トカゲは、自分の身を守るために尻尾を自ら切り離す。弱肉強食の世界で生き残るためには、小賢しいと言われ様が、尻尾のない無様な姿を嘲笑われようが関係ない。トカゲはなくなった尻尾がどんな末路を迎えたかなど考えもしないし、新しい尻尾が生えてきたら、尻尾のなかった自分のことも、前の尻尾のことも忘れてしまう。
その尻尾が自分の一部であったことも、切り離した瞬間に感じたわずかな痛みも、みんな忘れてしまう。
ねぇ、祐治。あんたはそのトカゲみたいだったね。
それで、あたしは切り取られた惨めな尻尾。
カラカラに干からびて、尻尾のミイラになっちゃったあたしを、誰も見向きもしない。可哀想だねって哀れんでもくれないし、馬鹿だねって笑ってもくれなかったよ。
みーんな、あたしのこと忘れちゃった。あたしは祐治の尻尾、付属品。カノジョなんかじゃなかったから、あたしがどこに行ってしまおうとみんな気にしなかった。
あたしがいなくなってから、あんたは新しい尻尾を仲間たちに見せびらかして、トカゲの王様みたいに上機嫌だったでしょ。ご立派なスーツを着て、フランス料理を食べに行ったんですってね。あたしにはそんなことしてくれたことは一度もなかったのに。その新しい尻尾にはするんだ?
そんな全身高級ブランドで着飾った、ケバイ尻尾のどこがいいの?
聞いたよ。祐治、出世したんですってね。
ねぇ、それみんな、薬指のリングのおかげ?
ねぇ……
そのケバイ女は尻尾じゃないの? 雌トカゲだったの?
ねぇ、尻尾はあたしだけ?
切られて痛いのは、あたしだけなの?
ねぇ、祐治!
「留美さん、泣かないで下さい。どうしたんです?」
田所さんはそういうと、泣いている私の肩を抱いた。
ここは彼の部屋だ。シンプルなデザイン家具だけが置かれた、無機質な2DKのマンション。きっちりと整理された無駄のない空間は、真面目な彼らしい。
「泣いているばかりじゃ、分かりませんよ?」
田所さんは、立ったまま泣いているあたしをソファーに座らせると、あたしと向かい合うように隣に腰掛けた。そしてそのままじっと何も言わずに、あたしが何か言い出すのを待った。
田所さんは優しい人だ。あたしに、とても親切にしてくれる。あたしのことかわいいって言ってくれるし、落ち込んでるあたしを食事に連れて行ってくれたこともあった。あたしの悩みを親身になって聞いてくれて、あたしを喜ばそうとプレゼントをくれた。
祐治とは全く違う。祐治はそんなことしてくれなかった。優しかったのは最初だけ。愛してるって言ったのも数えられる程度だった。祐治にとってあたしは、単なる都合のいい女に過ぎなかった。そう、あたしは祐治の欲求を満たすだけの道具だった。
田所さんに出会ったのは、祐治と別れるちょっと前だった。祐治と同じ職場で同期なんだと紹介された。「賢そうな人」というのがあたしの彼に対する第一印象だった。一重の目がちょっと爬虫類っぽいけど、祐治と並んでも見劣りしないなかなかの美男子で、年も確か祐治とさほど変わらない。たしか、祐治より1個上だったか。
そんな田所さんは、あたしにとって色々教えてくれる先生であり、相談相手だった。我侭な祐治に振り回されるあたしを、田所さんは放って置けなかったんだと言った。
本当に、田所さんはあたしに色々なことを教えてくれたわ。
「田所さん……」
あの日祐治が別荘に出かけることを教えてくれたのも、
「あたし」
か弱い女でも大人の男を殺せる方法を教えてくれたのも、
「祐治を殺しました」
あたしに幸せを教えてくれたのも彼だった。
「祐治は死んで当然の男ですよ。よくやりましたね。ほら、もう泣くのは止めて。あなたの涙がもったいない……」
田所さんはそういうと、その細くて綺麗な指であたしの涙をやさしく拭った。彼の指はひんやりと冷たかった。彼が触れた部分から、あたしの体温が奪われていく。
「田所さん……あたし」
彼がなだめても、あたしの目から涙は次から次と溢れてきた。一生懸命止めようとしたんだけど、止まらなかった。
だって、あまりに嬉しくて。
ようやくあたしは、あたし自身を取り戻したんだもの。もう惨めなこの間までのあたしじゃないんだ。
あたしは祐治の尻尾なんかじゃなかった。
ねぇ、祐治。あんたがあたしの尻尾だったのよ。ずっと気がついてなかったけど、そうなの。
だって祐治は一人じゃ餌も取れなかったし、一人じゃ仕事もできなかったわね。それに祐治は一人じゃ邪魔な女を殺すこともできなかった。
でもあたしは違うわ。一人でご飯も作れるし、一人で仕事もこなせる。そして一人であんたを殺すこともできたわ。田所さんは一切手をかけていないの。あんたを殺したのもあたし一人だし、あんたをあそこに埋めたのもあたし。全部一人でやったわ。
本当に、あたしってすごい。知らなかった。
あたしって立派なトカゲだったんだわ。
あら、祐治? まさかあたしがあんたを『愛してた』から殺したなんて思ってるんじゃないでしょうね? 他の女のものにしたくないから? 嫉妬して?
まさか。そう思ってるんだとしたら、大間違いよ。あたしはあんたなんか愛してなかった。愛なんてとっくの昔に枯れ果てたわ。だって愛ってキラキラして美しいものでしょ? そんなもの、あたしにはこれっぽっちも残ってなかったもの。
あんたを殺したのは許せなかったから。あんたがあたしの自尊心を傷つけたからよ。あのケバイ女がただの尻尾なら許せた。あんたと別れた後あたしは自分の愚かさを呪って、傷口をなめながら生きていったでしょうよ。でも、そうじゃなかった。
よりによって、あたしを捨てた後の女があんたの金の雌トカゲだなんて納得できなかった。あたしと付き合う前にも、付き合ってるときにもいっぱい女がいたわ。それでもその女達はみんなあんたの尻尾だった。飽きるとポイって捨ててしまうの。それですぐにあたしの所に戻ってきて、その度にあんたは「俺にはお前しかいない、お前が最高の女だ」って言ったわね。
そうよ。その通りだと思ったわ。あんたみたいなろくでなしには、あたしみたいなのがついてなくっちゃってそう思ったわ。でも、それも独りよがりだったのよね。捨てられてはじめて気がついたの。切り取られるような痛みに。そしてあたしもただの尻尾だったってことに。
どんなに最高でも尻尾は尻尾。トカゲじゃないのよね。
知らなかったでしょうけど、あたしにも心ってものがあるの。もうズタズタで壊れる寸前だけど。それとも、もしかしてとっくに壊れてたのかしら? ふふ。まあいいわ。
あたしはね、惨めな自分が許せなかったの。あんたが結婚するって聞いて、あたし……自分が『結婚』ってものに希望を持っていたことを知ったの。あんたみたいな男と、結婚したいと思ってたのよ? 笑わせるわ。まさか、そんな馬鹿な夢をあたしが持ってるだなんて思いもしなかったわ。それで、そのことに気がついたとき、無性に腹が立った。あたしも今年で30になるのよ。そんな年になるまであたしを振り回して、さっさと自分だけ幸せになろうとしてるあんたが、許せなかったの。憎かった。あたしをこんなに醜いどろどろしたものだらけにしたあんたが、憎くて仕方なかったの。
ねぇ、祐治知ってる? 人ってね、憎いだけじゃ人殺しはできないのよ。心の角にブレーキがあってね、「だめだよ」って止めてくれるの。じゃなきゃ世の中殺人者だらけよ。みんな最低一人か二人、憎い相手がいるもの。
じゃあどうして殺すか? それはとっても簡単なことよ。憎しみに自己防衛本能が加われば、人は簡単に人を殺すわ。そう、トカゲが尻尾を切るみたいに。ちょきん、ってね。
自分を守るために殺すの。自分の正義、家族、財産……人それぞれでしょうけど、あたしの場合はプライド。あんたから離れたって、あんたがどこかでのうのうと生きてると思うだけで、あたしはすり減っていくの。そんなの、ね、嫌でしょ?
だから、死んでくれて嬉しいわ。とっても。
これからあたしは幸せになるわ。
魅力的に生まれ変わって、惨めな尻尾から強かなトカゲになるのよ。
「田所さん、ありがとうございます。あなたがいなかったら、あたし……」
「いえ、そんな。全てあなた自身の力ですよ。僕は何も手伝っていないし、留美さんを救っただなんて思っていません」
「でも……感謝してます」
あたしが頭を下げると、田所さんはちょっとだけ笑った。くっと口の端が上がるだけの笑み。田所さんが笑っているところを見たのは、その時が始めてだった。
「留美さん、あなたはよくご自分のことをトカゲの尻尾に喩えていらした。自分は祐治の尻尾だと言ってましたね」
「はい」
「それを僕は違うと言った。祐治があなたの尻尾なのだと。古くいらない尻尾を切れば、あなたには新しい尻尾が生えてくるはずだといいましたね?」
「はい。そうです。」
「どうです?尻尾を切った気分は……」
その時、チャイムが鳴った。
……誰か、来た?
「感謝するのは、僕のほうですよ」
低く冷たい声で田所さんはそう言った。そして徐に立ち上がると、玄関へと向かう。
しばらくすると、遠くでガチャリと錠の開く音が聞こえた。知らない男の人の声と、乱暴に家に上がりこんでくる何人かの足音。
それと一緒に変な効果音が聞こえてきた。なんだろうと思ったら、あたしの心臓の音だった。ドクンドクンって、すっごく耳障りな音。
「T署の矢田です。」
まるでドラマのワンシーンのように中年の刑事さんが登場すると、警察手帳を掲げてそう言った。
……警察? 警察がどうして……
「鹿島留美さんですね? 行方不明の、藤島祐治さんのことで2,3お聞きしたいのですが……重要参考人として署にご同行いただけますか? 」
……ああ。そういうこと。
馬鹿なあたしはこの時、ようやく気がついた。田所さんははじめからそうするつもりで、あたしに近づいたのだ。それに気がつかなかったのは、あたし。
田所さんには欲しいものがあった。それは、あのケバイ女。田所さんは、社長の娘だとかいうあの女についてくるお金と地位が欲しかった。だから、彼は祐治にいなくなって欲しかった。次期社長の椅子を得るためには、祐治が邪魔だったから。
一方あたしは祐治が許せなかった。殺したいほど憎んでいた。けれど、あたしに会ってくれない祐治を殺すチャンスなどなかった。
『祐治を消す』という利害が一致したあたし達は協力することにした。田所さんはあたしと祐治が会う機会を作ってくれ、あたしのアリバイを証明してくれるはずだった。あたしの共犯者、パートナーとして。
けど、実際は……
田所さんはあたしを裏切った。いや、利用したのだ。
彼は頭がいい。自分は全く手を汚していないし、彼とあたしが共犯だという証拠は一切ないのだ。あたしが訴えたとして、警察は信じてくれないだろう。利口な彼のことだ。自分に火の粉がかからないように、裏で手を回しているはずだ。つまり、捕まるのはあたしだけってこと。
……所詮、尻尾はとかげにはなれないということね。
トカゲは尻尾を再生することはできるけど、尻尾からトカゲはできないもの。はじめからこうなることは決まってたのに、馬鹿な夢を見ていたんだわ。
……あたしも祐治も、トカゲの尻尾だったということね。
そして本当のトカゲは、田所さんだった。
「ねぇ、留美さん。いいことを教えてあげますよ。あなたの好きな、トカゲのこと。」
田所さんはそういうとにっこりと微笑んだ。とても嬉しそうな顔。それは悪戯をやり遂げた子供のような、無邪気な笑顔だった。
「トカゲの尻尾は、数ヶ月で生えてくるけれど、すっかり元通りになるわけじゃないんですよ。たまに短く再生されたり、2股に再生されることもあるそうです。ふふ、面白いでしょう? 」
「……」
あたしは何も答えず、刑事さん達に連れられて彼の部屋を出た。田所さんに利用されたのが分かっても、不思議と彼に対して怒りがこみ上げてくることはなかった。
あたしは田所さんを憎いとは思わない。利用されたあたしが愚かなんだし、彼を信用したのはあたしだ。それに彼を罵ったとしても何にもならないというのは分かってた。
それに、あたしは彼の前でこれ以上醜態を曝すのは嫌だった。
「乗って下さい。」
あたしは刑事さんに促されてパトカーの後部座席に座った。安いタクシーみたいな硬いシート。車の中はあたしの嫌いなタバコの臭いがした。
バタン
発車する前、ドアの閉まる音が妙に大きく聞こえた。その薄っぺらなドアがあたしと田所さんを遮っていた。田所さんのマンションまでほんの少しの距離しかないのに、彼の居るところと、今の私のいるところでは全く違う。別の世界だ。
――トカゲの尻尾は、必ずしも元通りに再生されるわけじゃない。
車のエンジン音に、あの時の田所さんの声がフラッシュバックする。
祐治を殺して、あたしはあたし自身を取り戻した。けど、前と同じあたしに戻ったわけじゃない。あたしの手は祐治の血で真っ赤に染まっている。きっとこれはどんなに洗っても落ちることはないだろう。あたしは犯罪者になってしまったんだ。祐治がどんなに酷い男でも、人殺しは人殺しだ。
ねぇ、祐治。あなたには今のあたしがどう見えるかしら? 冷たい土の中で何を思ってるの? あたしをもっと大切にするべきだったと後悔してる? それとも、あたしに会わなければ良かったと自分の不幸を呪ってる?
ああ、あなたのことだから、田所さんに利用されたあたしを馬鹿だって怒ってるのかしら?
ねぇ、祐治。どうなの? 答えてよ。
ねぇ……死んだらあたしのこと、少しは分かった? 尻尾の気持ち、理解できた?
ねぇ、祐治。切り取られたら痛かったでしょ?
あたしは、歪に再生されてしまったトカゲの尻尾。
醜く、愚かで、滑稽な……
自分はトカゲだと思い上がって切り捨てられた、できそこないの尻尾だ。
*E N D*
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