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英雄は誰の傍にだっている

作者:睦月山
 
 ――遙か昔、誰もが〈奇跡を起こせる力〉を持っていた。
 世界を救い、世界を守る、そんな力を持っていた。

 その力を遡りだとか、時間渡りだとか、人は呼ぶ。その名の通り、時を遡り、世界を変える力のことだ。
 人はこの力を行使して、過去を、歴史を、変えてきた。何万人の人が亡くなるはずだった大災害に十分な対策を持って臨み、戦争の発端となるはずだった事件を回避する。未来からの助言は『仮想未来』と呼ばれ、各国の上層部は『仮想未来書』と呼ばれる一冊の書に仮想未来を記しているという。
 しかし、この力は超常的かつ現実的だった。
 この世で起こったことは変えられない。覆水盆に返らず、死んだ人も戻ることはない。
 時を遡った人、タイムトラベラーは確かに存在し、それによって救われた人は確かに居る。が、その過去はタイムトラベラーがやってきた時点で世界が分岐してしまうのだ。つまりは異なった世界、平行世界(パラレルワールド)が生まれるのである。
 タイムトラベラーが過去から今に戻っても、タイムトラベラーが生きたその世界では事故・事件・災害によってもたらされた被害は変化していない。他の世界を救っても自身の状況は変わらない。彼らは確かに世界を変えたが、それは平行世界(パラレルワールド)、別の世界の話なのだ。

 だが、それは確かに世界を変える、奇跡の力だった。
 誰もが、一人に一度、奇跡を持っていた。誰もが英雄になれるチャンスを持っていた。

 けれどいつしかその奇跡は人の手から離れて、零れて、世界のどこかに消えていってしまった。年々、タイムトラベラーは減少していき、現在ではその人数は(よう)として知れない。自分がタイムトラベラーということさえ自覚していない者がほとんどだ。
 しかし、まだ英雄(タイムトラベラー)は存在している。
 きっと世界を、あなたを救う英雄は、いる。

 ◇◇◇

 六限目――最後の授業。いつもだったら誰もがチャイムを待ち構えている時間だ。秒針を目で追い、なかなか進まない短針をやきもきしながら、眺めている。
 が、今日ばかりは違った。いつもは後ろを向いて話しているような連中も声量を落とし、そわそわと先生の話に耳を傾けている。

「……と、いうように『仮想未来書』は非常に重要な存在故、保管場所は明らかにされていない。もちろん管理者もだ。しかし、君たちに必要な知識は『仮想未来書』ではなく、時間渡りの方だううな」

 カツンッとチョークが黒板を叩き、先生は俺たちの方を向く。

「時間渡りの特性はその冊子に書いてある通りだ。滞在できる時間は個人差が多く、『仮想未来書』の管理者とコンタクトをとることも難しいため、コールセンターなんてのも用意されているが……まあ、いたずらがほとんどだな。次のぺージ」

 カサリと紙の擦れる音。クラスのみんなが行儀良く、先生に従うなんてなかなか見られない光景だ。特に時間渡りに憧れている田端(たばた)なんて、ポニーテールを跳ねさせて食い入るようにプリントを見つめている。隣の席の優羽(ゆう)はふむふむと小さく頷きながら紙の上の文字を目で追っていた。

「最近問題になっているのはタイムトラベラーの減少。そして、タイムトラベラー自身の自覚がない、ということだ。最近は時間渡りを自覚せずに発動させてしまう人も増えている。
 ――むごいことだが、自分が事故にあう、その直前とかな。咄嗟の自己防御なんだろう。その割合はタイムトラベラーの八割近く、そしてそれらの死亡率が半数以上だという学者もいる。冷静に状況を過去の自分に伝えることができたら良いのだが、なかなかそうもいかない。そういう人は時間渡りをした直後、記憶が混乱してしまうケースも多いからな。それ以外でも、もし時間渡りを試すときには何かメモを持っておくと安心だ」

 先生がそう言った瞬間、かちりと秒針が真上を指し、軽快なチャイムの音が鳴り響く。
 みんなの緊張感が一気に溶けて、ざわざわと空気が騒がしいものに変わった。
 先生は時計を見上げて、教卓に広がった資料をひとまとめにしながら、首をまわした。

「じゃあ続きは来週のロングホームルームだな。今日は特に連絡事項もないし、配布物もないからこのまま解散でいいぞ。日直は後で日誌を職員室まで届けに来るように」

 その言葉と直ぐさま教室を飛び出していくクラスメイトの背中に日直である俺ははあ、と肩を落とした。まだ一時限分も書いていない日誌をのろのろと取り出し、一時間目の数学Aから内容を思い出す。が、うとうとしていたせいでろくに覚えていなかった。
 不意にバンッと机をたたかれた。
 顔を上げると口をへの字にさせ、不満顔をした田端が立っていた。

「柴山、アンタ途中で寝てたでしょ」
「寝てた」
「む」

 あっさりと俺が認めると些かたじろいだ様子で唸った。

「眠かったんだって。だいたい高校生にもなって道徳の授業を真面目に受けなきゃいけないんだよ」
「道徳じゃないよ。きっと役立つ情報だって。ねえゆーちゃん!」

 憤然と田端は隣にいた優羽に同意を求める。優羽は「むだむだ」と肩をすくめた。

「りーちゃん、一太(いちた)に同意を求めたってむだだって。こいつは草花にしか興味がないから。昨日だって……なんだっけ?」
女郎花(おみなえし)
「そうそう、その何とかを探しに行くってすぐにどっかに行っちゃったもん」
「えー」

 女子二人は理解不能なものを見るように、目を細めた。秋の七草くらい覚えておいて損はない、と思う俺はその視線を跳ね返した。

「何とかってなあ……相っ変わらずいい加減なヤツ」
「お見合いだの、富士山だの、言ってる暇はないのー」

 女郎花と藤袴。こいつは大抵、適当だ。

「いいか、柴山! そんなこと言ってると、英雄に助けてもらえなくて死んじゃうんだからね!」
「うわっ、一太、死んじゃうの?」
「勝手に殺すな、お前らが死ぬぞ」

 べーと仲良く二人は舌を出し、テニスラケットを持って教室を出ていった。
 俺は肩を落として、日誌と向き合った。二人を一人で相手にすると疲れる。

「なあ、田端さんとなに話してたんだよー」

 面倒くさいやつが、さらにやってきた。

「べつに。さっきの授業。田端ってああいうの好きだろ」
「ふーん、お見合いとか、なんとかって言ってたけど」

 にやにやと顔を歪める。

「お見合いってお前と山城(やましろ)かー?」
「黙れよ、笹木(ささき)
「おお、こわっ!」

 そうやっておどけてみせたのは、笹木 (あきら)だった。毛先を茶色に染め、インナーをピンクにしているあたり、如何にも不真面目そうだが、実際のところは生物部に所属し、ガマガエルのがぁちゃんと戯れている変わり者だった。
 笹木は空席だった俺の前の席に座ると、俺が日誌を書くのを邪魔してくる。

「なあなあ、田端さんってわりと可愛いよな。山城と一緒で運動神経良いし、テニスのウェアってこうなんか見えそうで見えないし!」
「黙れ、笹木」
「お前さっきからそればっかじゃんかー」

 田端が可愛いという話からなぜテニスのウェアの話に変わるのか。
 それからも笹木が話しかけてくるのを適当に流していたが、誤字が多くなる。消しゴムで消したら紙が破れた。最悪だ。

「おい、そろそろ愛しのがぁちゃんが待ってるんじゃないのか?」
「あ、あーそうなんだけど」

 突然、歯切れが悪くなる。笹木は何かここにはないものを探すように視線を動かし、囗をパクパクと開閉した。

「なんだよ」
「なんかさ、最近の山城ってどう?」
「最近の……」

 先ほどまでの道化師じみた雰囲気は鳴りを潜め、笹木は言った。
 先ほどからぺちゃくちゃと話していたのも、この話題を切り出すきっかけを探していたのかもしれない。全くうまくいっていなかったが、眉根を寄せて真剣な表情で見つめられるとそのことを冷やかす気にはなれなかった。俺は笹木がこういう奴だから、友達なのだ。

「変わらず、だな。良くも悪くも」
「そっか……。ん、じゃあ俺は部活に言ってくる! 今日は良いコオロギが手に入ったんだ!」
「さっさと行けって。俺も日誌出しに行くから」

 書き終わった日誌を手に俺は立ち上がる。

「じゃ、ばい!」
「また明日な」

 笑顔で手を振る笹木と別れ、俺は職員室に向かった。
 1年生という大きなプレートの下に担任は座っていた。俺がひらひらと日誌をふると、ちらと視線を寄越す。

「せんせい、日誌」
「おう、そこに置いとけー。ごくろーさん」

 先生はすぐに手元の書類に視線を戻し、机の端を指差した。俺は日誌をそこに置き、内容を確認されないうちに、とすぐさま踵を返す。

「そうだ、村井」

 立ち止まって、振り返る。

「浅井先生嘆いてたぞ。夏の美術の課題を出してないのはお前だけなんだってな」

 無視して出ていこうとしたら、首根っこを摑まれて窒息しかけた。




 先生からの小言に耐え、ようやく解放されたときに十六時を回っていた。
 俺は部活に勤しむ奴らを横目に荷物がある教室へと急いだ。今日は両親ともに帰りが遅いので妹と夕飯を作ることになっているのだ。年子である妹は今中学三年生であり、もう勝手にやらせても問題はないのだが、遅れたら文句を言われかねない。今日はもう、小言はうんざりだ。

「あ?」

 教室の扉は開いていた。南向きの窓から傾きだした陽光が差し込み、椅子に座る一人の人物の影を作っている。
 俺が思わず声を上げたのは、ソイツに――優羽に驚いたわけではなく、ただ優羽が泣いていたからだ。
 ぽろりぽろりと頬を伝って、涙の滴が机に黒い染みを作っていた。優羽の見つめる先に、俺は何も見つけられない。しかし、優羽は目の前に広がる世界を睨み付けるようにし、拳を握って、何かに堪えていた。

「ど、どうしたんだよ、お前」
「――!」

 声が上ずる。
 優羽が弾かれたようにこちらを向いた。涙と汚らしい鼻水をそのままに、呆然と何故ここにいるのかと問うように俺を見つめ、そして、 

「……ぇた」
「は?」

 あまりにも小さな声を俺は聞きとることができなかった。
 優羽は緩慢な動作で教室を見渡して確認し、それから何もない自分の掌を見た。

「おい」

 尋常じゃない様子に俺が声をかけるも返答はない。
 見つめていた掌で自分の身体を抱き締め、今度はうずくまってしまった。

「ほんとにどうしたんだよ。腹でも痛いのか?」

 手を伸ばし、肩に触れる。その直前に俺の手は優羽に叩かれていた。

「ってーな」
「――あ」

 自分でやった事なのに優羽は目を見開いて驚いている。顔が青くなり、唇をわなわなと震わせ、息を吸い込む。そして。
 ばーか。

「ば、ば、バーカッ!」

 予想通りの言葉を吐くと、椅子を倒す勢いで立ち上がり、教室から全速力で駆けていった。

「馬鹿はどっちだよ」

 俺は倒れた椅子を直し、ため息をつく。頭をがしがしと搔き、妹の小言と優羽の顔を天秤にかけ、また大きくため息をついた。




 ◇◇◇

 山城(やましろ) 優羽(ゆう)と俺は所謂幼なじみという奴だった。
 だから、割と、優羽のことは何でも知っていた。それはたぶん優羽も同じだろう。
 一緒にいる時間に比例して、俺たちは俺たちのことをよく知っていた。
 家が近くで、同い年。おまけに幼稚園から高校まで同じ学校に通っているのだ。
 まず、一つ。優羽は人に影響されやすい。特に親友の田端が何かを好きになると、ついついアイツまで夢中になってしまう。一時期、変な大根のキャラクターを可愛い可愛いと褒めたたえていたが、しばらくすると「あれ、なんでかわいかったんだっけ?」と首を捻っている。ちなみに俺は最初から可愛くもないし、魅力もないと再三言っていた。
 あとは喜怒哀楽が激しい。すぐに泣いて、そして、次の瞬間にはけろっとして笑っている。近所の子どもの草野球に入って大人げなく楽しみまくり、負けると本気で悔しがる。次いでに言えば、アイツの運動神経はかなり良い。今年度のはじめにはスポーツテストの結果を「わあすごい」というまで目の前でひらひらされた。そのくらい自慢する程度良い。
 そして、かなりの馬鹿。語彙が少ない。小さいころは人から馬鹿にされるたびにむきになって顔を真っ赤にしながら、うううと唸っていた。結局、語彙が少なく、いつも「ばーか!」と叫んでいたものだから、赤ちゃんとか、赤猿なんて言われてさらにからかわれていた。
 思い出そうとすれば幾つでもエピソードが浮かぶ。だから、俺は教室から駆け出した優羽の行先を容易に想像することができた。

 ――近所の自然公園。

 アスレチックやら植物園、そして中心を流れる川に二十分ほどで登れる丘などが集まった観光地だ。
 俺が草花に興味を持ったのもこの自然公園の影響だった。よく一緒に遊びに行っていたアイツが「これは? これは?」と草や綺麗な花をみると尋ねてくるものだから、知識がどんどんついていった。俺が分からないと、優羽は自分が知らないくせに「知らないんだー、一太!」と給食にゼリーが出てきたときと同じくらいに喜ぶので、こっちはもう意地だ。そうして覚えているうちに、本当に好きになっていた。
 俺と性格の合わない優羽は草花の名前には興味を持たず、自然の中で遊んでいるのほうが好きだった。特に気に入ったのは鬱蒼とした森の空間を抜け、川を吊り橋で渡った先にある小高い丘だ。そこにからの景色が好きらしい。猿にも景色を楽しむ心はあったようだ。
 優羽は嫌な事があったり、怒っていたりすると、大抵はそこに逃げ込んで頂上にあるベンチで不貞腐れている。
 だから、今日もてっきりそこで体育座りでもしているのだろう。
 が、その予想は少し外れた。優羽はその丘へ向かう途中の吊り橋の上でぼんやりと流れる川を眺めていたのだ。

「おい」

 俺が声をかけても優羽はこちらを向かなかった。
 谷風に髪がたなびき、流線を空に描く。一文字に結んだ唇にはぎゅっと力が入っていて開く様子はなかった。その様子が赤ちゃんのくせに、赤猿のくせに、やけに大人びて見えた。
 反応がない優羽に俺は仕方なく、その隣に腰を落とし、優羽と同じように川をぼんやりと見つめてみた。
 勢い良く流れてゆく水が岩に当たって白い飛沫を上げている。濁流に葉が沈み、浮かび、また沈む。ざあざあと木々がざわめき、どこか雰囲気を壊すようにカラスの鳴き声が遠くから聞こえてきた。
 不意にぶるりと俺は身を震わせた。だんだんと日は沈み、水の傍ということもあって半裾では少し肌寒い。そろそろ帰らないと風邪を引いてしまう。

「なあ、おい。どうしたんだよ」

 なんでもない。

「……なんでもない」

 ようやく返ってきた予想通りの反応に俺はため息をついた。

「なんでもないってなあ……」
「なんでもないったら、なんでもないもん」

 小学生か。

「そういえば部活はどうしたんだよ。いつもは田端と帰ってるだろ」

 途端に優羽の目が泳ぎだす。うううっと唸り、必死に言い訳を考えているのが丸わかりだった。

「……き、教室にわ、忘れ物!」

 嘘だな。
 つまり、部活で何かあったのか。
 そう思いつつ、「そうかよ」とだけ返す。これ以上聞き出そうとしても優羽は意固地になって話そうとしないのを経験上知っていたいたからだ。
 俺はこれ以上、問い詰めるのを諦めてつい先ほどの先生の小言についての話題を振る。

「そういえば俺さっき美術の課題のことで怒られたんだぞ。お前のせいだからな」
「なんでよ」

 優羽は学生カバンをぎゅっと抱き締め、囗を尖らせた。

「何でって……美術の課題を二人分やる代わりに俺がプリントの課題見せてやるって言っただろ? なのにお前、俺の分も絵画で提出するからすぐバレて……」
「あはは……そんなことがあったかもねー」
「そのくせお前は答えを丸写しにしたやつをうまく提出しやがって……」
「あははー」
「あからさまに笑ってごまかしてんじゃねえよ」

 そこで会話が途切れる。決して息苦しくはない沈黙が流れた。

「……帰るか」
「――うん」

 立ち上がり、服に付いた土を払う。
 俺が先を行くと、優羽はとぼとぼとついてきた。ちらりと見ると目元は赤く、視線を下げて歩いていた。散々泣いたので決まりが悪いのだろう。

「あ! あのさ!」
「なんだよ」

 優羽が唐突に囗を開いた。

「このこと後で掘り返したら、ほんとに怒るからね! すっごい怒るから!」
「はあ……、わかったよ」

 田端と喧嘩したのか。部活で先輩に何か言われたのか。
 ともかく、そのうち話してくれるだろう。俺はそんなことを思っていた。

「ほんとの、ほんとだから――あ!」

 吊り橋の木板と木板の隙間に足を引っ掛け、優羽の態勢が崩れる。俺は咄嗟に宙を泳いでいる右手を捕まえて、今にも転びそうだった優羽の身体を引き上げた。

「何やってんだよ、幼稚園児か」
「ご、ごめん」

 珍しく素直に謝まった。
 俺は「まったく……」と悪態をついて、手を離そうとして――その手を優羽にぎゅっと握り返されて固まった。
 長時間外にいたせいか、優羽の手は汗ばんでいて、そのくせ冷たかった。テニスラケットを振って、固いマメのできた手。けれどそれ以外のところは柔らかい。小さい、女の手だ。
 そう思った瞬間、かあっと頬が熱くなった。

「お、おい」

 慌てて、しかし、俺は優羽の顔を見て沈黙した。
 あいつは今にも泣きそうな顔で俺の手に縋っていた。

「もうちょっと、だけ」
「――」

 悲しみがまだ尾を引いている。
 先ほど隣を歩かなかったのも、ただ決まりが悪かったからではなく、まだ何かを思いつめていただけだったのだ。
 切り替えの早い優羽にしては珍しいことだった。
 怒った次の瞬間に笑っているようなこいつが笑えないような、そんな出来事があったのだ。
 俺は黙って手を引いて歩き始めた。さきほどの谷風とは違う、柔らかな風が吹いた。湿気を含んだ風はまだ夏を引きずっていたが、ひんやりとした空気は秋を孕んでいる。
 傾き始めた空の端には瞬く一番星。天には白い月が茫々と浮かび、空色から紫色へと変わりつつある空では光ってみえた。
 手をつないで歩く帰り道など何年ぶりのことだろう。懐かしく、気恥ずかしい。

「……きっと今の私は幸せだね」

 ふと、小石を蹴るように優羽は言った。

「なんだよ、きっと、って。自分のことだったらはっきり言えばいいだろ」
「分かんないもん、そんなの」

 優羽はもう一度、「わかんないよ」と繰り返す。

「幸せってね、さりげなくて、無下にされがちなの。すっごく分かりにくいんだ。だって幸せだって思うためには不幸せなことが必要なんだよ。嫌なことと比較して、ああ幸せなんだって思わなきゃいけないの。だったら、知らなくていいよ。普通の日常だって、つまらない日常だって思って、幸せを感じていれば、いいよ」

 風がまた吹き、ひゅ一っと甲高く泣いた。

「それってエゴじゃねーの」

 優羽の声があまりにも心細く聞こえた。
 だから俺は何か反論したくて、そう言った。
 優羽はぽつりと言葉を返した。

「自分のことだもん。自分のエゴで良いんだよ」

 それきり会話は途切れて、俺たちは夕暮れのなか二人で歩いた。手を繋ぐ理由はなかったが、俺はその手が離しがたく、優羽も決して離そうとはしなかった。手を離したら、優羽がほろりと崩れて消えてしまいそうな気さえした。
 後ろを歩く優羽を盗み見る。顔は少し青白く、やけに細く見えもした。
 そして思った。
 ああ、コイツはもうからかわれて真っ赤になっているだけだった赤ちゃんではないんだな。
 それは少し寂しいような、気がした。

 あれ、と思ったのは優羽の家の近くまで来た時だ。優羽の家、その二階の角部屋の電気がついているのが遠くに見えたのだ。

「お前、また電気消し忘れたのかよ。おばさんに怒られるぞ」
「え?」

 きょとんとする優羽に俺は明かりを指さした。

「ほら」

 しばらくまだぱちくりとしていた優羽だったが、はっと息を呑むと手を離し、ぶんぶんと頭を縦に振った。

「そうそうそう! じゃ、ここまででいいから、一太も気をつけて帰って!」

 ぐいぐいと優羽は俺の背中を押す。

「お、おう。分かったから」
「はやく、はやく」

 急かす優羽に気圧され、俺は自分の家へと歩き出した。

「じゃあまた明日な」

 瞬間、なぜか優羽はくしゃりと顔を歪めた。そして、なんとか口角を持ち上げて不器用に笑った。

「また、あした」

 そう言うと一人、家へと向かっていく。
 途中、振り返るともう優羽の姿はない。
 少しおかしいような気がして、首を捻る。が、その違和感も目を吊り上げている妺を前に些末事として頭の隅へ吹き飛ばされていってしまった。







 ――優羽が落ち込む原因に、俺は一つ心当たりがあった。




 翌朝。
 昨晩の夕飯の埋め合わせのため、朝食を作った俺は少し早く家を出て学校へ向かった。
 部活に所属していないので早く学校に着いてもせいぜい課題をやるぐらいしかやることはなかったのだが、妹の不機嫌から逃げたかったのだ。
 今日の明け方から降り出した雨が紺色の傘を叩く。憂鬱な天気のせいか、はたまた時間帯のせいか、人通りは少なかった。たんたんっと響く音は傘の中に木霊して、内と外を隔絶しているように感じた。
 不自由な視界のなか、一人歩いていると、前に白い花柄の傘が揺れているのが見えた。見覚えがある。優羽の傘だ。
 俺は昨日の優羽の様子を思い出して、しばし逡巡し、すぐに歩みを速めた。

「……おっす」
「おー! おっす!」

 掌で傘の柄をくるりと回しながら、優羽が振り返った。にっこりと笑ったその顔に昨日の陰りは見つけられなかった。
 俺はちょっと安堵して、「おぅ」と返した。

「今日はどうしたんだよ? 雨だから朝練ないんだろ」
「うーん、ないんだけど目覚めたからもう来ちゃった。一太は?」
「俺も、なんとなく」

 歩幅を合わせてゆっくりと歩く。優羽は手を忙しなく動かして、最近見かけたらしい花を説明し始めた。思案して歪めたり、閃いて顔を輝かせたりと表情も目まぐるしく変わっていく。

「それでね、オレンジ色! わりと小さくて……」
「もしかして木になってたのか?」
「そう! で、いいにおいもしたんだよ」

「こんなの!」と手をパーにして広げてみせてくる。小さいと言いつつ、名いっぱい広げてみせた掌は軽く十五センチはあった。俺はそれを呆れた目で見つめる。

「それ、金木犀だろ」

 錆が目立つ校門をくぐり、昇降口へと向かいながら俺は優羽の言う『なんだか小さくてオレンジ色のいい匂いの花』を当ててみせた。

「きんもくせい?」

 優羽がきょとんとして単語を繰り返す。
 何度か説明した気もするんだけどな。
 屋根の下に入り、ばさばさと傘の水気を払いながら、俺はため息をついた。こいつは人に説明されたことを聞かないわけではないが、猿並みの記憶力しか持っていないのだ。

「それぐらい知ってろよ。有名だぞ」
「何それ、金があるなら銀があるの?」
「ある」
「じゃ、銅は?」
「ない」

「えー、なんで?」と優羽が聞いてくるが、ないものはない。そういう詳しいことは植物学者に聞いてほしいものだ。
 下駄箱を開けて、上履きを床に放り投げる。リノリウムの床をゴム製の底が叩き、タンッと音が校舎に反響する。校内も昼間の騒々しさが嘘のように静かだ。傘立てを見る限りでは何人か人は来ているようだが、雨音にかき消されて人の足音は聞こえなかった。

「金銀銅ってメダルじゃねえんだし……どうした?」

 靴箱を開いた優羽はそこで動作を止めていた。

「ええっと……」

 目をぐるぐると動かして、必死に言い訳を考えて――、
 教室に忘れ物。

「きょ、教室に忘れ物!」

 そう言うと上履きも履かずに靴下のまま廊下を駆け出して行った。

「今登校して来たってのに……」

 一体、何を忘れたというのか。というか、昨日も忘れ物をしていなかったか。
 見え透いた嘘にある程度状況を予想した俺は優羽の下駄箱を開いた。先ほど押し込まれたローファーが、よほど慌てていたのか上下さかさまに入っている。上履きは、ない。
 ローファーを綺麗に並べて、靴箱を閉じる。廊下に出ると数人の人影を見ることができたが、こちらを注視しているものはない。俺はちょっと考えて、昇降口横のゴミ箱の中を見る。
 悪い予想は当たっていた。一番上に優羽の上履きがあった。
 さすがの優羽でもゴミと間違えて自分の上履きを捨てるようなことはしないだろう。

 少しクラスの雰囲気が悪いと感じたのは大分前だが、優羽がその亀裂に巻き込まれたのは一月近く前の文化祭のことだった。
 俺たちのクラスは『秋について』という如何にもやる気のない展示をやっており、文化祭当日は受付と見回りに人員を割かれるくらいで、後は特にやることのなく、楽なものだった。文化祭に燃えていた優羽もテニス部のほうで模擬店を出すらしく、他の奴も掛け持ちしている人が多くいたから、展示に文句を言う人はいなかった。が、問題は当日だった。文化祭中の二日間のうち、それぞれ一人一時間シフトに入ると決め、シフト表も作っていたのだが、――何人かがいくら待てども来なかった。さらに悪かったことはその来なかった生徒のうち三人が連続でシフトを持っていて、四時間受付を受け持った奴が出てきてしまったことだ。
 そして、後から平然とやってきたそいつら――女三人組を糾弾したのが優羽だった。糾弾と言っても精々より多くのシフトを持つことになった奴への謝罪を求めるくらいで、他のすっぽかした奴にも同様にそれを求めた。が、残念ながら、その女三人組は猿以下の知能しか持っていなかった。そういう話だ。


 ◇◇◇

 幸い教室はまだ誰もいなかった。

「これ」

 教室であたふたとしている優羽に追いついて、上履きを差し出すと、優羽は気まずそうにそれを受け取った。

「ありがとう」
「お前馬鹿だよな」

 むっと優羽は顔を歪めた。
 おそらく切替の速い優羽はなぜ、一度謝罪を求めたくらいでその後も怒りを持続させているのか理解できないのだ。それでも何も感じないわけではない。悲しみもするし、昨日のように感情を堪えてうずくまったりもする。

「お前、これ……誰にやられたんたよ」
「し、しらない」
「知らないわけないだろ」

 今日のような間接的なものではなく、直接的にも何か仕掛けられているのではないか、という予想はあった。
 うううっと獣の如く唸る優羽に俺はその予想が当たったことを知った。

「昨日だって、お前……なんでここまでやられてるって言わねえんだよ」
「私は!」

 俺の一言が優羽の琴線に触れたようだった。
 きっと目を鋭くして優羽は叫ぶ。

「私はっ、べつにいじめられてなんかないっ!」
「そんなこと言っても……」
「べつに! たいしたことないし!」

 ぐっと俺を睨みつけて優羽は言った。
 俺にばれたくなかったのかもしれない。優羽にだってプライドはある。それがひどく傷つけられることだったのかもしれない。でも、俺は見過ごせなかった。そんなことできるわけがない。
 優羽はそれから他に言葉を探そうと身体をぷるぷる震わせる。
 が、結局出てきたのは、

「ばーか! 一太のばーかっ!」

 という、お決まりの子供じみた罵倒だった。カバンを自分の机に放り投げると、再び俺から逃げ出した。どうせ、どこか高いところ行ったんだろう。煙と何とかは高いところが好きなのだ。あと、猿も。
 だんだんこっちもイラついてきた。
 なんだよ、それ。俺ってそんなに頼りないってか。
 自分の机に腰かけて、「くっそ」と小さく呟く。
 俺のクラスの立ち位置というのはそれほど良くも悪くもないものだ。部活に入っていないけれど、勉強も運動も上の下程度にできる俺は目立つ方ではないが、疎まれているわけでもない。そういう奴もいたな、という感じだ。俺が優羽のやられていることを公にして、犯人を糾弾したところで大した効果はない。
 どうすれば良いかと考えあぐねていたところで、そういう奴もいたな其の二がやってきた。つまりは俺の友達、笹木だ。

「なあ、なに? 一太と山城、喧嘩したの?」

 挨拶もそこそこに笹木は首を傾げた。

「早いな、お前」
「まあ餌やりとかは天気に関係なくあるし。で? 山城と廊下ですれ違ったけど」

 さらに追及されて俺は囗をもごもごとさせた。
 ケンカしたような、してないような。

「例の件が、悪化してたみたいで」
「ああ」

 昨日、笹木が尋ねてきたのもこのことについてだったので、すぐに会得がいったように頷いた。笹木の心配は当たっていたのだ。
 俺は話を続けた。

「ちょっと問いつめたら、『ばか』って言われて逃げられた」
「そりゃあ、バカだな」
「なんでだよ」

 ふて腐れたような調子になってしまうのは許してほしい。こっちだって地味に傷ついているのだ。
 笹木は何も指摘することなく、ただ首を振って呆れを示した。

「もうちょっとやり方あるだろ。デリケートな問題なんだから。お前さ、デリカシーなし男とか言われたことねえの?」
「ねえよ」
「じゃ、絶対陰で言われてるね」

 蛍光色の黄緑のインナーを着ている奴に言われたくない、と返そうとしだが、結局俺は押し黙った。コイツの世渡り術は意外にも俺のものより遙かに高度で繊細なのだ。

「謝ってこいよ」
「なんで……」
「あのなあ……、時には先に謝るが勝ちってときもあるんだぜ。お前らでギスギスしてたってしょうがないじゃん」

 最もだった。
 優羽より俺の方が大人だと思っているし、ここは俺が引こう。それでまた話せばいい。




 が、優羽は逃げ回った。
 気まずいのか分からないが、廊下で鉢合わせたらUターン、休み時間は女子トイレへダッシュ、昼休みはどこかに雲隠れした。田端に尋ねてみても曖昧に笑って誤魔化される。つまりはグルだ。共犯者だ。
 隣の席なのだから、と授業中に話しかけても全力で無視だ。俺がそれで注意されたら「ぶふっ!」と笑い声が漏れていたのでもう怒っていないのは確かだ。そもそもあいつはそう長く怒りを持続できるほど、器用なわけでも、忍耐強いわけでもない。
 だから、どこかで捕まえて謝ってもう一度問いかけたら、今まで避けていたことをころっと忘れて話してくれるだろう。
 五限日の先生は厳しいので、直前に教室に飛び込むことはできない。狙うなら、その時だ。
 そして、そう思ったのは俺だけではなかった。

「ねえ」

 例の女三人組が優羽に話しかけてきたのは優羽がおそるおそる教室に戻ってきた直後だった。
 笹木と喋っていた俺は一歩出遅れ、静止した。
 優羽の席は教室の端にあり、傍から見ると談笑していると思えなくもない。が、教室の空気がどこか張り詰めていた。
 今にも飛び出そうとした俺の服の裾を、笹木が掴んで首を振った。

「堪えろよ、一太。ああいうのに男が入っていって好転するケースはない」
「……わかってる」

 俺は舌打ちを堪えるのに必死だ。
 運の悪いことに、いやそこを狙ったのか特に優羽と仲が良い田端は席を外している。
 今朝の出来事があったのだから、何かを仕掛けてくることは予想できていた。だから、早く優羽と話しておきたかったのだが、今更思っても後の祭りだ。
 優羽がぶすっとした顔で問いかけた。

「なに?」
「べつに、特別な用事があったわけじゃないんだけどさあ」
「あのさ、ネチネチしないでよ。めんどくさいから、何か言いたいときは面と向かって言ってくれる?」

 (から)め手なんて言葉を知らなそうな優羽が相手を睨みつけてそう言った。それをもちろん気に入る訳がない。

「なによ、それ」

 癪に障ったらしい女の一人が優羽の筆箱についていたキーホルダーを取り上げた。小学生のころ、自然公園のワークショップで一緒に作った、押し花が入ったものだ。
 直ぐさま優羽は噛みついた。

「ねえちょっと!」
「うるさいなあ」
「ちょっと貸すくらいで喚かないでよね、大げさなんだから」
「ねー」

 同調している仲間に優羽は頭に血が上ったのか、顔を真っ赤にして「ううっ!」と唸る。
 囗をはくはくとさせ、感情が飽和し、

「バーカッ! バッカじゃないのッ!」

 と叫んで優羽は教室から走って出ていった。
 教室中の視線が残った三人に集まる。こそこそと呟かれる言葉に決まりが悪くなった三人は「なにあれ」と偉ぶって、教室の後ろのドアから出ていった。
 それを確認した俺は近い前方のドアから廊下に出る。優羽の姿はどこにもなかったが、丁度女達は教室後方から前方へ――つまりは俺のほうにゆっくりと歩き出していた。その手でキーホルダーはぞんざいに弄ばれている。
 廊下の壁に寄り掛かった俺はそれを横目で確認し、キーホルダーを持っている一人に目星をつける。そして先頭が通り過ぎるときに足首に当たるようにひょいと右足を前に出した。

「きゃ!」

 バランスを崩した女はキーホルダーを放って、身体をばたつかせる。あわや転ぶと思われたところでぎりぎり態勢を立て直した。
 一方、俺は空中のキールホルダーをキャッチして、傷ついていないかどうか確かめる。大丈夫。

「ちょっと!」
「なに?」

 すぐさま噛みついてくる女に俺は平然として肩をすくめた。

「なに、じゃない! 足、わざと出したでしょ!?」
「さあ、よく分かんねえな」
「はあ!? とぼけてんじゃないわよ」
「……あのな」

 キーキー騒ぐ猿を睨みつけながら俺は僅かに口角を上げた。

ちょっと(・・・・)引っかかったくらいでキーキー騒ぐなよ、大げさな奴だな」

 さきほど女が言った言葉に酷似していることに気がついたのだろう。顔を赤くした女たちは「行こうっ」と俺を避けて、逃げていった。その反応は大して優羽とは変わらない。
 強ばっていた身体から力を抜き、俺は息を吐く。
 慣れないことをするもんじゃない。

「かっこいー、一太君、きゃー」
「うっさい、笹木」

 一部始終を教室から確認していたらしい笹木が気持ち悪い声を上げた。が、その顔は笑顔だ。
 俺は毒気を抜かれ、はあとため息をついた。

「でもマジで良かったぜ。ここに山城がいたらイチコロだっただろうになあ」
「ああ、もううっせーな!」

 だんだんとなんだか恥ずかしくなってきた。羞恥に赤くなる頬を笹木に横から扇がれる。俺はそれを拒否して、教室ではなく昇降口の方へ歩き出した。

「ちょっと届けてくる」
「了解! 一太くんは腹痛でトイレね」
「それ、せめて保健室にしてくれよ」

 笹木に任せておけば何とか先生も誤魔化してくれるだろう。

「おう、またあとで、ばい」
「おう、ノートは後で写させてくれ」

 後に手を振り、俺は駆けだした。
 昇降口で確認すると案の上、優羽の外履きがない。行き先は容易に想像できた。俺は外履きに履き替えると雨の匂いが残る外に飛び出した。
 厚い雲が空を覆ってはいたものの、雨は止んでいる。ただ少し風は強く、上着がばさばさとはためいて鬱陶しかった。自然公園まで何とか走ったものの優羽の姿は見あたらない。
 吊り橋まで来ても昨日のようにうずくまっている姿はなかった。
 足に限界が来て、立ち止まる。吊り橋の上は風と水の流れる音とで混沌とした音が渦巻いていた。

「アイツ、走るの早すぎだろ」

 荒い息を吐いて、吸って、なんとか呼吸を整える。
 そういえば。
 ふと思った。
 優羽はここで何をしていたのだろう。いつもなら丘を目がけて一直線に駈けていく優羽の気を引くようなものがここにあったのだろうか。吊り橋で立ち止まっている優羽はあまり見たことがない。あの体力バカが疲れて丘に行くのを諦めたわけがないし、ただの気まぐれだったのだろうか。
 そんなことに気をとられていたのがいけなかったのだろう。
 谷を駆け抜けるように一際強い風が吹いた。俺の手からせっかく取り返したキーホルダーがこぼれ落ち、風に煽られ、吊り橋の外へと飛び出す。俺はただそれを追って手を伸ばし、手すりから身を乗り出して、キーホルダーを右手で掴み、

「――ッ!」

 ――次の瞬間、世界が回転した。

 いや、違う。俺の身体が回ったのだ。鉄棒で前回りをするようにした俺はあっさりと橋から落ちた。
 足を橋の縁に強打し、痛みが走る。それでも何とか左手でその縁を掴んだ。
 身体中の汗線から汗が噴き出し、体温が一気に下がる。心臓がばくばくと跳ねている。指先は震え、足元にはもちろん支えてくれる地面はない。

「ハア、ハア……」

 自分の吐息がまるで耳元で囁かれているように煩わしい。視線を下にやってすぐに後悔した。今まで何も感じていなかった水が、飛沫が、岩肌が、死神のように俺を飲みこもうとしているような心地がする。
 身体を持ち上げようにも右手のキーホルダーを手放さなければ両手を縁に掛けられない。だが、これは優羽の大事なものであると知っていた。
 上に放り投げるか。でも最悪、態勢か崩れて俺が谷底に――、

「一太ッ!」

 橋の上から声が聞こえた。
 弾かれるように見上げると橋の手すりから乗り出している優羽がいた。どこから走ってきたのか息は俺より荒く、肩が上下している。

「ちょっと待っててッ!」 

 俺が声をかけるより早く、優羽は次の言葉を俺に叩きつけた。
 優羽の姿が一瞬消え、すぐにまた戻ってくる。と、思ったら手すりを乗り越えて俺が手を掛けている橋の縁のほうへ降りてきた。
 二人分の体重に橋が傾いだ気がして肝が冷える。おまけに優羽はそれを気にせず、こちらに手を伸ばしてくるのだ。

「おいッ! 危ないだろ!!」
「大丈夫だから! さっさとこっちに!」

 よく見ると優羽の腰には縄が括られていて、それが反対側の手すりに結びつけてあるようだった。

「お前……そんなのどこで?」
「バカッ! どうでもいいでしょ、そんなこと! それより手を出して!」

 俺はその手を掴もうとして、まだ手の中にキーホルダーが残っているのを思い出した。先に渡しておこうと右手を差し出そうとしたら、縁を掴んでいた左手が滑る。雨に濡れたせいで滑りやすくなっているのだ。

「何してんの!」
「キーホルダーが! 先に受け取ってくれ!」
「きー、ほるだー……、ま、さか、それで……」

 優羽は呆然と呟いた。さっと顔が青くなり、次の瞬間には顔を赤くして怒った。

「なんで……ッ! いいから、そんなの捨てて!」
「けど!」

 小学生の時からずっと大事にしていたはずだ。紐が切れたら付け替えて、壊れたところがあれば修繕して、使ってきたのを知っている。
 迷う俺に優羽は苦しそうに、今にも泣きそうな声を喉の奥から、腹の底から出した。

「いいからッ! なんで、分かんないの! バカッ! そんなものより、私の手を握ってよッ!」

 優羽の叫び声に頬を叩かれたようにはっとした。
 俺は一瞬の逡巡の末、キーホルダーを捨て、

 ――優羽の手を握った。

 顔を真っ赤にして、優羽は必死に俺を引き上げようとしている。俺の身体は振り子のようにゆらゆらと揺れる。もし、優羽が力尽きたのなら、俺は川に真っ逆さまに落ちていき、最悪死ぬだろう。それは分かっていた。けれど、どうしても先ほどまでの身も凍るような恐怖感は湧き上がってこなかった。
 それ以上に、なんだか優羽の様子がおかしいような気がして――、

「おねがい、おねがい、お願い、お願い!」

 ぽたぽたと上から滴が降ってきた。
 優羽は誰かに必死な祈りを捧げていた。「おねがい、おねがい」と涙と一緒に言葉を零す。
 掌をこちらの手が痛くなるほど握りしめて、決して離そうとはしなかった。
 やがて、優羽は――彼女は幼子のように泣きながら「ごめんなさい!」と言葉を紡いだ。

「ごめんな、さい」
「おい」
「ごめん、な、さい」

 まるで俺の言葉が届いていないみたいだった。
 顔を真っ赤にして、彼女はじりじりと俺を引き上げていく。それに合わせて橋のふちに掛けた左手で自分の身体を持ち上げるが、俺の視線は彼女から離れなかった。
 そして彼女はようやく意味のある言葉を発した。

「危ないのに一人で丘に登ってごめんなさい。
 いつも迎えに来させてごめんなさい!
 心配してくれたのに怒ってごめんなさい!
 こんなところに来させてごめんなさい!!
 気が付かないで通り過ぎてごめんなさい!
 なんじかんも冷たい水に浸からせてごめんなさい。
 き、傷だらけにさせてごめん、なさい。
 なくこと、しかできなくて、ごめんなさい。
 ごめんなさい。あやま、るから、おねがい、だから、もうしなないで……っ!」

 彼女はこっちの胸が痛くなるほど、顔をくしゃくしゃにして、嗚咽を堪えて泣いている。

「おまえは……」
「うわああああ――――ッ!」

 彼女は叫ぶ。心の内に溜まったものを吐き出すように、世界中に悲痛な声を届かせるように叫ぶ。
 同時に俺を引き上げる手にも力が入り、俺はとうとう橋の上に引き上げられた。
 ようやく安全な位置に身体を下ろされたが、俺はまだ呆然としていた。足が痛くて立ち上がることができない。が、立ち上がれない理由はそれだけではなかった。
 前を向くと、俺と同様に橋の上にへたり込んでいる優羽の姿がある。こちらを向く彼女も茫然としていた。
 優羽のことなら、わりと、何でも知っている。けれど、俺は彼女のことをよく知らない。なんでも知っていると思っていたのに、知らなかった。
 ぽつりと尋ねる。

「俺、死んだのか」
「死んでないじゃん。生きてる。何言ってるの、バカだなあ。あなたは」

 涙でくしゃくしゃになった顔で彼女は笑顔を作った。そんな顔で笑うなんて知らなかった。こんなことをするような奴だとも。

「あははー、一太だ」

 乾ききった声で彼女は言う。彼女はもう俺に触れようとはしなかった。
 彼女にとって俺は夢幻の存在なのだ。触ったら、近づいたら消えてしまうと思っている。

「お前は俺の知ってる優羽じゃない、のか……」

 もう、永遠に彼女は俺に会えないし、俺も彼女に会えない。
 同じ空を眺めることも、同じ星の下で歩くことも、同じ太陽の下で笑って話すことも一生できない。
 俺の問いに彼女は答えなかった。

「――さよなら」

 彼女が言った。俺は何も言えなかった。
 一方的な出会いと別れはまるでガラス越しの出来事で現実味がない。世界がまるでガラス細工のように儚く、綺麗で、鋭いもののように思えた。それでも俺は何だか悲しくなって、哀しくなって、英雄に手を伸ばした。彼女があの夜、手を放さなかった理由がようやく分かったような気がした。
 一歩、彼女が下がって俺の手から逃げる。彼女の姿が陽炎のように揺らめきだした。
 なんで。
 俺は構わずさらに一歩踏み込んだ。痛む足なんて、もうどうでも良かった。
 叫ぶ。

「優羽ッ!」

 彼女――優羽の目が見開かれた。
 同時に俺も自分の言葉に驚いていた。けど、そうだ。こいつは優羽だ。
 涙で頬を濡らした優羽がこちらに手を伸ばす。俺と優羽の指先が触れ合う、その直前に優羽はふっと音もなく消えた。

「――」

 行き場をなくした俺の手はやがてだらりと垂れて動かなくなる。
 助けられたのに、死ななかったのに、心にぽっかりと虚ろができて、喜びは湧かなかった。



 そして俺の英雄は消え、

「あー! 何やってんの一太? 汚いよ?」





 ――何も知らない、幸せなお前がやってきた。



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