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第一部 邂逅編
19 神様電話 2
 バスの座席に座って、春臣は一安心と長く息を吐く。
 家から飛び出した時間が間に合うか間に合わないかの瀬戸際であったため、かなり冷や冷やしたが、なんとか発車前のバスにたどり着けた。
 大学へ向かうバスは一路線しか走っていないため、一つ便を逃してしまったら四十分は次便が来ない。乗り遅れてしまうことはそれだけ致命傷になりうるのだ。

「危なかったなあ、榊君」

 隣の席に座った椿がくすくすと笑っている。

「大学始まって早々講義に遅刻とあっては、縁起、悪いからなあ」
「ああ、全くだよ。今日最初の講義は何だっけ?」

 すると、椿はポケットから花柄の手帳を取り出し、ぱらぱらとページをめくり始める。どうやら、今日の日付の箇所を調べているようだ。
 そんな彼女を見ながら、春臣は彼女と学科が同じで助かったと実感していた。
 数日前に行われた入学式において、春臣と椿は数日振りの再会を果たしたのだが、彼女が春臣と同じ商学部の学生だと知って、それでまた喜んだ。

 お互いに全く赤の他人だらけの学科では不安があっただろうが、こうして知り合いがいるというのは、彼女が言ったとおり、心強い。
 特に春臣の場合、彼女の存在は有難かった。というのも、一人暮らしを始めて間もなく、家を開けている間は、そこに一人残している神様のことを考えたりと不安要素が多く、重要な話の間でも、気がそれがちなことが多かった。

 しかし、それをフォローしてくれる存在がすぐ身近にいるというのは助かっていたのだ。椿は聞きそびれていた話の内容をきちんと覚えていて、後で聞けば話してくれるのだ。

「ああ、商学概論の授業やな」

 彼女が指で項目をなぞりながら言う。

「それは危なかったな。あの先生厳しいから、時間遅れるとぐだぐだ言われるらしいよ」
「そうなんかあ。それは命拾いしたな」
「確かにな」
「まあ、ともかくこれからは寝坊せんように気をつけなな」

 ふいに椿が言った言葉がさり気に春臣の耳に入った。

「いや、別に寝坊したわけじゃないよ。たまたま準備に手間取っただけ」

 どちらかと言うと、神様が機嫌を損ねていたのだが、春臣はそう説明した。少なくとも寝坊していたわけではない。
 しかし、それを聞いて、彼女は不思議そうに目を見開いた。

「ええ!? 寝坊やないの?」
「違うって、そんなんじゃねえよ。っていうかなんでそんなに意外そうなんだよ」

 失敬だな、と春臣は首を振った。

「ああそうか、うちの勘違いか。実はうち、こう見えても案外寝坊がちなんや。もしかすると榊君も一緒かなって思てて……」
「何がこう見えて、なのか知らないが、そうなのか」

 春臣の中では、意外でもなんでもない。むしろイメージどおりだった。おっとりとして、どこか抜けている椿は起床の仕方もルーズに見える。すぐに誘惑に負けて、禁断の二度寝をしてしまいそうだ。

 しかし、そう思われていることを知らない彼女は、きゅっと拳を握ると決意に燃えた眼差しで春臣を見た。

「せやから、お互い、寝坊せんように気をつけような。榊君」
「だから、俺は寝坊じゃないって」

 携帯電話が鳴ったのは、それからすぐのことだった。ポケットの中で着信音を鳴らしながら、震えている。

 嫌な予感がした、というのは言うまでもないことで。
 画面を見つめて、春臣は舌打ちをする。
 自宅の電話からの着信だ。
 ということは、間違いなく、媛子からの電話である。おそるおそる通話ボタンを押す。

「……はい、もしもし」
「おお! 春臣か? 声が聞こえるぞ! お主の声がはっきりとな!」

 周囲に聞こえるほどの大声で、神様は明らかに電話の前ではしゃいでいた。飛び跳ねる音なのか、妙にがさがさと耳障りなノイズが春臣に聞こえてくる。

「おい、静かにしろ。そんなに大声で話さなくても通じるからよ」
「そうなのか! それは知らなんだ! やはり遠くにおる人間と話すわけじゃなかの! それだけ大きな声で話さなくてはならんと思っておったのじゃ!」

 そう言う彼女の声はまだ馬鹿でかい。

「分かった、分かったから。よく聞こえてるよ。だからもう少しボリュームを下げてくれ」

 春臣は隣の椿をちらりと様子を窺う。すると、やはり向こうも電話の相手が誰なのか気になっていたようで、目が合ってしまった。
 彼女が口パクで質問してくる。

『誰やの?』

 春臣は答えられないと手で×印を作ると、すぐに窓側に顔を向け、声が漏れないように出来るだけ電話を手で覆った。

「これくらいでいいのかや?」

 媛子の声がする。

「そうだ。それくらいで話してもらわないと困る。ただでさえ、バスの中での通話はご法度なんだ」
「そうか、それは済まぬことをしたな」
「それで、何かあったのか?」
「うん?」
「うん? じゃないって。用が無いのか?」
「いや、用はあったのじゃ。しかし、お主に言うべきことは特に無い」

 どう考えても矛盾しているとしか思えないことを彼女は言う。馬鹿にされているようで少し腹が立つ。

「はあ? どういうことだよ」
「いや、わしはこの電話がきちんとお主の元にかかるものなのか、それを確認したかったのじゃ。もし、いざという時につながらんことがあれば、それは大問題じゃろう?」
「まあ、それはそうだけど」

 言葉ではそう言っているが、きっとそれを口実にただ電話が掛けたかっただけなのだろう。春臣には彼女のはしゃぎ方からそれがなんとなく分かる。

「じゃあ気が済んだか?」
「おお、もちろんじゃ。突然電話して済まなかったの」

 彼女はまるで、遊園地のアトラクションで遊んだ後かのように、弾んだ声を出す。

「いいか。もう一度言っておくが、今度から掛けるときは何かあったときにしてくれよ」
「分かっておる。今度からお主に話すべきことがあればいいのじゃな?」
「それは、意味が違ってる気がす……」

 ふいに、春臣は服を誰かから引っ張られていることに気がつく。振り返ると椿が小さく首を横に振った。
 どうしたことかと周囲を見ると、席に座っている乗客の冷たい視線が春臣に向けられていた。
 大方、最近のマナーを知らない若者は、と心中でご立腹なのだろう。

「とにかく、じゃあな。切るぞ」
「おお、わしに――」

 彼女の返事を聞かないまま、春臣は通話を切った。大きくため息をついて、携帯電話を仕舞う。
 媛子にきちんと注意できず、勢いで切ってしまったことが心残りだったが、仕方ない。おそらくまた掛かってくることだろう。

 しかし、あのまま車内で話し続ければ、隣に座っている椿にも居心地の悪い空気を感じさせてしまっていた。彼女に授業の時以外でも、これ以上迷惑をかけるわけにはいかない。

「榊君。今の、友達か誰かか?」

 だが、そんな思いを知らない彼女は、興味津々に訊いてきた。

「えらい大声やったけど。まるで、電話のことを知らん人みたいやったな」

 意外にも図星なことを言い当てるので、春臣は少々驚いた。

「も、元々、声量の調節が出来ないやつなんだよ。ほら、いるだろ? どこにいても声が馬鹿でかいやつ」
「へえ、そうなんかあ」
「そういう人間って自覚があんまりないからさ。ちゃんと注意してやらないといけないよな」
「でも、うちとしてはそんな人がちょっとうらやましい」

 彼女は憂鬱そうに口元に指を当てる。

「え?」
「うち、がんばってもあんまり声が出えへんから、昔はようそれで怒られたもんや。声が小さいってな」
「ふうん」

 椿は胸元に視線を落とす。

「肺活量やっけ? きっとそれがないんやな。他の人みたいにはっきりずばずばしゃべられへんのや」
「……でも俺は、それくらいでいいと思うぞ」
「え、ほんま?」
「声がやたら大きかったり、あれこれうるさいことを言ってくる人間よりは、ずっと無害だし、いいことだよ」

 彼女と話しながら、特に後者の人間について考えながら、春臣はそう呟いた。
 今朝のことを思い出していた。
 母からのいらないお節介、それから、媛子の説教。

 そんなもの、今の春臣には必要ないことなのだ。媛子は抜きにして、特に、母親というものは、どうしてそれが分からないのだろう。
 こっちがうんざりしていることまで、いろいろと世話を焼こうとしてくるのははっきり言って迷惑そのものだった。

 元々、そんな親の元から離れ、独り立ちするためにここでの生活を始めたのだ。そこにまでいらぬちょっかいを出されたのでは、不愉快この上ない。
 早く自分ひとりでもやっていけるところを見せたいのに、母からあれこれ言われている自分は、まるで何も出来ていない子供に逆戻りしたような気持ちになる。

 春臣には、それがとても嫌だった。


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