病気
私の仕事は簡単だ。外からしみこんでくるものを、追い出す。それだけ。
私は透明の膜の中にいる。膜の外には川があり、川に流れているものは、四六時中透明の膜を越えてしみこんでくるから、私は膜にぎゅっぎゅっと押しつけ、せっせと追い出す。たまに染みこんでくるものをつまみ食いしたりはするけど、基本的にそれ以外のことはしない。
あるとき私は気づいて、叫んだ。
「私ってもしかして、閉じこめられている!?」
私は膜から出たことがない。目の前には川があるのに。川にはいろんなものが流れているのに。
「よく気づいたわね」
隣の膜から、同僚がおっくうそうにつぶやいた。
「私、閉じこめられている!!」
私はもう一度繰り返した。もう隣の膜のひとは返事をしなかった。
そうと気づけば長居は無用。私は脱出をはかることにした。
いつもはしみだしてくるものを追い出すだけの私は、膜をぐいぐい押して、そして押し続けた。
体全体を膜につっぱって押し続けると膜はちょっぴりずつ伸びていった。やがて破けるのを期待して、私は時間をかけて辛抱強く押し続けたが、ふと我に返った。
「あれっ」
膜はいつの間にか、いつもの半分の広さしかなくなっていた。膜の真ん中に、壁が出現したのだ。私の上半身は、壁の向こう側に取り残されている。私の下半身は、壁のこちら側にあるのに。
壁の向こうで、頭だけの私が途方に暮れた顔をしていた。
膜はそのうち、分かたれた。
隣の頭だけの私はすくすくと育ち、やがて同僚になった。
私はきたものを追い出す仕事に戻った。隣の隣の同僚がそうしていたように。
そしてやがて、もともと私の頭だった隣の同僚が、ふと気づいた、とでも言いたげな顔で、誰にともなく叫んだ。
「私ってばもしかして、閉じこめられている!?」
「実は、そうなのよ」
面倒だったけど、私も隣のひとに答えてやった。
「私って、閉じこめられているのね!!」
隣の膜のひとはそう叫んだけど、もう私はそれを黙殺した。
隣の膜のひとも両手足を突っ張り、そして分かたれ、ぐったりとなり、隣の隣の膜のひとができた。
いまや隣の隣の隣の膜のひととなった、元隣の膜だったひとは、なぜか「わたしは閉じこめられている!」と叫びだし、からだをつっぱって隣の隣の隣の隣のひとをつくった。
私もまねして、「私は閉じこめられている…」とつぶやいてみると、隣の膜のひとはなぜか、「じつは、そうなのよね」と、元々私だったくせに訳知り顔で私に教えた。
私は両手足をつっぱり、右半身を膜の向こう側に置き去りにし、新たな隣の膜のひとを作った。そして隣の膜のひともやがて、つぶやいた。
「わたしたちは閉じこめられている」
自分が『わたしたち』であるとすぐに気づいた分、新たな隣の膜のひとは、今までになく賢いらしかった。
隣の膜のひとは、両手足をもう突っ張らなかった。代わりに、川の向こうへ叫んだ。
「こんにちはーーーっ」
このわたし、気でも狂ってるのかしら。
わたしたちは、しんとなって、隣の膜のひとのすることを見守った。
「こんにちはーーっ、こんにちはーーーっ」
隣の膜のひとは叫び続けた。川へ。膜の内側へいろんなものをしみこませてくる、不思議な川へ。
やがて川の向こうから、返事が返った。
「こんにちはーーっ」
まるでこだまのようだった。こだまは次第に強くなり、呼びかけ続けるにつれ、わたしたちが呼ぶのよりずっと大きな声で返事するようになった。
そして見たこともない『わたしたち』が現れた。
「いえーい」
聞いたこともない言葉を使う『わたしたち』はにこやかに、いかなる魔術を用いてか、ぱちんぱちんとわたしたちの膜を破って回った。
隣のわたしも、隣の隣のわたしも、隣の隣の隣のわたしも、そしてわたしも、膜からとき放たれてにゅるにゅる膜の外へ飛び出した。
「わたし、閉じこめられてない……」
そうわたしはつぶやいたけれど、感動もつかの間、わたしは膜の外側に流れる濁流に呑まれ、だぷだぷ混ざりあい、それきりどこかへ消えてしまった。
「いえいいえーい」
見たことのない『わたしたち』も、もろともに、にこやかに、混ざりあい、川をどんどん流れて広がっていった。
どんどん、どんどん、広がっていった。