車を洗う男
空は青く、涼やかな風が吹いていた。
絶好の洗車日和だ。
通勤や買い物や何やかんやで毎日のように乗り回している車を、スポンジで丁寧に磨いていく。
前回の車検先がサービスしてくれた洗剤は、買い置きしているものよりよほど泡立ちがいい。次に使う機会が見つけられないのがもったいないと感じるくらいには。
洗剤はやはり泡立ちのいいものに限る、と私は思う。
何より洗車をしているという実感がわくじゃないか。
・・・環境志向の桃子は、賛成してくれなかったが。
玄関の扉が開く音が聴こえて、私はスポンジを動かしていた手を止めた。
桃子だろう、という私の予測は外れなかった。
「あなた、三時のおやつはどう?」
問いかけに、小さく笑う。
妊娠を期に結婚してから4年と少しが経つが、私が家にいるかぎり桃子が3時のおやつの誘いを欠かしたことは一度もなかった。
「あぁ、ありがとう。でも今はいいよ」
言いながら、私は再び手を動かしはじめた。
「そう?」
振り向かなくても、桃子が残念そうな顔をしているだろうことはすぐに分かる。
彼女は、感情をかくせないタイプの人間なのだ。
「卓也が幼稚園から帰るまでに磨き上げておかないと」
明日のドライブに間に合わないだろう?
振りむきながらそう言った途端に、彼女は笑顔になった。
アレルギーが出るからと化粧をしないその肌は、出会ったころと変わらず若々しい。
「それじゃ、今日のおやつは、洗車が終わってから一緒にたべましょうね」
あなたの好きなチョコチップクッキーも作ったのよ
弾む声音でそう言って、桃子は家の中に戻っていった。
結婚してこのかた、市販されている菓子類がおやつとして出されたことはなかった。
添加物や残留農薬が気になるたちだと打ち明けられた時に私が予測したよりもはるかに完ぺき主義者だった彼女は、より安全で健康的な食卓をつくりあげることに尽力し続けている。
食卓にのぼるのも弁当に入っているのも、国産の無農薬野菜に無農薬玄米を中心にしたヘルシー食だし、おやつも国産の小麦粉を使った手作りだ。
つくづく、細やかな女性だと思う。
「明日が楽しみね」
扉が閉まる寸前に聞こえた言葉に、そうだね、と私も笑う。
久しぶりの連休だ。
ドライブを楽しみながら、湖に行こう。
レジャーシートを広げて、湖畔でバーベキューをしよう。
そう告げたのは一ヶ月ほど前のことだ。
会社の有給もバーベキューの予約も予定通りに取れ、下調べも完璧だ。
心配だった天気についても、テレビが快晴という太鼓判を押してくれた。
計画は、順調に進んでいる。
思っていたより汚れているミラーを綺麗に拭きながら、通りかかったお隣の奥さんと手を引かれて歩く娘さんに挨拶をする。
明日は湖に遊びに行くんです、と言えば、いいわねぇ、と化粧を重ねた顔が笑う。
うちの亭主なんてたまの休みにはぐうたらしてるだけよ、近くの公園にだって連れてってくれやしないんだから。
そう言いながらも、彼女は楽しそうだった。
外にでない埋め合わせは、彼女が持っているブランド物のバッグでなされているらしい。
話しこんでいるうちに、彼女の娘が繋いでいた手を離して駆け出した。
きっと退屈だったのだろう、と思う。
待ちなさい、と声を上げた奥さんは、こちらに軽く会釈をしてから坂道を下っていった。
あぁ、完璧だ、と私は思う。
桃子との仲は円満だし、卓也も怪我一つせずに大きくなった。
隣近所とも、一応はうまくやれているだろう。
何もかもが計画通りに進んでいる今、心配は明日の天気だけだった。
結婚と同時にかけた平均的な額の生命保険のことを思いながら、私は洗い続ける。
明日、神経質な妻とその妻に似てきた息子とともに、湖に沈めるための車を。
はじめまして。もしくは、お久しぶりです。
水音灯です。
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