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第一部 邂逅編
11 がぎぞめ
 ふと気がつくと、いつの間にか春臣が持ってきた色紙の上に媛子が素足で乗っていた。
 数分前からの寝転んだ体勢のまま、春臣は何事か、と彼女の方に首だけ傾けてみる。

 台の上の彼女は重量感のある着物のまま、その両手であるものを抱えあげようと必死でバランスをとっているのだ。
 右へ、左へと、見るからに危なっかしい。
 さらさらとした紅い髪がそれに合わせて揺れている。
 さすがにその状態ではどうにもならないと判断したのか、媛子は春臣に助けを求めてきた。

「は、春臣。ほれ、ちょっとばかり持ち上げるのを手伝ってくれぬか?」

 彼女が持っているものは先ほど春臣が持ってきていた黒のサインペンである。
 自分の身長以上はあろうというそのペンを彼女は斜めに傾けながら、抱き寄せるように持ち上げようとしている。
 春臣は手をついて上半身だけ身を起こす。

「なんだ? ようやくサインを書いてくれる気になったか?」
「違うわ、ばか者。とにかく持ち上げるのじゃ」

 彼女に罵声を浴びせられ、一度は顔をしかめた春臣だったが、大人しくふらついていた彼女のペンを手で押さえてやった。

「ほら、これでいいのか」
「よくやったぞ春臣。ようし、確かこれで文字が書けるんじゃったな?」
「ああ、そうだけどキャップを取らないと駄目だ」

 そう説明すると、媛子からペンを受け取り、先端についた蓋をとってやった。きゅぽん、音がして、ペン特有のなんとも言えない鼻を突く匂いが漂う。
 すると、それは背の低い媛子の所にも届いたようで、

「臭い! 臭いぞ! この時代の筆はそんなに臭いのか!」

 と目を丸くして、鼻をつまんだ。

「大丈夫だよ、すぐに慣れるから。それより、これで何を書くつもりだったんだ?」

 訊くと、彼女は鼻をつまんだままの籠もった声で答えた。

「がぎぞめじゃ」
「は? 何だって?」
「じゃから、書初めなのじゃ。ほら、そのペンを貸してみろ」

 媛子は少々乱暴に春臣の手からサインペンを奪い取ると、額に皺を寄せたままの表情で、ふらつきながら色紙の左上に歩いていく。

「よっ、いしょ。こ、これで、よし」
「書初めって、あれだろ? 新年になって、心機一転っていう心持ちで書く」
「そ、うじゃな。よっと」

 彼女は既に筆で何かを描きながら、返事をした。ずいぶんと大変そうである。
 そう思いながら春臣は壁に夕方貼り付けたカレンダーを見やった。

「言っておくけど、今は三月の終わりだ」
「そうか」

 意外にもその答えは素っ気無い。

「……?」
「……書初めに時期など、関係ないんじゃ。うわ、っとと」

 すると、そう言いながらペンを払った彼女はその勢いで倒れそうになる。

 それに気づいて、春臣が咄嗟に片手で背中を支えてやった。

「あ、す、済まぬ」
「いや、それはいいけど。時期が関係ないって?」
「そうじゃ。わしにとって書初めに時期は無い」

 媛子は筆を色紙の上に置き、じりじりと後ずさって直線を描きながら、そう話す。

「新年に限らず、何か新しいことを始めるときに、気合を入れるというか、覚悟を決めるというか。自分の中で決意するための、そう、これは大切な儀式なのじゃ」
「大切な儀式、ねぇ」

 半眼のまま、春臣は彼女が書いている、いわゆるミミズがのたくったような文字を見ながら呟いた。

 同時に、小学校の頃の冬のことが浮かぶ。

 新年最初に行われる書道の授業では、全校生徒が揃ってよく書初めが行われたものだ。
 春臣としては、あの頃は意味も分からず、ただの退屈な作業としか思っていなかったが、媛子の言うとおり、それはとても大切なことなのかもしれない。

 何か、新しいことを始めるときの決意。
 彼女がこの場所で、生活を「始める」ための。

 よく見ると、そう語った彼女の額には小さな汗の粒が光っていた。
 不慣れなペンで、しかも自分より大きなものを抱え、悪戦苦闘しながら一画、一画、丹念に筆を走らせている。
 春臣は、そんな彼女の一心不乱な書初めを見ながら、何も思わないわけではなかった。

 そうして、数分後。

「出来た!」

 と媛子が大喜びでその場にへたりこむ。
 どうやら、重たいペンを持つことはかなりの重労働だったらしい。喜んだ元気の割りにかなり体力を消耗したようで、肩を上下させて息をしている。

「何て書いたんだ?」

 春臣が覗き込むと、そこには二つの漢字があった。

「ひめ、こ?」

 なんとその色紙には、春臣が考えた彼女の呼び名が拙くもしっかりと書かれていたのである。

「結局、サインを書いたのか?」
「そ、それは、違う。それはこれからの決意じゃ」

 倒れこんだまま彼女は首を振る。
 となると、これはどういう意味だろう。

「媛子が、これからの生活を媛子がんばるってか? それとも、これからの人生、一生懸命媛子する、とかそういうことか?」
「いやいや、そんな珍妙な使い方をする言葉ではないぞ。もちろんわしの名じゃ。っていうか、ふざけておるじゃろ!」

 そう怒られてしまったが、春臣としてはかなり本気の発言だった。だが、そうなるとこれがどういうことなのか皆目分からない。

「じゃあ、どういう意味なんだ?」

 すると、急に彼女は恥ずかしそうに俯く。さらに、口元をもごもごと動かしながら、こう言った。

「お、お主がつけた名とはいえ、それはこれからの生活で使われる名じゃ。心機一転、この世界での名前というわけじゃ。じゃから、それはわしの決意の表れというか。わしの意気込みを表しているわけで……」
「ふうん」
「ば、馬鹿にしておるのか?」

 春臣が鼻であしらったように聞こえたのか、彼女はぐうう、と唸った。

「いや、違うよ。いいことだと思うぜ」
「そうか?」
「ああ、そう思う。でも自分の名前をこんなに堂々と書き初めで書くやつなんて始めて見たけどな」
「それは馬鹿にしておるんじゃなかろうな?」
「ようし、俺も書いてみよう」

 そう言って春臣は彼女が転がしたペンを握った。

「おい、返事をせんかい!」

 そんなかみついてくる媛子は無視して、春臣は自分が取り出した色紙に今度は別の文字を書き始めた。

 ふっと息を吸い込むと、一画、一画、力を込めて握った筆を引っ張っていく。

 心に祈るように。
 新しい生活の前途の希望を強く願って。
 真っ直ぐに、文字を書く。

 そして、

「出来た!」

 と色紙を持って立ち上がった。

「なんと書いたんじゃ? 見せてみよ」

 今度は媛子が春臣の書いた文字を覗きこんだ。そして、その動きが静止する。
 意味が分からないのか、きょとんと立ち尽くしているのだ。

「これは?」
「読めないか? 『出会い』だ」
「それくらい読めるわ! どういう意味で書いたのかと訊いておるのじゃ」
「意味、意味かあ」

 春臣はそう問われて、目の前の神棚を見ながら逡巡すると、すぐに媛子に向き直り、微笑んだ。

「なんじゃ?」
「媛子との出会いのことだよ。運命だとしても、偶然だとしても、これもまた、新しい生活の始まりだろ。だから、スタートラインの意味を兼ねて。出会い、って書いたんだよ。どうだ?」
 
 てっきり賞賛されるか、と思いきや、

「……フフッ」

 それを聞いた媛子が口元に手を当てて、嘲るようにせせら笑った。

「媛子が、俺の文字を見て、わ、笑いやがった」

 当然、春臣は腹が立つ。
 しかし、彼女の笑いは止まらないようで、

「なんとも歯の浮くようなことを言いよって。まさか、口説き文句じゃあるまいな? そう言われると、その文字も急に陳腐度が増して見えてくるの。クックック……」

 さらに、身体を揺らして笑う。

「な、なんだとおう!」

 こういわれるとさすがに春臣も黙ってはいられない。片膝を立てると、媛子の色紙を指差して言い返した。

「媛子だって、なんだそれ。ミミズがのたくったような字ぃ書いてよ!」
「ああ! それを言うたな、それを言うたなあ! わしは神じゃぞ! 言っていいことと悪いことがあろう。謝れ! 今すぐ! とりあえず土下座をするのじゃ!」

 しかし、そこですんなり謝る春臣ではない。

「うるせえ! 誰が謝るかあ!」

 と完全対立の構えだ。

「やっぱりぬしは無人島流しじゃ、干物になるがいい。灼熱の太陽に焼かれるがいいわい!」
「嫌だね! いかだを作って脱出してやる! なんでも自分の思うがままだと思ったら大間違いだぞ」
「フン、ぬしのような低劣な脳みその人間にそんな物を作る知恵などあるはずないわい、百歩譲って笹舟がいいところじゃ」
「な、なんだと、そんなに小さいくせしてよ! よっぽど笹舟がお似合いな体格してよ!」
「何を言っておる! 神に大きさなど関係ないわ!」

 その日、一人暮らしのはずの春臣の自宅からは、こんな具合に、何者かと口論をする声が深夜を回っても聞こえ続けていたらしい。
 たまたま近くを通りかかり、その声を聞いた人間も、それがまさか神と人との口げんかだったとは夢にも思うまい。


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