とく、とく、とく――
滑らかな音と共に、目の前の小さな酒杯へ、気前良く酒が注がれていく。
杉下隆二は足を崩し、斜め上から見下ろすように、その様を陶然とした面持ちで眺めていた。
やがて、酒は杯いっぱいに満たされ、手が触れるだけの僅かな振動でも零れ落ちそうになる。
と、案の定、杯を持ち上げた隆二の手に酒が零れ落ちた。指を伝い、ふわり、と心とろかすような匂いが鼻腔に広がる。
隆二は酒を口に含み、ゆっくりと味わった後で、酒に濡れた指をくわえる。仄かな酒の味が舌の上を潤した。
「酒はいいね、じいさん」
正面に座っている老人に、隆二は話しかけた。
とある休日の昼間。
隆二がいるのは、杉下家の座敷部屋だ。それなりの店で売ればかなりの高値で売れるであろう、意匠が凝らされた木製の机の前に座っている。
正面に座る老人の顔に刻まれた皺が、少し緩んだ。
「そうだな。酒はいい」
そして、くいっと一口飲んだ後で、光に翳すように老人は杯を持ち上げる。
「……それはもちろんだが、酒が持つこのなんとも形容しがたい高揚感は他の飲み物にはない、特別なものだ。隆二、なぜだか分かるか?」
「さあね、何のことやら」
隆二には、この口ぶりの後に続くであろう老人の言葉に、ある程度目星がついていたのだが、そこは分からないふりをした。
どうせまた、あれの話なのだろう。
老人の目が怪しく光る。
「酒は神聖な飲み物なのだ、隆二。神と人が交わることのできる、な。この高揚感は、人が神に近づきつつある証拠と言われておる。大昔から人は酒を好んで飲むが、そこにはこのように神に近づき、交わりたいと望む人間の心もあったのだ。だから神と関わる特別な儀式には酒が欠かせない」
「……ふうん、そうなんだね」
隆二は適当に返す。どうでもいいことだった。
隆二は元来、神などという曖昧模糊とした存在を信じる性質ではない。もっと地に足のついた、現実的な考え方が人間には好ましいと考えている。
子供の頃からそうだった。周りの友人たちはお化けだの幽霊だのと目には見えもしないものに臆し、暗がりを歩けば情けない叫び声を挙げ、逃げ出すのが常だったが、それが隆二には実に奇怪で、馬鹿げたものに映っていたのである。
何も不気味なものなどいるわけがない。
そんな隆二は棒切れを持ち、率先して友人たちの前を歩いた。そして、恐れ慄く友人たちを横目に、自らが他人とは違う、選ばれた者であるという意識を強めていった。
何かを怖がり恐れる者は、弱き者である証拠だ。
そして、そうではない自分は、つまり強き者。そう思っていたからだ。
そして、その隆二の考えでいくと、この世は上に立つべき強い者と下で虐げられる弱い者という、単純明快な二者の存在だけで成り立っていることになった。
しびれるほどに、明確な理論だな。
隆二は口元に僅かな笑みを含ませる。
それは、大人になった今でも寸分も揺るがない。だから、そこに神だの仏だのというものは関係ない。語る必要もないのだ。
しかし、
まあ、そんな神の思想を抱いてきた人間たちが、捧げ物としてそれを欲し、この旨い酒を作ることに貢献してくれたかと思うと、神というものもある意味では悪くないのかもしれない。
「良い酒だ、全く」
愉悦に浸りつつ、隆二は一息に酒を飲み干した。
「ところで、隆二」
急に老人の声色が変わる。
これはどうやら真面目な話らしい。隆二は体を老人に向けた。
「何だよ?」
「わしが以前に呼んだ商人の女を覚えておるか?」
「商人の、女?」
隆二の神経質そうな目元に影が出来る。
「ほれ、覚えておろう、あの奇抜な青い髪をした若い女子じゃ」
「青い髪……」
そう言われてみれば、数週間前に家から出て行く妙な女がいたなと隆二は思い出す。確かに、あの女の髪色は、息を呑むほどに青かった。
「あの女、じいさんに用があったのか?」
「護符を扱う面白いやつと聞いてな。わしが呼んだ。そして、来てみれば、言うまでもなく怪しいやつよ。まるで人のようでない雰囲気だった」
「それで?」
「わしはその女の護符は買わなんだ」
「そりゃまた……どうしてだい?」
「……」
老人は目を伏せ、酒を口に含む。少し不機嫌な顔をした。さては、その女と喧嘩でもしたのだろうか。
「あの女は何かを知っている……神の力を使役する護符についてだ」
微妙に言葉にこもる力が増した。
神の力、だと?
隆二は呆れながらそう訊いた。
「……じいさん。まだそんなもの探してるのか?」
しかし、老人の瞳は強気な色になり、しわがれた声で癇癪を起こすように言った。
「隆二、分からぬか? わしには、神の力が、奇跡の力が必要なのじゃ!」
「またそれかよ」
やれやれ、と隆二は思う。
祖父が神とやらに心酔し始めたのは、いつのころからなのか、隆二は知らない。
元々そういう性格の人間なのか、それとも、親の影響でもあったのか、成長していく過程で、何か不思議な体験でもしたのか、いずれにせよ、孫である隆二が物心ついたころには、祖父は神を敬う熱心な信者だった。
毎日のように神棚に祈っていたし、神社へも事あるごとに足を向けていた。さらに、わけの判らない祝詞を唱えていることもあったのも覚えている。
神など関係なく、強者と弱者だけがこの世に存在していると考えている隆二には、そんな祖父の行動は不気味で受け入れがたく、嫌悪の対象でもあったが、だからといって、祖父を弱者だとは思っていなかった。
何より、祖父にはこの地域の人間を圧する絶大な影響力があったし、毎日拝んでいる神だって、敬いはするものの、決して恐れている様子ではなかった。
そして、何より、
『誰からも踏み潰されぬような強き者になれ』
と、幾度となく隆二に語り、その考えを教えてくれたのも、祖父だった。
神を信じている点を除けば、隆二には祖父が尊敬するに値する人間だったのである。
しかし、ここ数年というもの、そんな祖父は神の力というものに対し、異常なほど執着の感情をむき出しに始めた。あの手この手を使い、神の力を我が物にしようと考えているのである。
隆二は祖父がそうなってしまった原因を知らない。もしかすると、自らの老いからくる一種の焦りなのかもしれない。
もちろん、隆二は神の力がどんなものであるかなど知らないし、あるとも思わない。けれど、祖父はその力によって若返るであるとか、永遠の命を手に入れようとでもしているのあろうか、などと推測して考えた。
いくら強者でも、いつかは老いゆくものだし、それに少しでも歯止めをかけられるものならば、間違いなく魅力的な話だ。
しかし、そこまで考えて隆二は首を振った。
なんだそれは。馬鹿げている、ナンセンスだ。そんなことがこの世にあるはずがない。
だが、祖父は目的はどうあれ、神の力を探している。自分のコネを使い、莫大な財力に物を言わせ、ありとあらゆる手を使って……。
それはまるで、ガリガリとどこまでも乱暴に地面を削る掘削機のような勢いだった。
「それで、何の用件さ」
隆二は聞く。
「お前に、あの女の行方を探って欲しい」
「……あの青い髪のか?」
「そうだ。他に誰がいる」
そう言い切った老人の鋭い目つきは有無を言わせない凄味があった。
「……」
それに言葉を失いつつ、面倒だな、と隆二は思う。このためにわざわざ昼間から自分に高級な酒を振舞うなどと言い出したのか。分かっていれば、話など聞かなかったのに。聞こえないよう、舌打ちをする。
だが、今さら後の祭りだ。隆二にとって、祖父からの言葉は簡単に無視することは出来ない。
「分かった、探せばいいんだね?」
「頼まれてくれるか、隆二」
すると、老人が顔をほころばせる。それは先ほどの重圧的な表情から打って変わって、見るもの全てを和ませるような柔和な笑顔だった。
隆二はそれを見ないままに、杯を空にして、一本の指を立てた。
「一週間だ」
「……」
「一週間で決着をつける」
こんなどうでもいい仕事、さっさと終わらせてやるさ。隆二は意気込む。
「そうか、頼もしいな」
すると、老人は身の毛もよだつような声で大笑いをした。
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