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第一部 邂逅編
7 その名は
「むう、これは天下一品といっても過言ではないほど美味なる食べ物ぞ」

 彼女は春臣が小さく食べやすいように刻み皿に山と盛ったそれを、次から次へと口に運びながら、至福の表情で絶賛した。

 生まれて初めて食べたのか、そのおいしさに頬が落ちるといった様子だ。

「いったいこれは何という食べ物なのじゃ?」
「羊かんだよ、羊かん。まあ、中に栗が入ってるから栗羊かんだな」

 春臣はちゃぶ台の向かい側に座り、自分用に薄く切ったその羊かんをつつきながらそう説明した。
 一方先ほどの神様はというと、ちゃぶ台の上に直接座り、一口ごとに大げさと思えるほど驚嘆の声を上げながら、また一欠けら食べた。

「うまい、本当にうまいぞ。人間が持ってくるものなどそれほど期待はしていなかったが、これは今までわしが食べたものの中で、他のものを蹴落とし、一気に上位に上り詰めたな」
「……それはあまりに言い過ぎじゃないか?」

 いくら旨くても、こんな和菓子が一番になるなど、神様は普段どんなものを食べているのだろう、と春臣は本気で疑問に思う。
 しかし、彼女は持論を曲げるつもりはないらしく、

「いいや、こんな旨いものなら毎日食べても飽きん」

 断固として首を横に振った。

「まあ、確かになんと言ってもかなり高いからな。母さんが言ってたけど、確か一竿が、三千円もするんだぜ。全く信じられねえよ」

 そう言った春臣としては、そもそもこれほど高価なものを彼女に差し出すつもりはなかったのだ。
 だが、引越ししたての貧相な冷蔵庫の中身は、悲しいかな、この高級羊かんと少しばかりの調味料を冷却するためだけに使用されていた。
 そのため選択の余地なく、昼間の残りのそれに、ためらいながらも包丁を乗せることになったのである。
 滅多に口にすることもない、この高級な和菓子を。

 だが、彼女は的を射ていない顔で、

「さんぜんえん? この世界の通貨価値など分からんから、高いと言われてもわしにはさっぱりじゃがの」

 とまた一口放り込んだ。

「ああ、確かにそうか」

 言うだけ無駄だったか、と春臣は羊かんと一緒に空しさもかみ締める。

 そして、もう一度目の前でむしゃむしゃと高級和菓子を食べる彼女を見つめた。
 どうにも不思議な状況だ、と手のひらに顎を乗せて考える。

 数時間前、突如一人暮らしの榊春臣の家に出現した小さな少女が、自らを神と名乗り、傲慢な態度で食べ物を要求した、この状況である。
 しかも、残念なことに、どうやら何かの間違いや、幻覚、夢、催眠術の類ではないらしいという事実が分かっていた。
 絶望的なほどに現実での出来事なのである。

 もはや、間違いなく、引越し早々風邪をひいてしまうという不運よりも、よっぽど厄介な事態に陥っていることは明白だった。

 この世界に神様がいるとすれば、いったいどういうつもりで……。
 あ、そうか、と春臣は思いなおした。

 神は目の前にいた。

 春臣の自宅で、おいしそうに羊かんを食べていた。

「……」

 思考が停止する瞬間を感じる。

 これはあれだ、あれ。
 世も末、だ。

「それで、神様。一つ聞いていいかな?」

 そこで春臣は質問することにした。
 気を取り直し、この少女のことを知ることから始めようと考えたのである。

「うん、なんじゃ?」
「神様ならさ、あんたにもあるんだろ、名前」
「……名前、じゃと?」

 するとなぜか彼女はあれほど嬉しそうだった表情が一変、そのまま硬直したように、ぽとりと羊かんを取り落とす。
 思いがけないことに、もしかすると、自分はとても無礼なことを聞いてしまったのか、と後悔する。

「聞いたら何かまずいのか?」
「……」

 その質問にも反応を示さず、彼女は羊かんの山を見つめたままだ。放心してしまったように見える。
 その場の沈黙が怖いので、仕方なく、春臣は自分の名前の紹介をした。

「ち、ちなみにさ、俺は榊春臣って言うんだ」
「榊、春臣?」
「そう、榊春臣。字、分かるか? なんなら紙に書いてもいいけど……」
「いい名じゃな」

 てっきり、再び烈火のごとく怒り始めるかもしれないと思っていたが、聞こえてきた彼女の声はとても穏和だった。

 なんと表情を見れば、静かに微笑んでさえいる。

「そうか? 俺、自分の名前がいいなんて言われたのは初めてだな」
「おぬしのご両親がつけたのかや?」
「ああ、そうだよ。実は俺も結構気に入ってるんだ、この名前」

 誇らしげに胸を張ってみせる。

「そうか。それはとても良いことじゃな。その授かりし、名。大事にせよ」

 春臣は彼女の穏やかな言動が釈然としない気分だったが、とりあえず頷いた。

「……それはいいが、あんた、いや、神様はどんな名前なんだ? 教えてくれないのか?」

 すると、彼女は今度はひどく困惑した顔になり、

「ええと、それは……」

 と口をもごもごと動かす。

「それは?」
「……わ、わしの、名は……ひ、緋桐乃夜叉媛ひぎりのやしゃひめ、じゃ」

 自分の名前を言えばいいだけなのに、彼女は緊張してどもりながら言った。

「ひぎりのやしゃひめ?」

 春臣は鸚鵡おうむ返しする。
 自分でも言いながら納得するように彼女は頷いた。

「そうじゃ、それが、わしの名じゃ」

 それならばと、

「そうか、それなら緋桐乃夜叉媛はさ――」

 春臣が彼女の名前を言いかけると、

「こ、こら、神の名じゃぞ。そうそう気安く呼ぶでない!」

 と彼女は羊かんを一握り、投げつけてきた。

「うわっ」

 咄嗟によけたつもりだったが、ぺとりと粘着質のある羊かんが無慈悲にTシャツの上に落ちて転がり、畳に落ちる。

「こ、このやろ。この羊かん高いんだぞ! 食べ物を粗末にするなよ!」
「ふん、そんなことは知らんな」

 彼女はぷい、とそっぽを向く。
 春臣は深い溜息をついた。

 全く、怒ったと思ったら、優しくなり、急におどおどしたと思ったら、今度はまた怒り出す。神様とは、こんな面倒者の集まりなのだろうかと、うんざりする。
 自分では手に余るな。
 せっかく名前を聞き出せたのに、それを呼べないのであれば意味が無い。

「ううん……」

 それでは仕方ない、としばらく考えあぐねたところで、春臣が妥協案を出す。

「じゃあ、媛子ってところでいいか?」
「うん? 媛、子?」

 突然のことに彼女は目を瞬かせる。

「このまま神様って呼び続けるのは、なんだか変な緊張があるし、他の神様と区別する意味でもさ」
「媛子、か……」
「ほら、小さくて妖精みたいな神様なんだ。子をつけるのがお似合いだろ。なにより呼びやすいし、覚えやすい」

 我ながら良いひらめきだと、心の中で自画自賛した。

「媛子か、なかなか」

 見ると、彼女も何やらまんざらでもないような表情だった。
 もしかするとそういった愛称で呼ばれる経験が新鮮なのだろうか。春臣には分からないが、たとえ人間から呼ばれたとしても嬉しいのかもしれない。

「いいだろう?」

 しかし、春臣が同意を促すと、

「お、お主の都合で勝手に呼び名を決められてたまるか」

 と再び視線を逸らす。
 自分の呼び名を人間に決められたくない、という神としての断固たるプライドなのか、途端に表情が一変し、それほど強めではないものの、反発の姿勢を示した。

 しかし、その少々弱腰の姿勢を好機と見た春臣は、ここで条件を出す。

「まあまあ、俺のことも春臣って呼び捨てでいいからよ」
「交換条件ということか?」
「ああ、それに、俺はあんたに対しては食べ物のもてなしもしたし、、消えそうになってるところを助けてやることもしたんだぜ。それくらいのこと、許してくれたっていいじゃないか? な、神様」

 さらにここぞと切り札を出すと、彼女も先ほどの瀕死の状況を思い出したようで、途端に口ごもる。
 どうやらかなり効果があったようだ。

「むう、そうじゃなあ……」

 彼女の小さな瞳が困ったようにきょろきょろと伏せがちに動き、何か決めたように小さく頷くと、

「確かにお主に助けてもらったことは確かじゃ。それに、神としてはこうして食べ物をもらった分のお礼もせねばならんしな」

 と急に歩み寄りの発言をした。
 だが、春臣にはその意図が簡単に透かし見える。

 彼女は「媛子」と呼んでもらえる状況を、自分からそう頼む以外に、恩を返すという必然の義務を口実にして、あたかも自然であるかのように作り出そうとしているのだ。

「じゃあ、媛子って呼んでいいか?」

 遠慮がちに勝利を確信した春臣が訊いた。

「ううむ、仕方ない。ならば、特別に許可しよう。言っておくが、本当に特別じゃぞ。わしは多少なりとも、ぬしに助けてもらった恩義があるから仕方なく、いいか? 仕方なく、許可するのじゃからな」

 上辺では、自分の本意ではないことを殊更ことさら強調しながら、本心ではそう呼んでもらえることを嬉しく感じていることが丸見えな言葉に春臣は思わず、にやついてしまう。
 人間を超越した神と言えど、これほどまでに感情が筒抜けに分かると、滑稽に思えてきたのである。

「な、なんじゃ、その顔は。どうして笑っておる」
「なんでもないって。媛子」

 春臣がさっそくその名前を使うと、彼女は怒ろうと振り上げた手を止め、胸の内に葛藤を抱えた、複雑な表情を浮かべる。

「そ、そうか」

 なんだよ、気に入ってるなら素直に喜べばいいものを。
 しかし、素直でない神様もなかなかに面白い。
 自分はもしかすると、とても奇妙なものを見ているのではないかと思うと、春臣は苦笑を禁じえなかった。


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