不器用な僕の彼女
前へ踏み出す一歩の読者様へ。
ここんとこさっぱり更新が無かったのはこの作品のためです。勢いで書いてしまいましたので、今読み返せば自分の文章力の無さに赤面ものなのですが、自らへの戒めとして敢えて発表させて頂きました。それではごゆっくりとお楽しみください。
今になって思い出してみれば、アルコールの力とその場の勢いだった、としか言いようが無い。
「せっ先輩の事がずっと好きでしたぁっ! 俺と付き合って下さいっ!」
三年生の卒業式を終えた数日後に、高校から歩いて十分の所にある焼肉屋を貸し切って行われた、吹奏楽部第43回生追い出しコンサートの打ち上げ会。部活のOBが経営している店なので、当たり前のようにアルコールの類も出てくるし、顧問の先生達もこの日ばかりは何も言わない。
そんな事実を、今年打ち上げ初参加である崎原尚好達新二年生が知るはずも無く、先輩達に勧められるままに杯を重ねていき、始まって一時間が過ぎる頃には、全員が不思議な高揚感に包まれていた。
「あ、そー言えばさっきーさぁ、確か美原先輩の事好きって言ってたわよね? 今日告っちゃえばいいんじゃない?」
同級生でフルートパートに所属する都野綾里が、尚好の肩に手を回しながら呂律の回っていない舌で言った、この一言がきっかけだった。
美原先輩――美原五月というのは、尚好と同じトランペットパートに所属している三年生である。
「トランペットを吹いてる三年の美原五月です。よろしく」
新入生歓迎会の席の事だ。笑顔を浮かべながら冗談などを交え、好感の持てそうな挨拶を述べていく他の先輩達とはまるで毛色の違う、とてもあっさりとした自己紹介だった。切れ長の鋭い瞳にショートカットの黒髪。笑えばきっと綺麗であろう整った顔立ちには、微笑みなんてものは欠片すら浮かべていない。
真っ先に浮かんだイメージは氷の女王、とでも言うべきだろうか。美人だけど性格キツそう。とっつきにくそう。冷たそう。怖そう。結論、何か近寄りがたい。てか名前が変。
五月に対する尚好の第一印象は、まぁそんな感じだった。
興味本位で吹奏楽部に入部した為、全くの初心者であった尚好に、特にやりたい楽器の希望も無かったのだが、それでもトランペットパートは嫌だなぁ……なんて漠然と考えていたのを今でも覚えている。しかし世の中というものは本当に不思議だ。人数合わせの都合上、尚好は見事にトランペットパートに回されてしまった。しかもメンバーは自分を含めて五月と二人。
最初の頃の尚好は、五月が引退するまでの約半年間の事を思い、我が身の不運を嘆いた……のだが、入部して三ヶ月が過ぎ、定期演奏会が終わる頃には五月に対する印象はがらりと変わっており、憧れと同時に彼女に淡い好意のようなものを抱くようになっていた。
これがまた優しかったのだ。予想に反して。冗談は全く通じないし、必要な事以外はほとんど喋ろうとしないし、笑ってる顔、というかそれ以前に表情らしい表情を一度も見せてくれた事は無いけど、楽譜の読み方すら分からない尚好に、五月は自分の練習時間を割いてまで、つきっきりで丁寧に教えてくれた。部活が終わった後、一人で練習していた尚好に付き合ってくれたりもした。
そんな日々の努力の甲斐あってか、尚好は同期の初心者達の中では一番上達したんじゃないかと、他の先輩達から時々言われる程に成長した。
「……ぶふっ!?」
思わず口に含んでいたチューハイを吐き出しそうになった。慌てて口を閉じ、無理矢理喉の奥に流し込んでから盛大に咽る。尋常じゃないその様子に、近くに座っていた部員の何人かがこちらを向くも、すぐに興味を無くして近くの仲間と談話を再開した。
「ばっ馬鹿っ、おお前はこんなトコでいきなり何言い出すんだよ!?」
尚好は慌てて、隣の円卓で烏龍茶の入ったグラスを傾けている五月の方をちらりと盗み見た。
五月は尚好達の方へに視線を向けるでもなく、絡んでくる酔っ払った他の先輩達を軽くあしらっている。その態度は普段と変わりない。どうやら聞かれていなかったようだ。思わず安堵のため息が口から洩れる。
「いやー正直あの鉄面皮のどこがいいんだか私にはさっぱりだわね」
まぁ確かに同姓から見ても美人だとは思うけどさ、と付け加えると、綾里は右手に持ったビール入りのジョッキをぐいっと呷った。どうやらこちらの抗議は完全無視らしい。と言うかその仕草からは色気の欠片どころか、女らしさすら感じられない。
「べっ、別にいいだろ。人の好みに口出すなよな……」
自分の嗜好というのはそんなに変わっているのだろうかと軽くショックを受けながら拗ねたように反論し、まだ半分ほど残っているグラスのチューハイをちびりと舐める。……やっぱり余り美味しくない。軽く顔をしかめた。
「いや、別にさっきーの趣味どーこーに口出そーなんて思ってないわけ。大事なのは告っか告んないのかってトコ」
「だから何でそうなるんだよ……」
「っかー鈍いわねーあんたは。いーかよく考えてみなさいよ? あの鉄面皮は今日で部活から引退すんのよ? そいで春からはもうT県の大学に行っちゃうと」
「ちょっ……ちょっと待て、お前なんで先輩の進路先知ってんだよ?」
「つまりよ」
「いや聞けよ」
「今日が終わったらもうあの女にゃ会えないのよ? 一年越しの恋心しまっちゃったまんま終わらせちまっていいんですかお兄さん?」
そう言ってテーブルにだんっ、と勢いよくジョッキを叩きつける綾里。衝撃で琥珀色の飛沫が数滴飛び散り、座敷の畳を濡らす。
――本当に酔っ払いってのはタチ悪いな。
こーゆーのって絡み酒って言うんだっけか? などと考えながらため息を吐き、お絞りで濡れた畳をとんとん、と叩く。
「ちょっとそんな事してないでさぁ、人の話し聞きなさいよねー」
だったらお前がやれ、という台詞は胸にしまい込み、ビールを吸ったお絞りを再び丸めながら、
「んな事言ったって別にOB演奏会だってあるんだし……もう会えないってわけじゃな」
「とにかぁく!」
「いやだから人の話を
聞けよ、と言おうとして、がしりと頭を掴まれた。そのままぐいっと引き寄せられる。充血した目は据わっており、アルコール臭い息が鼻につく。こいつ絶対に飲みすぎだ。明日後悔しても知らな
「告ってしまいなさい」
……結局は命令形だった。
その後、さり気なく尚好達の会話を盗み聞きしていた他の部員達が面白がって乱入してきて説得を始め、しまいには、
「はーいここでトランペットの崎原尚好クンから、本日我が吹奏楽部を引退なさる美原五月先輩に大事なお話があるそーでっす! でわ尚好クンすたんどあっぷっ!」
綾里のその一声で、周囲の視線が一気に尚好に集中した。
今にして思えば、ここで立ち上がる必要なんて無かったのだ。酔っ払いの戯言だと否定する事だって不可能ではなかった筈である。周囲の奴等だって、何だかんだ言って本当に尚好が告白するなんて期待していなかった筈だ。
それなのに、
「……おぉっ!?」
気が付けば尚好は立ち上がってしまっていた。
「崎原君、どうかした?」
辺りがしん、と静まり返る中、五月の落ち着いた声が鼓膜を揺らす。
「あーっと……じ、実はその……」
周囲の人間がごくり、と唾を飲む。数秒の沈黙の後、尚好は覚悟を決めて大きく息を吸い込んだ。
「せっ先輩の事がずっと好きでしたぁっ! 俺と付き合って下さいっ!」
言ってしまった、と後悔した時には既に遅い。周囲の視線は一斉に尚好から五月の方へ移る。
「……私がT県の大学に行くって事は知ってるよね?」
尚好の告白にも眉一つ動かさずに、五月が言った。
「は、はい」
「じゃあ、それがどういう事か分かった上での告白ととっていいのね?」
今にして思えば、全く分かっていなかったのだ。遠距離恋愛の辛さと言うものを。それでもあの時の尚好は後に引けなかった。
「はっ、はい!」
「そっか……」
五月はそう呟くと軽く目を瞑り、小さなため息を吐くと、ただ一言。
「分かった。それじゃ付き合お」
耳を疑った。
「……はい?」
「聞こえなかった? 返事はイエスって事」
予想もしていなかった展開に、その会場にいた誰もが言葉を失った。
◇…………◇…………◇
「そんで? 美原さんとはどんな感じなのよ?」
「……な、何だよいきなり」
夏の気配が漂い始めた、六月も半ばを過ぎたある日の部活終了後。
他の部員達は既に家路についており、部室には尚好と綾里しかいない。尚好は毎日の習慣である居残り練習。綾里は……そう言えば何故帰らないのだろうか。練習するわけでも無いし、楽器の掃除をするわけでもなく、尚好の近くの椅子に腰掛けて、その練習の様子を眺めていた。尚好としてははっきり言って気が散って邪魔なのだが口には出さない。
「だってあれからどーなったか全然知らないんだもん。恋のキューピッドとしてはその後の二人がどうなってるのか気になるわけじゃない?」
知らないのは当たり前だ。誰にも話していないのだから。
「キューピッドねぇ……僕の目にゃあ、あの時のお前は単純に面白がってるようにしか見えなかったけど」
「う……ま、まぁ細かいトコは置いときましょ? 結果オーライって事で。ね?」
「調子のいいやつ……」
どうやら綾里は、それが聞きたくて二人っきりになるのを待っていたようだ。コンクールも近いし、新入生の指導に部活の練習時間の大半は奪われているので、もう少し練習しておきたかったのだが、綾里は満足のいく回答を得られるまでしつこく食い下がってくるだろう。尚好は仕方なく練習を諦めて楽器のケースを開き、後片付けを始めた。
「それで? あれからうまくいってんの? 経験豊富なおねーさまに話してみなさいよ?」
「……分からない」
手を止めずに、顔を上げずに言う。
「分からないって……何が?」
「いや、何て言うか……僕と先輩が本当に付き合ってるのか、分からないんだ」
五月は打ち上げの数日後にT県に行ってしまい、結局デートらしいデートは出来ず、ゴールデンウィークも大学の部活が忙しいらしくて帰ってこなかった。尚好が最後に五月に会ったのは駅まで見送りに行った時以来なので、実にもう三ヶ月も会っていない事になる。メールを送ってみても、返ってくるのはとても素っ気無い文面ばかり。と言うか、よくよく考えてみれば五月からメールを貰った記憶が無い。
そんな状況で、自分が五月と付き合っているなどと、胸を張って言える筈も無い。尚好でなくとも不安になるだろう。
「僕は今でも先輩の事が好きだけどさ、先輩は僕の事好きでいてくれてるのかな……って考えると不安になるんだ」
「自分の事が好き」だという気持ちを、何らかの形で示して欲しい。五月のような人間にそれを望む事が酷だとわかっていても、それでも望まずにはいられない。そうでなければ嫌な考えばかりが浮かんできてしまうから。恋人を信じられなくて何が彼氏だ。頭ではそれが分かっているから、話しているうちに自分が情けなく思えてくる。それでも駄目なのだ。形の無いもので自らの心を支えられるほどに、尚好の心は強くない。
「……なぁ? 付き合うって何なんなのかな? 僕は先輩とちゃんと『付き合ってる』のかな?」
捌け口が見つけられず、三ヶ月間積もりに積もった愚痴は、一度勢いがついてしまえば中々止まってはくれない。綾里は何も言わず、鬱陶しそうな顔もせずに、黙って愚痴を聞いてくれていた……のだが。
「……あーあ、お前みたいなの彼女だったら楽だったのになぁ」
尚好が楽器の掃除を終えてケースを閉じ、伸びをしながら何気なく言ったその一言に、綾里は一瞬とても悲しそうな顔をして、
「――っ!」
次の瞬間には、椅子の倒れるがたり、という音と共に、尚好の右頬に衝撃が走った。尚好が引っぱたかれたという事実に気付く頃には、綾里に胸倉を掴まれていた。
「……自分が今どんなに最低な事言ったか分かってる?」
震える両手で、尚好のワイシャツが破れそうな程に力を込めて握り締め、俯いている綾里。前髪が邪魔をして、尚好には綾里の表情を窺い知る事は出来ないが、感情を押し殺しているかのようなその低い声からは、明らかに怒りが滲み出てきている。
「さっきーが好きになったのは誰なのよ!? 今のはねぇ! 自分に都合がいい女だったら誰だって良かったって言ってんのと同じなのよ!?」
綾里の掠れたような、震えているような怒鳴り声でようやく、考え無しに口から漏らした言葉の重さに気が付いた。会えない寂しさと不安に負けて、本当に大事な事を見失っていた。遠距離恋愛云々なんて関係無く、自分は美原五月という女性の事が好きだった筈なのに。しかしどんなに自らの迂闊さを呪った所で、一度口から飛び出た言葉は、どうやっても無かった事にはならない。
「ごめん……」
消え入りそうな声で尚好が呟くと、綾里の手からふ、と力が抜けた。
「……私に謝ったって意味無いわよ」
綾里はずずっと鼻を啜り、脇にあった鞄を背負って入り口の方に歩いていく。ドアノブに手をかけたところで尚好の方を振り返った。真っ赤に充血した瞳が真っ直ぐに尚好を見つめる。
「……不満があるなら言えばいいのよ。不安があるなら聞いてみればいいんだし、そのせいで傷つけちゃったと思ったなら謝ればいいじゃない。相手が何考えてるのか分かる人間なんていないんだから。本音を口に出してぶつけ合って初めてお互いの気持ちって分かるんだよ?」
「…………」
「それが出来ないなら、自分の本音を見せるのが怖いんだったら、さっさと別れちゃうってのも選択肢だと思う。今の状態続けてくのはさっきーにも、先輩の為にもなんないだろうし」
……戸締りよろしく、という声の後、ドアは静かに閉められた。靴音が遠ざかっていく。一人ぼっちの部室の中で、熱を持った右頬に手を添えながら、尚好は立ち尽くしていた。
◇…………◇…………◇
あれから綾里は、尚好の事を避けるようになっていた。自分に非がある以上、こちらから謝らなければいけないのが筋とは分かっていても、中々それを口に出すチャンスというのが見つからない。やはりと言うか何と言うか、五月の態度も以前と全く変わらない。
なんでメールくれないんですか?
こっちからメール送っても素っ気無い返事ばっかなのはどうしてですか?
先輩は本当に俺の事が好きなんですか?
俺達って本当に付き合ってるんですか?
何度も伝えようと思った言葉。それでもメールの送信ボタンは押せなかった。自分の幼い部分を曝け出すのが、そんな部分を見られて五月に幻滅されるのが、尚好にはどうしても怖かった。
そんな宙ぶらりんの日々が数週間続き、尚好の心は疲弊しきっていた。
『ごめんなさい。別れましょう』
たった十三字のみの短い文面。明かりを消した自室のベッドに腰掛け、尚好は震える指で携帯電話の送信ボタンを押した。『送信完了しました』の文字がディスプレイに表示されたのを見て、目を瞑り、細いため息を吐いた。このメールなら自分はは送信出来るのか。何だかとても泣きたくなった。
尚好なりに色々と考えての決断……というのは自分を納得させるための体のいい言い訳で、実際のところ、その選択は自分の周りの面倒臭い問題達からの逃避でしかない事くらい、心の奥底では分かっていた。
その日、日付が変わるまで待ったが、結局メールの返事は来なかった。
その翌日、部活終了後の事である。部員達が帰っていく中、尚好はいつものように残って練習をしていた。
「それじゃお疲れ様でしたー」
「うん、お疲れ様」
今年入ったトランペットパートの後輩が楽器の片付けを終えて出て行くと、がらんとした部室には尚好一人だけになった。
三十分ほど部室内にはトランペットの音色だけが鳴り響いていたが、尚好はふとマウスピースから口を離した。数秒ほど前までとは打って変わって、静寂に支配された部室内を見回す。乱雑に並べられた椅子。棚に整然と並べられた楽器ケース。ものぐさな部員達がたたまずに放置していった譜面台。連絡事項と意味不明な落書きが書かれた黒板。
不意に目頭がじわりと熱くなった。
ここは先輩と初めて出会った場所だから。先輩と日々を過ごした場所だから。そして先輩の事が好きになった場所だから。
尚好にとって、五月と過ごした時間のほぼ全ての思い出が、この部室に詰まっていたから。
涙が一筋、頬を伝った。そうなれば溢れ出した涙はもう止まらない。歯を食いしばって声を押し殺すが、押さえきれずにうめき声が洩れる。涙が板張りの床にぽつりぽつりと小さな染みを作り、その上に更に、新たな雫が重なる。
やっぱり自分は五月の事が好きなんじゃないかと気付いた。それでも待つ事に耐えられずに、別れを選んでしまった自分が情けなかった。
――がちゃり。
唐突に、部室のドアノブが回る音がした。慌てて袖口で目元を拭い、扉と真逆の方向を向いてトランペットを構える。ろくに油を挿していないドアが、ぎぃぃ、と軋んだ音を立てながら開く。次いで靴音。ドアがばたり、と閉まる。再び靴音。ゆっくりと尚好の方へ近付いてくる。視界の右端にフェードインしてきたのは綾里だった。
「…………」
憮然とした表情を崩さず、綾里は尚好の前にあった椅子にどかっと座った。
「……何で泣いてんの」
吐き捨てるように綾里が言った。
「……泣いてない」
「嘘。目、真っ赤だし」
「ねっ、寝不足なんだよ」
「その足元に染みあるし」
「……が、楽器の管内に溜まった唾落としたからだよ」
「シャツの袖濡れてるし」
「…………あ、汗かいたんだよ」
「扉の外まで呻き声聞こえてきてたし。てか隙間から泣いてるの見えてた」
「………………」
言い訳の言葉が思い付かずに、押し黙る尚好。
綾里は表情を崩さないままため息を吐き、
「……別れたの?」
改めて言われると目頭がまた熱くなる。それでも他人の前で泣くわけにはいかないと思った。
「……昨日メール送った」
声が震える。
「それで返事は?」
「まだきてない」
「そっか……」
綾里はそう呟くと俯いたきり、何も言わなくなった。
「…………」
「…………」
窓越しでも蜩の鳴く声がはっきりと聞こえるほどに、部室内はしんと静まり返っている。これ以上楽器を吹く気になれず、手入れをする気にすらなれず、尚好は無言のまま楽器をケースにしまい、鞄を背負って立ち上がった。これ以上、この場所にいたくなかったから。
「あ、ちょ、ちょっと待ってよ」
綾里も慌てて立ち上がり、部室の電気を消して尚好の後を追った。
その後、綾里からの「今日ちょっとどっかでご飯食べてかない?」という誘いを断り、尚好は真っ直ぐ家に帰ってきた。綾里なりの気遣いなのだろうが、今の自分がそういった慰めを素直にありがたいと思える自信が無かった。
「ただいまー……」
沈んだ声で暗い廊下の奥に向けて言いながら、靴を脱ごうと視線を落とす。と、見慣れない女物の靴が紛れ込んでいる事に気が付いた。そう言えば少し耳を澄ませてみると、食堂の方から、母親と誰かの話し声が聞こえてくる。
「…………?」
親戚でも来ているのかと考えながら玄関を上がり、食堂の引き戸を開けて、尚好の動きが止まった。
「あら、お帰りなさい」
そこには丸テーブルの椅子に腰掛けてお茶を飲む母親と、
「遅くまで練習お疲れさま」
母親に向かい合う形で椅子に腰掛ける五月がいたのだから。
「それじゃごゆっくり」
意地の悪そうな笑みを浮かべた母親が出て行けば、部屋の中には尚好と五月の二人だけである。
尚好は恐る恐る、といった感じに、卓袱台を挟んで向かい側に正座している五月の方を見た。
顔は相変わらずの無表情だが、ショートカットだった髪の毛は前に見た時より少しだけ伸びており、後ろで一つに結べるくらいの長さになっている。幻の髪の毛が伸びる筈も無いので、やはりこれは現実らしい。
「か、髪の毛伸びましたね……」
沈黙に耐え切れずに口にした言葉は全く的外れなものだった。それに対する答えはたった一言。
「あっちに行ってから切ってないもの」
「そ、そうですか……」
本当に伝えたい、伝えなければならない言葉はちゃんとあった筈なのに、小骨のように喉に引っかかって中々出てきてくれない。そうこうしているうちに五月が口を開いた。
「昨日のメール」
来た、と尚好は思った。
「理由が書いてなかった」
「はい……」
「あんなメール一通じゃ私は納得出来ない。別れるなら面と向かって、ちゃんと理由も訊いた上で別れたいって思ったから今日来たの。昨日あの後すぐに電車に乗ったから連絡できなくて。突然過ぎてごめんなさい」
ぺこりと頭を下げる五月。
「あ、いや……で、でも学校の方は」
今日は木曜日。つまり平日だ。そう言えば大学は高校と違って、授業の取り方次第では平日も休みに出来ると聞いた事があった。もしかすると明日は休みなのかも、
「一日二日くらいなら休んでも単位修得には支障無いわ」
……どうやら休みではなかったらしい。よくよく考えてみれば生真面目な五月が休みをつくるとは思えない。暇を作るくらいならきっとギリギリまで教科を詰め込んでいる事だろう。
「……ってちょっと先輩!? 昨日あの後すぐにって……」
「こっちに着いたのが午前の十時頃だから……十二時間くらいかかったのかな。お陰で一睡もしてないわね」
「しゃ、車中で寝たりは……」
「別れてって言われた理由を考えてたら中々寝付けなくて」
「あ……す、すいません」
謝りながらも、尚好は少しだけ嬉しかった。別れ話とは言え、授業を休んでまで会いに来てくれたのだから。
「私が勝手にやったんだから気にしないでいいわ。それより理由を教えてくれない?」
「そ、それは……」
この期に及んでなお、尚好は自分の本音をぶつける事に躊躇があった。それでも話さなきゃいけないような気がして尚好はぽつりぽつりと話し始めた。
「……自信が無くなったんです。僕、先輩とデートなんてした事無いし、僕に全然メールくれないし、返事素っ気無いし……だから何か、俺と先輩って本当に付き合ってるのか自信が持てなくて……こう、何て言うか、先輩と付き合ってるって胸を張っていえるものを、僕は持ってなような気がして……」
「…………」
五月は何も言わずに軽く目を閉じている。
「先輩は本当に僕の事が好きなのか、僕の事が好きだから告白にオッケーしてくれたのかが分からなくて、不安になって僕はひどい事を考えたんです」
――あーあ、お前みたいなの彼女だったら楽だったのになぁ。
「……寂しさと不安に負けて、僕は安易な方に逃げようとしました。そんな最低な僕に先輩と付き合う資格なんて無いんです……」
ようやく全てを吐き出し、尚好は大きなため息を吐いた。と、そこまで相槌すら打たなかった五月が、ゆっくりと閉じていた目を開いた。
「……あなたが私に告白した時」
「は、はい……?」
唐突過ぎる話題の転換に、尚好の脳の活動がフリーズした。構わずに五月は続ける。
「返事する前に私が言ったこと、覚えてる?」
「あ……」
佳祐の頭の中で、四ヶ月前に焼肉屋で行われた打ち上げ会の、告白のシーンまで時間が巻き戻った。
言ってしまった、と後悔した時には既に遅い。周囲の視線は一斉に尚好から五月の方へ移る。
「……私がT県の大学に行くって事は知ってるよね?」
「じゃあ、それがどういう事か分かった上での告白ととっていいのね?」
――そういうことか。
「私は今まで男の人と付き合った事無かったけど、どれだけ会いたいと思っても会えない事がどれくらい辛いかって事くらい分かってた。だからあんな質問したの」
「…………」
「崎原君が逃げようした事は崎原君だけが悪いんじゃない。君の事不安にさせちゃった私のせいでもあるんだし」
「そ、そんな事……」
「私ね、今まで何度か告白された事があるの。でもそれは全部断ってきた。私は好きじゃない人間に告白されて、その場の流れで付き合う人間じゃない」
「…………」
「本当は私、崎原君と沢山メールがしたい。電話もしたい。でも疎ましく思われるのが怖くて、だから送れなかった。メールの文面が素っ気無いのは今まで誰かとメールで会話した事が無いから。私はこんなだから分からないだろうけど、メールくれてとっても嬉しかった。私の事を気遣ってくれてる一言一言にとっても勇気付けられてた」
「私は付き合うって事がよく分からないから、正直崎原君にどんな風に接すればいいのか分からないけど。
君の事が大好き。
この気持ちだけは、胸を張って言える」
一番聞きたかった言葉。瞬間、尚好は身を乗り出して五月をぎゅっと抱き締めた。
「ちょっ、さ、崎原君?」
珍しく慌てた感じの五月に構わず、その姿勢のまま言う。
「先輩、今から言う事を約束して下さい」
「……な、何?」
「何かあったらいつでも相談して下さい。どんな下らない事でもいいですからメール下さい。僕も沢山送りますから」
「……うん」
「電話もです」
「……うん」
「あと、僕に飽きたり、嫌いになったりしたらいつでも言って下さい。僕は先輩の負担になりたくないです」
「……分かった。崎原君も私の事が嫌いになったら言って」
「はい。それと……」
「ん?」
「……これからもずっと大好きです」
五月は無表情を崩さないまま、じっと尚好の目を見つめながら、そっと尚好の背中に両腕を回して言った。
「……私もずっと愛してる」
◇…………◇…………◇
「ご飯出来たわよー? 美原さんも食べていくのよねー?」
扉越しに母の声が聞こえて、二人はさっと身を離した。
「え、えとあの、食べていきます……よね?」
「うーん……そうね、今のお母さんの言い方だと私の分も用意しちゃってるみたいだし。ご馳走になるわね。うちには連絡入れておく」
そう言って立ち上がった五月を、尚好は慌てて引き止めた。
「あっ! あのっ、先輩……」
立ち止まって振り返る五月。
「五月でいいわよ。て言うかよく考えてみたら敬語も変よね。私達恋人同士なんだし」
「えとじゃあその……五月……さん」
「敬語は禁止。はいやり直し」
「う……あ、あのさ、五月」
「ん? どうしたの尚好?」
「ああ明日学校サボってでででデートしない?」
顔を真っ赤にしながらの精一杯の尚好の申し出に、五月は尚好の前で初めて微笑みを浮かべながら言った。
「……私もそのつもりだったんだけど?」
◇…………◇…………◇
僕には付き合っている先輩がいます。いつも無表情で、必要最低限な事以外はほとんど喋らなくて、無愛想で、ついでに言うと変な名前で、正直何を考えているのか分からなくて、そんなだからとてもとても誤解されやすい人だけど、
僕には勿体無い位の、最高の彼女です。
お楽しみ頂けましたでしょうか?
お知らせなんですが、本作品の後日談にあたる、
「不器用なあいつの彼女」を公開中です。
お暇がありましたら、一読していただければなーと思います