だった。
つか、オテンバ……なんだろうな?
普通の男以上に男勝りの……
多分、俺の分析は当たっている気がする。
隣町まではほんの数十分だった。
俺は課長に会社での自分の状況を尋ねたが、奇跡的に俺のクビは繋がっていた。
まぁ、上司の課長の部屋に居るんだ。
無断欠勤にはなんねーか。
『事故後の後遺症……』って言うコトで、会社側は了承してくれたそうだ。
……ホントーは、自己管理のミスに因る栄養失調の貧血……なんだけどね?
「助かったぁ……」
俺はホッと胸を撫で下ろした。
「迷惑だった?」
「えっつ??? いや? そんなコト……全然無いッスよ?」
トートツに課長の携帯が鳴った。
俺はハンドルを握り、横目で課長の様子を窺っていたが、相手先の表示を眼にした課長の表情が、たちまち強張った。
「……?」
俺はそこで携帯の相手が例の彼氏だと思った。
そう言えば……
ナンでその彼氏と一緒に行かねーんだ?
行くのをオックウがっていた俺なんかを連れて行くよりも、ずっとマシだと思うがな……?
だけど、結局、課長はその携帯には出なかった。
……どうしてだ?
目の前に俺が居たからか?
それとも、勝手に俺が携帯の相手を課長の『彼氏』だと思い込んでいる……だけなのか???