「ヤベェ、あと五分も……ねーぞ……」
ステアリングを握る
掌がジットリと汗ばみ、呼吸が乱れる。
苛立ちを伴った息苦しい焦燥感に襲われて、俺は今にも胸が潰れそうだった――
就職戦線を勝ち抜いて、俺は晴れて社会人。
今日から俺は、木村工業株式会の新卒社員として、華々しい生活が始まるってー言うのに……
なのに……
なのにこの俺は……
入社式に、よりにもよって朝寝坊してしまったんだあああ!!!
「早く行かねーと間に合わねぇ〜〜〜っつ!!!」
入社式ってコトで、夕べはいつもより早くベッドに潜り込んだのに、ミョーに気が張ってしまって眠れなかった。
てなワケで、俺はトーゼン寝不足だ。
ホンの半年前なら、深夜の峠を攻めていた『走り屋』だったこの俺だ。
始業時間の八時半は、俺にとっての感覚は真夜中も同ー然。
毎日の習慣って、昨日今日じゃ簡単に切り替えられねーモンだろよ?
この俺的早朝時間帯に発生する、イワユル『通勤ラッシュ』ってーのが、こんなにヒドイものだとは夢にも思ってなかったし。
片側三車線のバイパスは、俺の当初の予想をハズして、思いっ切り渋滞してくれていた。
一箇所の信号に何度も足留めを喰らい、頻繁なブレーキングに速度制限以下のノロノロ運転。
タダでさえ燃費が悪い俺の改造インテグラに、ガス欠間近のサインが
灯った。
「うっひゃぁ〜マジかよ?」
一気に気抜け〜〜〜。
脱力してウナダレル俺。
世の中に、神も仏もねーのかよ?
一向に流れてくれない状況で、更に不穏要素を盛り込まれてブルーな気分になっちまう。
一台前の車が結構車間距離を空けているのに……俺はそこに行きたくても、前は勿論左右の車に
挟まれて身動きが取れねー。
コノヤロー遅刻したらどーすんだ?
俺は自分の事を棚に上げ、苛々しながら左右のドライバーを睨み付ける。
自慢じゃないが、タダでさえ視力が悪くて目付きの悪い俺のガン付けは半端じゃねー。
「!」
左車線を走行していたドライバーが、殺気を含んだ俺の視線に反応した。
俺のインテグラと並走していた、白いセダンのカローラがブレーキランプを灯してスピードをダウンさせ、俺の視界から消えて行く。
俺の目の前に、自分の走行ラインが見えて来た。
よっしゃ!
一気にシフトレバーをローに落してアクセルを容赦なく踏んだ。
駆動部が俺のアクセルワークに呼応して車体にパワーを送り込み、改造インテグラが軽く沈み込む。
「?」
一瞬、視界がスローモーションを見ている状態になった。
俺の真後ろに着いていた
車が先に車線変更して、俺の侵入ラインを封鎖した。
――そのパールホワイトに輝くフィットのドライバーが、俺と視線を合わせた。
先制を取られ、間抜けなツラをした俺を見て、その女は口元を
緩めてニヤリと笑う。
事故る!
女の強引な割り込みに、全身の毛が逆立った。
咄嗟にハンドルを切り返すと、俺の車は情けなく白煙を曳いて元の車線に
躍り込む。
「んぎっ?」
タイヤからアスファルトのグリッド感が失われた。
インテグラのパワーに押されたのか?
単なるいつものドリフトとは、明らかに違うこのカンジ。
ケツがブレて流されてる!
つか、俺まだナンにも遣ってねーし???
車体後方からの加重で、突き上げられているようなミョーな感覚。
ナニが起こった???
素早くミラーに視線を奔らせる。
俺の白いインテグラのケツに、後続して来たアルファードがランデブー……
って、オイっ!
こっつ、コレって追突されてンじゃんよっつ???
「うわわわ!!!」
制御出来ねぇええ〜〜〜!!!
車線中央にいた俺のインテグラに、危険を察知した右車線の車が停車した。
車線右側フリーになったインテグラは、そのまま中央分離帯に等間隔で接置されている黄色のポールを
薙ぎ払い、走行車がマバラになっている反対車線へと強制的に押し出される。
左対向から、クラクションを激しく鳴らしてインプレッサが急速接近中。
スピードオーバーのインプレッサは俺に気付くのが遅れたらしく、甲高いタイヤのスリップ音を響かせて突っ込んで来た。
こんな時に、ブレーキ制御が出来ないくらい飛ばすんじゃねーっての!
って、余裕コイテる場合じゃなかったし。
ヤバイ!
ドライバーの恐怖に引き攣った顔が見えた。
コイツ、マジで停まんねー……つか、停められねーんだ!
目の前で星が散った。
遠くで緊急車両のサイレンが聞こえる――
あのフィットの女……俺を見て笑いやがった……
無性に腹が立った。
自称『元走り屋』だけに、こう見えても運転テクにはチョッとした自信を持っている。
峠の
日高って言えば、この辺で名前くらいは知っている奴も多い。
あの時だって、あの女さえ加速して来なければ……
待てよ?
コレって……ひょっとして、あの女の方が運転テクが上って事かぁ???
* *
「……君? ……日高君……」
遠くで俺を呼ぶ男の声が聞こえた。
「……は……い?」
俺は情けない返事をする。
「……?」
ぼんやりと俺の意識が現実に引き戻されて来た。
見た事の無い、白い天井……ココ何処だ?
「気が付いたかね?」
「……?」
誰?
このオッサン……???
俺は親しそうに話し掛けて来る初老のオヤジに、何処かで会った気がしてならなかった。
濃いグレーのスーツをビシッと着こなしている上品そうな小柄のオヤジ……
うん? 待てよ? この人は……
「……ってぇ、し、し、社長?」
俺の顔がタチマチ蒼ざめる。
この人は、俺がこれから末永くお世話に……なる予定の、木村工業(株)総取締役の木村社長本人だ。
思い出すのに時間が要った。
それもその筈。
直接には、俺は採用試験で一度しかお目にかかった事が無い。
しかも会社の所有する体育館での社長挨拶に、遠すぎて米粒くらいにしか見えなかったぞ?
後は、TVや雑誌なんかのメディアで見掛けたコトがあるくらい。
木村工業株式会社は、滅菌装置や透析用ろ過器と言った医療関連機器をメインに取り扱っている地元の製造会社だ。
機器の自社開発・製造はもちろん、アフターケアのメンテナンスも一手に担っている。
高度な技術とユーザーの信頼を獲得し、県内はもとより国内や海外に措いても業界トップシェアを誇っている。
その大手企業の
CAD設計技師として、俺は見事この会社に採用されていた。
たちまち俺は恐縮して飛び起き、怪我人である事も忘れてベッドの上で正座……したツモリだったのに……
「あ……」
俺から「社長」と呼ばれた紳士が、慌てて俺に腕を差し伸べる瞬間が見えた。
俺の視界が接近するベッドの床を映し出す。
「ん、ぎゃーっつ!!!」
術後の鎮痛薬投与のお陰で、身体中の感覚がマヒして自由が利かない状態だった。
俺は社長達が見守る中、無様にベッドから転げ落ち、頭から文字通り床にダイビングしてしまった。
傍に控えていた看護師が驚いて手を差し伸べる。
麻酔が効いていたのが良かったンだか悪かったンだか……
「きゃーっははは……」
社長のすぐ後ろで控えていた人物が、甲高い黄色い声で派手に馬鹿笑いする。
「こ、これっ、恵理!」
「だあってぇーこの人、おっかしーんだもん。も、もお駄目……きゃはは……」
慌てて社長が、俺を見て馬鹿笑いしている女を諭した。
けど、もう遅い。
あンだとぉー?
俺は看護師の介添えで起こされながら、その馬鹿笑い女を見上げて睨み付けた。
「まだ麻酔が効いていて良かったですね?」
看護師が困った顔をして俺に言った。
「病院ですから、それなりに治療は出来ますが……暴れたりしないでくださいね?」
「……は、ハイ……」
いや、暴れたツモリはないんですが……
看護師に厳重注意されて凹む俺。
少しだけ、馬鹿女から気が逸らされる。
「くすす……ふーん」
一頻り大笑いしてヤッと落着いた馬鹿女は、俺に品定めをするような視線を遣しやがった。
野郎でも退いてしまう俺の眼光にも、全く怖じ気付かないドコロか逆に不敵に笑って見返して来る。
ナンだよ? コイツ……
「……?」
視線が合った時、俺の心臓がドキリと大きく鼓動した。
栗色のふんわりとしたユル巻きレイヤーカットに、パッチリとした二重の大きな瞳は、猫の様に気持ちつり上がっている。
スッと通った鼻筋に、ふっくらとした唇。
身長は百六十前後の標準。
体型はすらりとしたスレンダー体型で、腰の張りもイマイチなのに……胸だけはデカイッ!
ナンだよコイツ……
馬鹿女の外見は……その……詰まり……
……俺のタイプだった……
強調するが、『外見だけ』だからなっつ!
「娘が失礼をした。大変な目に遭ったね? 折角の入社式にも間に合わなかったそうじゃないか?」
社長はその馬鹿女を「娘」だと言った。
俺はその社長の言葉にあんぐりと口を開けて呆けてしまった。
「娘」って……ダレ?
まさかその後ろに立っている、ヤン姉みたいなの?
「失礼って何よ? アタシは普通に走っていただけじゃない。コイツがいきなり車線変更なんかしようとしたから後の車にぶつけられたのよ?」
馬鹿女は口を尖らせて社長に抗議した。
『コイツ』って誰の事だよッツ!
言い様にムッとなる。
そして馬鹿女の言葉に我に返った。
え? ナニ……じゃ、あの時のフィットはこの……
「
恵理!」
社長は馬鹿女の頭を軽く押え付けて、俺に頭を下げさせようとしたが、馬鹿女は社長の手を高慢に払い除けた。
「もぉ! チョッと! 止めてよ! だから、何度も言っているけど、アタシは何にも関係無いってばぁ!」
――馬鹿女は、本当に冗談抜きで社長の娘……だった。
制御不能になってスピンした俺の車は、後続車のアルファードに『オカマ』された。
その後、勢いで対向車線に押し遣られ、運悪くスピード違反していた対向車両と映画のスタント真っ青に、派手に接触。
俺のインテグラは廃車確実に大破した。
入社式の当日……
俺は、利き腕である左腕と鎖骨、そして肋骨二本の骨折と右足の裂傷他合わせて十七針の怪我をした。