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作者のヒロユキです。

お読みになる前に注意というか、今回は少々シリアスな展開になっておりますので、ギャグなどは期待なさらないでください。
第三部 暮野木犀編
29 媛子の悩み
 いつものように夕食が終わると、春臣は食器を落とさないように重ね、台所の流しに向かう。
 食事の後片付けをするためだ。

 服が汚れないように、壁際にかけてある母から譲り受けたエプロンをかける。男がするには少々不釣合いな花柄の刺繍が入っているが、春臣はエプロンとしての機能は充分だと思っていた。何しろポケットの数が多い。ちょっとした小道具な常に入れたままで動け、重宝しているのだ。

 蛇口をひねる。水が食器を叩き、舞った飛沫がステンレスの流しを濡らす。袖をまくり、スポンジに洗剤をつけ、泡立てた。
 さあ、食器を洗う準備は整った。

 親の保護下にいるときは、まさか自分が流しの前に立って、食器を洗うような人間になれるとは思ってもみなかった。
 母がキッチンで無言で食器を洗っている背中を見つめながら、退屈そうな仕事だな、としか認識していなかったのだ。
 しかし、今は違う。
 一人暮らしなので、もちろん、しなくてはならないという理由はあるが、それ以上に自分の手によって汚れが取れ、綺麗に白い光沢を放つ食器を見ると、なかなか気持ちがいいものである。

 鼻歌を歌いながら、さあ一枚目、と茶碗を手に取ったとき、背後から名前を呼ばれた。

「……春臣」

 突然のことに、手元が狂った春臣は危うく皿を取り落とすところだった。

「な、なんだ。媛子かよ」

 振り返ると、廊下と台所の段差の手前で媛子が榊の葉を体に縛った状態で立っていた。

「驚かすなよ」
「す、すまぬ。そういうつもりはなかったのじゃ」

 謝罪の声に、なぜかいつものような元気がないことに春臣は気づく。まるで、母親に花瓶を割ったことを隠している子供のような所在無げな声だ。

「なんだ? 心配事でもあるのか?」

 咄嗟にそう訊いた。

「え、なんでじゃ?」
「憂鬱を絵に描いたような顔してる」

 そう言うと、彼女は頭を振って見せる。赤い髪がさらさらと揺れた。

「そんなことはないぞ。わしはいつも通りじゃ」
「いつも通りなら、飯を食った後に台所になんて来ないだろ」
「う……うむ。そうじゃの」

 痛いところを衝かれ、彼女はしかめっ面になる。どうやら、自分に何か言いたいことがあるらしい。春臣に心当たりはないが、とりあえずありえそうなことを訊いてみる。

「面白いテレビをやってないのか?」
「そうではない」
「まだ腹が減ってるとか?」
「違う」
「病気か? 熱が出てるのか?」
「……いや、わしは元気じゃ」

 彼女は短い返答だけで、一向に目的が判然としない。

「じゃあ、なんだよ」
「……」
「媛子、言わなきゃ分からないぞ」

 媛子がその言葉にぴくりと反応する。どうやらようやく観念したようだった。思いつめたようにゆっくりと話し始める。

「……わしは……」
「うん?」
「わしは、お主に謝らなくてはいかん」

 これには驚いた。彼女の顔は間違いなく物を壊したとか、そんな些細な謝罪の雰囲気ではなく、それよりずっと深刻な空気だったためだ。

「謝ることがあるのか?」
「今日の昼間のことじゃ」

 昼間、というと椿と遊んでいたころのことだろう。
 春臣は作業の手を止め、一旦媛子との会話に専念することにした。廊下の隅に立っている彼女を抱え、居間の机の前に座らせる。それから、ちょこを用意し、コーラを注いでやった。媛子がぼそりと礼を言った。
 机に肘をついた春臣が訊く。

「それで、昼間に何かあったっけ?」
「ほれ、わしの神としての仕事のことを話しておったことじゃ」
「……そういえば、ゴキブリを捕まえるだの話してたな」

 ゴキブリの話をした後も、椿と媛子はしばらく話し込んでいたが、結局、目ぼしい仕事は案出されず、暗礁に乗り上げた会話はいつの間にか神経衰弱にシフトしていっていた。

「わしは、あの後もそのことを考えておったのじゃ」
「神としてできることをか?」
 
 春臣は目を丸くする。
 確かに、突然何かをすることに積極的になった彼女には驚嘆していたが、まさか、これほどまでに本気で考えていたとは思っていなかった。

「椿の言うことが身に染みたのじゃ。確かにわしはだらしなく、怠惰に日々を暮らしておる。春臣に世話になっておる身でありながら、わがままばかりじゃ」
「まあ、確かにそうかもな」
「じゃから、わしは考えた。お主が家を空けている昼の間でも、何かわしに出来る仕事があれば、やっておきたいのじゃ」
「俺が大学に行っている間か」

 確かに、一人暮らしをしている以上、家に居ない間の家事は何一つ出来ない。媛子に手伝いをしてもらえるのなら、うれしい。しかし、そこには問題が山積している。

「でも、媛子のその体で出来ることはないと思うんだよ。無理をさせるのもまずいと思うし」

 特に媛子の場合、二階の部屋の外では常に榊の葉を体に触れさせていなければ命さえも危ない身。そんな彼女が自分の居ない間に、家の中を走り回るのは気が気ではないのだ。
 家に帰ってきたら、床に榊の葉だけが一枚落ちていたなどという結果になっては、笑えない。

「気持ちは有難いけど……」
「だめじゃだめじゃ」

 彼女は首を振る。

「わしは、神なのじゃ。人間たちから少しでも頼りにされる存在でなければならん」

 その譲らない頑固な態度にため息をつく。
 第一、昼の間で椿と議論が大方尽くされているのだ。無理なことが分かっているのに、面倒な神様だ。

「媛子、こっちは心配してるんだよ。分かってるんだろ、自分の体のこと。媛子は……」
「そんなこと、お主に言われるまでもなく分かっておるわ!!」

 突然、彼女が春臣の言葉を遮ってそう声を荒げた。悲鳴にも似たその声が、耳の奥に響く。

「思えば、わしは、わしはぁ、春臣に頼ってばかりじゃ」
「落ち着けよ。頼るって、今の媛子じゃ仕方ないことだろ?」
「しかし、わしは神じゃ。神なら人に助けられてばかりでは、いかんのじゃ。なぜなら、神は常に人間に、何かを与える存在でなければならん。それでこそ、神と人が共に繁栄できる世になるのじゃ。神とは、そうあるべき。なのに、なのに……わしは、何も出来ておらぬ。それが、情けないのじゃ」

 思いつめた表情で、歯を食いしばるようにして言葉を紡ぎだす媛子。その口元はわずかばかり、震えている。
 一度も口をつけていないコーラの水面が揺れたように見えた。

「春臣には、いろいろ世話になった。不幸な偶然とはいえ、この家に急に転がりこんだわしを助け、外に放り出すことなく、ここに住まわせてくれた。こんな厄介もののわしを。いつもわがままばかりのわしを」
「だから落ち着けよ、媛子。おおげさなんだよ。忘れたのか? 媛子をきちんと神の世に送り返してやるって、その日まで面倒見るって、約束したじゃないか。俺がやっていることは、ただ、当然のことだ」

 そうだ。自分には彼女を元の世界に戻す方法を見つけるという重大な役目がある。春臣は半ば、自分に言い聞かせるように、そう説明した。これは当たり前のことなのである。
 しかし、彼女の気持ちは収まらないらしい。

「じゃが、わしはそれに驕っておったのじゃ。自分にとって安心できる場所が確保されたことで、大切なことを見失っておった」
「……」
「こんな、頼ってばかりの生活では、神の世でも、仕事を任されないのも、然るべきことじゃ。神、失格じゃ。わしは、わしは……春臣、お主の役に立ちたい」

 いつになく健気な発言をした彼女は、潤んだ瞳で春臣を見上げた。そこには、いつも自分が欲しいものばかり要求する、傲慢な神の気配はない。
 ただ本心から、神として、そして、春臣に助けられた者として、純粋に恩返しを決意している少女の顔だった。おそらく、今の彼女なら多少の命の危険など全く厭わないだろう。
 ほろり、と彼女の眼からこぼれた涙が、白い頬を伝って口元まで綺麗な曲線を描く。しかし、彼女は凛然として、それを拭おうともしない。

「春臣、それでもだめか?」

 そんな彼女に、春臣は否定の返答は出来なかった。
 なにより、彼女が自分の役に立ちたいなどと言ってくれたことが、嬉しかったのだ。彼女が元の身長であれば、その可愛らしさに危うく抱きしめていたかもしれない。

「いいよ。媛子が好きな仕事をすればいい」
「ほ、本当か?」
「ただし、条件がある」

 春臣は背筋を伸ばし、目を閉じてそう宣言した。

「条件?」
「絶対に、自分が出来ること以上に無理はしないことだ」
「無理はしない……」
「条件はそれだけ、約束してくれるか?」
「うむ。約束じゃ」

 ふふふ、と媛子が花のように笑う。


「さて、俺は食器を洗わないとな」

 その後、落ち着いてコーラをうれしそうに飲んでいる彼女を身ながら、春臣は腰を上げる。
 すると、媛子は食器洗いという仕事に興味を持ったのか、「わしも行く」とぴょんと立ち上がった。

「見学希望か?」
「そうじゃ、わしに出来る仕事を見つけるには、どんな仕事があるのかをまず知らんとな」
「確かに、そうだな」

 春臣は頷いて、エプロンをかけると、たくさんのポケットの中で胸元についたそれに姫子を入れる。

「おおう、快適なポケットじゃのう」

 中で彼女がはしゃいだ。

「だろう? 母さんのエプロンだ」

 春臣はスポンジを持つ。皿を一枚とっては擦りつけ、リズミカルに汚れを落としていく。無駄な時間を省くために、練習した成果だ。そして、すべての皿が泡まみれになると、今度は水で洗い流す。
 この瞬間が一番、心地いい。
 白い皿の美しさに惚れ惚れする感じだ。
 しかし、それを見ながら、媛子はつぶやく。

「ううむ、なんだかこれは、退屈そうな仕事じゃの。これはあまりやりたくない」
「しょっぱなから、やる気ないのな」

 しかし、昔の自分と全く同じ感想に、春臣は苦笑してしまう。
 怪訝そうに媛子が見上げた。

「何がそんなにおかしいのじゃ?」
「……いつかやってみれば分かるさ」
「うん?」
「皿洗いの楽しみってやつにさ」


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