4
<界、毒、愛>のお題をいただきました。
扉の向こうに何があるのか。──開けてみなければ分からない。
この世界は果たして現実か。──証明する術はない。
前を向いているとき、後ろに何があるのか。──さっきまで見ていたものがあるだろう。──本当に? それは同時に見ることができないから、確かなものではないのに。
疑い始めたらキリがない。
例えばこの世界が5秒前に発生していたとして、それより前にこの世界があったのだと記憶にあるのだとしても、それすら作られたものだったとして、誰が証明できようか。
そんな不確定な世界に、僕たちは生きているんだ。
だからたとえ、この目に映るものがほかの誰にも理解してもらえなくとも、それが現実でないとは限らない。幻覚だと言われようが、狂っていると言われようが、これが僕にとっての現実であり、普通なのだから。
別に、妖怪とかが見える訳じゃない。ある意味ではそうかもしれないけれど、メルヘンな妖精とか、古風な小人とかが見えたらいいのにとは思っても、そんなものが見えたことは一度もない。
ただ、靄が見えるだけ。
顔とか胸のあたりとか足とかに、もうすぐ雨だよって感じの曇り空みたいな。それは痛みだったり、強い感情だったりするんだってことが分かったのは成長してから。今は意識すると、靄を見なくてもすむようになった。幼い頃は、それがみんなに見えるものだと思っていたから、僕にとっての普通に、それに反応して動いていた。幼稚園の頃、おなかに靄のついている子がいて、その子を先生のところまでつれてったり、頭に靄がついていた父さんをに病院へ行くよう勧めたら、軽めの脳梗塞だったり。痛みとかの不調だったら、靄は黒っぽくて、強い感情だったら青っぽかったり赤っぽかったり、色で何となく分かる。
あれは、僕が中学生の頃から始まったのだったか。
母はよく言えば教育熱心で、悪く言えば過干渉な親だった。
もちろん塾に通っていた。通わされていたと表現してもよいけれど、それだけ恵まれていたとも言えるから、不満はあれど大した反抗はしなかった。3年生になって、進学を考える人が大半だった流れに、僕は身を任せた。志望校は親の薦めで。僕の偏差値は平均より少しだけいいくらいで、つまりちょっとした進学校にならがんばれば合格するかもくらいの。親の薦めは当然のように県内では有名な進学校。近くに私立高校はなかったから、公立高校だった。そこに合格できるようにと、親は塾の先生にくれぐれもと頼んだ。そして入試まではもちろん勉強付け。徐々に、母さんの胸のあたりには黄っぽい橙の靄が濃くなってきた。そして入試の頃に最高潮。無事入学すると、靄はだいぶ薄くなって、定期試験の度に少しずつ濃くなることはあれど、それだけだった。
でも、後から考えると、靄は赤みを帯びてきていた。
母さんは徐々に、僕に構う時間が増えていった。最初は気にならなかったけれど、視界にはいるところで勉強していると何かと口を出してきたり、勉強の妨げになることをするようになってきた。前は、静かに見守るだけだったのに。
それが悪意からではないと、青っぽい靄がないから分かる。だからむしろ質が悪いのだ。
大学への進学も、流れに身を任せようとした。母が薦めたところへ向けて受験の準備をしていた。
結局、僕は受験を諦めたが。
僕が受験を諦めざるを得ない状況になったとき、母さんの胸の靄は青く黒く染まって、倒れてしまった。その後──つまり今、母は入院している。ほとんど放心状態で。父さんは時々見舞いに行くけれど、僕はそんな気になれなくて、まだ一度も行っていない。でも一度は行かなければいけないような気がして、今日、やっと決心した。
父さんに連れられて病室へはいると、ぼんやりと鉄格子のはまった窓の外を眺めていた母さんの顔が、ぐりんと動いた。それはそれは不気味だったけれど怖いわけではない。記憶の中のは母さんより頬が垂れて、やつれていた。父さんが僕がきたんだと伝えると、母さんは手を伸ばした。でも、その手の届くところに僕はいない。近づくと、頬に冷たい手があったった。骨ばった手は輪郭を確かめるように少し動いた後、すぐに離れる。虚ろな目は今の僕を写してはいない気がしたけれど、口元には笑みが浮かんでいて、胸のうっすらとした赤い靄と、全身を包みつつある黒い靄が、これが最後であるかもしれないと僕に伝えていた。
だから今、言い残したことを伝えなければいけないと思ったんだ。
「いままで、ありがとう」
父さんは何も言わなかった。
僕たちが帰ると、すぐに母は息を引き取ったそうだ。
あのとき僕は、吐き気がして、夕食前で碌に入っていない苦い内容物を出した後、倒れたのだ。診断によると、ストレスと疲労が原因の症状だとか。しばらく入院してから退院した後も、なぜだか家から出られなくなった。母さんのいない、静かな家から。
僕が倒れるとき最後に見たのは、母さんの胸にまとわりつく、紅と見紛う、橙の靄だった。
黄の靄と、愛情の証の赤い靄。それが混ざって、橙の靄になる。
強すぎる愛が、僕を追いつめた。応えようとした僕を、それは憎しみよりも質悪く蝕んだ。
それが責任転嫁だと言われればそのとおり。
僕がどこかで、母さんにきちんと反抗すればよかったんだ。自分のできる範囲で、できることをやっていればよかったんだ。
それをしなかった僕が、本当は悪いんだ。
毒、愛→強い愛は毒になる
界→愛と憎しみの境目(移り変わり)
今回もやや強引な回収でした。