なにを食む
前作:「かざる言葉は」
「あなたのためを思って、忠告しておきます」
張りつめた声で、彼は切りだした。
「渡り人の身分は、本来、非常に低い。あなたが衣食住を保証され、手厚くあつかわれているのは、吉兆とされる『闇色』をまとって現れたからに過ぎません」
ほんのすこし、言いよどむ気配。
そして。
「光色を携えていたのなら、――おそらく、もうこの世にはいなかった」
静かに告げた彼の瞳は、宝石のように鮮やかな黄玉。それこそが、光色と呼ばれる類の色だということは、すぐにわかった。
*****
「誰も、いなかったの? 地龍を利用しようだとか、手に入れようだとか……そういうこと、考えそうなものだけど」
「地龍が与えたもうたのが、まこと守護たるものならば、そうなっていたのやもしれんな」
「なに、それ。どういう意味よ」
梏杜の言葉に、異界から渡ってきた少女――ワタリは、眉をひそめた。
ワタリ。安直なその名は、記憶の半分ほどを失っているという彼女に、仮に与えられた呼称だった。
「地龍は守護神などではないといことだ。あれは天災。あれは天恵。条理と不条理とを、まとめて押しつける支配者だ。しかし今となっては、ヒトは地龍の支配なくして立つことは叶わぬ」
思ってもいないであろうことを、粛々と語る主に、珠光はひっそりと嘆息した。
「梏杜さま……」
「事実だろう」
――表向きの。
言外に告げられる、梏杜の真意を、珠光は余すことなく悟っていた。
常に、梏杜は、地龍を葬る機会をうかがっている。
偉大なる獣を、その手で切り伏せられるとしたら。ヒトの世――すなわち、エドゥという国を襲う副次的な影響など、気にもとめないに違いない。
梏杜が、王座にすわるようなことがあれば、エドゥは、またたく間に滅びの一途をたどることだろう。
主の継承権が遠いことに安堵するのは、これが初めてのことではない。
「ふぅん。複雑なんだ、結構」
わかったようなわからないような、という微妙な表情で相槌をうったワタリが、振りむく。
「珠光も、そう思うの?」
不意打ちで話題を振られて、すこし戸惑う。
「そうですね……、まず無理でしょう。ヒトの身では、とてもあの獣を利用などできない。考えるのも烏滸がましいとされるほど、過去に地龍が刻んだ爪痕は深いということです」
正面に座す梏杜が、ふん、と鼻で笑った。
よくいう、といったところか。
「まさに例外が、そこにいるがな」
「貴方に言われるとは思いませんでした」
どちらともなく、視線が絡まる。――梏杜は、純粋に面白がっているようだった。それとなく、主の本意をうかがった珠光は、やれやれと目を伏せる。
ワタリが訪れてからというもの、主は機嫌がいい。
たびたび、こうして執務室――例の『天の岩戸』の奥――に招いては、とりとめもない少女の歓談につきあっている。必然的に、そこには珠光も同席させられることになる。
はじめのうちこそ業務の滞りに苛立ったが、あの掃討戦以来、エドゥは平穏そのものだ。変兆なくして、第七師団の仕事はない。梏杜がどう考えているかはわからないが、喜ばしいことである。
ただ、珠光には、それが嵐の前の静けさにしか思えなかった。
「戻りましょう、ワタリ。時間です」
「え、もう?」
「いけいけ。珠光は、規則にはうるさい。俺まで巻きこまれてはたまらん」
「梏杜……。いつか、珠光に愛想つかされても知らないよ」
あきれ交じりのワタリの言葉に、梏杜は、無言で目を細める。
そして、一拍の後。
「――ありえるものか」
ゾッとするほどに艶やかな笑みを添えて、梏杜は言い放った。その、あまりにも迷いない口調に、ワタリも反論をためらって口を閉ざす。
エドゥに根ざす、主従の習慣を差し引いたとしても、珠光は梏杜に囚われている。見放すどころか、提示された彼の意志に反することさえ、珠光にはできない。
現実には、主従という刻印もまた、消せざるものであるのだから、珠光にかかる首輪の強度は推して知るべしというものだ。なにより、珠光自身が、望んで嵌めているのだから。
不謹慎に湧きあがる歓びを殺して、珠光は、ワタリの手を引いた。
「では、失礼いたします」
「またね、梏杜」
あっさりとした挨拶を口にしたワタリを追いたてるように、梏杜は、無言でヒラヒラと手を払う。
ワタリとは対象的に、作法どおり深く腰を折った珠光が身を起こすころには、くだんの岩戸――聖銅の扉は、元どおり気難しい主の部屋を封じていた。
金具から手を離したワタリが、珠光を見上げる。小柄な少女は、珠光の肩ほどの身長しかない。さらに上背のある梏杜と並べば、胸の位置に頭がくる。
少女がなにも言わないことに気づいて、珠光は、そっと息を吐いた。
切りだされるのを、待っているのだろう。幼くみえて、ワタリは、人の機微に敏い。なかでも、親鳥のように慕う珠光の思考は、決して見逃すまいと慎重にうかがわれている。
「ワタリ」
ちらり、と無人の回廊を確認してから、珠光はためらいがちに切りだした。
「気を悪くしないでください。あなたのためを思って――」
「忠告します?」
声を重ねた少女が、いたずらっぽく笑う。
「二度目だね、珠光にそう言われるのは」
それは、少女が第七師団の土を踏んだ、まさにその日のこと。珠光自身も、よく覚えている。地龍の声と重なるように聞いた、彼女の反応も。
「大丈夫。わかってるよ。珠光が厳しいことを言うのは、本当に私のためになるときだけだから。むしろ、感謝してるくらい」
「そうですか……」
一片の曇りもない眼で、ワタリに見上げられる。晴れやかな笑みは、珠光の眼からみても、14、5の少女にしか映らない。
「心の片隅に留めておきなさい――人は地龍を利用はできませんが、人は利用します」
「それは、梏杜のこと?」
「もう一点。聡明さは、あなたの美点でもありますが、同時に欠点でもあります」
しばし、真剣な表情のまま、視線を交わす。ワタリは、こくり、と頷いて――。
「はぁい。肝に命じます、珠光お姉さま」
大げさに破顔した。
「やめてください」
「じゃあ、お兄さま?」
「ワタリ……」
咎めながら、なんともいえない表情を隠すように、珠光は額を抑えた。その様をみて、ワタリの口から、軽やかな笑い声があがる。
「ふふ。ごめんなさい。あなたの動揺した顔がみられるなんて、滅多にないものだから。ご忠告、いたみいります。珠光さま」
一変した大人の表情で、そっと腰を折った少女――淑女の礼に、珠光は嘆息した。まったく、見事なものだ。
「いいえ、こちらこそ。あなたの演技力に感謝いたします。渡利美紗都さま」
「……つくづく、都合のいい記憶喪失があったものだと思うわ」
あきれた口調で告げる女性に、少女の面影はない。これでも成人しているのだけれど、と告白した彼女に対して、ついでだからもっと幼くふるまってしまいなさい、と指示したのは他でもない珠光だ。
思いのほか、芸達者なワタリ――ミサト嬢は、5歳の鯖読みを、それは見事にこなしてみせた。被った猫の大きさを気にいった梏杜が、歓談の都度、それを要求するほどに。
「くだらない思惑を持つものは、少なからずおりますので。不自由を強いて申し訳ありませんが、いましばらく三文芝居にお付き合いください」
「その割には、私を自由に動きまわらせてくれるのね」
「我々を対等に呼び捨てる客人に手を出す輩は、この第七にはおりません」
それが非力な少女ならば、尚のこと。
――懸念すべきは、人嫌いの梏杜へ取りいる布石として、どこぞの腐れ貴族が手を伸ばしてくることだ。
あるいは、軍の上層部。
梏杜には、敵が多い。煮え湯を飲まされる――というよりは、自業自得の気が強い面々に、フォローの類を一切しないゆえに、増加の一途をたどっている。
身分、権力、支持、――武力。どれをとっても、劣ることのない珠光の主は、どこまでも不遜に我が道をゆく。それを阻めるものは、ヒトにはいまい。
ただ、王者の闊歩に歯噛みして、妬み嫉みを届かぬ場所で吐きだすのみ。負け犬の遠吠えという言葉が、これほど似合う状況もほかにない。
「梏杜がスゴイのはわかるけど、不満は集まりそうなものだけどなあ。恨み言ひとつもらわないのは、ちょっと不思議」
また猫をかぶり直した、少女のワタリが、無邪気なフリをして鋭い質問をする。
彼女は、渡り人としての立場の微妙さを、よくわかっている。珠光が教えた以上に、自分自身の眼と耳で理解してきた、優秀な生徒だ。
満足げに口もとをほころばせながら、珠光は答えた。
「第七師団は、梏杜さま――ルイス=エドゥアルド第十二王子殿下、子飼いの『蟻の巣』にございます。我が主の不興をかうことの意味を、わからぬものはおりません」
「わぁお。恐怖政治ってやつ?」
「いいえ。純粋な崇拝です」
「……わぁお」
きっぱりと言いきる珠光に、少女の演技を続けるワタリの表情が、ひきつって歪んだ。
その頭を軽くはたいて、珠光は、自室へと足を向ける。
「いた! ――って、あれ? 珠光、どこいくの」
「今日中に片づけてしまいたい書類がありますので、部屋に戻ります」
「私は?」
「夕食まで、まだ一刻ほどありますから、自由に遊んできて構いませんよ」
「う、わあ……。珠光に子どもあつかいされると、さすがに鳥肌たつ」
白々しく両腕をさすったワタリに、珠光は、わざとらしいほどに柔らかい微笑を浮かべた。
「子どもは、時と場所を選ばず、遊ぶものでしょう?」
ぎくり、と顔を強張らせたワタリは、一歩、また一歩と、身を引いていく。
「嗅ぎまわってこいと、おっしゃってます……?」
「いってらっしゃい、ワタリ。お土産話を期待していますよ」
「鬼ィイイ」
涙目で踵を返したワタリは、廊下の奥に消えていった。大方、訓練場に忍びこんで、見学でもするつもりだろう。親しくなった者がいるのだと、言っていた。
本気で、偵察してこいと言ったわけではない。そもそも、彼女の行動範囲は、そのまま梏杜の庭だ。珠光の求めるような情報が、そこに落ちているとは思えない。
ただ。
わきあがる疑念に、ひっそりと打ちたてた仮説。その確証になりうる鍵を、喉から手が出るほどに求めていることは、事実だった。
「耳障りな――」
耳を抑えても止まない、地龍の唸り。あれ以来、ひっきりなしに珠光へ届く、その声は、延々と同じ内容をならべたてる。
目覚めの御子。あと少し。
なにを意図しているのか、わからぬほどに鈍感ではない。アレは、目覚めるだろう。そう遠くない未来に。
いずれくると、わかっていたことだ。ほんのすこし、周期が早まるだけのこと。
珠光は、それを、梏杜に告げていない。告げれば最後。あの主は、龍の寝床を探しだし、その剣を振り下ろすだろう。
どうせ目覚めるのならば、多少早まったところで問題はなかろう、――と。
眠れる龍を起こし、それが災いを招く前に、命のやり取りを始める。間違いなく。
屠るか。屠られるか。
光り輝く巨体を貫くことを夢見て、闇の御子は剣を磨いた。珠光は、それを、知っている。その理由さえも。
――独占欲だ。
国のためでも民のためでもなく、病理的な執着心を満たすためだけに。
悪癖も極まれば、国を滅ぼす。梏杜と地龍、どちらが傷を負っても、いまのエドゥという国にとっては、マイナスにしかならない。
ゆえに、珠光は、それを妨げる。梏杜に望まれれば、差し出さずにはいられない己を欺くために、伝えるべき言葉のすべてを呑む。
梏杜に恨まれようが、憎まれようが、これだけは譲れない。
失うわけにはいかないのだ。国のためでも民のためでもなく、己のために。梏杜という存在を、唯一不変の主を、損なうことは許されない。
それは、身勝手なミーイズム。
切り捨てられるならば、それでもいい。
梏杜は、ワタリを利用しようとしている。彼女には、他の選択肢が存在しないことを、知った上で。
渦中に飛びこんできた善良な女性を、幾重もの偽りでくるんで、己が目的に沿わせようとしている。
そして、珠光も、また。
地龍が目覚めれば、ワタリは、難しい立場に立たされるだろう。すべて知った上で、利用しようとしている負い目が、珠光にはある。
せめてそのとき、自らを守る力を得られるように。形ばかりの心遣いを、ワタリが理解しているのかまでは、わからない。
彼女に罪はない。
だが、他の誰にも罪はない。
ワタリが、第七師団にいるのは、王命によるものだ。この箱庭にいるかぎり、梏杜の威光が彼女を守るだろう。
しかし、一歩でも外に出れば、その砦は跡形もなく崩れさる。梏杜は、動かない。珠光には、確信をもって言える。――動かない。
なぜなら、梏杜は、その瞬間こそを待っているからだ。ワタリが害されれば、地の底に眠る獣が尻尾をみせる。
――そう、思いこんでいる。
まだ、時間はある。姑息な策を弄するには十分で、しかし国が備えるには不十分な、時間が。
地龍のもとへは、行かせない。
「あなたに切り捨てられるのなら、本望です」
――梏杜さま。
うっそりと呟いた珠光の言葉を、聞いたものはいない。
next→「出ずる想いに」
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