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この作品には 〔残酷描写〕 が含まれています。

美術準備室の彫像

作者:日本武尊
 
 八月も間も無く終わろうかというある年の某日、雷鳴轟き豪雨が降り注いだ深夜、中部地方のとある交番で一人の男子児童が保護された。
 少年が駆け込んできた来たその時、件の交番は無人であったが、彼は卓上に備え付けられた直通電話を使い所轄の警官を呼び出し、上記の様に保護されるに至ったのである。
 一報を受けるや否や交番に向かった警官の目の前には、びしょ濡れになりながら、涙をさめざめと流し、途方に暮れた様に立つ少年の姿があった。
 その少年は、警官の姿を認めるや否や、必死で何かしら助けを求めるかの様にその警官にしがみ付いて来た。
 警官が事情を聞こうとするも、少年は半ば錯乱状態にあり、その説明は要領を得ない。
 ただ、何とかその少年が、近所にある桜森中学校に通う、一年生の生徒であると言う事だけは聞き取れたようだ。
 更に詳しく事情を聞く為、警官は慣れない冗談をも混じえながら、何とか少年をなだめすかすと、十分程で、ようやくその少年は僅かながら平常を取り戻し、その身に起こった出来事に付いて口を開いた。
 以下はその少年の話を時系列順にまとめ、再構成した物である。


 僕の通う桜森中学校にその先生が赴任して来たのは、僕がこの中学校に入学した最初の年だった。 「えぇ…皆さんにお知らせがあります。昨年まで皆さんに美術を教えてくださっていた剛田先生がご家庭の都合で退職されました。そこで今年から剛田先生に代わって、新しく皆さんの美術の担当を為さって下さいます長渕先生です。どうぞよろしくお願いします。」
 「長渕春樹です。よろしくお願いします…。」
 校長先生に促され、壇上で挨拶をした長渕先生の第一印象は、はっきり言って良くはなかった。
 まずもって最初の第一声が、いかにも面倒臭そうなぶっきらぼうな物だったし、それが本心からの物だと言うのが、目を吊り上げて半ば怒ってるいる様な、不機嫌な表情からも見て取れたから。

 それから幾日かして、最初の美術の授業の日、僕の最初の印象は間違っていなかった事が分かった。
 先生は初めての授業だと言うのに、式の時と同じ様に簡単な自己紹介だけすると、さっさと授業の課題に移り始めた。その課題に対しても、いかにもマニュアル通りの簡単な説明を最初にしただけで、それが終わるやさっさと椅子に腰掛け、貝の様に硬く口を閉じてしまった。何かを考えている様だったが、少なくとも、それは授業とはまったく関係の無い事だろうと言うのは想像できた。
 その後、何人かの同級生達が何か質問をすると、その時ばかりは口を開くが、それにも簡単かつ簡潔に答えるのみで後は同じ様に沈黙する。
 とにもかくにも、その先生は僕達の授業にはまったく関心が無い様子だった。その後もそんな授業が続いた物だから、そんな様子を見た、お世辞にも美術に興味があるとは言い難い同級生達が、教室の後ろの方で私語をしたり、ふざけたりする様になっても、長淵先生は注意も何もしなかった。
 それ所か、しばらく経ったある日の授業中、長渕先生は授業が始まると何時も通りの簡単な説明だけをして、その後無言で、僕達が授業に使う美術室から繋がっている、隣の美術準備室に入り、そのまま授業が終わる直前まで出てこなかった。
 そんな事がその時だけでなく、以後の授業中も当たり前になるのにそう時間は掛からなかった。生徒達は、課題に付いて何か分からない事や、困った事があると、自分から隣の準備室を訪ねなければなら無くなっていたのだ。
 ある時の授業で、友達が質問の為に何時も通り先生が篭る美術準備室に入った所、新学期当初には無かった筈のグロテスクな彫像に囲まれながら、部屋の中央で、何やら大きな彫像を一心不乱に制作する長渕先生の姿があったと言う。
 どうも先生は、他人に何かを教える事よりも、自分が何かを造るのが好きみたいで、前者にはまったく興味が無いらしかった。
 「それにしても気味が悪かったなぁ…何か虫やら蛸みたいな変てこな彫像ばっかあるんだぜ。あれ…みんなあの先生が造った奴かな。しかも俺が見た時、先生が造ってた彫像…大人の大きさぐらいあったんだ。」
 件の友達は後で僕にそう教えてくれたが、その友達の他にも何人もの生徒が、それを目撃したと言う。
 そんなこんなで、生徒達の長渕先生への評価は最悪と言って良い程にまでなっていた。何せ普段から授業の無い時は準備室に篭って奇怪な石像作りに打ち込み、たまに珍しく廊下ですれ違った時に挨拶をしても、まるで眼中に無い、とでも言う様に無視されるのだから、それも仕方無い事だと思う。

 「あら、あたしは好きよ、長渕先生。」
 僕の唯一の女友達の、由紀と言う子が言ったその言葉を聞いた時、僕は内心驚きを隠せなかった。
 長渕先生の事は、ほとんどの生徒が嫌っていたし、そうでない生徒は、大抵不真面目な面々で、単に授業中サボっていても何一つ言わない、と言う一点でのみその先生を好いていたからだ。
 だから、優等生とまでは言わないまでも、どちらかと言うと真面目な、由紀の様な女の子がそう言うのは予想外だった。
 「みんな誤解してるのよ。あの先生の事。確かに授業は全然熱心じゃないし、普段の愛想も悪いけど、その代わり芸術への拘りは凄いわ。作風だって、それがグロテスクかどうかなんて、観る人によって全然変わるものよ。芸術ってそういうもんじゃない?それに、普段は確かに無愛想だけど、部活中なんかは結構自分なりの芸術に付いて熱心に話してくれるのよ。」
 そこまで聞いた時、僕は由紀が美術部に所属していると言う事実を思い出した。
 中学ではただでさえ不人気な文科系の部活で、それ故に数人居る部員のほとんどは幽霊だが、由紀はその中で唯一、真面目に活動している部員だった。
 そして奇遇な事に、由紀もまた彫刻が好きで、将来は女流の彫刻家になりたいと言っていたのを思い出した。
 何でも、彼女が小学校に入学するかしないかと言う時期、父親に連れられて、海外の著名な彫刻家の美術展を観に行った事があり、そこで展示されている数々の彫像に感動したのが始まりだったと言う。
 彼女の情熱は、傍から見ても半端ではなく、小学生の頃から美術教室に通い、美術専門誌を毎月、通販で購読しているほどの入れ込み様だった。
 「特にあたしが先生の言葉で印象に残っているのはね、『自分からすれば、ダビデ像やミロのヴィーナス像なんてただの石像だ、その枠組みでは文句無しの一流品だが、所詮は物だ、先生は自分の作品に魂を入れたい、生きた彫像を造りたい』って台詞よ。ねえ、これって昔の仏像の造り手と同じ考えなのよ。仏作って魂入れず、って言葉があるけど、昔の仏師さんは仏像をただの物じゃなくて、実際に生きている仏を作るんだ、って思いで命を掛けて仏像を削ったの。長渕先生は、その人達と同じ思いを持ってるのよ。」
 そう一度も見た事の無い表情で、早口でまくし立てる由紀の様子は、僕に彼女が真剣に長渕先生を尊敬し、心酔しているのだな、と思わせるに充分なものだった。
 ただ、それを理解すると同時に、何だか僕の心の中に、上手く表現できない複雑な感情もまた流れて来たのだけれど…。

 そんな話をしてから数ヵ月後、僕達は中学に入って最初の夏休みを迎える事になった。
 夏休み…と言っても、小学生の時とは違い、期間中にも部活はある。
 僕の所属している卓球部もその例に漏れず、週に四回程の活動予定が立てられていた。
 と、言っても、この学校の卓球部は名門でも強豪でも無いし、僕を含めた他の部員達も、それ程熱を入れて打ち込んでいる訳では無かったから、多くて週に二回程参加すれば良い方だったのだけれど。
 八月も半ばを過ぎたある日、たまたま予定が無かった僕が、久しぶりに部活に参加した、その帰りの事だった。
 練習に使う体育館を後にして校庭に出ると、ふと、この期間中、使われていないはずの校舎の窓の一つが、開け放たれているのに気付いた。そして同時に、その部屋が美術準備室である事にも僕は気付いた。
 その時僕は、止めれば良いのに、沸き上がる好奇心を抑え付ける事が出来ず、何となく校舎へと足を向けてしまった。
 昇降口を抜けて、そのまま一階の美術準備室に向かうと、思った通り扉の向こうから確かな人の気配を感じる。扉に備え付けらている窓から中を覗くと、そこにはやはり、石像造りに打ち込む長渕先生の姿と、その前で、微笑みながら、椅子に座ってうっとりとした目で先生を見つめている由紀の姿があった。
 美術部に限らず、文科系の部活には夏休み中の活動予定なんか無いはずなのに…。
 そんな事を考えながら、ふと、室内に目をやると、そこには以前、友達から聞いてイメージした物とまったく同じーいやそれよりもっとグロテスクで奇怪な石像がー数体、室内の両方の壁際に置かれた棚の上に置かれていた。
 蜘蛛の胴体に苦痛に歪んだ男の頭を持つ像、触手らしきものを生やす縦に潰されたヒキガエルの様な像、上半身は烏賊で下半身には虫の足を何本も生やした像…、そしてまるで、そいつらに見つめられるている様に、部屋の中央で一心不乱に石像を削り続けている長渕先生と、その状況にはまったく場違いな由紀の姿…。
 その光景は、何だかとても現実感が無くって、その空間を見ているだけで、僕は今まで見聞きした怪談のどれでも味わえなかった、背筋がひんやりと凍る感覚を感じた。
 そしてその時僕は気付いた。部屋に飾られている石像は、どれも両手で抱えられる程度の大きさだけれど、今先生が削っている石像は、先生の身長よりほんの少し低い程度の巨大なサイズだと言う事に…。
 ‐長渕先生は、こんな物を赴任してきてからずっと造っていたのか…‐その石像は、窓側に向けられており、僕の覗いている場所からは、後姿しか見えなかったけど、大体の形は整えられていて、すでにほとんど完成しているらしい、と言うのが見て取れた。
 その石像も、やっぱりと言うか何と言うか、周りにある石像達と同じ類の物らしく、一見、ちょっと風変わりな、奇妙な象の様な姿にしか見えなかったものの、なぜか理由の分からない、禍々しい気配の様な物が感じ取れた。
 思わず目を背けたその時、偶然、室内で僕のいる方向に座っていた由紀と、一瞬だが目が合った。
 しまったー僕は思わず目を逸らしたが、なぜか室内からは何の反応も無い。そろり、と由紀の方を横目で見てみると、彼女は確かに僕の存在に気付いていたはずなのに、それでいて声を掛けたりしてくる事も無く、それ所か、まるで僕の存在など眼中に無いかの様に、まるで何かに魅入られているかのごとく、先生ーそして石像ーを見つめ続けていた…。

 その後、家に帰った僕は、昼の学校で遭遇した事態に頭を悩ませていた。
 どう考えても普通じゃ無い‐‐この事を親や他の先生に言うべきか…。そもそも、一教師が学校の一室を私物化して、自分の趣味に打ち込むのもおかしければ、必要も無いのに、そこに自分の教え子を連れ込むのも問題じゃないのか。
 でも…、何と無く由紀はそんな事を望まないだろう、と言う事も僕は理解していた。下手をすれば、彼女はもう僕と口を聞いてもくれなくなるかも知れない。それはどうしても嫌だった…。
 その夜、僕は答えのない問題を前にして、それに対してただひたすらに悩み続ける事になった。ベッドに入ってからもそれは同じで、やっと寝付けたのは、夜中の四時をほんのちょっとばかし回った頃だった…。

 翌日、僕が目を覚ますと、時計は午後を回っていた。空を見ると、快晴続きだった昨日までとは打って変わった、どんよりとした曇り空が町を覆っている。ほとんど光の差さないその空模様は、まるで、今の僕の心の中を映し込んでいるかの様だった。
 今日も由紀は、あの先生の所へ行っているんだろうか…。恐らくそうだろう。由紀の芸術‐‐いや、あの先生への思いは、天気一つでどうこうなる物じゃないって事を、僕はとっくに解っていたんだ。
 気が付くと僕の足は、自然と学校へ向かっていた。部活の予定は無い。用があるのは、体育館ではなくあそこ、美術準備室だった…。
 僕が校舎に着く頃、曇り空は雨空に変わり、空から水滴がぽつぽつと落ちてきて、僕の頬を濡らしていた。
 数分後、僕は昨日とまったく同じ様に美術準備室の扉の前に立っていた。違うのは天候と、僕の心の中だけだ。
 僕が、これまた昨日と同じ様に、扉の窓から室内を覗き込もうとすると、ふと、部屋の中から人の声が聞こえて来た。声の主は間違いなく、長渕先生の物だ。一瞬、中に居るだろう由紀に話しかけているのかな、と思ったけど、どうもそうでは無いらしい。と言うのも、断片的に、ぼそぼそと聞こえるその声の中味は、繋ぎ合わせて想像しても、まったく意味が解らない種類の物だったし、声の調子も、誰かと会話していると言うよりも、延々と独り言を呟く様な、脈絡の無いものだったからだ。
 独り言か…由紀はどうしているんだろう…それとも今日は居ないのか…、そう思いながら、恐る恐る部屋の中を覗く…。昼間とは言え、こんな天候ででほとんど光が刺さない状況でありながら、なぜかこの部屋の照明は点けられていなかった。薄暗がりの中、何とか目をこらして室内を見渡すと、まず目に飛び込んで来たのは、中央に置かれた巨大な石像だった。その石像は、昨日と比べると、素人目にだが足りないところも無く、すでに完成しているらしい様子が見て取れた。そしてその前で、依然何かをぶつぶつと喋っている長渕先生の姿があった。
 「宇宙の……より…こう…ん…せし…偉大……精神…ちゃう……る……ぐん…いあ…」興奮しているのか、先生の声が一際大きくなり、さっきよりはっきりと言葉が聞き取れた。だが、依然としてその内容は意味不明のままだ。
 次の瞬間、何時の間にやらはっきりと降り注いでいた大粒の雨と共に、鳴り響く落雷の音が、強烈な光と共に鳴り渡った。
 そして…その雷光に照らされた室内のある光景に、僕は思わず目を疑った。
 像の影から見える小さな白い手、そして床に流れる紅い液体、そして、目を見開いたまま、虚ろな表情で、僕を見つめる様に床に倒れている由紀の顔…。
 「いぃあ!…みり……り!……いあ!…ぐな……ふあぐうううううううん!」先程に増して感極まっているのか、先生の声は、扉越しにもはっきりと聞こえるほどにまで大きくなった。
 その意味の分からない、明らかに狂った絶叫を耳にするや、頭の中で、何かの糸がぷつんと音を立てて切れる様な感覚と共に、僕の心は限界を超えてしまった。
 「うわあああああああああああ!」
 思わず僕が、今まで一度も出したことの無い様な絶叫を上げると、先生は、はっと気付いた様にこちらに振り向き、出窓から覗き込む僕の顔をはっきりと見つめた。
 先生は、さっきまでの興奮が嘘の様に、はっきりと冷静に僕を見据える。何か重大で神聖な儀式を邪魔され、ぶち壊されでもした神官の様に、その目には、今まで感じたことの無い怒りの感情が炎を上げて燃えたぎっていた。
 人は本当に怒った時、決して怒鳴ったり喚いたりはしないんだ…と言う事を、僕はこの時はっきりと理解してしまった。
 次の瞬間、先生は僕から一瞬たりとも目を逸らさずに、すぐ隣の棚の上にあるノミを手にして、ゆっくりと、僕の方へと歩み寄ってきた。
 逃げなきゃ…。
 そう頭の中から声が聞こえても、僕の体はまったく言う事を聞かず、止まらない震えと涙に襲われながら、その場で立ち尽くす事しかできなかった。
 さっきからまったく表情を変えないまま、先生が、僕と先生を隔てている扉まで後数歩と言うところまで迫ってきた時だった。
 なぜか僕は、先生の後ろにある奇怪な像の姿が、先程よりこちら側に向き始めている事に気付いた。
 一瞬、恐怖のせいで頭がおかしくなったのかと思ったけど、それは違った。
 その像は確かにゆっくりとだが、回転するかの様に、こちら側に正面を向けた。
 その時、僕は初めてはっきりとそいつの姿を見た。丸みのある頭部に、先が広がった長い鼻、こうもりの羽に似た大きな耳は、一見象の様に見える。だけど、体からは人の様な手が数本生えていたし、肩にあたる部分からは、何とも言えない無数のトゲの様な物を生やしていた。すると、その無数のトゲが震え始め、まるで何かの生き物の様に伸び始めると、それはちょうど扉の取っ手に手を掛けようとした長渕先生の首筋に巻き付いた。先生が振り向く間も無く、次々と伸び始めたトゲの様な物は、続けて先生の首や肩や胸を、今度は所構わず刺し貫く。そして、そのまま自分の手元へと、先生を引きずり寄せようとしている。先生は最初はわずかに抵抗する様子を見せたが、一瞬後には、なぜか一度も見た事が無い微笑をその顔に浮かべ、そのままされるがままに任されていた。
 気が付いたら僕の体は勝手に走り出していた。頭が逃げろ、と言った時は言う事を聞かなかった体が、逆に頭が動かなくなった瞬間に動き出したんだ。
 そんな状態だったから、走り出してしばらくすると、当たり前の様に足が縺れ、僕は思い切り廊下に転んでしまった。そのまま急いで起き上がろうとしたけれど、思わず悲鳴を上げそうな激痛が足首に走って、どうしても起き上がることができなかった。それでも僕は、這いずりながら必死で昇降口を目指したんだ。そうしている内にふと、僕のはるか後ろの方で、どこかの教室の扉が開けられる音がかすかに聞こえた。
 まさか…。そう思った僕の耳に、廊下で何か重たい物が引きずられている様な、ずり…ずり…と言う音が届いた。
 追って来ている…。僕は半分パニックになりながら、何とか前へと進もうとしたけど、出口はまだまだ遠く、後ろの音はじわじわと、でも確実に僕に近づいて来ていた。
 僕は何も考えず、すぐ隣にあった教室の戸に手をやった。隠れなきゃ…。祈りながら手に力を込めると、普段は鍵が掛けられている筈の教室の戸が、誰かがたまたま、本当にたまたま鍵を掛け忘れたのだろう、何の抵抗もなく、すっと開いた。僕はその時、生まれて初めて、真剣に神様の存在を信じて感謝した。そのまま教室の中に逃げ込むと、戸を閉め、それにもたれかけながら息を殺した。
 やがてその音は、僕の潜む教室の前へと差し掛かった。あの重たい物を引きずる様な音の主が、薄い戸を一枚隔てた向こう側にいる…。ずり…ずり…ずり…ずり…。そのままその音が通り過ぎ、やがて聞こえなくなるまでの時間は、僕が生まれてからこの瞬間まで過ごした時間より、ずっと、もっともっと長く感じる物だった…。
 どうやらそのまま眠ってしまったらしく、気が付くと周りはすっかり暗くなっていた。足の痛みもすでに無くなっている。ゆっくり立ち上がって、誰も居ない深夜の教室を、何とは無しに見つめていると、もしかしたら、昼あった事は単なる夢じゃないかと言う考えが僕の頭に浮かび上がってきたんだ…。そうだ、現実で石像が実際に動くわけが無いじゃないか、ばかばかしい…。
 そう思い、帰ろうと思って後ろを振り向くと…それが居た(・・・・・)
 夢では無い、あの石像が戸のガラス窓の向こうからちょうど僕と、見つめ合うようにこちらを見ている…。
 その瞬間、そいつの糸の様に細い目が一瞬、歪んだ様に見えた。まるで笑ってる様に見えたけど、それは決して友好的な物では無い事は分かった。その証拠に、そいつの肩にある無数のトゲが、先生を襲った時と同様に伸び始めた。
 頭が真っ白になった僕は、思わずすぐ近くの椅子を持ち上げると、力一杯それを投げ付けた。
 教室の窓ガラスが派手な音と共に粉々に砕けたのは、そいつのトゲが戸の窓を突き破ったのと同時だった。
 そして、僕が割れた窓から外へ飛び出したのは、僕のうなじの数センチ後ろまで迫ってきているそれ(・・)が僕を捕らえるより、ほんの一、二秒ばかり早かったんだ…。


 …これが、少年が目の前の警官に話した内容の全てであった。
 その目の前の警官と言うのは、何言おう私の事である。
 当然、この様な話をそのまま鵜呑みにするのは、それこそばかばかしい話である。しかし、目の前の少年の様子は、とてもふざけている様には見えなかったし、少年の目も、恐怖に怯えていながらとはいえ、嘘を付いたり、またある種の狂気を宿した物では無い事も、私は経験上理解できた。
 その上、生きた石像うんぬんは別としても、少年の友人が学校内で只ならぬ事態に遭遇した、と言う訴えは無視しがたいものだった。
 私はひとまず少年を落ち着かせるや、直ちに所轄方面へ応援を要請し、その後合流した幾人かの警官と共に、少年の通う桜森中学校に急行した。
 少年の拙い証言の通り、一階にある教室の窓と戸のガラスはそれぞれ粉々に粉砕されていた。更に奥へと歩みを進めると、戸が半分ほど開けられた、美術準備室とプレートの掛かった一室を発見した。そこへ踏み込むと、まず目に付いたのは、床や壁、そしてこれまた少年の証言通り、棚の上に安置された奇怪極まる石像群に飛び散った、新しい血痕の数々、そして…、年端も行かぬ少女と、壮年の男性の変わり果てた姿であった…。
 当然の事ながら、この猟奇的かつ怪奇的な事件は、マスコミ各社にとって絶好の題材となった。
 憶測が憶測を、噂が噂を呼び、一時期、私の管轄内は騒然となったのであるが、それも一月、二月が過ぎ、秋が深まり冬の気配が色濃くなる頃には、ほとんどすっかり落ち着いた物になった。
 肝心の少年は、その事件のすぐ後ににこの土地を去ったらしく、その後の行方は杳として知れない。私自身も、事件が一段落した翌年の春先には、まるで厄介払いでもされるかの様に、遥か見知らぬ地へと転勤を命じられた。
 あの日から幾年月が経過して久しいが、私の頭からあの日の記憶が忘れ去られた事は一日たりとて無い。
 事件の日から遠からず転校し、若くしてあの様な壮絶な経験によって、心に大きな影を背負ったに違いない、依然、生死も定かではない少年が、あの後どの様に暮らし、育ったのか、それが今に至る私の唯一の気がかりであった。
 そして私は今でも、あの少年の話には一片の虚偽も含まれて居ない、と、何の躊躇も無く断言する事ができる。
 あの日、美術準備室の中央に不自然に空けられた何も無い空間と、そこから屋外へと延々と続く、何か重たい物を引きずった跡と、その周りに点々と落ちている石膏の欠片を見たからには…。
 夏のホラー2015用に創ったホラー短編、なろうでは二作目です。学校がテーマと聞いて、最初に七不思議を連想しましたが、それでは脳が無い、って事で結局デビュー作と同じクトゥルフっぽいテーマで仕上げました。しかし、最初は匂わせる程度に抑えるつもりだったのが、最後にはあからさまになってしまうのは何でなのでしょうね?

※コメントで指摘された誤字及び、一部表現を修正しました。

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