境界線の輪郭
死の臭いが、雨とともに地に降りてきた。誰が空の向こう側を死者の国と定めたかは知らない。しかし、少なくとも男の眼には目の前の光景こそが死の国が生んだものだと映った。冷たく、灰色に濁った水滴が滴り落ちる。街の喧騒も航空機の唸り声も換気扇の篭もった生暖かい風も、全て流してしまう。男は傘も差さずに冷たい雨を一身に受け、激しい水音に耳を傾けている。どれもこれもが生きているように思えるのに、男の足元に転がる死体だけは物音一つ立てずに横たわっていた。
老婆だった。困窮に陥った生活を送っていたという。金に困った老婆は、結局金融機関に頼り、そのまま奈落へ落ちていった。子は仕送りを寄越さず、孫とは顔も合わしたことがないという。救いようもなければ、同情も出来ない。老婆の顔は、最後の瞬間まで穏かになることはなかった。皺の入った顔面はいつまでも苦が紛れ込んだ笑みを浮かべたままだ。男はせめてもの手向けにと、老婆の顔に黒い布を置いて隠した。表情の見えなくなった老婆は、ただの動かない人間となって廃棄材とともにいらないものとして街のずっと、ずっと奥に捨てられる。男は、その運び手だった。
彼女の死にたい理由はなんだったかと、男は頭の中を巡った。考えたところで、どうでもよくなってやめた。
全身を黒色で統一した服装に身を包み、真っ赤なネクタイをしている。耳と腕をシルバーアクセサリーで飾った姿は、風俗店で働いていそうな様だ。鼻が高く、眉毛も整えられた異性に好まれそうな顔立ちだ。しかし、男は生まれてこの方異性と付き合ったことはない。原因は男の眼にあった。何もかもが霞んで見えていそうな、酷く乾いた瞳が強烈なまでに顔のパーツの中で存在感を放っていた。見る者を凍りつかせるような威圧感が滲み出ている。黒目が時々足りない何かを探すように虚ろに彷徨う。老婆を見ている目は同情や悲観の類のものではなく、漠然とそこにある「死」という非現実的な光景に唖然としているように思える。
男は様々なものに諦観していた。その思いが瞳に出て、酷く冷たいものを放っているのだった。老婆の死に姿を見届けた男は、小さく呟く。
「残念だ」
落胆するような声。雨に流されて、排水溝に消えた。
男は濡れたアスファルトを踏みながら、消え入りそうな足音を立てて老婆に背を向けて歩き出した。この場所は誰にも見つからない。男だけが知っている処理所。強いて言うのであれば、開けた空から誰かが見ていたかもしれない。しかし、終わった出来事に男は興味を示さなかった。雨で冷えた身体を抱きながら、その場を後にした。
男は無職であったが、多大な財産を所持していた。祖父の代から継がれている巨大な屋敷がその一つだ。都市部から外れた田舎の過疎地。さらにその外れの鬱蒼とした森の中に、その屋敷はある。屋敷に行こうとすると、手入れの成されていない草木が行く手を阻もうとする。深い緑の葉が天を覆い、森の内部に光を届かせない。湿った空気があたりに立ち込めていて、侵入者の精神力を削ぎ落としていく。屋敷の管理人である男だけが、正しい道を把握し、屋敷に易々とたどり着くことができるようになっていた。
とは言え、屋敷の存在を知るのは一部を除いてほとんど男だけと言ってよかった。森林自体も、もう何年も人が出入りしていない秘境の地のようなものになっている。稀に好き好んで来る旅人もいるが、数日もしない間に森を出て街に帰ることが大体だ。この森は素人だろうがその道の玄人だろうが、あまりにも危険だった。熱帯雨林のような猛々しい生物こそいないが、気候の悪さや湿地を好む虫たちが一層人を遠ざける。加えて内部の詳しい地図も発行されておらず、男の巨大な秘密基地のようなものと化していた。
赤煉瓦の壁に高い屋根、知らない間に伸びた蔦が窓から地面に降りており、酷く年季を感じさせる。鉄鋼の門は錆びてボロボロになっておりその機能を既に果たしていない。屋敷の敷地内はどこも荒れており、緑の雑草が天に向かって大きく伸びている。森林の中でも開けた場所にあるせいか、ここ一帯だけは陽を浴びて育つ植物が健やかに領地を喰らっていた。
男は一室で書物を読んでいた。傍から見れば辞書か何かと間違えそうな厚い本だ。表紙は古びて色褪せており、ページは所々かびたような色に染まっている。男がいる部屋にはそのような風格のある書物が所狭しと本棚に並び、その本棚さえ部屋の壁に敷き詰められるように配置されていた。部屋中に本独特の匂いが充満していたが、男はこの香りが好きだった。男は、このぎゅうぎゅう詰めの部屋に小さな世界を作っている。それも、両手を伸ばせばすべてに手が届いてしまうような世界だ。男はさながら、世界の支配者となっていた。
午後三時を過ぎ、太陽が東側に傾き始めてきたころ、男の屋敷に一人の少女がやってきた。
「すいません……」
スズメが鳴くような声。男はそれを聞き漏らさずに玄関へと出向かう。男がいた一室から玄関までは直ぐだった。巨大な屋敷で、長い廊下があれば、意図の見えない横幅のある階段もある。更に言うならば圧倒的な部屋の数があり、そこだけ見ればまるで事務室のような造りをしていた。
「いらっしゃい。良くここまでたどり着いたね」
男は人相の良い笑顔を浮かべ、少女を出迎えた。少女の衣類は草木でボロボロにされており、所々から肌色が覗いている。男の視界の端に、桃色の下着が扇情的にちらついていたが、男はまったく興味を示さずに、少女の煤けた顔を見た。
歳は十代半ばか、顔面はニキビで赤く腫れているが、歳行った女のような皺やたるみは見られない。半袖から覗く腕はまだ瑞々しい張りを保っているし、手入れもしてないだろう髪の毛も、それにしては艶やかな光沢が見られた。
小さな瞳が泣きそうに潤んで、男を見上げた。男にはそれが捨て犬のように見え、唐突に愛しさを感じた。その衝動に身を任せて、少女の頬に手を寄せる。決して美しいとは言い難い代物だったが、男はかまわず這うように撫で上げる。少女がその感触に身を震わせたところで、男は手を離した。
「なんだい?」
「ここに、楽に死ねる方法があるって聞いてきたんですけれど……」
乾いた唇から、少女の歳にそぐわぬ発言が飛び出した。相手の表情を窺うような上目遣いの瞳が、不安に一瞬揺れた。
「ああ、あるよ」
悲愴とも諦観とも違った、しかしどこか色も光も失ってしまったような声。それでも少女は男の返答に眼を輝かせ、それはどこにあるのかと迫った。死ねる方法に生きたがるように縋る様は、男の目には歪に写っていた。
「付いて来なさい」
男は少女を背にして歩き出した。
この館では『ボランティア』が行われている。というのは言葉にすると至極簡単で、つまるところこの少女のように死にたがりの人間を楽に殺してやることだった。痛みもなければ衝撃もない。瞼を閉じて開けばほらそこは死の世界、というキャッチフレーズがありそうな事業をモットーに男は人を殺していた。病院で安楽死を要求することが困難な昨今、男の行っていることと同様のことをする業者は少なくは無い。もちろん、痛みがない、衝撃も無いだなんてことを出来る業者はおらず、大抵はそれぞれが一瞬で人を殺せるものを用意している。しかし、それはどれもこれもが惨いもので、見るに耐えない。業者側が病んで、ミイラ取りがミイラになることも稀ではなかったほどだ。
それにしても、人を一人殺すというのは決して気持ちの良い話ではない。そのため、男はまず客に死亡理由書類を書かせていた。所謂一種の契約書のようなものだった。ただし、面倒な親族関係のことや履歴書などは必要ない。ただ、理由が必要だった。
少女を奥の広間に通すと、男は壁際にあった引き出しから一枚の羊皮紙を取り出して、ペンと一緒に少女の前に差し出した。広間の中央にある長いテーブルに沿って設置されている約八つの椅子のうちに一つに座らせ、「それを書け」と事務的な口調で言った。
少女はまるで催眠術にでもかかったかのようにペンを走らせ、あっという間に契約書を書き終えた。男はそれを取り上げ内容を確認した。
下らない、と吐き捨てそうになるのを喉奥で堪えた。どこにでもあるテンプレートのような理由。自分に価値が見出せないだとか、学校生活が上手くいかないだとか、親の目がどうのこうのだとか。死にたい理由というのは、これほどまでに酷似するものなのかと、男は頭を抱えたくなった。
「次に、君が今まで犯してきた罪を告白しなさい」
男は書類を端に退けて、少女のほうを向いて言った。
「罪というと、犯罪ですか」
「いいや、どんなに小さくても良いし、君自身が罪だと思ったものでもいい。ただし嘘は良くない。君だって、最後に嘘をついて死にたくはなかろう?」
「それで、警察につきだしたりしないんですか」
「そんな野暮なことはしない。私だってこうして人を殺す仕事をしているんだ。国家機関に厄介にはなりたくないのは分かるだろう」
「今まで捕まらなかったんですか?」
「別に殺人事件が起きたわけではないだろう? それに、生憎私のところに来るのは身寄りのない老人が結構に多くてね。どんな執念なのか、こんな険しい道のりを制覇してやってくる」
「私みたいなのは珍しいんですか?」
「そうでもないがね。まあ、多くは無い」
「ここのこと、ばらされたりしたら困るんじゃないんですか?」
「ばらしたところで、どうせ来ることは出来ない」
「どうして?」
「そういうふうになっているからさ」
ほとんど間も開けずに質問を続けていた少女だったが、ついにそこで黙り込んだ。言葉を押しつぶされるような威圧感が男の台詞にあったからだ。理屈にも何にもなっていないのに、納得せざるを得ないような、ある種の強迫観念に少女は駆られた。
「君、盗みをしたことはないか」
「ない、です」
「小さいころ親の財布からこっそりお札を抜いたり、友達が持っていたものが欲しくなって取ってしまったことはない、と?」
「すいません。あるかもしれません……」
視線を落として表情を沈ませた少女を見て、だろうな、と男は思った。欲望に忠実な子ども時代に、盗みを働かない子のほうが少ない。余程に純粋か世間知らずかのどちらかだが、どちらにしてもそんな子はこの館には来ない。
「嘘は駄目だと言ったろう。後悔するのは君自身だぞ」
「いえ、ただ忘れていただけで……」
「良く考えてから発言するようにしなさい。君が人と言葉を交わせるのは、もしかしたらこれが最後かもしれないのだから」
しん、と室内が静まり返った。これから起こるであろう現実を言葉にされて、少女は少なからず怯えていた。手の平には汗が滲み、顔色は血色を若干失いつつある。先ほどから話す声が微細に揺れ、呼吸に粗が所々見て取れる。それが決して男の存在に対してというわけではないのも分かる。彼女は一番最初に男の顔を見たきり、たったの一度も目を合わせようとはしなかった。男という、自身の選択した現実から惨めでも良いから逃げたいという意思が見え隠れしていた。しかし室内にはいかにも洋風の館に飾られていそうな誰とも分からない人物画が壁に掛けられており、それらが少女の逃げた視線をしっかり捕まえて離さなかった。
「本当に、私は後悔するんでしょうか……」
少女が小さく呟いた。
「どういうことだい」
「死んだ後になんか、後悔出来ないですよ。未練なんか残して幽霊になっちゃう性質じゃないですし」
駄々をこねる子どものような口調で言う。それに対して、男は至って真剣そうに顎に手を置いて考えた。
「君は、幽霊にはならないと絶対の確信があるのか」
「現世に未練とかないですよ私は。良いことなんてひとつもなかったし、いやなことだって正直どうでもいいです」
「そんなことじゃない。君は『幽霊は未練があるとなってしまう』なんて、絶対だと言えるのかと訊いているんだ」
言っていることの意味が分からなかったのか、少女はどこかの空間を見つめながら首をかしげた。男もいらないことを言ったと思い、数秒黙り込んだが、簡単なことだよと言って付け加える。
「人の口からは本当のことはあまり出てこないものだ。誰でも天邪鬼な心は持っているもので、君が未練はないと言えば言うほど、本心はあるのかもしれないと私は探ってしまうんだよ」
「それは、嘘つきってことですか」
「ちょっと違うのかもしれない。でも、そうかもしれない。それは私にも分からないことだ。人の心が読めるほど高尚な人間になったつもりはないしな」
いまいち掴み所の見えない男の言葉に少女は口を閉ざした。
人の心はいつまで経っても読めない。どれだけ男が人の死を目の当たりにしてきても、分からないことは分からないままだった。人死にに慣れるという行為が、少なからず自身に影響を与えると信じていた男にとってそれは、落胆の理由の一つだった。人は死ぬ間際まで何を考えているか分からない。それは死にたい理由を聞いていても同じことで、今回の少女にしたって、恨みを思っているかもしれないし、昔付き合っていたボーイフレンドを想うかもしれない。こうして可能性のある限り、男の好奇心は満たされない。ぐつぐつと音を立てる好奇心を前にして、収める方法は冷ますことではなく、上から土を被せることが正しかった。
「提案をやろう」
静寂の膜を破って、男が言った。
「提案?」
「そうだ。今日と明日、君に猶予を与えようと思う。君だって立派な人間としての感情を持っているのだから、自分の生命が終末を迎えると覚悟出来るほど完ぺきな造りはしてないだろう。だから、一日だけここにいて考える時間をやろう」
「ここって、この館でですか」
決して雰囲気が良いとは言いがたい室内を見回した。
「勿論。安心して良い。食事も出すし寝床も与えよう。ただし、逃げることだけは許されない。いや、逃げても良いが君はやはり後悔することになるだろうね」
「どうして私が後悔するんですか」
「そういうふうになっているからさ」
先ほどと同じ返答に、少女は顔をしかめた。逃げ口上ではないが、まるで世界が生まれたのはそうであるから、だなんて抽象的で意味の分からない哲学を聞かされているような気分になり、要領は得ないし下手にはぐらかされている気がして不満を募らせる。男はそんな少女の不服な表情を読み取ったのか、彼女の眼をしっかりと見据えた。
「どうする?」
少女は手の平で作った拳を太股の上に置いて、何かに耐えるように考えた。後悔は無い様に、未練も無い様にここに来たつもりが、自身の中でゆっくりと首をもたげてきた不安や迷いに少なからず戸惑っていた。男と話しているうちに、刺さっていた小さな針を見つけてしまったような微妙な心残りが血がにじんでいくように広がっていくのを少女は内に感じた。
「私が明後日に、やっぱりやめるって言い出したらどうするんですか」
「もちろん君を帰そう」
「あなたは私に死んで欲しいですか?」
間髪入れずに飛んできた質問にしては、男の言葉を詰まらせるものだった。無論男とて享楽を感じて殺人を犯すわけもない。誰かに死んで欲しいと望めるほど狂気的な思考も持ち合わせていなかったが、その反面彼女のような無関係な人間にその死への願望を抑えさせようだなんてご立派な親切心も無かった。男は迷って言葉を詰まらせたわけではなかった。ただ、あまりに直線的な視線に押されてしまった。死ねと言われれば容易に死んでしまうようで、同情を与えれば簡単に引き下がってしまう弱さも含んだ、ぐちゃぐちゃな模様の瞳を視線の先に見た。だから男はこう答えた。
「君が死にたいのならば、死んで欲しいかもしれないな」
「それは、私が死にたくなかったら死んで欲しくないんですか」
「そうかもしれないし、ちょっと違うかもしれない。少なくとも人の死を望めるほど狂った人間になるつもりもないんだよ私は」
「こんなことをしているのに、そんなこと言うんですか」
「こんなことをしているから、こんなことでも言わないといけないんだ」
それが男の抑止力であり、大きな箍だった。これだけはどうやっても外す気は無かったし、男の内に潜む大きな好奇心の波すらも超えることは出来ない強靭なものだった。
男がしていることは無論殺人であり、世間一般からは認められるものではない。他に事業が存在するとはいえ、闇市場で売買を行うものと同義の存在であり、もしかしたら更に悪質なものかもしれない。珍しいことに、男は正気だった。同業者たちは皆、精神的な病に伏すか、それともそもそも快楽の延長線上にいるかの二択でしかなく、どちらも狂っている。その中で男は至って正気で殺人を犯し、その後も暗黒の波に飲み込まれることなく日常を過ごしている。男本人にとっても、それこそが異常とも取れたが、彼はこの行為の先にある罪悪感を感じないために様々な工夫を凝らした。それゆえの正気だった。
男の言葉に満足感を得たわけではなかったが、少女は噛み締めるようにその言葉を脳内で巡らせ、結果として男を信じることにした。
「一日だけ、考える時間を下さい。みっともないと思います。でも、やっぱり……」
「大丈夫だ。死のうと思って直ぐに死ねる人間ほど、人間らしくないものはないから」
少女はその台詞に少しだけ安心して、猶予を貰うことにした。
少女は当てられた部屋で一夜を過ごした。ベッドは新品さながらの弾力で寝心地がよく、窓を開けると微かに香る森の匂いが一層安心感を与えた。本で見た西洋の王宮のような一室は、彼女に世界に対する地味な優越感を与え、気分を高ぶらせる。しかし、そんな高揚もひと時のことで、必死になって森を抜けてきた少女の身体はもはや体力の限界で、床に就くと十も数えないまま意識を落としてしまった。
目が覚めた少女は、まず真っ先に自分がどこにいるのかが分からなくなった。整理整頓の行き届いていない、乱雑に物が散らばった自分の部屋とは真逆の位置にある部屋に、一瞬の困惑を覚えた。昨日の朝から晩のことを順に思い出し、彼女はどうしてここにいるのかを納得した。
突然扉が開くと、そこから紳士服に身を包んだ男が現れた。手には銀板のトレイを持って、上にはサンドイッチが二つと、一口サイズに切られたオレンジが乗っている。もう一方の腕には真っ白な給士服がかけられていた。コツコツと、足音を鳴らしながら男は近づいてきた。
「おはよう」
簡単な短い挨拶。少女もそれに一礼で返し、眠い目をこすった。
「私、一日の猶予を貰っているんですよね」
二つ目のサンドイッチを手に取りながら自分に言い聞かせるように言った。
「そうだね」
一日の猶予の時間。男は少女にその時間をどう過ごすかを自由にしていた。屋敷内を見て回ってもいいし、一日この室内でのんびりとしていてもいい。森の中へ出かけてもいいし、兎に角何をしてもよかった。少女はサンドイッチを片手にして、どうしようかと考えた。そもそも自分はここに自殺をしにきたというのに精神が揺らげばまるで旅行気分だ。男が提案したこととは言えども流されてしまう自分に、少女は少なからず自己嫌悪を抱いていた。しかし、その反面今すぐにでも死ねるかと聞かれると、やはり尻込みしてしまう。そんな心理を男は分かっている。これもまた彼のボランティアの一環だ。強要しない、迷いがあるならば待つ、帰りたければ帰す。だから彼は優しげな表情を作る。
「私が今日、いえ明日以内に答えが出せなかったらどうするんですか?」
「そんなことはありえない」
「どうしてですか」
「迷っている人間は死ねないからだ」
少女は言葉に詰まった。口内のパンを租借することを止め、どこでもない場所を見つめた。
「何、焦ることはない。選択する時間はまだ残されているから、ゆっくりするといい」
少女の座るベッドの横に男は給士服をかけた。それを見て、そういえればと少女は自分の格好を見直した。昨晩は疲労から意識することなく眠ってしまったが、少女の服装は乱暴されたかのようにボロボロで、外を出歩けるような格好ではなかった。必死の精神は羞恥心すら隠していたが、それに気付いた少女は給士服で自身の身体を隠すと、男に出て行くように命じた。
「オレンジは置いていくよ。朝に柑橘系のものは目覚めが良い」
傍にあった机にトレイごと置くと、男は部屋を出て行った。残ったオレンジがかすかな柑橘系の香りを森のそれに滲ませ、ふらふらするような芳香を漂わせた。
給士服に着替えた少女は男を捜していたが、数十分も経って見つからなかったため、諦めて屋敷内を適当に回ることにした。手入れの行き届いた赤い絨毯が足裏に心地の良い感触を与える。淡く灯っている壁にかけられた明りが光沢のある廊下を照らす。草木に覆われた外観の表裏を表すように、屋敷内には埃一つ落ちていないんじゃなかと思えるほどに潔癖な状態に保たれている。むしろ、室内から吐き出したものが外に溜まっているのではないかと疑えるほどに、両者の差は大きかった。
少女に当てられた部屋は二階だったので、彼女はやけに広い階段を降りてロビーへ出た。天井には輝かしいほどの装飾で彩られたシャンデリアが吊られている。家庭の電灯とは違う明りは蝋燭から漏れる光に良く似ていた。少女はそれに微量の毒素を感じた。狐に化かされるわけではないが、ある種視界に陽炎のようなものを見る。蠱惑的な模様をした蝶を追いかけてしまうような誘惑がそこにはある。目を閉じて振り払って、彼女はロビーから東側にある廊下へと足を進めて行った。
敷地は少女の感覚にして自宅の五、六倍、いやもっとあるだろうか。どれだけ歩こうとも内部を知り尽くすことが出来ないのではないかという錯覚にすら陥る。散策にも飽きてきた時、目の前に他のものとは明らかに違う古めかしい扉が現れた。木製の扉で木目が浮き彫りになるほど荒削りな表面をしている。鉄で出来た輪状のドアノブのある扉。八本足の蜘蛛の装飾がノブから垂れ下がっている。衝動的な好奇心から少女はそれを引いてみたが、びくともしなかった。手の平に鉄の臭さが残っただけだった。少女が扉に触れて、じっと耳を澄ましてみると、地獄の住民の呻き声が聴こえてくる気がした。気がしただけで、実際には自分の呼吸の音が聞こえるだけだった。ぶつぶつっと湯が沸騰するようにぶるり、と彼女は両腕一面に鳥肌を立てた。一瞬それが醜悪なものに見えて、途端に気分を悪くした。
自分は間違えたのではないか。少女は恐ろしさから自身がここにいる理由に対して疑心暗鬼になった。どうにかして天国へと昇るつもりが、どうしてか地獄に落ちてきてしまったのではないか。扉は蠢いているように見える。今にも木目から恐ろしい手が飛び出てきて、自分を引きずり込むのではないか。考えればそうするほどに、心音が耳奥で五月蝿く鳴る。眉間の血管が千切れそうになるほどに莫大な量の血流が身体を循環している感触を得る。
「……」
糸が切れたように、ふっと少女は息を吐き出し、ようやく扉から視線を外した。
「おや、その扉が気になるのか」
突然男が後ろから声をかけてきたものだから、少女は内心飛び上がって勢い良く振り返った。そこには銀板を持った男の姿があった。少女の部屋から回収したのだろう。上には食べ残したオレンジがある。
「気になるというか、これだけ違う扉だったから……」
「そこは倉庫だ。父親が残した無駄に豪勢な遺産が残っている。価値が高いものが多いから、そこはあまり見せることが出来ないのだがな」
「そう、なんですか」
聞いてから見ると、少女の目にはそれは頑丈そうに見えた。蜘蛛はさながら門番という所か。王家の遺産と言われれば実に不釣合いなものだったが、ここが地獄か天国であるならばそれもしっくりと来るだろう。
「檜、なのかどうかは知らないが、まあ私も開けたことがない。鍵もどこにいってしまったか分からないしな」
「鍵があるんですか? 鍵穴が見当たりませんけど」
「蜘蛛の装飾の裏側に穴がある。どういう造りになっている知らないが、実に奇妙だろう?」
少女が装飾を裏返すと、確かに小さな穴が蜘蛛の腹に開けられていた。
「気持ちが悪いですね。奇妙というか、悪趣味です」
「人の親の趣味をそう愚弄するものじゃない。それに、蜘蛛は益虫だぞ。私の屋敷にも十匹は欲しいな」
「蜘蛛を飼うんですか?」
「何せ広い屋敷だろう。害虫駆除なんかも一苦労だ。まあ、そんなものが出るほど汚濁にまみれて過ごしている気は無いが」
「でも、蜘蛛なんかいたら嫌じゃないですか」
「いや、この屋敷には良く似合う」
「まあ……確かに」
垂れ下がった蜘蛛の姿は様になっていた。そこに一匹存在するだけなのに、どこか我が物顔で屋敷を占領した気でいるようだった。
「しかし……蜘蛛というのは実に人に好かれない。蜘蛛は人を襲いなどしないというのにな」
「見た目が最悪じゃないですか」
「それで本質を判断してしまうのは誤りじゃないか?」
「じゃあ貴方は見た目が最悪な女の人を好きになれるんですか」
男は一瞬天井に視線を逸らして言った。
「これは一本取られた」
結局、人は醜悪なものを好かなかった。
少女はその後、屋敷を出て庭にやってきた。荒廃した地面が、先ほどの絨毯とは真逆の感触を足裏に与える。外と中が如何に違う世界にあるのか、少女は身をもって知らされた。少し足踏みをしてみると、土の乾いた臭いが舞い上がってくる。咳き込みそうな砂塵を振り払って、庭の中心部分に来た。ひび割れ、蔦にすっかり犯されてしまった噴水が石化した生物のように突っ立っている。以前は生命があっただろう香りを臭わせるのが、少女には酷に思えた。噴水の上に立っている婦人は、持っている水がめから透き通るような水を流さない。鳥の糞で汚された様は、どう見ても死んでいる。自身の成れ果てに愁色な表情すら浮かべる暇が無かった。生きたまま、殺されている。
少女は様々なことを想像して、知らぬ間に自身が石化してしまったことを考えた。一秒前まで普通の生活を送っていた自分は、意思も意識もなく死んでいる。その様子を想像しようと必死になったが、少女の頭の容量を大きく越える結末に、ただ頭痛を引き起こすだけだった。見えないものを見ようとしても、見えなかった。
地球の外側を見ることに成功した人類。宇宙の奥を見ようとした人類。銀河を確認した人類。そこまで成功した人々は、どうしても死後を見ることが出来ない。自分の生からたった一歩踏み出すだけの事なのに、人はその一歩という境界線を越えた瞬間、盲目になる。口も聞けなくなり、意識も無くなる。宇宙という一歩では到底行けないような場所にさえ行けた人々は、大気圏という高圧の境界線を越えて尚、生の境界線を越える事が出来なかった。故に宗教が生まれた。地獄絵図が描かれ、聖書によって天国も描かれた。時には人在らざるものも夢想した。しかし、それでも「こうである」と断言出来た人は誰もいなかった。
少女は石化した婦人を見上げた。そこに境界線が存在しているような気がして、どうしてか憧憬の念すら沸いた。彼女は悩みもなく死んでいったのだろう。しかしそう、少女は今こうして、婦人と似たような方法で死のうとしていることを、今更思い出す。
「楽に死ねるって、どういうことなんだろうな……」
ふと呟きして漏れた言葉は、荒涼の風に攫われていった。
伸びきった雑草を踏みつけながら、少女は屋敷から離れて森の中に入っていった。少しでも奥に行けば、たちまち大自然の迷宮が現れる。入り口付近で少女は立ち止まり、濃厚に漂う緑の匂いを胸に吸い込んだ。決して気持ちのいいものではない。少女の後ろに広がる光景こそ陽光差し込む温かなものだが、正面に一歩踏み出せばぬるりとした湿気が覆う森だ。またしても少女は際どい境界線上に立っていた。
そこを飛び越えれば、少女は帰ることが出来る。また辛い道のりが待っているが、少なくとも少女は生き延びることが出来る。ただ、少女にはここを飛び越える際の、勇気と理由が足りなかった。
「帰るのかい」
疑問詞がつかないだろう、強迫めいた口調が再び少女の後方から発せられた。
「……」
彼女は答えずに、黙って足元を見た。
「気をつけたほうがいい。人の一歩というのは実に大きいもので、踏み出してしまえば後は急降下だ。果たしてどこまで辿り着いてしまうのか、自分自身で分からないくらいにな」
少女の目の前の森が急激に収縮され、まるで銭の穴から見る光景のように、距離の深遠が近づいた。深緑の色彩が夜の闇よりももっと重く、底なしの暗さを少女に感じさせた。そこには段差は無いはずなのに、踏み入ってしまえばどこまでも落ちていく気がした。
「帰りませんよ……。私はまだ悩んでます」
「そうかい。まあ、後悔だけはしないようにしてくれ。放り投げで死なれても困る。君はただの死に方を選んだのではないことを、意識しておいてくれ」
「どういうことですか。死ぬも死なないも、死に方だって私の自由なんでしょう?」
「しかし君が自棄で死んでは私は立派な犯罪者になる。君が自分から、進んで、望んでこの世界と関りを断つことが重要なんだよ。君が君の死に方を選ぶのは勝手だが、君が飛び降り自殺者のように身勝手に死んでもらっては、わざわざ私がここにいる意味も立場もない」
ずい、と迫る黒い執事服。白い手袋はしていないが、赤いネクタイがやけに目に付く。日に全く焼けていない薄い肌色の手を差し伸べ、男は薄く笑った。
「まあ、結局は自由だよ。私が君に出来ることなど何もありはしない。あるとしたら、最期の一瞬だけだ」
少女は後方の黒に引寄せられるようにして後戻りし、男の手は取らずに彼の横を素通りして行った。そうして丁度、男の後ろ側に立って、呟き漏らした。
「この場所で言う、安楽死ってどういう死に方なんですか」
少女はまだその方法を聞かされていない。契約書と、罪状確認を行い、意志の強さを計られただけだ。彼女はここで、どうやって「楽に死ねる」のかをまだ知っていない。
男が人差し指を立てた。それと直角になるように親指も天を指すように立てる。
「『銃殺』だよ」
大きく手首を弾き、換わるように人差し指が天を指す。指差した人を、そのまま追っていくようだった。
「嘘ですよね? 銃殺なんて、凄い痛いじゃないですか」
「それが痛くないから不思議なんだ。父親から受け継いだ遺産の中にそういうものがあった」
「誰が信用するんですかそんな話。スポンジでも飛ばして殺すつもりですか?」
少女の語尾が怒りに波打つように荒れてくる。言葉が言葉を追うように、焦りが滲み出ていた。
「信用してもらわないと、私にはどうしようもない」
安楽死は本来ならば薬品を使うことが多かった。脳に急性ショックを起こすか、凶悪な睡眠薬を投薬するか。もしくは全身麻酔を打った後に心肺機能を停止させる何かを起こすという方法も採られた。少なくとも、『銃殺』などという武器を使ったものは類を見ない。少女が困惑するのも当然だった。
「言っておくが証明は出来ないぞ。死人に口なし、誰にもそれは分からない」
「なら貴方はそれが痛くないってどうして言えるんですか?」
「それで苦しまないからだ」
まるで単純思考な答えに、少女は呆れるよりも驚いた。
「そんなこと……」
続きを言えば鼬ごっこになると悟り言葉を遮った。ふと森を見れば帰路が手招きしているように、幾多の緑がさざめいていた。男のあまりの信用の無さに頭を抱えたくなるほどだった。ぐっと足に力を込めて少女はふら付きを堪えたが、彼女の中は今にも駆けて森の中に入って行きそうだった。
「聞け。一瞬の苦しみもなく死ねる方法なんて存在しない。我々、安楽死を提供するものも医者も、『死期を急激に早める』ことが目的であって、無意識で殺害することじゃないのだよ。ただし、君のように健康な人間は、『極限まで少ない痛みと苦しみ』で殺すしかない。それを実行して、私の目の前で人が苦しまなかったらそれは正解だろう」
「でも、銃殺なんて……」
「ならば大量の農薬でも飲んで死ぬか? きっと苦しいぞ」
「……」
「そういう方法で死にたいのなら死ねば良い。それも嫌なら、さっさと電車にでも身投げすることだな。意外と痛くないかもしれないぞ。何にせよ、迷っているのは君であって私ではない。全て君の自由だ。悩むのならば悩め。人として間違っていることではないのだから」
少女の天秤は前方と後方にあるものを比べている。どうやって比べても、どちらも重すぎて皿が落ちてしまう。計測不可能を示した測りを見て、少女はひたすらに頭を悩ませた。
男は雑草を踏み倒して去って行った。その後には足跡が点々と続いている。何か名残惜しいのか、荒れた土は中々足跡を埋めようとはしない。黄緑色で何の特徴もないただの雑草は、死んでしまったかのように土に埋まっている。びくりともしない。時折森の奥から吹く冷たい風を受けても、ちょうどその部分だけが穴が開いてしまったように揺れることはなかった。
斜陽が差し込む時間になっても少女はその場を動かなかった。物思いに耽っているというよりは、広大な海に浮いているような不思議な脱力感が彼女を襲っていた。突風が吹けば今にも飛んでいきそうな危うさもあった。少女の視線はただ一点に集中される。森の奥、緑より黒のほうが印象的な世界。杭に打たれたように動かない。呼吸すらも忘れてしまったように、少しもぶれずに直立不動。少女は地面から群がるように伸びてきた葉に足を絡められているのを感じた。踝から膝へと登り、臍から胸へと這い上がってくる。屋敷を覆う蛇のような蔦と同様に、身体を絡め取られる。首元まで来て、ようやく胸の奥がぐっと押される感覚を感じ、少女は吐息を漏らす。夕日に焼けて潰れた空気が容赦なく肺を枯らす。少女の視界に差し込む橙色の光がチカチカと脳裏を燃やす。ぐいぐいと少女を森に連れ去るように押す強制力が働いていた。太陽が西に完全に沈みきった時、少女は草の絨毯に身を横にしていた。まだ微かに垣間見える明るみが群青色と化した空の隙間に写っているのを見た。身体は緑に沈んでいる。鼻腔を突く香りは濃密な自然の吐息のよう。それによって覚醒されたように少女は立ち上がり、森を背にした。昼と夜の境界線は消え、森と屋敷の境界線は見えなくなった。
夕食の時になると、少女はいても立ってもいられなくなった。覚悟を決めたわけではなかったが、少女の心は洗い流されたようにすっきりとしていた。彼女が必死に悩んでいたものが、何かに攫われて行ってしまった。森の奥に吸い込まれたのか、土の底に消えたのか、夕日に焼かれたのか、はたまた婦人に貰われたのか。思いつく限りの可能性を考えてみたが、少女はどれもしっくりと来なかった。
八つの椅子が左右に合計十六個並ぶ長いテーブル。真っ白なテーブルクロスの上には生き生きとした真っ赤な花が飾られている。少女の前には豪勢な肉料理と色鮮やかなサラダ。透き通った水の入ったグラスを持ち上げて、少女は婦人の持っていた水がめを思い出した。このまま時が止まってしまえば、と思った途端に怖くなり、少女は勢い良く水を飲み干した。
「おいしい……」
舌を通り抜けるほのかな旨みに少女は素直にそう感想を漏らした。
「そうだろう。名水指定されている場所の湧き水だからな。一応煮沸はしているが、生でも飲める」
「それに、このお肉。一体どこから仕入れて来てるんですか」
「普通に街からだ。何、立場上金には困らないのでな。存分に贅沢させてもらっているよ」
じゅう、と音が鳴りそうな肉を頬張りながら男が言った。
「なんだか……幸せそうですね」
「私が幸せそうに見えるのか」
「だってこんなに美味しい料理を毎日食べられて、幸せじゃないはずがないじゃないですか」
目の前の料理は決して働けもしない若者が口にすることの出来るものではない。舌鼓を打つ彼女は少なからずその瞬間には幸福だった。
「そうだね。私はきっと幸せ者なのだろうな。まともに働くことを止め、勤勉すらしていない私は君たちよりもダメな生活を送っているくせに、贅沢が出来る。夢のような世界と立場にいるものだ。しかし、なんだろうな。骸骨が食べ物を与えられても、何も受け取れないように、私も贅沢を上から下に流しているだけなのかもしれない。私は少なくともこの料理で幸福を得ることが出来ない、よっぽどの贅沢者なのだよ」
「それは、不幸ですね」
俯き加減に少女がそう漏らすと、男は自嘲の笑みを浮かべた。
「自分でも分かりはしないのだよ。自分が幸福かどうかなんてのは。むしろ君の意見のほうが多少なりとも参考になるものだ。私の話を聞いて私が不幸だと言うのならば、私はきっと不幸なのかもしれないな」
少女と男の距離は遠く、男の表情は窺いづらい。銀と銀が擦れ合う音に紛れて、男が鼻で笑った。
「君は……自分が不幸だとか、幸福だとか思ったことはあるかな?」
「自分が幸福だと思っていたら、私は今こんなところには来ていませんよ」
「なら何故自分が不幸だと思う?」
フォークを置いて、少女は問いを考える。
「自分の価値が無いからだと思います」
「価値?」
「あの羊皮紙にも書きましたけれど、私の人生失敗ばかりで良いことなんか何もありませんでした。親には怒られるし、友達はいなくなるし、その内一人で過ごしてたって誰かに迷惑をかけているんじゃないかと思い始めて、じゃあ私の価値って何だろうと考えたら、何も思いつかなかったんです」
少女はひたすらに空虚だった。少女が思い返せば、学業の成績が悪い上に努力をしても実らずに厳しい両親に怒られ、勉強を努力しようと思えば友人関係が疎かになり友達はいなくなり、一人でいれば「根暗」と声をかけられて誹謗中傷されたりと、彼女には行き場が無かった。
「いじめとか……受けてた頃もあったんですけれど、その時自分はこういうことをされることが価値なのかな、とか、今思えば気持ち悪いことも考えてました。ネガティブですね、本当に」
「それで、価値の無い君は不幸だと」
「だって不公平じゃないですか。方や価値がある、例えば勉強が出来て褒められたりとか、立派なことを成し得て成就した人とかがいるのに、私は思いつく価値と言えばストレス発散の道具みたいなものしかない。何なんですか、幸福って」
奈落層に住むものが上層の人間に物を乞うような目を男に向けて、少女が鋭く言い放った。
男は一度ナプキンで口元を拭き取ると、肘を机の上に置いて、すっと精悍な顔を見せた。
「とある哲学者が、『人として生を受けた時点で最大の幸福を逃している』と言葉を残しているのを君は知っているかい」
少女は首を横に小さく振った。
「そうかい。まあ、大分どうしようもないことを言っていると思うだろう。私たちの幸福は人間である限り全否定だ。どうやら最大の幸福はさっさと生まれ変わってどこかの草木にでもなることが最善なのかもしれない、なんてことになってしまう」
ごぉんと、古時計が時間の経過を鳴らした。びりびりと痺れるような空気の震えが二人の間で行き来した。
「小難しい感情を考えるのは人間だけであるし、価値なんて『あるのかもわからない』ものを考えて悩むのも人間だけだ。素直に生殖本能に従って生きれない不幸、そんなことをこの哲学者は説いたのかもしれない。そうは思わないか?」
「……」
時計の秒針が緊張感に一本一本慣らしの針を刺すように秒針を刻む。チク、タク、チク、タクと、人の心臓の音に合わせるように鳴る。少女はその音に心臓のリズムが狂わされるような気がして、冷や汗を流していた。
「価値、とは不思議な言葉だな。自分の価値を見出すということはつまり、誰かに利用されたいという願望に似てはいないか? 私の価値とはなんだ? 君をこうして楽に殺してやる手段を提供することか。そんなものが価値なのか。死にたい人間に頼りにされることが、私の価値だというのならば、そんなものはいらないだろう。ゴミ溜めに吐き捨ててしまいたいくらいだ」
興が乗ったように口を滑らかにする男。いつの間にやら腕を組んで偉そうに踏ん反り返っていた。
「じゃあ、私たちはどうして生きているんですか」
目線は合わせないで少女が言う。
「ならば犬や猫はどうして生きているんだ。分からないだろう。生きることに意味など無いとは言わない。しかし我々生きているものにはそれが分からない」
「じゃあ死ねば分かるんですか」
「そうかもしれないな」
それも分からないが、と男は最後に付け加えた。
「死後、価値を見出される芸術家が多いだろう。何故だか分かるか」
「死んだら価値が生まれるからですか」
「安直だが間違いじゃない。逆の、生きている間に価値がないからだ。生というどうにも観念的な存在は、まるで着ている服で第一印象を決めるように、人の身体に張り付いて他人に自分の価値を測らせるもののようだ。測らせている、というのはつまりその時点で結論が出ない。人の真の価値は死んでからつけられるのかもしれない」
肉を頬張る男にとって、その牛の価値は肉になってから決まる。生きている間の牛に消費者は何の価値も見出さない。殺されて食用となったその後、初めて牛の価値は決まる。そんなことを少女は考えて、目の前の料理に手を出しにくくなってしまった。哀れみからではなかった。何か恐ろしいことをしているようで、自分の行動に疑心を抱いていた。
「そう考えれば……君が今自分の価値がどうのこうのと言っているのは馬鹿らしく思えてこないか?」
演説を聞かせるように大仰な仕草を取って少女にそう訊いた。
「私は、それでも生きている内に価値が欲しいのかもしれません。だって、ただの一度も褒められた記憶がないだなんて、自分のことを語っているのに同情しちゃいますよ。安心、出来ないんです。こんな風にして生きているくらいなら、やっぱり死んだほうがましっていうか、何で生まれてきたんだろうって思っちゃいます。それは、どんなに理屈を並べられても仕方が無いことなんです。貴方の言葉を借りるなら、人として生まれてきた以上、考えずにはいられないってことですから」
「それは、不幸だな」
「私のことをそうして不幸と言える貴方は、きっと幸福なんでしょうね」
男は苦笑いを浮かべて、そうかもしれないなと呟いた。
「なんだか良く分からない人ですね、貴方は」
「私が?」
いかにも心外だというような顔で男は聞き返した。
「私を殺すことが仕事なのに、なんだか死ぬなって言われているみたいです」
「おかしいだろうそれは。私は君が価値を求めているから、死ねば価値が出来るのではないか、というような内容の話をしているのだぞ」
「でも、生きている内に価値なんて無いんだから、そんなこと考えずに生きろって言われている気もしますよ」
「そうか……。確かに、そういう気もする」
少女が小さく微笑したのを見て、男は不思議と不快には思わなかった。
「私が死んだら……私にはどんな価値が生まれると思いますか?」
すっと部屋に浸透していくような静かな声色で少女がそう言った。
「君はそこまでして価値が欲しいのか」
「それは、自分でも良く分かりません。ただ、自分に価値がないことを後悔していたんだから、きっと価値が欲しいのかもしれません」
「君は本当に不幸な人間だな。そこまでして何故価値が欲しい。価値がないことは不幸じゃない、価値を考えてしまう事が不幸なんだよ」
「言ったじゃないですか。それでも欲しいって。私が人として生まれてきた以上、私が人の形をしている以上、人でいた事への価値が欲しいんです。諦めていました。でも、貴方は死ねば何らかの価値がつくかもしれないって言ってくれた。私はその形が欲しいです」
男は目の前の少女の確固たる意思を嗅ぎ取った。そして同時に頭を悩ませた。何を言えば良いのだろうか。まるで突然の愛の告白に戸惑う人のように、男の頭は混乱していた。今まで仕事をしてきた中で、こういう形で価値を求めてくる人はいなかった。誰しもが現実へ絶望し、死後の世界へ期待を抱いて死んでいった。時には自分の存在意義を問うてきた人もいたが、縋り付かれたのは男にとって初めての経験だった。最初、少女の瞳も声も今までと同じ諦観と期待の入り混じった奇妙なマーブル模様を描いていたというのに、知らぬ間にまるで他人のものと丸々入れ替わってしまったような変化をその中に見る。男は思わず身震いを起こした。価値を求めた彼女は笑う。小さく、少しでも押してしまえば潰れてしまうような枝を頼りにしている心もとない笑顔だが、男の前でその表情を見せたのは少女が初めてだった。それが、男には怖くて仕方がなかった。
「君は……一体この屋敷で何を見たんだ?」
努めて冷静に男はそう訊いた。
「境界線を見ました」
「境界線?」
「そうです。色々な境界線を」
「それを見て君は変わったのか?」
「変わってなんかいません。ただ、どうしてか怖くなくなっただけです。先が見えなかったものが、ああ、こういうものなんだって分かったら、気が楽になりました」
「例えば?」
「昼が終われば夜なんだなあとか、屋敷を出たら森なんだなあとか、昔は綺麗で、今は汚いんだなあとか、そういうものの間にある小さな線が、見えた気がしました」
「なんだか要領を得ないな」
「私は生きている世界に未練はないって、最初に言いましたよね」
「そうだな、確かにそう言った」
「でも私はこうして一日の猶予をもらって悩んでいる。やっぱり怖いんです。自分が死んだ後の事が。死んだ後地獄だったらどうしよう、死んだのに誰も気づいてくれなかったらどうしよう、そんなことばかり考えて、先に進めなかった」
男は黙り込んだ。黙る事しかできなかった。
「でも、なんとなく分かりました。いえ、分かった気でいるだけかもしれませんけれど」
「それは?」
「私が死んだら、何かが始まります」
子犬が入っていると思っていた箱の中には、質量を無視した大きさの獅子が潜んでいた。もしかしたら、箱の中で孤独に飢えていた子犬が一人で成長した姿なのかもしれない。そのどちらにせよ、男は驚愕せずには入られなかった。言葉の一つ一つが不可解の箱の中に放り込まれ、焦ってそれを拾おうとしてもがいている。男は知らずに生唾を飲み込んで胸の奥にとんでもなく重いものを落とした。
「境界線を越えるって言う事は、つまりその先に何かがあることだと思います。その境界線が見えなくて怖かった。でも、考えれば簡単な話でした。境界線は「死ぬこと」でした。糸よりももっと細くて目を凝らしても見えなさそうでしたけれど、意外に簡単に見つけることが出来ましたよ」
「馬鹿なことを言うな君は。死とは人の経験の中でも唯一の存在だ。誰もそれを持って帰ることが出来ない、君の言うところの境界線の先にあるものだ」
「そんなことありませんよ。境界線を見ることは簡単です。超える事は難しいかもしれませんが」
「ど、どうやって見るんだ」
少女は目を閉じた。少女の視界からはすべてがシャットアウトされ、少女の持つ暗闇だけになった。男も同じように目を閉じると、彼の視界からもすべてが消えた。
「――ほら、見えた」
男には何も見えなかった。何を見ればいいのかも分からなかった。暗闇の中で手探りに探す自分をイメージしてみても、その手のひらの感触には何もなかった。
「何を言っているんだ……?」
怒り狂いそうな感情を押し込めて、男は火を吐くようにいった。
「私は明日、この暗闇を越えていくんです」
大仰な台詞、まるで自分は宇宙を旅するんだと言わんばかりのある種電波めいたものに、男は鳥肌を立てずにはいられなかった。
「君は、死ぬ覚悟を決めたのか」
「はい。だから言ってください。私が死んだら、私にはどんな価値が生まれるのか。私は今、それだけが欲しいんです」
男は自分が彼女に対して何を物申す事ができるのだろうと、強烈な劣等感を感じた。価値を覚える事こそ不幸だと提唱している男に、何故人の価値を語ることが出来るだろうか。男はこれを拷問なのではないかと思った。今まで犯してきた罪を、『最後の最後』で清算しようという神の計らいなのではないかとも思った。
「君の親が、悲しむのではないか?」
慎重に言葉を選ぶことすら出来ない。彼は今、逃げている途中でものを落とすように言葉を紡いでいる。
「信用できません」
「ならば、君の友人知人が……」
「それも、信用できません」
追いかけてくる。じりじりと崖際まで追い詰められた男は、禁じ手を持ちいらざるを得なくなった。
「じゃあ、私が君を覚えよう。ただのどうでもいい自殺志願者などではなく、私の客人としてこの屋敷に、私の記憶に価値を刻もう」
「それは、辛くないですか?」
「きっと価値とはそういうものなのだろう」
「そうですか。なら、お言葉に甘えます」
そう言って少女はまた笑った。
「七年前のある日、私の家は強盗にあったことがある」
男が手にした拳銃をゴトリと音を立てて机の上に置いて、そう切り出した。時刻は午前六時を回った頃。薄いガラス越しに淡い朝日が差し込んでいる。マリア様像もステンドグラスも十字架もないが、まるで無人の礼拝堂のような場所に、男と少女はいた。屋敷の中のとある一室だった。
「なんですか突然」
「まあ聞いていくといい。どうせこの話を聞かせられるのもそろそろ終わりだ」
「はあ……」
良く分からないといった様子で、少女はしぶしぶと頷いた。
「うちが裕福なのは見ての通りだが、このように森林に囲まれていて客人は少なかったし、人通りなんてほとんどなかった。だから田舎でそうするように私の家は基本的に鍵をかけなかったんだ。客人を呼ぶときも、わざわざ森から出て迎えに行かなければならないほど複雑な道のりなのは、君も知っているだろう。何せ通ってきたのだから」
「そうですね。帰り道なんてほとんど分かりません」
「まあしかし、偶然というものもあるもので、その偶然がさらに不幸と重なって、うちの財産のことを聞きつけた悪党が、あの森を抜けて強盗にやってきた。その時はまだ私の父も母も生きていた。母は昼の食事を作っていて、父は書斎で仕事中だった。私は……なんだったかな、自室で寝ていたのかもしれない。ああそうだ、私は確かに寝ていた。私が眠りから目覚めたのは、まず銃声聞いたからだった」
少女の背中にぞわりと寒気が走った。しかし、目を瞑ることも耳を塞ぐ事もせず、男の言葉に意識を向けている。
「何、森の中だ。狩猟やら何やらが放つ発砲音はそう珍しいことではない。いつものことだろうと思いベッドで眠っていた。しかし、そうしているうちに今度は父の怒鳴り声が聞こえてくるではないか。流石に何の事だろうと思って玄関に出てみれば、母は血まみれで倒れていて、父は知らない男に銃口を向けられているではないか。ああ、これはまだ夢の続きなんだ、とそう思えたらどんなに楽だっただろうか。私はすぐに気づいてしまったよ、母は知らない男に撃たれ、今、父も同じ危機に直面しているのだと」
相槌を打つことすら憚られる内容に、少女は口を挟めない。男は喋りなれた口調で、話を続けた。
「幸い、知らない男は私に気づいていない。私が今すぐ飛び出して男に突撃でもすれば、父は助かるのかもしれない。そんなことが頭によぎったが、私の身体は恐怖でぴくりとも動いてくれなかった。いい大人の年齢をして、まるで子供のように怯えていた。その結果、父は撃たれて死んだ。母も勿論助からなかった。その後のことは良く覚えていない。ありったけの金を盗まれたのか、殺人の恐怖で男が逃げ出したのか、記憶は定かではない。ただ、私の身体にはその時の恐怖が張り付いて離れない。死への、恐怖がね」
噛み締めるような告白。男が吐き出しても吐き出しても抜ける事の無い恐怖は、震えた声で少女にも良く分かった。
「君は昨日、もはや死ぬ事は怖くないと言った。死の境界を見て、先を知り、君は死への恐怖を克服したと言った。そうだね?」
「はい」
毅然とした態度で少女は答えた。そこには一点の迷いも見られない。既に彼女を少女として見るのは間違っているのではないかと、男はそれを見て思った。
「私は多くの人を殺してきたが、それぞれが同じように死を望んでいるのに、死を怖がっていた。当然だ、私だって怖い。死ぬのは怖い、だが生き続けるのは嫌だ。そんな人間を沢山見てきた。彼は最期、逃げるように去っていく。自殺とは現実逃避の手段であると、そういい残すように死んでいく」
「私もそうでした。いえ、もしかしたら今でもそう思っているかもしれません。この世の中では生きていたくない、それは確かです。ただ、どうしてか自分でも気持ちの悪いくらいに穏やかで、きっと楽に死ねるような気がします」
「そうだ。君は実に穏やかだ。何故ならば、君は逃げているのではなく、向かっているからだ。老人がどうしようもない寿命で孫に看取られる時、そういう人たちは穏やかな顔をするという。それは、彼らは死に向かっているからだ。君は自殺志願者でありながら、死へと向かっている。瞼を閉じたその暗闇の向こうへ、超えようとしている。その心持は敬服に値する」
「褒めても何も出ませんよ?」
「これ以上は望まないよ」
男は置いた拳銃を手に取った。ずしりと重量のある鉄の塊。屋敷の遺産にしては質素な作りをしたリボルバー。金箔の装飾でも施されているものだと思っていた少女は、それを見て何故だか笑いそうになった。弾数は六発。リボルバーを開いて中身を確認する。一、二、三……すべて揃っている。この拳銃で既に男は多くの命を奪ってきた。いや、男からすれば送ってきた。既にそのものとはかけ離れた重さを持った銃口は、再び人に向けられる。
「名前とか……聞いちゃだめですか?」
向けられた銃口に向かって少女がそう訊いた。
「意味のないものは忘れてしまったよ」
「そうですか。残念です」
ハンマーが引かれた音がした。
「瞼を閉じるといい」
「もちろんそうさせてもらいます」
少女の視界に越えるべき暗闇が広がった。一歩踏み出してみると、境界線が一つ近づいた。
「そういうふうに……なっているんですね」
「なんだ突然」
静かに少女が呟いた言葉に、男が顔をしかめて訊いた。
「今だから言えることなのかもしれませんが、私はきっと帰れなかったんじゃないかと思います」
「それはどうして?」
「『見えた』からですよ。いいえ、見てしまった、とも言えるかもしれません」
「……」
「あの時、散歩に出て森の傍まで来た時、私は見てしまいました。それが良かったのか悪かったのかは分かりませんが、ただ呆然と「ああ、こんなものなんだな」と理解したことだけは確かです。はは、締まりませんね、どうにも抽象的で」
「十分だ」
「そうですか。それは良かったです」
男は黙って銃口を少女に向ける。その射程、的を外さないように、しっかりとグリップを握り、決して離さないようにしている。
「越えて行け。そんなことはどうでもいいように」
「もちろんです」
もう一歩踏み出して、そうしてどんどん歩いていくうちに、少女はついに小さなラインを跨いでいった。
男の部屋には少女が着ていた給士服だけが残っている。人型の存在は二人から一人に。まだ余韻が残る発砲の渇いた音に、男は身をゆだねていた。しばらくそうした後、重い足を引きずりながら男は屋敷の外へと向かう。少女が昨晩入ってきた玄関を抜け、乾いた土に足を踏む出す。強烈な日が照っていた。森に一歩入れば夜よりも深い暗闇が待ち受けているというのに、この差はなんだろうかと男は今更ながらに不思議に思った。森の内部の地図は男だけが知っている。道を間違える事はない。背の伸びた草木に手足を取られながら、森を抜けていく。森林の中腹部あたりまで来ただろうか。男は立ち止まって次第に辺りを見渡し始めた。気が遠くなるくらいの圧倒的な緑。くらくらするほどの濃厚な木々の香り。男はそれらを掻き分けて、ひらすらに身体を動かした。
正午を回った頃、あれだけ晴れていた空が曇り始め、ついには雨が降り出した。死の臭いが、雨とともに地に降りてきた。誰が空の向こうを死の国と定めたかは知らないが、少なくとも男はこの世界こそが死の国だと信じて疑わなかった。ほかのどの世界に死が存在する世界があるだろうか。死ぬときは、いつだって何度だってこの世界だった。
作業を一時間ほど続けただろうか。男の前に、人力車を引いた黒服の男が現れた。赤いネクタイをして、身体にはシルバーアクセサリーを撒くようにつけている。黒服の炯眼が、雨に濡れて汚れた男を貫いた。
「見つけたのか……黒住さん」
「惜しかった。少女の『遺体』は森の出口付近にあった。あと数十分、それだけでも耐える力があったのならば辿り着けただろうに」
黒住の引いている人力車には、青いビニールシートが被せられている。先ほどまで晴れ渡っていた空のようだった。
「そこに……?」
「見たいのか?」
「いや、遠慮しておくことにするよ」
「そうか」
「また、捨てに行くのか?」
「ああ、このままにしておくわけにもいくまい。墓は作ってやれないのだから、せめて安静な場所で眠らせてやるのが、俺の仕事だ」
黒住は運び屋。運搬ではない、路上で野たれ死んだホームレスや人知れず亡くなった老人、車に引かれて身体を潰された猫や犬も運ぶ、死体を片付ける運び屋だった。
「その少女で、何人目だったかな」
「ちょうど百人目だ」
「百人……もうそんなにいったのか」
森は絶好の自殺スポットだった。一度入ればコンパスは効かず、背の高い木々が人の方向感覚を奪い、湿った空気が体力と精神力を奪っていく。人生に疲れた人々はこの森に立ち入り、その生を終えようとする。そんな場所だった。元はそんなところではなかった。男の父が生きていた頃は、業者を呼び森を定期的に整理したりしていたが、父が死んでからその役目を負うものはいなくなり、森は迷いの森となった。
「その少女は言ったよ私に。彼女は生死の境界線を越えていくんだと」
「生死の境界線か。そうだな、彼女はその間で彷徨うものだったのだから、それが一番正しい答えなのだろう」
「しかしな、彼女は私に大きな要求をつきつけてきたよ。自分の価値を決めてくれ、とな」
「ほう。それでお前はどう答えたんだ」
「『私が覚えよう。ただのどうでもいい自殺志願者などではなく、私の客人としてこの屋敷に、私の記憶に価値を刻もう』と、私はそう言った。私は彼女の死を背負うことになってしまった」
雨が重く、男の肩にのしかかった。そんなものはいらないと振り払おうとしても、容赦なく雨は男を吹きつけた。
「人が、殺し殺され、死んでいく世界に悲しみがないのは幻想だ。それは悲しみたくない人間が生み出した幻想世界だ。人が死ねば、誰が悲しみ、苦しむのは当然だ。そうじゃない場合なんて一つも存在しちゃいけない。それがどれだけド腐れた野郎でも、死ねば誰かが苦しむ。人が死ねば何かが生まれる。昼が終われば夜が始まり、夜が終われば朝が始まるようにな」
「黒住さんはその少女とまったく同じことを言うんだな」
「なに、一般論だ」
雨が終われば、晴れになる。男はそんなことを思った。
黒住は人力車を持ち上げてぬかるんだ地面に思いっきり足を踏み込んだ。死体は意外と重い、精神的にも肉体的にも。黒住だから出来る仕事なのだろう、自分には到底出来そうにない、男はブルーシートを見つめる。本当ならば、死を背負った男が連れて行くべきものなのだろう。しかし、男は森を出ることが出来ない。死体を処理できるのは黒住だけ。今だけはそのことを呪わざるを得なかった。
「お前は……もう満足したんじゃないのか?」
「なに?」
突如投げかけられた問いに、男は疑問符をつけて返した。
「お前が怖がっていた見えない境界線は、見えたんじゃないのかと訊いている」
「それは……」
「今年に入ってからの百人の自殺者。集団ではなく、定期的に行われる儀式のように呼び寄せられ、死んでいく自殺者志願者。お前はもう、満足したんじゃないのか?」
男は黙ったまま口を開かない。
「百人の死に様はどうだった。百人の死にたい理由はどうだった。百人の死への感情はどうだった。お前はそれが知りたかったんだろう。自分の恐怖を埋めたいがために」
「そうだ……」
雨で冷えた空気。白い吐息とともに男は言葉を吐き出す。
「私のことだったんだよ、少女。死ぬのが怖いくせに、生き続けるのも嫌だとわがままを言う人間は」
届かない告白をして、男は項垂れた。
「境界線は見えたのか?」
黒住は、もう一度男に問う。
「見えなかったよ。彼女は瞳を閉じてみろと言った。閉じてみたが、何も見えなかった。広大な暗闇だけだ。しかしどうやら彼女には見えているようだった。何、存在していただけでも十分な収穫だろうし、それに……」
男は言葉を切った。いいたいことを選んでいるようにも、迷っているようにも見えた。
「この身体の震えの抑え方を、知った気がする」
「ほう、それは?」
「変えようの無い事実を、見てしまうことだ」
雨音を逆に掻き消すような通った声が、黒住の鼓膜には確かに伝わった。
「一日だけ猶予が欲しい。それで決着をつける」
震えを抑える方法を知って尚、男の声は震えていた。雨は彼の体温を容赦なく奪っていくが、彼が震えているのはそれだけではないと黒住は知っている。
「早めに逝ってしまえ……」
「そうなったら、黒住さんが埋葬してくれるのか?」
「ああ……任せておけ。それが俺の仕事だ」
「そうか。ならば安心できる」
黒住は車を引いていく。彼は雨に当てられているはずなのに、濡れている気がしなかった。男は反してずぶ濡れで、雨を一身に受けていた。芳しい、死の香りが染み込んでいた。
七年前、強盗殺人事件が起きた。犯人は貧困に悩んでいた中年の男。凶器は密輸した拳銃。被害者は山奥の別荘で暮らしていた三人家族。父母と、その息子の三人。母は胸に一撃、父は頭と肩など、数箇所を撃たれた。この事件は未だに警察のほうにも届けられていない。何しろ人の入り込まない森の奥での事件、目撃者も証言者もいなければ、遺体を発見する人もいない。永遠の闇に消えたはずの事件だった。
森が迷いの森として有名になった発端がある。中年の男、つまり殺人犯が森の中で遺体で発見された。遭難事故だった。これが世間に公表された理由は、遺体が大量の金品を持って死んでいたからだ。ニュースでも取り上げられ、専門家が「私でも森を制覇する事はできないだろう」とのコメントを残し、その異常性から一躍有名になった。その頃から、森は自殺スポットとして名を馳せるようになった。
「七年か……」
黒住は人力車を押しながら森の中を進んでいる。彼が道に迷う事は無い。彼は被害者一家と大きく交流を持っていた人物であり、森の迷路を抜ける手段を知っている。
昨日、黒住が男の願いを聞き入れてから二十四時間が経とうとしている。一日の猶予は過ぎ去り、決断のときは既に終わっていた。七年ぶりに来る屋敷には一つも心躍らない。黒住はただ、死体を回収して捨てるだけ。
森は抜けなかった。が、屋敷には到達した。屋敷は荒れ果てており、まるで木々と同化してしまったように廃れ、変化していた。昔、一家が住んでいた頃はもっと光あふれる場所だったと黒住は思い出す。まるで隠れ家のようなところに屋敷を立て、周りの木々も自分で伐採したのだと自慢していた一家の父を思い出す。今では見る影も無い。ゾンビの登場する映像でも見ている気分だった。
屋敷の中に入ると、まず蜘蛛の巣が出迎えた。それを払い、足元に転がっている数多の虫の死骸を蹴り飛ばし、彼は屋敷の中に足を踏み入れた。大方人が住んでいたとは思えない、くぐもり、腐りきった匂いが充満していた。階段の手すりには真っ黒な鳥が止まり黒住を威嚇している。行く手を阻むように、森の中よりももっと深い雑草が黒住の足に絡みついていた。
「人に物事を頼んでおきながら、ずいぶんな待遇だ」
所々割れた廊下を進む。一歩ごとにギイギイと鳴る。赤かった絨毯も今では色を失っている。備え付けられた電球は灰でかすみ、雨風に晒された壁からは豪勢な壁紙が剥がれ落ちている。何もかもが違っていた。
蜘蛛の装飾が施された扉の前に来た。黒住がこれを初めて見た時、まるで地獄の使いだなと感想を漏らした覚えがある。倉庫を守っているというよりは、倉庫の中にいる罪人たちを出さないための守人のようだった。錆び付いてもう役目を果たせない蜘蛛をつま先で蹴り飛ばして外す。転がってどこかへ消えた。
ガタのきている扉をゆっくりと開いた。中からはむせ返るようなほこりが舞い、黒住は咄嗟に息を止めた。そこの匂いはきっと好かない、そう思ったからだった。
中は大きな空洞が出来ていた。倉庫と呼ばれるものの機能は果たしていない。金品はすべて強盗に奪われてしまっているから。黒住はもってきた胸ポケットからペンライトを取り出し、中を調べた。
「ようやく、ご対面か」
あったのは三体の死体と一丁の拳銃。拳銃は犯人が狂気に使ったそのものだった。七年という時を刻んで尚、肉体には面影があった。風化し腐りきった肉体。伸びきった髪の毛は屋敷を覆う蔦のように本人を縛っている。着ている服はボロボロで所々黒く染まっている。猛烈な腐敗臭。並みの人間なら近づきたくないだろうそれを、黒住は一体一体確認して、そのうちの一人を背負った。一家の息子の死体だった。ほかの二体と同じように、七年の時によって白骨化しつつある、埋葬するにも大分手遅れな遺体。昨晩話した彼の姿とは打って変わってしまったもの。
「黒住さん、私はね、死ぬのが怖いんだ。あの時、両親がああなってしまった姿を見て、私は死がとても怖くなってしまった。だからまだ死ねない」
「死後の世界は誰にも分からない。それは俺にもだ。そしてそれを確かめる手段などないし、死への恐怖は人間に共通に与えられたものであって、克服できるものでもないだろう。どうするんだ」
「たくさんの死を見届ける事にするよ。死を、知るんだ」
「悪霊にでもなるつもりか?」
「いいや、私のように死んでいった人を送ろう。幸い私は肉体こそ死んだが、まだ死んじゃいない。同じような人間なら、ここに来られるだろう。そうして来られたやつには、豪勢な歓迎をしよう。語り合おう。そして最期には、死んでもらおう」
「どのくらい続けるんだ?」
「そうだな、百人、百人で決着をつけよう。それで、私も終わりだ」
「それでお前の中で答えが出なかったらどうするつもりだ」
「そうならないように願うだけだ」
七年前、男と会話したことを思い出す。結果として、男は答えを出した。黒住には到底分からない、答えを出した。悔しくはなかったが、羨ましくはあった。
男の死体を人力車に乗せる。流石に三人一緒というのには骨が折れるから、一人ずつ運ぶことにした。後ろをふと振り返って、屋敷を見上げる。そして、男から聞いたあることを思い出した。
「そういえば黒住さん、私がそうしている間はきっと貴方には屋敷に来る事が出来なくなるだろう」
「何故だ?」
「何、ある種の境界線のようなものでも張ってみようかと思ってね」
どうやらそれは存在していたようだが、黒住には見えなかった。
どうも蜻蛉です。初めましての方は初めまして。そうでない方はお久しぶりです。
死ネタといいますか、自殺ネタは基本的にタブーの領域です。何せ賛否両論、極論を書けば叩かれる始末、半分くらいの読者が同意すれば、みたいな感じですし。ただ、こういう小説は「物事を考えさせる」ような出来であるべきだと考えるわけです。今回はそういう出来ではないと思いますが、小説を読んで何かを感じていただけたら幸いです。
そろそろラブコメディが書きたいです(崩壊
では、読了有り難うございました!