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水の庭

池で夜釣りを

作者:眞木 雅
 夜更けの心細さに急かされて、思わず鏡を見る。己の存在を確かめるために、しばらく鏡を見つめていると、ぽろぽろと涙が溢れてきた。夜泣きをする赤子の気持ちがどんなものか、今はっきりとわかった気がする。
 私は、この箱のようなひと部屋の孤独に耐えかねて、出掛ける支度をした。といっても、寝間着にコートを羽織るぐらいのものだ。誰かに会いたい、今はただ、そればかりであった。
 外へ出てみると、普段より幾分明るい。夜空を見上げたところ、なるほど月は満ちていた。
 私は、明るい夜道を歩きながら、あれやこれやと空で歌える歌をひとつずつ歌った。軽やかな曲では歩調も軽やかに、ゆったりとした曲なら歩調もそれに倣って、と自分勝手にあれこれやっていると、何かに躓いて、派手に転んだ。
 体を起こすと、目の前には池があった。たぷたぷと水をたたえたそこには月が浮かんでいる。私は池の縁に這いつくばって手を伸ばすと、月を水面から剥ぎとった。光の布がはらりひらりと、風にたなびく。そして、月を剥がされた水面にはぽっかりと穴が開いた。
 私は、剥がした月を丁寧に折りたたむと、コートのポケットにしまった。そして、池に飛び込んで穴の中へ落ちた。

 池の中は、酒場であった。カウンターのむこうから店主が話しかける。
「お好きな席へどうぞ」
 私が戸惑っていると、ボーイが一人近寄ってきてコートを預かると申し出る。私は、それを断ってから角の席に座った。
「すぐお帰りになるのですか」
「いいや、今夜は冷えるから着たままでいいんだ」
 私は適当に酒を注文し、ぼんやりと飲んだ。
「なんでここは酒場なんだ」
「あなたが寂しがり屋だからです」
 店主はにっこり笑ってそう言った。私は首を傾げたが、すぐにどうでも良くなって、ひとくちふたくち酒を飲んだ。
「今夜は月夜だ」
 私は、ポケットから月を取り出して店主に見せる。店主は、眩しそうに目を細めて竿を引く仕草をしてみせた。
「こんな夜は、釣りがしたくなります」 
「しかし夜はこの店をやってるんなら、夜釣りなんか無理じゃないのか」
 いいえ、と店主は口元に人差し指を立て、それから私のグラスを指差した。
「水があれば、何処でも釣りはできますよ。それを、夜やれば夜釣りです」
 店主はそう言うと、カウンターから身を乗り出して、私のコートからほつれた糸を引きちぎった。そして、それをグラスの酒に垂らす。
「おいおい、まだそんなには酔ってないよ。からかわないでくれ」
 思わず吹き出してしまいそうになるのを堪えて、店主の肩を叩く。しかし、店主は大真面目に指先で糸を摘んだまま、じっとしている。
「糸の先をごらんなさい」
 店主の言う通り糸を見ると、中から何かに引かれているように、ぴんと張り詰めている。
「一気に引くのがコツですよ」
 店主は、さっと糸を酒から引き上げた。糸の先には米粒ほどの青色の小さな魚が食いついている。
「こいつはすごい、どんな手品だい」
 興奮する私に、店主は糸を手渡して、手品かどうか確かめてごらんなさいと言った。
「さっきも言ったが、そんなに酔ってないよ」
 店主の冗談に一応は付き合ってやるつもりで、グラスに糸を垂らした。すると、おかしな事に弛んでいるはずの糸が真っ直ぐになった。
「コツはなんだったかな」
「一気に引くことです」
 私は言われたまま、素早く糸を引いた。勢い余って、カウンターの上に魚が落ちた。真っ赤な色の小さな魚が、ぴちぴちと跳ねている。
「夜釣りか、これはおもしろい」
 私は夢中になって釣り続けた。店主はというと、空のボトルに私の釣った魚を泳がせている。透明のボトルに色とりどりの光が散って、まるでステンドグラスのように輝いていた。
「なぁ、糸に餌をつけたらどうなるんだ」
「餌より大きな魚が釣れますよ」
 店主はボトルの中の魚に見惚れて上の空だ。私は、今釣れた魚を放さずに、そのまま酒に沈めた。すると、すぐに引きがあった。これまでよりも僅かに強い力で、糸を引いている。
「大物だ」
 糸を引き上げると、コーヒー豆ほどの大きさの魚が釣れていた。私はそれを店主に知らせず、面白がってまた糸を垂らす。例によって、次に釣れたのはアーモンド大の黄色の魚だ。
 釣り上げてはそれを餌に釣り、釣り上げてはまた垂らし、を繰り返し、いよいよグラスから引き上げられない大きさになった時、ようやく店主がそれに気がついた。
「なんてこと!」
 私は、椅子の上に立って足を踏ん張り、グラスのひび割れにも構わず糸を引っ張った。
「それ以上はおやめなさい!」
 店主が叫んだのと、私がバランスを崩して椅子から落ちるのは、ほぼ同時だっただろうか。
 気がつくと私は、池の縁に大の字に寝転んでいた。空は薄明るくなっている。
「朝か」
 立ち上がり、身なりを正して肌寒い家路を急ぐ。心なしかふわふわとして、足元がおぼつかない。
「おや、朝帰りかい」
 家の玄関先で、隣人に話しかけられる。どうやら朝の散歩らしい、小さな犬を連れている。隣人は犬を撫でながら、私にこう言った。
「あんた、いい男だもの。女がほっとかないだろう」
 私が返事に困って苦笑いを返すと、何も隠すことないさ、と隣人は笑った。
「いや、そんな色っぽいもんじゃないんです」
「じゃあ、なんだい」
「昨晩は、池で夜釣りを」
 私は、今来た道を振り返り答えた。
「あの場所に、池なんかありゃしないさ」
 そう喉を鳴らして笑った隣人の言葉を反芻し、私が首を傾げたのは、昼寝から目覚めた夕方のことである。

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