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魔女と呼ばれる者たち

作者: 陽介

初めての作品投稿となります。よろしくお願いします。

 僕が十歳だったとき、夕飯の食卓でいつものように父親と母親が口げんかしていた。まぁいつものことである。父親の帰りが遅く、さらには食卓に並ぶはずの食べ物、狩りでの成果が出ず、今日も菜園で取れたほんの僅かな野菜と玄米だけになってしまった。

 男なのにみっともない、私とマーティスを飢え死にさせるつもりなの、村のあそこの家のご主人はもっと立派なのよ、とかそんな母親の言葉が食卓を賑やかにさせる。

 そして、父親の方といえば、そんな母親の言葉に反論することもなく、ただうんうんと頷いて聞いているだけだった。男の威厳なんてあったもんじゃない。でも、母親が言いたいことを言うだけ言ったら、最後には「ごめんなさいね、あなた。言いすぎちゃった。私」とお決まりのように言い放ち、父親も「そんなことないよ、マイハニー」なんて返し、二人して互いを抱きしめ合うのだった。

 何だ、このおしどり夫婦は。

 子ども心ながら、そのとき僕は思った。

「ご馳走様」

 僕は食卓に並べられていた自分の分を食べ終えると、終始愛の形を確かめ合っている自分の親を尻目に食器を片付ける。

 立ち上がると父親に声を掛けられた。

「おまえもいつか父さんや母さんのような立派な家庭を持つんだぞ」

 はいはい、心の中でそう呟いた。

 説得力のかけらもない。

 都市部からかけ離れた小さな農村、都市部では文明開化とともに電気やらランプが開発され、いつも人がごった返している。王族なんかは派手な衣装に身に纏い、豪華絢爛な宮殿に住み、優雅な生活を送っているという。それに対して僕達は、利権争いなど起きもしなければ、文明開化で花びらかな都市部と違い、質素な生活を送っている。生計を立てるのなんて、未だに狩猟や農業、漁業だ。明らかに時代に乗り遅れている。

 そんな生活を強いておいて、何が立派な家庭を持てだ。

「人間の価値はお金や物で決まらない。父さんは幸せだぞ。母さんのような立派な人に出会えて。いいか、父さんと母さんはな……」

「もう、それも聞き飽きたよ……」

 それはそれは大恋愛だったそうだ。もう、耳にタコができるんじゃないかってぐらい聞かされた話だった。

 父さんと母さんは駆け落ちしたそうだ。

 農村部で平民だった父さんは、王族だった母さんに一目ぼれしてしまった。それで、何度か王宮に忍び込んで事あるごとに用事をつけては、母さんの下を訪れてはアプローチしていた。初めは全く相手にしなかった母さんであるが命を賭けて、――当時今もそうであるが、王宮に忍ぶことがばれては最悪死罪になるーー、自分の元に来ては自分のために熱烈なアプローチをしていく父さんに惹かれていったそうだ。しかし、平民と王族の身分の差、さらに当時母さんは将来を約束した許婚がいたそうだ。だから、母さんは王宮を抜け出し、父さんは母さんを連れてこの偏狭な地までやってきたということだ。

 まとめるとそんな感じ。

 僕にとってはどうでもいい話だけれども、僕の親たちにとってはとても大層で、世界をひっくり返したような壮大なスケールの物語だそうだ。

「愛があれば何でもできる。愛があればどんな障害にも立ち向かっていく力となる」

 これが父親の口癖だった。

 そんな話を十歳だった僕は何にもわからなかった。

 でも、今十四歳になった僕には少しだけわかる気がする。

 父親は続けざまに言った。

「恋愛は惚れた方が負けだ。でも、裏を返せば惚れさせたら勝ちなんだ。マーティス、いつかおまえにも自分の命を投げ打ってでも守りたい女ができるはずだ。なんたって、おまえは父さんの子なんだから」

 だから、十歳の子どもにそんな話をしたって無駄なんだって。説得力というか、心に響くことはなかった。でも、今にして思えばきっと父親なりの本心だったと思う。本気の目をしていた。年老いたせいですっかり薄汚れてしまった目であったが、その目にはやけにキラキラしたものが宿っていた。

 ある偉人が言っていた。

『賢者は書物から学び、愚者は経験から学ぶ』

 まさしくその通りであると思った。

 父親の言ったことを当時、真摯に受け止めていれば十四歳になった僕は迷わずにすんだかもしれない。それでも、十歳の子どもに何をわかれっていうんだ。

 僕は愚者でかまわない。

 賢者になんかならなくてもいい。

 愚か者であるからこそ、わかることだってあるはずだ。そこらへんに転がっている石ころにだって役割があるように。

 父親の言葉は間違いではない。

 今だったら、それがわかる。

 経験してわかった。

 だから、多少ひどい目にあってもどうということはない。

 ちなみに多少ひどい目というのはこういうことだ。




「ウチ、お腹すいた。あんた、早よ、何か作ってや」

 まるで奴隷である。いや、実際にそうなんだけれども。カッコ悪い。恋愛は惚れた方が負け、全く持ってその通りである。いや、それでも仮に僕は目の前にいる女の子、――ザジという名で、ピンク髪が印象的、そのピンク髪を二つに結い上げてツインテールにしているーー、の命の恩人であるはずなのである。それなのになぜ、こんな待遇を……。どうやったら、立場が逆転したんだ。

「早よ、作らんかい!」

 ザジは僕の顔を目掛けて、テーブルに置いてあるミカンを投げつけた。……あぁ、それ大事な食糧なんだけど。

 一個、二個、三個と続けざまに投げられ、なんとか三個目までは受け止めていたけど、四個目は僕の額に命中。

「ぐはぁ!」

 僕は衝撃で思わず後ろに倒れてしまう。

 そんな僕に構うことなく、ザジはさらに五個、六個とミカンを投げつける。見事なコントロールで僕の額に二個とも命中。ぐぇっと蛙が潰れたようなうめき声を上げる。

「どや、思い知ったか!」

 ザジは面白そうにケラケラと口を空けて笑っている。

 あるものが目に付いた。

「あ……」

「なんやねん、人の顔ジロジロ見て」

「ザジ……」

「なんや?」

「……のどちんこ、見えた」

 ガスっ、鈍い音が僕の脳天に響いたのはその刹那だった。顔を真っ赤にしたザジが僕の脳天に見事なチョップを決めていた。

 痛い……。

「乙女に対して、何てこと言うんや! あんた、ホンマにデリカシーってものを知らへんな!」

 顔をトマトのように真っ赤にしたザジがさらに僕の頭を殴る。

「ウチ、お腹減ったんやから、早よ何か作ってって言うてるやろ!」

「はいはい、わかりましたよ、お姫様」

 ちょっとした皮肉とともに僕は台所へと向かう。

 その際、ザジの唇が微かに動いて、一つの言葉を紡ぐ。

「……ありがとな」

 その言葉に思わず僕は目を丸めてしまう。

「ウチ、今までこんな風に誰かとはしゃぎあったり、バカな会話をしたりして盛り上がったことないんや。こういう会話をするのがウチの憧れやった。願いやった。長年の祈りが叶った気分でウチ、とっても幸せやで」

 ザジはひまわりのようなぱっと開く花のように笑って見せた。

 つられて僕も笑う。間違いなく、僕は彼女のことが好きだった。好きにさせられた。魔女の魔法にかかって。カッコ悪いよな、本当に。

 やはり、僕は愚者のようだ。

「何を作って欲しい? リクエスト募集中だ」

「美味しい物や」

「……すごいこと言うな」

「当たり前や。不味かったら、針千本飲ますで」

「何だ、その物騒な取り決めは!」

「東にある日本という国は、約束破ったら飲ますんやって」

「無茶言うなよ……」

「早よ、せんかい! この奴隷が!」

「はぁ、ふざけんな! だれがいつ奴隷になった!」

 仮にも命の恩人であるはずだろ!

「ケツの穴、小さい奴やな……。なら、飼い犬に昇格したるわ」

「いや、何の慰めにもなってないし、大して変わってないから!」

「あぁ、確かに失礼やったな、犬に」

「…………」

 ザジは意地悪く笑った。

 どだい、この子を僕の頭で理解しようとすることが愚かなのかもしれない。

「なぁ、ザジは僕がかわいそうになってくると思わないのか?」

「全然」

 はっきりと言われた。

「ほら、早よせんかい! 何回同じこと言わすんや!」

 また、ミカンを投げられた。……だから、大事な食料ですから。

 やっぱり、恋愛は惚れた方が負けだ。




 僕の初恋の女の子はこんな子だ。

 もうちょっといい恋愛がしたかったよ。

 でも、こんなことがあっても僕はめげない。諦めない。立ち止まらない。足掻いてやる、精一杯に。

 あの子を守るために。あの子が失ったものを取り戻すために。腹が立つこともあるし、悲しいこともある。けれども、たった一つの希望に向かって足を歩めたい。

 父親の、あの言葉を思い出すのはそういうときである。




 一つ断っておく。

 これは何でもない、ごく普通の話だ。

 男の子と女の子が出会う、ただそれだけの話だ。

 付け加えることも何にもない。

 もちろん、それなりに色々なことがあったわけだが、そういうのは多分世界中で起こっている戦争やら、内紛、利権争いに比べれば大したことではないだろう。歴史上に決して名を残さない、普通の物語だ。

 もちろん、僕たちにとっては、それは特別なことだったけど。

 いや、ちょっと違うな……。

 僕たちにとっては本当に本当に特別なことであったけど。




 魔女という言葉を聞いて、思い出されるのは悪魔と契りを結び、超自然的な力で人々に災厄を振りかざす人間を意味する。そして、この時代いかに科学が進み、人々の暮らしに利便性をもたらそうとも、自然の力に人間は叶わない。

 だから、生贄が必要だった。

科学で解明されない不可思議な謎に立ち向かうための生贄。どの国でも、どの地域でも人々は恐怖から逃れるために生贄を欲した。

 その生贄として自分が選ばれたとき、あまりにも絶望的な気持ちとなった。

 町のあちこちで悪魔の子、魔女と呼ばれる者となり、指を指され、今まで仲良かった人たちですら自分を捕まえようとし、悪魔の形相で近寄ってくる。そして、聞かされる。自分を生んでくれた両親が金のために自分を売ったことを。

 悪魔宿りし心が生贄を差し出した。

 ザジも知っている。幼い頃、魔女と呼ばれた者がどのような末路を辿ったか、魔女狩りの名の下に十字架に貼り付けにされ、身体を焼かれる。そのとき、両親がなぜ自分にそんな光景を目に焼きつかせたか、今になってはわからない。呻き声が辺りに木霊し、処刑されていく魔女と呼ばれる者たち。その光景は今になっても目に焼きついてしまっている。

 そして、今自分がその末路を辿ろうとしている。


 走る。

 とにかく走る。

 一瞬の隙をついて、逃げ出すことに成功した。自分の身一つで、獣道を走る。

 でないと、追いつかれてしまうから。

「はぁ……はぁ……」

 荒い息が、これ以上走ると身体に悪影響を及ぼす、と心に警告する。だが、だからと言って止まるわけにもいかなかった。

 止まれば、確実に追いつかれる。そして、その先に待つ運命はロクでもないことだとわかっていた。

 だから走る。目的地は決まっていない。とにかく匿ってくれそうな場所ならどこでも良かった。例えそこが地獄であっても。

 しかし逃亡者のそんな精神をあざ笑い、もっと早く走れといわんばかりに、攻撃が飛んできた。

「矢を射ろ!」

「はっ!」

「きゃぁ!」

 かろうじて避けるが、その攻撃のせいでひざが笑い始め、走るのが難しくなってきた。

「嫌や! 誰か助けて!」

 怒号が後ろから聞こえる。限界を完全に超えた今、目がかすんでどこがどこだかさっぱり分からない。

「誰か、誰か……」

 そのとき、一筋の希望が見える。

 暗闇から見える一点の光。明かりがついており、中に誰かいるのは明白だった。なぜ、こんな森の中に家が建っているのか、誰が住んでいるのかそんな疑問を考える余裕もない。

 ザジは迷うことなく、ドアノブに手をやりドアを勢いよく開けた。




「助けて!」

 彼女の第一声は助けを求める声だった。

 丑三つ時、僕はちょっとばかしの夜更かしをしていた。僅かな月明かりとランプの火で書物を読み漁っていたときだった。

 突然の予期せぬ来訪者に僕は腰を抜かしてしまった。

「どちら様……?」

 タイミング的にも、空気的にも僕の一言は全くの的外れであった。

「ウチ、追われているんや! 捕まったら、殺される! やから、匿って!」

 緊迫した状況であるというのは、彼女の必死さからでも伝わってくる。見た感じは、僕と同い年ぐらいの女の子。衣服はボロボロ、素肌に布キレ一枚というあまりにも扇情的で、でも、ただからぬ何かを引っさげているということは間違いない。

「追われているって誰に……?」

「王宮の兵士たちや!」

「なんで……? 君は何をしたの?」

「何もしてへん! あえて言うなら、ウチが魔女やからや」

「魔女……」

 その言葉を聞いて、さらに一つの言葉を連想する。

「魔女狩り……」

 噂で聞いたこともあるけれど、本当に行なわれているとは思ってもいなかった。少なくとも、僕が住む辺鄙なこの村ではあくまで噂でしかなかった。

「その魔女狩りや、ウチは、ウチは……」

 必死で僕の襟元を掴んで、頭を下げる。その目には涙が溢れ、肩が震えている。正直、ごたごたに巻き込まれるのは嫌だった。相手が相手なだけに、自分の身も危険にさらしてしまう。かといって、ここで彼女を追い返してしまうほど薄情な人間になりたくはなかった。

 これもまた、何かの運命なのかなと自分に言い聞かせた。

 怯える彼女の肩に手を乗せて、何回か優しく叩いた。怯えきった彼女の表情が少し柔らかになる。

「とりあえず、二階に行こう。屋根裏がある。そこで、夜を凌ごう」

 ついてきてーー。

 彼女の手を引っ張り、二階への階段を駆け上がる。

「暗いから、気を付けて」

「うん……」

 僕と魔女と呼ばれる女の子とのファーストコンタクト。

「あの……」

「はい?」

「ありがとう……」

 ぎゅっと腕を抱き締められ、彼女の体温と熱、柔らかな胸の感触を感じる。

「お礼は何でもするさかい」

「え? マジで!」

 きっと社交辞令的でのつもりで放たれた一言であると思うものの、僕はその言葉に心が踊り、何をしてもらおうかなと不埒にもそんなことを考えてしまっていた。




 朝。

 元々夜更かししていたのと、全く予期しない来訪者のおかげで正直あまり眠ってた気がしなかった。さらにはその予期しない来訪者が自分と同年代の女の子ということで不埒なことも考えてしまい、なかなか寝付けなかった。

 そのイライラする気持ちを料理にもぶつけてしまい、朝食の味はとてもじゃないが美味しいとはいえないものとなってしまった。そのせいでますます僕の不機嫌度は上がる。

 マナー悪く、がっつくような感じで朝食を摂っていると、とんとんと誰かが二階から降りてきた。

 思わずイスから立ち上がってしまうと、声の主は「え?」と聞き覚えのない声で返された。

 その声で昨晩の出来事が決して、夢ではなくて現実であることを僕に思い出させる。イラだった気持ちをはもう消えている。

「おはよう。具合はどうだい?」

 警戒心を抱かせないようにできるだけ明るく聞くと、彼女は一瞬戸惑った顔をしたが、すぐに「お蔭様で、久しぶりにいい朝迎えたわ」と明るく答えてくれた。

 何も食べていなさそうなので、食事を勧めようと思ったが、今日の朝食の出来の悪さを思い出して、ためらってしまった。いくらなんでも不味い料理を食べさせるのは少し遠慮してしまう。

 かと言って、目の前でお腹をすかしているかもしれない人を前にして、片付けてしまうのは独り占めしているように思われてしまうだろう。

 僕は少し悩んでから、「腹、減ってない?」と食事を勧めた。彼女は僕の食事を勧めるタイミングに間があったことに少し首を傾げたように見えたが、自分の正直な腹に負けたのだろう、食べると言った。

 すぐに残っている食事を、彼女の前に置く。多少、見た目は悪いがこの際仕方ないだろう。

 フォークとスプーンを手渡すと、彼女はすぐに目の前の料理に手を伸ばした。勢いよく食べるそのさまを見て、よっぽどお腹がすいていたんだろうなと僕は思った。

「味はどう? 不味いんだったら残してもいいよ」

「んー、食べれるもんみたいやからこの際、全部食べておくわ」

「……はい?」

 全く予期しない答えが返ってきた。ここはお世辞でも美味しいとか言うものではないだろうか?

 いや、きっと聞き間違いだ。もう一回、彼女に尋ねてみよう。

「美味しい? それとも、不味い?」

「普通や」

「あ、そうっすか……」

 聞き間違いではなかった。

 ……普段はよっぽどいい物食べているのかな。

 だったら、何故こんな辺鄙なところに、逃げ込んできたんだ?

 そんな僕の疑問をよそに彼女は箸を進める。結局、彼女は僕が残した分も全部平らげてしまった。何だかんだいいながら全部食べるじゃん。イライラに任せて、朝食を作りすぎてしまった僕にとってはとても喜ばしいことだった。

 食後のお茶をすすり、僕は彼女に一番聞きたかったことを聞こうと思った。だが、その前に彼女の方から質問を投げかけられた。

「なぁ、あんた、ここで一人で住んでるん?」

「そうだよ」

「家族とか、おらへんの? 親は?」

「親ねぇ……」

 思わずイスから立ち上がって、カーテン越しから外の景色を眺める。しばらく外の景色を眺めていると、「ゴメン、聞いたらアカンことやった?」と後ろから声が聞こえる。振り向くと彼女がものすごく申し訳なさそうな顔をしていたので、「大丈夫だよ」と首を振り答えた。

「行方不明なんだ、僕の親……」

「行方不明?」

「狩りに出掛けた父さんが帰ってこなくて、母さんが探しに行った。で、そのまま母さんも帰ってこず。かれこれ、二年前の話になるかな」

 あのおしどり夫婦が、たった一人の息子を残して蒸発。

 僕ももちろん、付近を捜索したけれど何の手掛かりもつかめず。生きているのやら死んでるのやら、わからずじまい。元々駆け落ちしたんだよな、あのおしどり夫婦。

 駆け落ちの駆け落ち、全く笑えないよな、本当に。

「ウチも一緒や……」

「一緒?」

 彼女の唇が震え、次の言葉がなかなか出てこなさそうだった。「言いづらいんだったら、言わなくていいよ」と優しく声を掛けるも、ぼそりと彼女の口がわずかに動く。

「ウチ、親に売られたんや」

「売られた……?」

 僕の反復した質問に、彼女は首を縦に振った。

「売られて、魔女に仕立て上げられた」

 そこまで彼女が言うと、ついに自分の身に起きた現実に耐え切れなくなったのか、大粒の涙が彼女の頬をつたう。驚いた僕は、彼女の肩を優しく叩くしかなかった。僕のボキャブラリーではなかなか彼女を慰める言葉が出てこない。

 困っていると、逆に彼女の方から言葉を投げ掛けられる。

「ウチ、もう逃げ回るの疲れた。やから、しばらくの間ウチを匿ってくれへん? 一生のお願いや!」

 頭を下げられ、手を合わせ、必死に頼み込んでくる女の子。もう、すでに巻き込まれているとはいえ、事情が事情なだけに厄介事は面倒だ。ここで追い返すことももちろんできる。

 けれども、親の身勝手で振り回されているという境遇。

 そして、こうして必死に頼み込んでいるということは信じられるということ。「頭を上げて」と彼女に優しく声を掛けた。

「お互い、ロクでもない親を持つと苦労するよな。いいよ。何日でも……とまではいかないけれど、しばらくの間ここに寝泊りしなよ」

「おおきに!」

 僕がそう答えると、彼女は諸手を挙げて喜んだ。その晴れやかな顔を見ていると、言って良かったなと僕は思った。


 ……もっとも、これが僕の奴隷生活の始まりであるとは、このときの僕は露とも思ってはいなかった。


「そう言えば、名前を聞いていなかったよな。僕はマーティス。君は?」

「ウチはザジゆうねん」

「ザジねぇ……」

「何や?」

 思わず僕はあることを思ってしまう。そんな僕を見て、ザジは怪訝そうな顔をする。

「言いたいことあるなら、言いや」

「普通、男に付ける名前じゃないかなって思って?」

 鈍い音がしたのはこの刹那であった。ザジの見事な手刀が僕の脳天を直撃する。

「何するんだよ!」

「それはこっちのセリフや! あんた、デリカシーってもんを知らへんのか! ウチの大事な乙女心が傷ついたらどうしてくれるねん!」

「自分で乙女とか言うな! 自分のことかわいいって思ってるのか!」

「当たり前やん! むしろ、感謝して欲しいぐらいやわ! ウチみたいなかわいい女の子があんたみたいな冴えない男と一つ屋根の下で暮らしてあげるって言うんやで!」

「何なんだよ、ザジは! 僕は君の命の恩人じゃないのか!」

「ふーん、そないなこと言うんや」

 ザジは意地悪く笑った。

「こんなかわいい女の子を追い出すっていうんか? お礼やったら、いくらでもしてあげるって言うたやん」

 そう言って、ザジは胸元のシャツを少しめくりあげた。ちらりと見える胸元。

 思わず見てしまいそうになるし、見えてしまう。

 顔を赤面し、戸惑っているとザジの指が僕の額の目の前にある。

「バーカ」

 ザジは僕の額に軽くデコピンする。軽くぺちっと音がした。

「あんたみたいなお子ちゃまにはまだ早い、にゃはははははっ!」

 膨れっ面した僕を見て、ザジは大きく笑った。

 ……やばい、不覚にもかわいいと思ってしまった。

 笑っている顔も、僕をからかっている顔も。

 このとき、すでに勝敗は決した。

 ザジはびっと人差し指を僕に向けて、言い放った。

「あんたがウチの乙女心を傷つけた罰や。あんたはこれからウチの言うこと、すべてに従ってもらうで。ウチが喉が渇いたら、すぐに何か飲み物持ってくる。ウチが腹減ったら、すぐに何かを作る。ウチが何かへこんでいたら、面白いことをして笑かすんやで」

「な、何で……? そんな無茶苦茶な」

「返事は!」

「は、はい!」

 彼女の剣幕に負け、思わず首を縦に振ってしまった。

 勝ち誇った顔をするザジ。

 このようにして僕の奴隷生活は始まったのであった。




 ザジは美人である。迷うことなく、美人でかわいい部類に入る女の子である。顔立ちは整っていて、澄んだブルーのキレイな瞳は思わず吸い込まれてしまいそうになる。家にやってきたときこそ身なりはボロボロであったが、毛先を整えるとふんわり柔らかいピンク髪が二つに結い上げられて、腰まで伸びている。

 髪をくくると少し幼く見えるけど、それも彼女の魅力の一つだろう。

 スタイルもよく、出ているところはしっかり出ていて、すらりとした細い生足にも思わず目が行ってしまいそうになる。

 けれども!

 けれどもだ!

 天は二物を与えないという言葉どおり、外見とは裏腹にザジはすごく性格が悪い。初日のしおらしさはどこに行ったのか、今のザジときたら我が物顔で僕の家を占有している。

 ……一国のお姫様にでもなったつもりか。

 人生、諦めが肝心というけれど、僕はまだ諦めてはいない。


 月明かりだけが夜道を歩く僕を淡く照らし出している。

 すでに季節は冬、雪こそまだ降っていないけれども僕の口から吐く息が白い煙のように舞い上がり、すぐに消え去った。

 乾燥した空気が僕の体から水分を奪い去り、指先の感覚を失くしていく。ふっと自分の指先を見ると、ひどい赤切れを起こしていた。

「寒い……」

 氷のような冷たい風が、僕の体を突き抜ける。

 凍える体に鞭を打って、一歩一歩足を進める。あともう少し、もう少しと。

 ようやくのことで自分の家へとたどり着き、ドアを開けると辛口一番ザジの一言が僕の耳に突き刺さる。

「遅いやないか」

 お疲れ様とか、ありがとう、などの労いや感謝の言葉もなく、ザジは僕に言い放った。

 そんなザジは暖炉の前に座り、――もちろん、暖炉に薪をくべて、火を起こしたのは僕だ――、暖かいココアをすすりながら、暖かそうな格好で今か今かと僕の帰りを待っていた。

 いい御身分だよな、本当に!

「早よ、出してや」

 別に期待はしてなかったけど、一言ぐらい何か欲しいよなっと思ったけど、言葉に出すとさらにややこしいことになるので却下。

 僕は袋からごそごそとザジから頼まれた本を取り出した。

 ザジに手渡す。

 数時間前。

「ウチ、こんな狭い家の中で外に出られず暇や。あんた、すぐ近くにある町の図書館で『アーティファクト』シリーズの本、全巻借りてきて!」

「はぁ? 狭い家で悪かったな!」

「ホンマのこと、言うただけやん! そないなことでイチイチ突っ込まんといてくれる? ウチの命令には絶対服従って言うたやん!」

「ふざけるな! そんな口約束、反故してやる」

「そないなこと言うんや。なら、自分で行けって言うんか?」

「当たり前だ!」

 そう言うとザジは、急に目頭をおさえて蹲ってしまう。

「ウチ、追われてる身やん。もし、外に出て見つかったりしたら……」

「…………」

 その先はザジの嗚咽で、遮られた。 

 いや、どう見たって嘘泣きじゃないか。でも、女の涙に男は勝てない。

 男は辛いよ。

 大きなため息を一つついて。

「行きます……」

「え、もう一回言うて?」

「行けばいいんだろ!」

「その通りや! なら、善は急げ! 早よ、行ってこーい」

 さっきの涙はどこへやら、ザジは晴れ晴れした顔で僕を送り届けた。

 で、現在に至る。

「これで満足か!」

 誇らしげに僕は言った。とは言うものの、肝心のザジは眉間にしわを寄せて、怪訝そうな顔をしている。

 ……嫌な予感がする。

「このアホンダラ!」

 ザジは手渡した本を僕に投げつけた。本の角が見事に僕の眉間にクリーンヒットして、痛い。あやうく目に当たるところだった。

「何すんだよ! 失明したらどうするんだよ!」

「失敗するからや!」

「何だ、その等価交換は! っていうか、何を失敗したんだ、僕は?」

「あんたは買い物もできへんのか?」

「は? 言われたもの借りてきただろうが!」

 そう言うとザジは手の平を僕に見せてきた。そして、「五巻や」と言ってのけた。

「そう、五巻。ウチは全シリーズ借りてきてって言うたんやで。四巻までしかないやん!」

「いや、それは多分五巻は他の人に借りられてなくて……」

「なら、他の図書館行くとか、本屋に買いに行くとか頭回らへんかったん?」

「え……、そこまでやらなきゃいけないの……?」

「当たり前やん! こんなかわいい女の子の頼みを無下にするなんて、あんたホンマ甲斐性ない男やな」

 ザジが呆れ顔でため息を一つした。

「というわけで、今から探しに行くんや!」

「はい?」

 今からって、もう完全に日は落ちきっているし、外は寒いし、もしかしたら雪が降るかもしれないですよ。

「せめて、明日じゃあかんの……?」

「早よ、行く」

「いや、でも……」

「行く」

「…………」

「早よ、行かんかい!」

「……わかりました」

 何も言い返せない自分が、とても悲しかった。

 結局。

 寒空の中、放り出された僕は再び町へと繰り出し、本屋でザジが言っていた本を探し出し、晴れやかな気分で帰路につくことができた。……ちなみに本代は僕のお金、ただでさえ貧乏なのに。この世には神も仏もいないのか!

 家に着くと、明かりはついておらず、しんと寝静まっていた。帰りを待たずして寝やがったな。

 ちなみにザジは屋根裏で寝ているものの、僕が使っている毛布やらを全部ひったくって、布団を敷いている。おかげで僕はこの冬を毛布一枚で過ごしている。さらには、ご丁寧に『進入禁止! 覗いても殺す!』という張り紙がなされている。身持ち堅すぎ……。

 それにしても。

「腹減ったなぁ」

 夕飯まだだったんだよな。本当にお腹すいたし、でも、これから何かを作る気にもなれなかった。

 諦めて、僕も二階の寝室に行こうと思った矢先、テーブルにこじんまりとオニギリが置いてあるのが目に付いた。

 形はいびつで、だからこそ、誰かが作ってくれたのは明白だった。

 嬉しさのあまり、そのオニギリに飛びつく。マナー悪く、がっつくように食べる。冷えていて、すこしお米がシャリシャリしているけどそんなこと関係ない。

 手についた米粒も舐めるように食べていると、

「なんや、あんた。犬みたいやなぁ」

 二階からザジが降りてきた。

「よしよし、たくさん食べるんやで」

 ケラケラと僕をからかうザジ。

「この際、犬でも何でもいい。ザジって料理出来たんだ。料理って程でもないけど」

「あぁん? そないなこと言うたら、もう食べさしてあげない」

 そう言って、ザジはおにぎりが載っている皿を取り上げた。

「あ、待って! まだ食べ足りない!」

「お手」

「え?」

「お手や、お手。あんたは犬や。早よ、せんかい」

「…………」

 ザジはものすごく楽しそうにしている。いや、さすがにそれは……。

「なら、ウチが食べてしまおうかな」

「あぁ、待った! するから、するから!」

 食べ物の恨みは怖いという言葉があるように、人の空腹時の食べ物への執着心も凄い。食べ物の前ではプライドのヘタックレもない。

 本当に犬がお手をするように、ザジの手の平に自分の手を重ね合わせた。さすがのザジも本当にするとは思わなかったようで、目を丸くしてしまっている。

「バーカ、何本気にしとんの? 食い意地張っとるなぁ。たくさん食べや。ウチの愛情がたっぷりこもっとるさかい」

 垣間見たザジの優しさにほんのり目頭を熱くさせてしまった自分がいることに気付くのに時間は掛からなかった。

 ん? 

 愛情?

 言葉の綾だよな、もちろん。


 


 明くる日の夜、僕はザジのために借りてきた『アーティファクト』シリーズ第一巻を手に取っていた。難しい言語もあるが、それを一つひとつ解読しながら読み進めている。

 ……ザジはやはりいいところの出身のようで、すらすらと読み進めていた。頭の出来が違うみたい。『にゃははははっ! あんた、こんな簡単な字も読めへんの~?』としっかりからかわれたことを記しておく。

「なぁ?」

 本を読んでいると、頭上から声を掛けられる。

 耳に入っていたものの、僕の視線と思考は本に向けられていたのでその体勢のまま応答する。

「……何?」

「ウチ、お風呂入ってくる」

「入ればいいじゃん……」

 僕はそっけなく答えた。ちなみにお風呂も、一番風呂は譲らないと言い張った。僕が最初に入ろうとすると、容赦なく罵声と暴言を浴びせられる。どんどん僕の生活圏が脅かされていく。

 僕の家なのに。

「いつものようにしっかり見張とってや。でも、やからといって覗いたらわかっとるよな?」

「わかってるよ、ザジの怖さはしっかり身に付いてるから」

 大きなため息を一つつく。

 その僕の一瞬の気の緩みを逃さなかったように、ザジは僕が読んでいた本を取り上げた。「あっ」と声を漏らしたときには、すでに本がぱらぱらとめくられ、閉じてしまった。

 印しつけてなかったから、どこまで読んだかわからなくなったじゃないか!

「にゃははははっ! これであんたは一から読み直し、ざまぁみろや!」

「僕が何をした!」

「ご主人様と話すとき、ちゃんと目を見て話さないからや!」

「いや、僕はザジを主人と認めてないし、第一、僕たちに上下関係なんてないから!」

「そやな、お互いに相手の弱みに付け込んで、利害を得ようとする間柄やからな」

「……言葉にするな。普通に友達関係でいいだろ」

 すごいギスギスしてそう。

「冗談が通じないやっちゃなぁ。会話のキャッチボールもまともにできなくて、生きてて楽しい?」

「余計なお世話だ」

「頭がバカでも、楽しいんか?」

「バカも余計だ」

「バカで、腕っぷし弱そうで、甲斐性なくて、頼りなくて、冴えない男のあんたでも生きてて楽しいんか?」

「早く風呂入ってこい!」 

 最後はザジの背中を押して、脱衣所へ無理やり連れて行った。ザジもここらへんで満足したらしく、珍しく僕の言うことに従ってくれる。

「いや~、あんたはウチの予想通りの受け答えしてくれるから、いじめとって楽しいわ」

「わかったから、風呂入れ」

「好きな人をいじめる小さい男の子の気持ちがよくわかるわ」

「いや、弱いものを甚振りたいっていう大きな大人の気持ちだと思うよ……」

 脱衣所の扉を閉めて、ようやくとのことでまた一つため息をつく。

 ん? 

 ザジに好きな人って言われた?

 違うな、言葉の綾だよな。

 どう見ても、かわいい犬や猫のペットをあやしているようにしか見えないし。

 変な期待をするのはやめよう。

 ザジとのしょうもない問答を終え、僕は読書を再開する。

 『アーティファクト』シリーズ。

 少しずつ読み進めていくと、有名な童話、ロミオとジュリエットのような大層な恋愛小説であることに気付く。一巻の内容は、一国のお姫様であるヒロインに、平凡な農民である主人公が一目ぼれするところから始まった。主人公は事あるごとにお姫様にあの手この手を使ってアプローチしていく。最初こそ、そのアプローチを全くの無碍にしていたお姫様であったが、あるとき自分の誕生日に王宮を一緒に抜け出し、幼い頃の思い出の場所に連れ添ってくれた主人公に少しずつ惹かれていくところで終わっていた。

 読み終えて、ふと自分の父と母を思い出し微笑してしまう。駆け落ちしたことを、さも武勇伝のように語る親たち。この小説の主人公たちも僕の親のように駆け落ちするのだろうか。それとも、全く予想だにしない結末が待っているのだろうか。

 何にしろ、あまり小説を読まない僕でも少し興味をそそられる。

 二巻を読み始めた矢先、脱衣所の扉が開く音がする。

「出たで」

「ん、わかった。すぐ入る」

 今度はページが閉じられても大丈夫なように、しっかりと印しをつけておいた。

 そして、章が終わるきりのいいところまで読んでおこうと思い、しばらくの間本に目を通す。

「なぁ」

「何だ?」

 またしても声を掛けられる。

 視線と意識は変わらず本に向けている。

「こっち見てや」

「何で?」

「ええから」

 仕方なく顔を声のする方へ向けると、そこにはもちろんザジがいた。

……素っ裸で。

「どひゃぁぁぁぁぁ!!!!!!!」

 僕は思わずイスから盛大に転げ落ちた。頭からまっ逆さまに。

 頭がズキズキと痛むけど、今はそんなこと関係ない。今、目に入ってくる景色が強烈過ぎて、頭の中がぐるぐると渦を巻いている。

「ふ、ふ、服! 服はどうした!」

「今から着るに決まってるやん!」

「どうして着てない? 着てから出ろよ!」

「持ってくんの忘れたんや!」

「だったら、僕に取りに行かせるとか方法あっただろう! 何が目的だ! 散々覗くなって言っておきながら!」

「目的なら、コレや。……どや?」

「いや、見えない……。というか、直視できない!」

 僕は目を反射的に押さえてしまっている。

 人生初、女性の裸を見てしまった。幻想を抱いていたわけじゃないけれど、こんなあっぴろげなものじゃなかったはずだ。

 僕の初めて奪われたぁ!

「何、女みたいなこと言うてるねん。ウチやって恥ずかしくなってきたんやから、早よ見てや!」

「何を……?」

 恐る恐る目を開ける。素っ裸のザジが少し恥らいながら、両腕で大事なところだけを隠している。でも、それ以外は丸見えだ!

「だから、何が目的なんだ!」

「感想は……?」

「はい?」

「ウチのありのままを見た感想や!」

「か、感想って……?」

 そりゃぁいい身体してると思うよ。見せびらかすだけあって、随所は丸みを帯びていて、足だって細長くてキレイだし、何より気の強そうなザジが恥らっている姿とか、めちゃくちゃそそられる。

 でも、何て答えればいいんだ!

「む、胸が大きいですね……」

「最低や……。あんた、女を見る目どれだけないねん!」

「どう答えれば、いいんだ!」 

「ウチが描いた理想の男やったら、『キレイだね』とか『かわいいね』って言うのが普通なんやで! それをのっけから胸がどうとか……、女はおっぱいの大きさやないんやで!」

「わかってるよ、それぐらい! 唐突にそんなこと聞いてくるザジがおかしいんだ!」

「ふん!」

 バタンっと脱衣所のドアが勢いよく閉まり、ザジは中に入っていく。

 僕はへなへなと座り込んだ。腰を抜かした。もう足腰が立たない。力が抜ける。

 しばらくそのままでいると、脱衣所からザジが出てきた。

 ……今度はしっかり服を着ていた。

 あれ?

 持ってくるの忘れたんじゃなかったっけ?

「童貞……」

 ザジは僕に人差し指をびっと向けた。

「はい?」

「あんたは一生童貞や!」

「何をいきなり! ……って童貞って何?」

「その時点であんたはもう一生童貞決定や! ウチが保障したる! このチンチクリン!」

「よくわからないが、ザジが僕をバカにしているのはよくわかった!」

 その僕の言葉を聞いて、ザジは「やれやれ」とばかりに首を振る。「あとで辞書で調べてみぃや」と優しくアドバイスをしてくれた。

「今までのお礼のつもりで、ウチが人肌脱いであんたを男にしたろうと思ったのに。それを無下にするやなんて!」

「僕はそんなお礼求めていない! 大体、それは本当に好きな男に対してやるものであって、子どもの僕でもそれはわかる。ザジはそんなに自分のこと軽く見ている女の子なの?」

「そ、それはそうやけど……」

 珍しくザジが口ごもった。強気なザジにしてはまず見られない姿だ。そして、ぼそりと一言、二言呟いている。

「別れは突然に……」

「え?」

「よく考えてみぃや。ウチらがこうやってバカ騒ぎ出来るのは、本当に奇跡のようなもんや。奇跡のような確率でウチらは出会って、今こうしているんやで。でも、ウチは追われている身。いつ、ウチらが引き裂かれる運命であってもおかしくあらへん。明日かもしれへんし、いや、もうあとこの一分、一秒後かもしれへんのやで」

「ザジ……」

 急にザジの姿が遠くなる。もちろん、実際に僕たちが遠ざかっているわけではなくて、この当たり前が当たり前でなくなってしまうかもしれない現実を思い浮かべてしまった。

 会いたい時に会える、話したいときに話せる、そんなのは実は当たり前じゃなくて、奇跡の連続で起きていること。

 そして、唐突に思い出すあの言葉。

 『賢者は書物から学び、愚者は経験から学ぶ』

 失ってみて初めて気付くものがある。でも、それではダメなんだ。

 無くなっても困らないっていうけれど、困ってからじゃ遅いんだよ。

「やから、お礼はできるときにしたかったんや。あんたとこうやってバカ騒ぎできる一分一秒を大事にしたい。それにな……」

 僕の肩にザジの手が置かれる。

「ウチは誰にでも肌を見せるような軽い女やないで」

 そして、ザジは満面の笑みで言い放った。とても、誇らしげに凛と咲いている向日葵のように。


――ウチ、魔女やさかいな。


「ほな、おやすみ」

 ザジはそのまま階段を上り、自分の寝床へと足を進める。

 一人残された僕。

 ここにいていいよ、と言ったのは自分だ。だから、ザジがいなくなることを考えられなかった。考えたくなかった。

 でも。

 こうしてわかりきっていたことを言葉にされてしまうと、急にザジがいなくなってしまうことを強く感じてしまう。

 そして、気付く。いや、とっくに気付いていた。目を背けていた。

 らしくない言葉がたくさん浮かぶ。

 できればずっと横にいて欲しくて。

 どこにも行って欲しくなくて。

 僕のことだけをずっと考えていて欲しい。

 でも、その一つ一つを言葉にして伝えたら、長くなるし、格好悪いし、だからまとめよう。


 僕はザジが好きだ。

 

「ザジ……」

 気付けば僕はその場に座り込んでしまった。

「僕が大事にしているものはみんないなくなってしまうんじゃないか……」

 行方不明になった両親、少しの間とはいえ、その境遇に同情してくれた人々、その中にザジも加わってしまう。

 目頭が熱くなって、目の中に涙が溜まる。そして、溢れ出た涙は頬をつたい、床に落ち、消えていく。

「父さんも、母さんもいなくなって、そして、ザジまでいなくなってしまう……。そんなの嫌だ、僕は一人でいたくない。ザジ、もうどこにも行かないで……」

 溢れる涙が止まらない。水滴となって落ちる涙が、まるで自分の下から去っていく人々のようにも思えて、ただひたすら僕は女々しく泣き続けた。

  



 季節は冬であったが、この日は一段と太陽が眩しかった。

 暖かい陽気がザジの身体を包み込み、今の季節が冬であることを忘れさせる。

 外へ出ようと思った。

 この家へと逃げ込んで、約一ヶ月。ロクに外へと出歩いていない。少しばかりは太陽の光を身体に浴びさせないと身体に毒。

 ドアノブに手を掛けようとすると、

「ザジ」

 呼び止められて、服の袖を掴まれる。

「どこへ行くの……?」

 声の主は、自分をこの家に匿ってくれた少年。その少年が心配そうな顔で自分を見つめている。

「ちょっと外の空気を吸ってくるだけや。何そんな不安そうな顔しとんねん」

「ダメ……。行かさない……。見つかったら、どうするの?」

 さらに少年はぎゅっとザジの服の袖を掴む。

「すぐに戻るから離してや」

「絶対にダメ、ザジは僕が守る」

 背中越しに両腕ごと抱き締められる。ちょっと前なら、罵声を浴びさせていたが、何となくこうやって抱き締められるのが心地よいとザジは感じ始めていた。

 強気な自分も、情けない自分も見せている。見せれるからこそ、少しずつ心を寄せ合える。

 とはいえ。

 自分はこの少年の所有物ではないし、少年も自分の所有物ではない。それに、この先二人に待っている未来はどんなことがあっても良くはならない。自分が魔女と呼ばれる者である以上、ロクでもない運命が待っているのは確かだ。

 もうこれ以上、誤魔化し続けるのは限界だ。

 別れの挨拶は済んでいる。お礼もした。二人にとって、少しでも良い別れになるようにしたい。

 だから、ちょっとだけ準備をさせてほしい。

「おおきにな。でも、本当にすぐ戻るさかい。心配しすぎや」

「でも……」

「しつこい!」

 肘で少年の鳩尾付近を殴りつける。ぐぼっと良い音がし、少年が蹲る。その隙にザジは、ドアを開け走り去った。

 そのまま家が見えなくなるまで走り、立ち止まる。後ろを振り返り、少年が追ってこないことを確認すると、ザジはおもむろに一冊の本を取り出した。

 『アーティファクト』シリーズ、最終巻。

 あるページを開き、ザジはそのページのある言葉に目をやった。



 

「魔女を差し出せ!」

「ここに魔女がいることはわかっている!」

「魔女はどこだ!」

 僕は人生最大の絶望を味わっている。

 ザジが飛び出した後、僕も後を追いかけようと外に飛び出したところを、王宮の兵士たちに取り囲まれ捕まった。後ろに銃を突きつけられ、身動きが取れない。

 最も恐れていた、戦慄の瞬間が突然訪れてしまった。

 ついに見つかってしまった。

「もう一度問おう。魔女はどこだ!」

「言わない」

 そう答えると刹那、銃声が鳴り響き、右足に激痛が走る。

「いってぇぇぇぇぇぇ!」

 血が溢れ、足の力が抜け、地面に倒れてしまった。

 身を焼かれるように痛い。

 傷口がとんでもなく熱い。

 血が溢れる右足を両手で押さえるも、溢れる血の量が多く、両手までも赤く染まってしまう。

「早く言った方が身のためだぞ」

 痛みで目が霞む。

 本当に本当に幸いだったのが、今この場にザジがいないこと。力づくで止めなくて、本当に良かった。すでに兵士たちの何人かが、僕の家を散策しているみたいだけど、見つかるわけがない。

 今の内に逃げてくれ、ザジ。

 ここは僕が足止めしておくから。お願い。一生のお願い。

 僕は本当にどうなってもいい。だから……。

 このとき、僕は父親が言っていた言葉を思い出した。自分の命に代えても守りたい人がいる。

 父さんも今の僕と同じ気持ちだったのかな。思わず微笑してしまう。

 僕の微笑に気付いたのか、兵士は訳がわからないといった感じで首を傾げた。

「何故、魔女を庇う。空気を読め。群集はみな、魔女という生贄を欲しておるのだぞ」

「だったら、僕は逆に問いたい。いたいけな女の子をいじめて、挙句の果てには殺して、楽しいのか? それで何が救われる? 一人の女の子を殺すことが空気を読むということなら、僕は一生空気なんて読めなくても構わない!」

 痛みで薄れつつある意識の中、僕ははっきりと宣言した。

 くだらない、と兵士は一喝し、銃口を僕の目の前に持ってきた。

「もう良い、くだらない問答はしまいだ。貴様も魔女とともに地獄へ送ってやる。向こうで仲良く暮らすんだな」

 引き金が指に掛けられる。その刹那、僕は固く目を閉じた。


「待って!」


 声がする方を見ると、そこにはザジがいた。息も絶え絶えで、慌てて駆けつけたのが明白だった。

 兵士は僕に向けていた銃口を今度はザジへと向ける。

「ウチはここにおる。魔女と呼ばれるウチはここにおる。やから、その人は見逃して」

「ザジ……」

 守りたい人に守られる。そんな屈辱と無力感、後悔。

 出会いは突然に。そして、別れも突然に。

 視界が赤く染まっていく中、ザジは倒れている僕の前まで足を進め、しゃがんだ。

 僕の瞳にザジの顔が映る。とても、悲しい顔をしていた。

 ザジの瞳には、後悔ではなく、悲しみではなく、多分それは哀れみが映し出されていた。

 僕に対して。

「ウチがあんたに対して、最後に言いたいことはこの本を読めばわかるで」

 『アーティファクト』シリーズ、最終巻。

 この本をザジは僕の目の前に差し出した。ごとりと無機質な音がした。

「ほな」

 踵を返し、ザジは僕に背を向ける。

 兵士に連行され、一歩一歩足を進めていく。僕の視界からザジの姿が消えていく。

「待って……!」

 ザジを追いかけようとするも、足に力が入らないので立ち上がることすらできない。

 消えていくザジの姿。

 これが別れ。突然の別れ。

 フラッシュバックする僕の心にあるザジの姿。

 笑っている顔、泣いている顔、怒っている顔、一つ一つが思い出となり、僕の視界からザジが遠くなるたびに、消えていくような気がする。

 嫌だ、こんな別れは。

「ザジぃぃぃぃぃ!」

 あらん限りの声で、僕は叫んだ。

 でも、ザジは意に返さず振り返ることもなく、足を止めることもしなかった。

 ただ僕の泣き叫ぶ声が木霊するだけだった。

 僕はザジが視界から消える前よりも、痛みで気を失ってしまった。




 気付いたときには、すでに夜になっていた。

 半分の月が夜空に輝いており、その光が淡く僕を照らし出していた。

 荒らされた家の中へと足を引きずりながら、なんとか戻り、自分で応急手当をしていく。

 血は止まっているようだが、この傷ではしばらくお風呂に入れなくなりそうだ。

 お風呂といえば。

 実は僕とザジは一度だけ、共に夜を過ごしたことがある。

 ザジがお風呂に入っているときに、僕が間違えて入ってしまったことがある。よく小説やらで見かける男女ハプニングだが、今思えばわざとだったに違いない。だって、わざわざ風呂の電気を消して、僕を待ち構えていたのだから。

 間違えたときはしまったと思ったが、ザジの答えは予想外にも「いいよ」との返事だった。

 「一緒に入ろう」と。

 逆に僕が戸惑っていると、「女に恥かかせるんやない!」って桶を投げつけられたんだっけ。

 懐かしい思い出だ。

 そのまま、僕たちは共に夜を過ごした。

 両親からの愛情を失った者同士、互いに互いの愛情を分け合った。

 失ったものを確かめるために、失ったものを取り戻すために。

 お互い初めてで、全く知識も無かった僕たちであるけれど、思いのほか上手くいった。

――愛があれば、何だってできる。

 ここでもまた、父親の言葉が僕の頭をよぎった。

「ザジ……」

 もう思い出となってしまうのか。そして、その思い出は時間と共に僕の記憶と心から消えていく。

 結局。

 ザジもまた、僕の前から姿を消してしまった。

 自分の命に代えても、守るって決めたはずなのに。それどころか、あまつさえそのザジに自分の命を守られるという結末。

 溢れる涙。

 止まらない涙。

 さらに気付く。涙で歪んだ視界に一冊の本が目に映る。

 去り際に自分に託した本。

 ザジのメッセージ。

 手に取り、ページを開いた。




 『アーティファクト』シリーズ、最終巻。

 主人公のアプローチの甲斐があってか、ついに主人公とヒロインは両思いとなる。しかし、身分の差から決して結婚を認めないヒロインの両親、結婚するなら家を出て行けと激怒する両親。何とか結婚を認めてもらいたい二人は、何度も何度も頭を下げにいくも取り合ってすらもらえず。さらに主人公の元にヒロインの妹が訪れ、姉はゆくゆく妃となってこの国をしょってたつ人間。姉の本当の幸せを考えるなら、別れて欲しいと頭を下げにくる。

 それを受けて、ヒロインをこれ以上苦しませたくない主人公は、ヒロインに自分から別れを告げてしまう。


――私はあなたのことが嫌いです。


 これまでにもない呪いの言葉だった。

 この一言だけですべてが決まったのだった。

 主人公はもう二度と私の前に姿を現さないで欲しいと告げ、去っていく。絶望したヒロインは思い悩んだ末、湖に身を投じようとする。

 同じように呪いの言葉を残して。


――あなたはいつか私を忘れて、新しい恋に身を投じるのでしょう。

――なら、あなたが私を絶対に忘れらない呪いの言葉を残します。

――私を呪って、一生私を想い続けなさい。


『選んで欲しかった』



 まだ、ページの途中であったけれど、僕はここで読むのをやめてしまった。

 溢れる涙が止まらない。呼吸するように涙が溢れて、どうしようもなくなって、胸の奥の奥が苦しくなる。

 ザジの真意がわかったからだ。ザジが去り際に言いたかった僕に対してのメッセージ。

 ヒロインの呪いの言葉すべてに線が引いてあって、その線の最後には「ゴメンな」と小さく書かれていた。

「ザジ……、ザジ……」

 窓から見上げる景色をただぼんやりと眺めていた。

 半分の月が浮かんでいた。

 その光が僕を淡く照らし出していた。

 ザジは最初からすべてをわかっていた。出会った瞬間から、こんな別れになることも。

 僕がずっと自分を想い続けると。

 そのための贖罪、こんなに重い「ゴメン」の一言は初めてだ。

 ザジがどんな気持ちでこの一言を残したのか、このページに線を綴るザジの気持ちを考えると胸が詰まる。

 僕はなんて愚かなのだろう。

 大好きな女の子にここまで言わせるなんて。


――『魔女である前に、恋する一人の女の子としてありたい』

――だから、『ゴメンな』


 ザジの声が聞こえる。

 あなたが私を嫌いになる言葉ならいくらでも思い付きました。

 でも、それを言葉にすることはできませんでした。

 なぜなら、あなたが大好きだから。

 どんなになっても、あなたを好きでいたいから。

 突然別れが来ることがわかってても、その瞬間まで恋する一人の女の子でありたいから。

 最後の我がままです。

 あなたが私を忘れることができなくて苦しい思いをし続けることになっても、あなたは私を想い続けてください。

 一途に想われるなんて、女冥利に尽きるというものです。




 時が経つのも忘れて、僕はただ泣き続けていた。

 あの温もりにもう一度触れたい。

 ザジの笑顔をもう一度見たい。

 何が何でも守りたい。


 この想いに応えてくれたのか、一つ目の奇跡が起こった。


――『諦めない!』


 窓から通り抜けた一陣の風が、本のページを一枚めくった。

 そのページに書かれていたこの一言が目に入った。

 物語はバッドエンドではなかったのか。手に取り、ページを読み進める。

 ヒロインが湖に身を投げる直前、主人公が後ろから抱き締める。そして、プロポーズ。結婚指輪をヒロインの左手薬指にはめる。

 諦めない、諦めきれない。たとえ、どんなになっても私はやはりあなたの側にいたい。どんな障害が立ち塞がろうとも、それを糧とし跳ね除けて、あなたと結ばれたい。あなたでなければ、私はダメだ。


――戦って、戦って、戦い抜いて、抗い続けること、その諦めない心こそが最大の武器になるのだから!

 

 その信念に基づいて、主人公はあらゆる困難に再び立ち向かう。そして、その主人公の信念に共感し、ついにはヒロインの両親も二人の結婚を認め、めでたくハッピーエンドとなるところで物語は終わる。

「何だよ、これ……。こんなに上手くいくことあるのかよ」

 本当に小説の中の話だ。

 たとえどんなにガンバっても、信じても、ダメなことはダメ。上手くいかないことが多い。それなのに、僕は何て情けないんだろう。

 こみ上げるのは無力感でもなく、怒りだった。自分自身に対しての。

「まだ僕は何もしていない」

 信じてもいないし、ガンバってもいない。ただ泣いていただけだ。何もしないで。

 ザジはこの小説が最後にハッピーエンドになることを知っていたのか?

 それを知って、僕の背中を押すために残したのか?

 謝るだけではなく、このために。

 真意はわからない。けれど、この言葉のおかげで自分の気持ちは前を向くことができる。

 それだけは確かだった。

「足掻いてやる、精一杯に」

 どんなにカッコ悪くても、形が悪くても、惨めでも、情けなくても、頼りなくても、守りたい人がいる。救いたい人がいる。世界で一番大切な人がいる。たとえ、世界をひっくり返しても成し遂げたいことがある。

「ザジ……」

 今だったらわかる。父親の言葉が。鮮明に思い出す。

 僕もあなたたちのように上手くいく保証はないし、むしろ失敗するリスクの方が遥かに高い。

 それでも。

「絶対に諦めない、最後の瞬間まで」

 右手に勇気を、左手に信念を。

 僕は家を飛び出し、ザジが捕まっているであろう町へ繰り出した。




 厚く張った雲が、時間と共に少量の雨を降らせる。そんな天気の中でもザジの魔女裁判は滞りなく進んでいた。

 もし、大雨になってくれればというザジの淡い期待も虚しく、雨は今にも止んでしまいそうな気配を見せる。

 ……もっとも、たとえこの日が雨だったとしても、判決は変わらない。

 十字架に貼り付けにされ、身を焼かれる。幼い頃に見た想像を絶する魔女と呼ばれる者の最期。

 そして、自分が今その最も戦慄する場面に立ち合っている。

 呼吸が荒くなる。胸が苦しい。お腹が痛い。

「くっ……」

 苦痛から逃れようと、身体をよじるも両腕と両足を拘束されている今ではそれすらも敵わない。

 ふと目を下にやると大量の木々が自分を貼り付けにしている十字架の下に置かれている。それに今から火を付けられ、自分は。

「嫌や! お願い、助けて!」

 ザジは必死で群集に助けを求めるも、誰一人として相手にしない。そして、ザジは気付いていないが、その群衆の中にはザジを魔女に仕立て上げた張本人、彼女の両親がいるが彼らもまた意に介さず、彼女の処刑を今か今かと待ち望んでいた。

 深い絶望と闇。

 それを作り上げたのは他ならぬ人間である。

「罪状!」

 裁判官が大きく手を挙げ、ザジに下された判決文を読み上げる。

「この者は悪魔と契約を交わし、洪水、日照り、地震などの自然災害を引き起こし、我々に災厄をもたらす魔女である! よって、ここに火炙りの刑に処することを明言する!」

 全くと言っていいほど、いわれのない罪。

 それでもこの時代の人々にとってはそれが当たり前であった。

 自分の罪状を聞き、ザジは最後の覚悟を決めた。

 唯一の心残りは、この処刑台に来るまでの一ヶ月間、自分を匿ってくれた少年への贖罪。

 自分の残したあの一言だけで、彼をどれだけ救うことができるのか、全くの救いにもなってはいないかもしれない。

 もしかしたら、自分とあの少年は出会うべきではなかったかもしれない。

 会わなければ良かった。

 そうすれば、叶わない恋をして悲しい思いをすることもなかったのだ、お互いに。

 でも。

「そんなんやない……」

 いよいよザジを処刑しようと、兵士が火をつけようとしたその瞬間。


「決して無駄やなかった! あんたがウチにくれたもの! あんたと出会えたこと! それを想うだけでウチは戦える! たとえ、その戦いが決して勝ち目の無い戦いやったとしても、この想いだけは絶対に壊せへん!」


 そして、ザジは笑って見せた。

 最後は笑って人間らしく死ぬ、最後の最後にザジがこの世に神がいるならと願ったことだった。

「にゃははははは!」

 その場にいた誰もがしんと静まり返った。誰一人として、ザジの宣言に首を傾げるばかりであった。

 いや、違う。

 一人だけいた。

 ザジの宣言に涙を流し、彼女の無事を祈り、助け出すことを信念とした少年が。

 手負いの足から血がとどめなく、流れる。

 人ごみを掻き分け、痛む足に鞭を打って走った。

 でないと、間に合わないから。

「痛い!」

 人のつま先を自分のつま先に掛けてしまい、派手に転んだ。手の皮がひどく擦り剥ける。

 でも、彼はそんなこと気にやまず、再び足をザジのいる処刑台へと進めた。一分一秒でも早く、彼女の元に駆けつけるために。

 行ったところで自分に何もできはしない。

 追い返されて、それで終わり。

 それがどうした。

 好きな人を守るのに理由なんていらない。

 守ろうとする気持ちに理由なんていらない。

 人が人を好きであることに理由なんていらない。

 らしくない言葉がたくさん浮かんで、当たり前の気持ちを言葉にする。

「僕はザジが好きだ! だから、命に代えても絶対に守ってみせる!」

 だから。

 これから彼らに起こることは奇跡という言葉だけでは片付けられない。

 実際にもし、少年が一秒でもザジがいる処刑台に近づいていなければ、間に合わなかっただろう。

 ザジが覚悟を決め、自分の想いを群集に訴えなければ、すでにザジは業火に包まれていただろう。


 眩しい光が処刑台のすぐ横にある大木を包んだかと思うと、その大木はぷすぷすと煙を出し始めた。

 雷が落ちたのだ。

 そして、一陣の風が吹く。その風が大木に宿った火の粉を大きくし、業火となった。


 一瞬の出来事だった。

 その業火に驚き、群衆はもちろん、裁判官や兵士たちもその場から逃げ出した。

 貼り付けにされているザジを除いて。

「熱い!」

 ザジのすぐ横で轟々と唸り声をあげるかのように燃え続ける大木。

 幸いにも風はザジを守るかのように、業火をザジから退けている。それでも、もし風が止めばそのまま業火はザジをも包んでしまう。それに業火に包まれた大木は、今にも幹が折れそうだった。

「ああっ! 熱い! 熱い!」

 たとえ業火に焼かれなくても、その熱風がザジに激しい痛みをもたらす。

 熱風から逃れようにも、身体を拘束されているのだ。敵うはずもない。

 熱すぎる世界の中、ザジは一人の少年の名前を叫ぶ。

「マーティス! 助けて!」

「もちろん!」

 辿りついたときには、本当にギリギリだった。マーティスは予め持参していたナイフを取り出し、ザジを拘束している両腕両足の紐を素早く切った。ザジを助け出すと、その手を引いて一目散にその場から離れた。

 同時に風が止み、大木がついに耐え切れず処刑台目掛けて倒れ、ともに業火へと包まれる。

「良かった。間に合った。死ぬかと思った。いや、死んだと思ったよ」

 マーティスは業火に包まれている処刑台を見ながら呟いた。そして、「本当に良かった」とザジの方を改めて向き、笑顔でそう応えたのだった。

 どうして、彼が。

 別れを告げたはずなのに。

 どうしてここにいる? 

 そして、どうして死の間際に自分はこの少年の名前を叫んだのだろうか?

 様々な思いが交錯し、一つの答えを出す。

「……大好き……」

 その言葉を呟くと、ザジは大きく泣き出した。

 まだ事態は収束していない。轟々と燃え続ける炎も収まる気配を見せず、できればその場から少しでも遠くへ逃げ出したかったが、ザジはそれを嫌々と拒否する。

「ザジ、いつまでもここにいると危ない。立って、早く……」

「……バカ」

「え?」

「助けるつもりがあるなら、早く助けに来んかい! バカぁ!」

 マーティスの胸に飛び込み、ザジはさらにわんわんと泣き出してしまった。

 そのザジの頭を撫でるマーティス。

 そんな彼女を見て、彼は思った。ザジは本当に、本当に、ツンデレなんだなっとタイミング的にも空気的にも、場違いで思ってしまった。




「バカ、バカ、バカ~~!」

「いつまでバカって言ってるんだよ……」

「バカにバカ言うて何が悪いねん!」

 随分と遠いところまで来た。

 今、こうやって生きていることが。

 ザジと一緒にいられることが本当に奇跡だ。

 この子と出会ってから、世界が変わった。自分も知らなかった自分が次から次に湧き出てくる。

「ザジ……」

 僕が一歩前に進むと、女の子の笑顔があった。その笑顔を作り出している頬にそっと手をやった。

「ずっと一緒にいていいか? 頼りない僕でも」

「そやなぁ。弾除けくらいには使えるかもな」

「このタイミングで茶化すなよ!」

 全くもう、本当にこの子は素直じゃないな。

「冗談に決まっとるやん。変わらへんな、あんたは」

 ザジはクスっと笑った。

 変わらない笑顔。

 僕が一番守りたかったものだ。

「ウチとおったら、あんたは何もかも諦めなきゃあかんで」

「構わない」

「まず、平穏な暮らしなんて絶対に無理や。ウチと一緒に逃げ続ける生活をおくる羽目になるんやで」

「構わない」

 あなたと一緒にいられるのなら、他のすべてを差し出してでも、世界を敵に回しても構わない。

 こんなくさいセリフが、どうしてこうも今の僕はぽんぽんと思いつくのだろう。

 本当に強くなって、そして、弱くなったものだ。

 

――ずっと一緒にいよう。


 この言葉さえあれば、僕たちはどんな困難にも立ち向かっていける。

 立ち向かう力となる。

「……バカ、あんたは本当に究極のバカやで」

「構うもんか。ザジを守れるんだったら、僕は」

 その先はお互いの唇で塞がれた。

 これから先の言葉を僕は絶対に話すつもりはない。たとえ殴られようとも蹴られようとも、誰にも口外するつもりはない。

 二人だけの秘密だ。僕とザジだけの。

「なぁ、ザジ。いい加減、僕のこと名前で呼んでくれよ。あのときみたいにさ」

「嫌や。何でウチがあんたの言うこと聞かなあかんねん! あんたはあんたや!」

「むぅ……」

 何でこんな簡単に人をけなすかな、この子は。

 まぁそこがかわいいんだけどな。

「それよりも、ウチらどこへ向かっとるの? いい加減、歩くの疲れたんやけど」

「え? ゴメン……、適当にどっか遠くへいければと思って……」

 そう言うと、ザジは僕の頭を拳で殴った。今までに無い強烈な一撃だった。

「あんた、やっぱりバカやな! 乙女をエスコートするのになんで行く先も決めてへんねん!」

「すみません……」

「おんぶや」

「え?」

 ザジと始めて会ったときを思い出す。

 このように僕とザジは知り合ったんだ。

 ザジは人差し指をびっと僕に向けて言い放った。

「あんたがウチの乙女心を傷つけた罰や! ウチをおんぶして、歩くんや! 重いとか言うたら承知せぇへんで!」

「…………」

「返事は?」

「……はい」

 きっと僕はこれからもこういう扱いを受けるのだろう。

 構うもんか。多少の困難や障害があっても、僕たちには踏み越えれる力がある。

 父親の言葉と、愛する人の笑顔を思い出して。

「魔女だ……」

「は?」

「ザジは名実共に魔女だ。僕だけのな……」

「それ、褒め言葉として受け取ってええんやんな?」

「……もちろん」

 魔女ザジは、とても嬉しそうに「にゃは♪」と笑った。

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― 新着の感想 ―
[良い点] ファンタジーらしい思春期を感じさせてくれる作品でした。魔女であるヒロインとの距離感を測りきれない主人公がいかにも子供らしいと思いました。 また「アーティファクト」の存在も作品に1つの捻りを…
[良い点] 主人公の境遇と心情が、とても丁寧に描かれていました。 [一言] “魔女狩り”という重いテーマにもかかわらず、主人公とヒロインの掛け合いの場面が可愛らしくて ほっこりしました。 続きが気にな…
2015/12/28 09:14 退会済み
管理
[一言] やり取りが賑やかで、それでいてキャラクターが、人間としての強い芯を持っているお話だと思いました。
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