真夜中のベル
《チリリン! チリリン!》
真夜中の二時、暗闇に包まれた狭い一室。日に焼けて黄色くなった白い古電話が、高い音を響かせながら鳴った。上京して一人暮らしを始めたばかり。前のこの部屋の住人の置物なのだろう。
なかなか鳴り止まないベル。部屋を仕切る古くて薄い壁は、鈍い音をたてて叩かれる。
(俺だって起こされたんだ……)
とんだ睡眠妨害に大きく溜め息をつく。
◆
次の真夜中も、ベルは高い音を寝静まったアパートに響かせた。そして《ドン》と壁を突かれる。
「はい?」
苛立ちながら受話器をとる。
『……――プツン、ツー、ツー……』
「……」
迷惑そうに受話器を戻す。コードを乱暴に引き抜き、布団を頭から被った。
(これでどうだ。今日は起きたら絶対朝一番に捨ててやるからな)
……朝。眠たい目をこすりながら、一番に電話を捨てて職場へでかける。
夜。
帰宅するとドアの前で立ち尽くした。目の前にあったのは、透明な袋に入れられた朝一番に捨てたはずの古電話。[今日は燃えるごみの日です]の貼り紙つき。
ごみ捨て場で適当な挨拶を交わした冴えない顔の大家を思い出す。
◆
袋に入れられた古電話は、鳴らなかった。いつしか玄関の隅に放置したまま時は経つ。そして、すっかり存在も忘れていた頃。
《チリリン! チリリン!》
再び真夜中のベルはその音を響かせた。オカルト好きな彼女がご丁寧に枕元に設置していった、古電話。恐る恐る受話器をとる。
「……はい」
『ザザー、ザーン……』
(……海?)
受話器のむこうから聞こえてきたのは、押しては引いていく波の音。砂をかき乱し海原に浮かぶ舟を運ぶ波の音。
水平線の彼方で混じり合う、空と海の青。白い点となって空を横切る海鳥の鳴き声。
髪を揺らし、頬をなでる風にのった潮の香り……。
『……――プツン、ツー、ツー……』
頭に浮かんだなつかしい故郷の情景に浸っていたところで、電話は切れる。
◆
その後も真夜中のベルは幾度も鳴った。
蛙の大合唱に田のにおいを思い出し、星のように瞬く蛍の飛び交う川のせせらぎに心を癒された。
夏の聞きなれた太鼓囃子に蝉の声。……虫取り少年だった自分を振り返る。
鈴虫の音に、襟巻のぬくもり。
二十歳。友人に恩師、家族、地元に別れを告げて夢を追った。
重たくて軽い荷物。揺れる鈍行列車、過ぎてゆく景色。窓に映る、硬い顏。
終着駅は星のない街。
《チリリン! チリリン!》
田舎を出て数か月。今日も真夜中のベルは鳴る。
「はい」
『……』
何も聞こえてこない。
だがそれは何も聞こえない、音のない音。受話器のむこうから伝わってきたのは雪の気配。しんしんと高く降り積もり、音を吸いこんでいく雪の音。
忙しく颯爽と過ぎてゆく日々。いつの間にか季節は巡り、冬になっていた。雪のない、四季のない街で忘れかけていた〈冬〉を、真夜中のベルが思い出させた。
『……――プツン、ツー、ツー……』
音は途切れる。そっと受話器を元に戻して再び眠りにつく。
◆
あっという間に月日は過ぎ、五年が経つ。結婚を機に部屋を取り払うことになった。今も変わらず、古電話は初めて部屋を訪れたときと同じように置いてある。
思えば<真夜中のベル>が鳴ったのは、自分がうまくいかない事に悩み落ち込んでいたとき。最近はぱったりとその音が鳴ることもなくなっていた。
古電話は、もう何人ものこの部屋の住人を見守ってきたのかもしれない。
薄くかかった埃を拭きとり、そんな古電話だけが残された部屋を振り返る。真夜中のベルはきっと、次の住人の枕元でもその音を響かせるのだろう。
慣れない日々を見守ってくれた古電話に別れを告げて、そっと静かに部屋を去る。