どうしてこうも平凡なのか。
俺は押し寄せる人波の中、高層ビルの合間に臨む夕空を見上げて、そう思った。
日々猛然と流れる時間にその身を委ね、偉ぶった上司に抗う事も出来ず、無味な日常から踏み出すことも出来ない。そんな小心者サラリーマン特有のジレンマに悶えるのはもう御免だった。
そういえば、今日から五月だったな。
いやいやそんなことは決して関係ない、五月病とかいう陳腐でネーミングセンスのかけらもないような病と俺を一緒にしないで欲しい。
とにかく、俺は路頭に迷った馬鹿な奴らとは違う。大義名分の下に現職の会社から脱退しようと…イッ!
突然、右肩が痛みと共に後方に引っ張られた。振り向くと、いかにもガラの悪そうな30歳ぐらいの男が、静かな殺意を秘めた瞳を俺に振り向けていた。両腕の太さは俺の大腿と同じくらいで、肩幅は俺の二倍はありそうだった。……失禁しそうになった。
「オイ、兄ちゃん、こんな人の通る所で突っ立ってるとはどういう了見だ。人様のご迷惑になるだろう?」
やけに野太い声で男は言った。言いながら男の左手が俺の右肩を掴む。周囲から浴びせられる冷たい視線が痛い。
つまるところ俺は、都会の雑踏のど真ん中で、肩がぶつかったばっかりに、チンピラと対峙する羽目になってしまった……死にたい。
失望に苛んでいると、男がさらに詰め寄って来た。結構不細工だなこいつ。スキンヘッドは守備範囲外だからこっちから願い下げだ、それ以前にこいつは男だ。
「なんか言ったらどうだよ……!!あぁん!?」
言えたら世話ねえよ、こちとらビビって泣きそうなんだ。何か言って欲しいならその剣幕を止めてくれ。ああ、情けねえな、俺。この救いのないヘタレめ。
どっちにしろここは素直に謝るべき、というか突っ立ってたのは俺なんだから、相手が誰でも謝るべきだろ。はやく気付けよ。ほら早く言えって、俺。
「………」
あれ、声が出ない。口が半開きになったまま、音がでない。そういえばさっきから息してないな。緊張のせいだ、ここは深呼吸して気道を確保すれば声が出る。別に失語症になった訳じゃない。
「ふぅ……。」
よし、いいぞ。そして落ち着け。落ち着いてはっきり謝ればいい。そうすりゃ、もう終わる……せえのっ
ゴッ!!
鈍い打撃音が響いたかと思うと、俺の左側頭部に激痛が走って、体が右に吹っ飛んで、視界がテレビで言う砂嵐の様に、極彩色で染まった。
「溜息とは何様だコノ野郎!!!えらく冷静に構えやがってよ!!!いい機会だ、テメエみたいなホワイトカラーにいつか言ってやりたかったんだ、脳みそだけで生きていけると思うなよ!!偉がりやがって、殺してやらあ!!」
イッテエ…くそう…急に殴りやがって…。
どうやらこのゴリラは、深呼吸を溜息と勘違いしたらしい。それにしてもこのゴリラ、ホワイトカラーなんて知識人ぶった言葉、よく知ってるな。脳みそはハエ並みと思ってたんだが。まあでも、自らブルーカラーをへりくだって公言したようなもんだ。いい気味だ。
「覚悟しろ!神にも祈らせてやらねえぞ!せいぜいあの世で俺に盾突いたことを嘆くんだな!」
馬鹿言え、この無宗教国家のどこに、今わの際に神に祈る奴がいるんだよ。時代錯誤も甚だしい、つうか欧米人かこいつは、ホワイトカラーにしたって、神にしたってまるでそっちの人間の物言いじゃねえか、まあいい、こうなりゃヤケだ。殴りあって死んでやる。自分の弱腰にはもううんざりだ。
顔面に大の拳が迫る、これを避ければ相手はコンクリートを殴る事になる。ぎりぎりまで粘って、体を横転させた。我ながら鮮やかな体裁きとタイミングだった。
ゴッ!!!
プロボクサー顔負けの右ストレートが、都会の硬質な地面を思い切り叩いた。
「……ウッ!!イッテエ!!くそ、くそ、この野郎!!」
男の右拳から血飛沫が上がる。そりゃそうだ、花壇の角を殴ればそういうことにもなる。わるいが俺を恨むなよ、恨むなら自分の怪力と短絡的な思考を恨め。
「すみません、僕が考え事してたばっかりに、これから気をつけます。本当にすみません!」
痛みに悶える男を尻目に、立ち上がった俺は何度も頭を下げる。やっぱり死にたくない、とんずらするなら今のうちだ。
「それじゃ、今急いでるんで、さよなら。」
そう言うと、俺は足早に駆け出した。一つ目の角を曲がって、裏路地を全力疾走。足に自信は無いけど伊達に小心者をやってる訳じゃない、『逃げる』事に関しては一般人よりも潔い。
自分でも驚く程の距離を走って、足が悲鳴を上げている事に気付き、俺は止まった。
膝に手を着いて、弾む息を落ち着かせる。額に汗が流れて、それを拭いながら体を起こすと、自宅の近くに着いていた。あの角を曲がればすぐ家に着く。弾む息が安堵のそれに変わったのは言うまでもない。
錆び付いた鉄扉を開けて部屋に入る。先月から住み始めたアパート。家賃が安いというただそれだけの理由で入居した、綺麗ではないけれどそれなりに気に入っている部屋。
鞄をリビングのソファに投げて、ネクタイをむしり取る。南側に面した大きな窓のカーテンを開けた。
眩しさに驚いて一瞬目を閉じた。
細く瞼を開けると、目の前には、窓越しに広がる大都会があった。
悠然とそびえ立つビル郡が、西日を受けて輝き、影を伸ばしている。空には、鮮やかに彩られた彩雲が幾重にも重なって絶妙な色合いを醸し出していた。
疲れ果てた体をいたわる様に座って、夕日を見るように壁にもたれた。網膜に飛び込んで来るオレンジ色の光が綺麗だった。
嬉しかった。ただ純粋に嬉しかった。男を出し抜けたからだけじゃない、今までの弱々しい自分をちょっとは払拭できたこともあるんじゃないだろうか。面と向かって物を言うことが出来なくても、どこかで相手を負かすことが出来る。正攻法じゃないかもしれないけど、そういう生き方だってきっとあるはずだ。だからこそ俺は今の自分が疑心なく好きになれそうだった。
「これなら、今のままでも良いかな」
計らずもそんな事を呟く。
都会を駆ける五月の風が、網戸越しに届いた。その風はまるで俺の心を、祝捷するように爽やかに撫で過ぎていく。
俺は立ち上がった。こめかみに鈍痛が残っていて、触ってみるとこぶになっていた。冷蔵庫の中に保冷剤があった筈だ、それで冷やせば直ぐに痛みは引くだろう。いつになく前向きな考えが浮かぶ。
窓から入り込む夕日に背中を薄く照らされながら、俺の顔は自然と綻んだ。
Fin. |