未来からの調査員
たとえそこが日々行き来するごく慣れ親しんだ場所であっても、日が暮れて真っ暗になって、人が誰もいなくなってしまえば、大なり小なりそこになんらかの恐怖を覚え、背筋を凍らすのは、思いのほか日常茶飯事に起こる出来事なのかもしれない。
そのときの時刻は、深夜十一時を過ぎていた。真っ暗なオフィスに、机上のスタンドライトがひとつだけポツンと灯っている。そこには熱心に仕事に打ち込む男が一人いた。期日がさし迫った書類を仕上げるためのやむを得ぬ居残りであった。
彼の名は、只野四郎。どこにでもいそうな典型的サラリーマンである。取り柄といえば、地道で庶民的な努力をひたすら継続できる我慢強さといったところか。実際に彼自身、天賦の才覚という遺伝子コードが自己の体内に一行たりとて刻み込まれていようなんて、これまでに一度も思ったことはなかったのだが、それでも持ち前の真面目さを貫き通して、三十を過ぎて晴れて係長にまで昇進した。この輝かしき成果は、これまで彼がしてきた地道な功績の積み重ねを思えば、当然の報酬には違いないのだが、彼よりも学歴が高くて出世に意欲的な後輩たちからしてみれば、何も取り柄のないあいつがどうして先に、と突っ込みたくなるような、社内でも彼はひときわ地味な存在であった。
窓ガラス越しに見える漆黒の闇に包まれた廊下を、警備員の懐中電灯の灯りがゆらゆらと通り過ぎていったのは、今から三十分以上も前のことだった。辺りはすっかり静まり返って物音一つしなかった。ところが……。
「はじめまして――。只野四郎さん、ですよね?」
突然投げかけられた言葉に、四郎がビクッと反応した。顔をあげると、入り口のドアが少し開いていて、影法師がたたずんでいた。そいつは、二メートル近くあろうかという長身に、不健康そうな青白い顔、黒い髪はまるで海栗のように四方にとがっていて、とにかく妙ちきりんという形容詞がピッタリとくる若い男だった。
「どうです。今年流行の針鼠髪型。かっこいいでしょう」
なれなれしい口調で話しかける、無邪気な性格のこの青年は、四郎が身構えているのに気づくと、一転してうろたえた表情に変わった。
「ああ、どうやら驚かせてしまったようですね。ええと、僕は決して危険な者ではありませんので、どうかご安心を、四郎さん」
四郎はあらためて不審者を睨みつけた。「どうして私の名前を? いや、それより、どうやってここに侵入した? 建物はボロでもここの警備は完璧だ。警備員数名が常時待機しているし、赤外線感知器も設置してある」
「さあて、どうしてでしょうかね……」
侵入者は困惑する四郎を軽くはぐらかした。「とにかく一度僕の話を聞いてみてくれませんか? 追い出すのはそれからでも構わないでしょう」
手向かいいたしませんとの両手をあげた体勢を保ちつつ、男は床の上にどっかとあぐらをかいた。それを見て、四郎は大きくため息を吐いた。
「いいだろう。だが、少しでも不審な動きをしてみろ。警報ボタンを押せばすぐに屈強な警備員がここに飛び込んでくるからな」
とりあえず、必要最小限の脅しを入れてから、四郎も椅子に腰掛けた。その間、男は物珍しそうに周りをキョロキョロ見回していたが、やがて四郎の顔を見据えると、世にも摩訶不思議な話を語り始めた。
「実はですね――、僕は未来の人間なんです。まあ、あなたから見た未来という意味ですけども。信じてもらえますか?」
「未来だって?」
「はい。西暦二二三五年、つまり二十三世紀の未来から、この二十一世紀まで時間をまたいでやってきました。
実際、僕は貴社ご自慢の重厚なセキュリティシステムを突破して侵入してきたわけではありません。たった今、ポツンとこの地点に出没しただけなんですよ」
「ここに現れただけ? ふん、なにがいいたいのか、理解に苦しむな」
ムスッとふくれる四郎を見て、男はくすくすと笑いはじめた。
「まあ、無理もありませんよね。論より証拠――。じゃあ、ちょいと面白いことをお目にかけましょう。四郎さん、このおもちゃはご存知ですね」
男は、ポケットの中からなにやら取り出すと四郎に差し向けた。その手のひらには小さなさいころが一つのっていた。
「平安時代から遊ばれていたそうですから、きっとあなたの時代にも存在していたのでしょう。そう、さいころですよ。
これから三回続けて、四郎さん、こいつを振ってみてはいただけませんか?」
男はさいころを四郎に向けてポーンと放り投げた。それを片手でキャッチすると、四郎はさいころを凝視した。どう見てもごく普通のプラスチック製のさいころだ。念のため、ホワイトボードにくっついている磁石にさいころを近づけてみたが、なんの反応も起こらなかった。
「よく覚えておいてくださいね。
3,6,1です――。
いいですか、3,6,1ですよ。じゃあ……」
男はすくっと立ち上がってドアから外へ出ていったが、ほんのちょっとしてまた戻ってきた。
「トイレでも行って来たのかね?」と、四郎が声をかけると、
「いいえ、あの……、さいころはお持ちですか?」
男は先ほどさいころを手渡した事実を忘れてしまったかのようにおどおどしていた。
「ああ、さっき君から受け取ったね」
四郎は人差し指と親指の間に挟んださいころを差し向けた。
「そうですよね。それでは、三回続けて振っていただけますか。先ほど僕が教えた数字は、覚えてみえますよね」
「ふん、3,6,1のことだな。ああ、覚えているとも」
「そうなんですか……。間違いありませんよね?
では、振ってみてください。あなたご自身の手でね」
長身の男は、再びあの無邪気な笑顔に戻った。四郎は渋々ながらさいころを振ってみた。
さいころが3の目を上にして止まった――。
「まさか……」
慌ててさいころをひっつかむと、四郎は再度机上へ放り投げた。
今度は6だ――。
「ほう、6ですね。どうやら僕が告げた通りになっているみたいですね」
「そんな馬鹿な?」
四郎は、今度は不透明な紙コップを用意して、さいころをその中に放り込むと机上に伏せた。カラカラと紙コップの中でさいころの転がる音がして、やがて静かになった。
「さあ、開けてみてくださいよ」と、若い男が催促した。
しかし、四郎はその要求を振り払って、もう一度紙コップを激しく左右に揺さぶった。
「さあ、これでどうだ!」
四郎は男の顔色をうかがうが、男は微笑んだまま一向に動じていない。
「どうぞ、お気の済むままに。さらに何度かやってもらっても、ちっともかまいませんよ」
なんだと? 四郎はさらにもう一回紙コップを揺さぶってから、中身を空けてみた。
さいころは赤くて丸い1の目を示していた。
「いかがです、僕がいったとおりになったでしょう。ではまた……」
そういって、男はドアから再び外へ出ていったが、やはり少しして戻ってきた。
「ご感想は? もちろん、種も仕掛けもありませんよ」
青白い顔だった若者が、今は得意げに顔を高揚させている。
「確認したいことがある。君が二回部屋の外に出ていったことに、何か意味があるのかね」
「ふふふ、鋭いですね。同時刻多出没個体はMOTTの規則で禁止されていますから、僕が部屋をあとにしたのはやむを得ない事情によるものでした。
手品の種明かしはといえば、なあに、実に簡単なことなんです。僕は時間軸を自在に移動する能力を持っています。そして、前もってあなたが振るさいころの目をこの目できっちりと拝見させていただいたと、ただそれだけのことなのですよ」
「いつ? どこで?」
「あなたのすぐ目の前でです。つまり、あなたがさいころを振っている間ここにいた僕は、あなたに最初にご挨拶をした僕じゃなくて、それより過去の僕であった、というわけです。
未来からやってきた僕は、真っ先にあなたがさいころを振る直前の時間を訪れて、あなたが振ったさいころの目をしっかり確認しました。それからさらに十分ほど過去にさかのぼって、再びあなたにお会いし、ご挨拶申し上げたのです。あたかも初対面をつくろってね」
ぽかんと口を開けたままの四郎。それに拍車をかけるように、青年の途方もない話はさらに進展していくのであった。
「僕は、未来に設立されているとある組織から派遣されて、ここへやってきました。組織名は『時間移動に関する倫理機関』、通称をMOTTと申します。MOTTは、時間を移動する際に生ずる様々なトラブルの対策や規制を考察するため、未来の先進十七カ国で協力して設立した国際組織なのです」
「そんな組織、今まで聞いたことがないな……」
と思わず口走った四郎だが、この状況下では全くナンセンスな発言であると気づいて、顔をしかめた。代わりに四郎はもう一つの疑問の解消にのりだした。
「さきほど君がこぼしたドッペルゲンガーとは?」
「過去にさかのぼることができれば、過去の自分と出会うことが可能となります。すると、同じ時間に同一人物が二人現れることになります。これがドッペルゲンガーです。
わが親愛なる組織MOTTは、この現象を時空の自然摂理に反した極めて好ましからざるものであると結論付けました。だからドッペルゲンガーを誘発するあらゆる行為を全面的に禁止したのです。僕も、たとえ四郎さんへのささやかないたずらのためとはいえ、同時代に二人の僕が現れないよう細心の注意を払ったと、こういうわけですよ。おわかりでしょうか?」
「なるほど、理解できたような気がする……」
そうつぶやいて四郎は深くうなずいた。一見、奇想天外かつ支離滅裂な男の説明も、彼が未来からやってきてタイムマシンを自由に扱う能力を持っている、というたった一つの信じがたき事実を認めてさえしまえば、すべてのつじつまが見事にかみ合ってくるのだ。かの名探偵、シャーロック・ホームズもこういったではないか。不可能を排除していけば、最後に残ったものがいかに奇妙であっても、それが真実なのだと。
理解できたという四郎のつぶやきを耳にした青年は、歓喜の声をはりあげた。
「すばらしい! やはりあなたはMOTTが一億人の候補者の中から選び抜いた偉大な人物だ。
いやね、実を申しますと、我々は事前にあなたという人物を徹底的に調査いたしました。あなたは稀に見る柔軟な思考の持ち主で、徹底した合理主義者でいらっしゃる。我々の目的達成のため、さらには全人類の未来を委託するために、必要不可欠な歴史上たった一人の逸材――、それが只野四郎さん、あなたなのです!」
どうやら自分は未来の組織から選ばれた大層な人物となってしまったようだが、なぜ自分などを必要としているのだろうか。正直、この時点で四郎は途方に暮れるしかなかった。
「それではあらためて――、僕はルークと申します。ルーク・ワルキューレ。どうぞよろしく」
未来からやってきたと称する青年が、自分の名を告げるとさっと右手を差し出した。
ルークが再び話題を戻した。
「先程申し上げました『時間移動』とは、過去や未来の任意の時刻に人や物品を転送する技術の総称です。さて、その時間移動ですが、アビス・シーカー博士というひとりの天才が人類史上初めて時間移動の旅路から帰還を果たし、それからさらに五十年の年月を経たのが僕たちの時代、西暦二二三五年です。
時間移動も発見当初はとても危険なものでして、常に死と隣り合わせでした。なにしろ、うっかり小さなミスを犯してしまえば、時空の狭間に閉じ込められてしまい、二度と元の時代へは戻れなくなってしまうのですからね。でも、その後の改良研究も進み、僕たちの時代には、いよいよ技術的な問題がすべて解消されて、少なくとも安全面では問題がなくなりました。
この研究は国際機関の一部の専門家の間でしか行われておらず、一般庶民にはいっさい公開されませんでしたが、安全性が高まりつつあるとの情報が飛び交ううちに、誰もが時空移動に関心を持つようになりました。かつて、宇宙空間への旅行を民間人が要望して、やがて許可されたように、時間移動の旅行を夢見る民間人が少しずつ増えていったのです。
そんなとき、極秘研究の技術データを、あろうことか研究所内部の何者かがネット上に流してしまったのです。当然ながら、それを見た世界中の民間団体が、一斉に時空移動の研究を試みました。やがて、ある民間会社が時空移動装置の開発に成功したという噂が流れる始末で。こうなるともう止めようがありません。
時空移動の解禁を求める運動は日に日に増す一方です。僕が出発した西暦二二三五年には、各国政府は民間への時間移動の実用許可をいつ解禁するのか、ということを真剣に議論しはじめていました」
「技術進歩による当然の流れじゃないか」と四郎がすまし顔でいった。
「意地が悪いですね。あなたは、もう、気づいているのでしょう? 不特定多数の庶民が好き勝手に時間移動を行う。それって極めて危険なことなのですよ。タイムトラベラーのちょっとしたいたずらが、その後の歴史を大きく狂わせるかもしれないからです」
「そりゃあ、うっかり過去の人物を殺してしまえば、その子孫が消滅するのだからな」
四郎はSF小説で似たようなストーリーを読んだ記憶があった。
「おっしゃるとおりです。たとえば、過去にさかのぼって幼少のナポレオンを殺してしまえば、欧州の歴史が根底からひっくり返ります」
「とどのつまり、時間移動の技術を民間に解禁するということで、タイムトラベラーたちが過去を故意に破壊することまでも気づかわなければならないんだね。当然のことながら、彼らが歴史を壊さないようにするためには、法律による規制が必要となる。そして、その法律を考案する組織こそが、君たちの『時間移動に関する倫理機関』というわけだ」
一瞬にして問題の核心を把握した四郎に、ルークがうなずいた。
「そのとおりです。時間移動で引き起こされる様々なトラブルを事前に予測して、その対策を審議していこう、ということでできた組織がMOTTです。その最終目標は、民間人への利用規定および法律等の制定なのですが、そのための第一段階として、未来から何らかのコンタクトを受けた過去の歴史が、その後どのように進展するのか、を調査しなければなりません。そもそもそれがわからなければ、いかなる対策も立てようがないですからね」
そういって、ルークがにっこり笑った。
「さてと、お互いの信頼も深まったことですし、そろそろ本題に入りましょうか……。
只野四郎さん、あなたについては既に色々チェックさせていただいております。お歳は三十一歳と七ヶ月。只野文佳さんという美しい奥さんと結婚されて三年が経っていますね。お子さんはまだいらっしゃいません」
どうやら四郎の私生活プライバシーは完璧に調べ尽くされているようだ。
「申し上げましたとおり、時間移動をして過去と接触すると、未来に何らかの影響を及ぼす危惧があります。ところが、どのくらいのコンタクトをしたときに、未来がどのくらい変化を受けるのかということに関して、これまで実例が皆無でありまして、その様相は何もわかっておりません。
差し迫る解禁日を前に、この件に関する一刻も早い調査の完了がMOTTに要請されています。すなわち、過去の人物――歴史上の重要度が極めて低い人物で、なおかつ委員会の趣旨を理解できる程度の聡明さを有した人物――に意図的に接触して、その後の彼の歴史がどうなるのかを詳しく観測する、という調査です」
その『歴史的重要度が極めて低い聡明な人物』というのが、どうやら自分のことらしい。顔をしかめながらも、四郎は反発した。
「すでに君は私と『会話を交わす』というコンタクトを行ったわけだが、それだけで未来がそんなに変化するものかね?
仮に、君の興味深い話をこの時代において私が論文で発表したとしても、誰も現実の話だとは受け取るまい。したがって、今回のコンタクトで未来が大きく変わるなんて、私にはとうてい想像できないが」
「そのとおりですね。この程度のコンタクトでは、歴史がそんなに劇的に変わることはないでしょう。だから、もっと踏み込んだコンタクトをあなたと交したいと僕たちは希望しています」
ルークの目がきらりと光った。
「すなわち、これからあなたに、ささやかな情報を提供したいのです」
「ささやかな情報だと?」不気味な悪寒が四郎の背筋を貫いた。
「四郎さん、僕がこれから提供しようとしている情報は、間違いなくあなたの人生にとって極めて有益なものでしょう。しかしながら、わが親愛なる組織MOTTは人権を重視する倫理機構でもありますから、万が一お嫌であれば、あなたは権利として今回の情報提供を拒否できます。
でも本音をいえば、是が非でもお引き受けいただきたく願っております」
ルークの気持ちもわからないではない。やっとのことで、時間移動を理解することができる二十一世紀の人物に巡り会えたのだ。そのような人間は古今東西を捜しても、そうざらにはいないだろう。
四郎はいった。「落ち着きなさい。話だけなら聞いてあげるから。君はさっき、私にとって有益な情報を提供するといったね」
「そうです。あなたに未来の情報をたったひとつだけ、それもとびきり重要な情報です。
つまり、それは……、あなたの死に関する情報です!」
「私の死?」
「はい、もしご了解いただければ、あなたが、将来、どのようにお亡くなりになるのかを、教えてさしあげましょう!」
全てが凍ってしまうかのような深い沈黙――。その静寂を破るのは壁時計が時を刻む音だけだった。ルークの返答は、全くもって思いもよらぬものだった。もし、自分の死にざまを前もって知ることができたとき、果たして人間は一体どうなってしまうだろうか? これが単なる占いや予言などの無責任な見解であればさほど問題にはならないが、さにあらず、未来を熟知した人物による極めて信ぴょう性が高い情報なのだ。
「き、君は死の情報を提供するといったが、そんなことをして果たしてそのとおりに未来は進行すると思うかね?」四郎が先に沈黙を破った。
「つまり、その……、君がもしここで私に死の情報を提供すれば、私は当然の行為として、その好ましからざる運命を回避すべく、何らかの対策を取るに違いない。前もって危険の内容がわかっているのだから、首尾よくいけば、私は予定の死を迎えなくて済むかもしれない。そうなると、未来そのものが変化してしまうことになる。君が予言した未来、それ自体がナンセンスと化してしまうんだよ」
努めて冷静さを振舞っていたが、四郎の手のひらは汗でぐっしょり濡れていた。
「そうですね。結果がどうなるかは、実は僕にも皆目見当もつきません。そもそも、それこそが僕たちの調査の目的ですからね」
ルークの返事は案外そっけなかった。「果たして未来とは、はかなくも火花を放つ線香花火のごとく刻々と姿を変えていくものなのか、それとも、いかなる人為的努力にもかかわらずシナリオ通りの運命を人間は辿ることになるのか。ふふっ。まあ、僕が提供する情報を信じるも信じないも、それは、四郎さん、あなたの自由ですよ」
四郎は迷っていた。当のルーク自身も未来がどうなってしまうのかは確信がないのだ。仮に、ここでルークが認識している自分の死の内容を聞いておけば、少なくともその対策を取ることができる。うまく事が運べば死の回避も可能かもしれない。これだけで済めば、わが身にとっては好都合な展開である。しかし、自分の死を知ったために精神崩壊を引き起こす恐れも考えられる。果たしてこの試練に自分は耐えられるだろうか?
ところで、ルークが宣告する死の情報とはいかなるものだろう。このとき四郎は予想される死のパターンを、瞬時に三種類に分類した。
一つ目は『回避不能な死』。たとえば不治の病などによる死である。残念ながらこれは対策の取りようがない。もし、ルークが宣告する四郎の死が回避不能な死であるのなら、それを聞かされた四郎には、もはや絶望以外の何も残らないであろう。
二つ目は不慮の事故によって突然に訪れる死。つまり、その死の直前までは健康な体調のままで迎える死である。ジョギング中の心臓発作や、他人から殺害されるという場合もこの死に分類すべきであろう。現実的に考えればこんな無念な死はない。だが、前もって未来がわかっていれば、状況は激変する。その死が起こらないように気をつけてさえいれば、その死は確実に防ぐことができるのだ。いうなれば、この死は『回避可能な死』ともいえる。
そして、最後になるが、今までの分類には属さない三つ目の死として、自分の意思による死、すなわち『自殺』がある。しかしながら、これはこと四郎に関しては全く心配の必要がない死でもある。
散々悩みぬいた末に四郎は次の結論に到達した。そうだ。ルークの提供する死の情報が回避不能な死であれば、未来などというものは刻々と変化していくものだと開き直る。また回避可能な死であれば、徹底してその死を回避すべく努力を払う。いずれにしても、ルークの情報提供自体が自分にとって不利益にはなることはないはずだ。
覚悟を決めて、目を閉じた四郎は叫んだ。
「わかったよ。私がどのように死を迎えるのか。さあ、教えてくれ!」
「では、申し上げます……。
それは高速道路上での出来事でした。逆走して走ってきた対向車に、あなたの乗った車は、衝突を避けることができずに正面からぶつかってしまいます。そして、その事故のためにあなたは命を落とされます」
四郎はあっけにとられた。普段から安全運転を信条とする四郎にとって、交通事故で死ぬなんて全くの想定外の結末であった。確かに、高速道路で対向車に逆走されてしまえば、こちらがいくら注意したところで衝突の回避は不可能だ。お互いの相対速度は時速百キロメートルを遥かに超えているから、即死もまぬかれない。
四郎はしばらく頭を抱え込んでいた。だが、待てよ……。冷静に考えれば、こいつは希望通りの『回避可能な死』ではないか。つまり、自分が今後、高速道路で運転さえしなければ、この事故は絶対に起こり得ない!
「高速道路を逆走するという事例は、僕たちの想像よりも遥かに頻度が高いそうですよ。たとえば、何か考え事をしていてうっかり入り口を間違えたとか、笑い話のような実例が毎年数百件と報告されています。ましてや高齢化社会の二十一世紀――、たくさんの高齢者が車の運転にかかわりますよね。彼らの中には、少々痴呆が進んでしまった人も少なからずいらっしゃるだろうと……」
そう告げて、ルークは心配そうに四郎の顔色をうかがっていたが、四郎が落ち着き払っているのを見てほっとしたのか、さらにもう一言付け加えた。
「あなたが巻き込まれた事故による死者数は全部で三名います。残念ながら全員が即死でしたけどね……」
「そうか……。ところで対向車にはどんな方々が乗っていたんだ?」
四郎の問いかけに特別な意図はなにもなかった。確かに非は先方にある。しかし、彼らとて自分と同じくこの世から消え去る運命なのだ。どんな人物なのかを気にかけるのは、しごく当然なことであった。
ところが、ルークの顔つきが一変した。慌てて返す言葉も、冷静沈着だった今までとはうって変わって呂律が回っていなかった。
「すっ、すみません、調子に乗ってうっかり口を滑らせてしまいました。どうやらいわなくてもいい発言をしてしまったようです。僕たちの当初の計画では、あなたに知らせる事実は死因のみでありまして、その……、ただ今の発言は、どうかお忘れください」
必要以上の情報提供は組織の本来の調査目的からはずれてしまうのだろうが、それにしてもルークが焦る態度は異様であった。彼は今の発言で何を失言したというのだろうか?
「なるほど、君の情報は大いに参考になったよ。だが、君の未来は実現されることは、決してないだろうね。
なぜかって? なあに、簡単なことだよ。今後何があろうと、私は高速道路を使用しないということさ。高速道路を運転しなければ、君が予言した不条理な事故に巻き込まれることは絶対にあり得ないからね」
四郎が勝ち誇ったように宣言すると、
「まさにおっしゃるとおりですよね」と、ルークも意味ありげな微笑みを返した。
それ以降の彼は、高速道路の運転を一切しなかった。それは、現代社会を生きるサラリーマンにとって極めて過酷なことであったが、只野四郎はかたくなに決意を貫き通し続けた。
ルークから情報を提供されてすでに三年が経っていた。あれから、彼には会っていない。
その日はとても暑い日だった。恒例の社内ソフトボール大会が催され、めずらしく活躍した四郎は、緊急に企画された打ち上げ会にもためらいなく参加した。昼過ぎから赤ら顔になった四郎に同僚が声をかけた。
「四ちゃん、帰りは俺が送ってやろうか?」
「ああ、ありがとう。でもそれには及ばないよ。家内に連絡しておいたから」
打ち上げ会は夕刻近くになってようやくお開きとなった。携帯で呼び出された愛妻が運転する心地よい車内で、只野四郎氏はうとうとと眠りに落ちていった。帰り道の市街地を縦断するメイン道路は、この時刻となればさすがに混雑してきた。
「ねえ、あなた。ひどい渋滞よ」
せっかく話しかけたのに、助手席からの返事はなかった。代わりに、心地よさそうな亭主の寝息が聞こえる。少し考えてから、妻はポツリと独り言をこぼした。
「ちょっともったいないけど、仕方ないわよね……」
広い道路の左手に突如ひょっこりと小さな脇道が出没した。只野夫人は、そこが目的のポイントであることを確認してから、ハンドルを切った。西日の日差しがじりじり照りつける単調な坂道を、みどり色の軽自動車が軽快に走っていった。
まぶしそうに目を細める夫人の視線の先に、ぱっくりと口を開けた悪魔のような都市高速道路の料金所が、すぐそこまで迫ってきていた……。