坂東蛍子、連絡網の前に堕つ
「どうしてそう頑ななんだ!」
「それはこっちの台詞よ!」
坂東蛍子は星隈翔太という鉄の壁の前に息も絶え絶えになっていた。弾薬も尽き、銃剣も折れ曲がり、この難所を打ち崩す策はとうに使い果たしていた。正義感が強いフェミニストだとは聞いていたけど、限度があるでしょ、と蛍子はこめかみをさすった。「親切」と「おせっかい」は全然別物なのだ。「傲岸」と「不遜」ぐらい違う。
時は五分ほど遡り、時刻は日本時間で午後八時二十分と三十二秒、舞台は坂東宅の固定電話前。
(外食でも流行ってるのかしら・・・)
坂東蛍子は溜息をついて手元の連絡網ノートから次の電話番号を指で辿った。坂東蛍子は電話が嫌いだった。対話者の顔が見えないということを考えると不安な気持ちになるからである。初めて会話した人に限らず、例え親しい間柄への電話であったとしても、あらぬ想像が掻き立てられ、蛍子は相手への信頼を保てなくなってしまう時がある。そもそも電話の向こうで話している相手は本物ではないかもしれない。もしかしたら自動応対をプログラミングされたロボットかもしれない。あるいは人語を介する猫や、ぬいぐるみかもしれない。一度そう思ってしまうと、蛍子は耳元で響く出所不明の不明瞭な声に心を許すことが出来なくなってしまうのだった。
蛍子が電話を嫌う理由はもう一つある。それは相手が受話器を取るまでに待ち時間があるということだった。坂東蛍子は才貌両全で、天衣無縫で、待たせることは得意だが待たされることは大嫌いな高校二年生である。そういった込み入った背景があるので、本日既に自分の受け持ちである生徒の他に、その次の生徒の家にも電話を済ませ、更に三人目への連絡に突入しようとしていた坂東蛍子は腹の虫やら何やらが爆発寸前なのであった。緊張しながら電話口で待たされ、留守電に繋がる。仕方なく録音に連絡事項を吹き込み、次の番号を探し、普段と違う相手に更に緊張を募らせながら電話口で待たされ、そしてまた留守電に繋がったのだ。もし次同じことを繰り返されたら特製の呪詛を留守電の録音時間一杯に吹き込んでやる、と蛍子は目をギラギラさせた。不幸の手紙ならぬ不幸の電話である。
「あら?」
蛍子は指でなぞった電話番号の持ち主の名前を見て思わず声をもらした。次の相手が友人である善良な図書委員、藤谷ましろだったからである。そうか、そういえば連絡網ってアイウエオ順だったわよね、と坂東蛍子は黒電話の前で納得したように一人深く頷いた。蛍子の背後で息を潜め、いつまでも電話口を離れない可愛い愛娘を心配そうに見守っていた父、憲純がますます不安になって眉間に皺を寄せた。
(私は“ハ”で藤谷は“フ”だものね。で、次は星隈の“ホ”、その次は・・・)
蛍子は自分が指で抑えている“松任谷理一”と書かれた名前を見てドキドキと胸を高鳴らせた。さすが理一君、文字だけで私をこんなに緊張させるなんて、私が好きになった男なだけあるわね。
蛍子は藤谷ましろの番号をダイヤルしながら、脳内である妙案を高速で組み上げていた。坂東蛍子は頭の良く回る高校二年生であったし、好きなことには無類の集中力を見せる高校二年生でもあった。今まで大嫌いだった電話が今日で好きになれそうだ、と蛍子は胸を躍らせた。
「・・・あ、フジヤマちゃん?蛍子だけど。あのさ、いきなりで申し訳ないんだけどさ・・・」
星隈翔太は母から渡された電話の子機を耳にあてると、不意の驚きによって数秒間全ての身体動作を停止させた。連絡網と言うから、てっきりいつものようにあの気弱な図書委員が電話の向こうで待っているものと思ったからだ。ところが受話器の向こうから響いてきたのは、かの名高いクラスの花、坂東蛍子の声だった。
坂東蛍子。坂東家の令嬢でありながら、そのことを鼻にかけることなく素朴でくだけた人付き合いが出来る模範のような女性だ。しかし庶民的でありつつも、その身からは隠しきれない上品さや優雅さが醸し出されている。こういう人こそ社会でその辣腕を奮うべきであるし、自分はそういった人達を支えていける人間であらねばならない、と翔太は蛍子の姿を見る度に心中で自身の正義を新たにするのだった。
しかし、と翔太は停止していた体をひとまずエアロバイクから降ろしタオルで汗を拭きながら考えた。何故その坂東が俺に連絡を回してくるのだろうか。確か坂東と俺の連絡網の間には三人ものクラスメイトがいたはずだ。その全員が留守にしていて坂東が自分に電話を回してくるなど、かなり考えにくい。となると、何か坂東が連絡網を回さなければならないのっぴきならない事情があるということにならないだろうか。
もしかしていじめなのでは、と星隈翔太は眉を顰めた。翔太は以前、蛍子がその人気を一部の生徒から疎まれているという噂を小耳に挟んだことがあった。もしかしたらその生徒達こそが連絡網を繋ぐ間の三人であり、彼らの画策により坂東は連絡網を俺まで回さなければならない羽目になったのではないだろうか。藤谷ましろという女子に関しては見る限りではそういったことから縁遠そうな、どちらかというとむしろ被虐側の人間のように思えたが、しかし見た目で人は判断出来ないものだ。あれで実はかなりの悪女なのかもしれない、と翔太はトレーニングの汗で冷えた体を震わせた。
「ねぇ、聞いてる?」と電話口で蛍子が苛立った声を漏らした。
「え?」
「だから、この際だし、もし良かったら次の人にも私が回してあげようかと思うんだけど・・・」
星隈翔太は確信した。いじめだ。間違いない。彼女は全員分の連絡網を回すように指示されているのだ。
しかし、犯人を突き止めるにしても、彼女を慰めるにしても、まずは全容を把握しなければならないな、と翔太は怒る拳を胸元でぐっとこらえて感情を押し殺し、蛍子からそれとなく情報を聴き出すべく返事を返した。
「坂東、何故次の相手に連絡したいんだ?」
「え!?いや、別に変な意味じゃないわよ?親切心で・・・」
「何か、人には言えない事情があるんじゃないのか?」
「・・・まぁ、無いわけじゃ、ないかも」
「やっぱり!言ってみろ!」
「はあ!?言えるわけないでしょ!?」
「やっぱり!!」
坂東蛍子は到頭へなへなと力なく揺れながら床に崩れ落ちた。弱々しく拳を握り悔しそうにフローリングを殴る。電話なんて嫌いだ。
「・・・それで、連絡網の内容は?」
「馬鹿!!!」
ガチャリと受話器を黒電話に叩きつけると、激昂する愛娘を背後から心配そうに見守っていた憲純がビクリと肩を震わせた。
「・・・・・・」
プルルルルルル・・・ガチャ。
「もしもし、訂正、やっぱ今のナシ」