2−12
〜アサギの日記〜
性同一性障害。
知識としては知っていたが、その障害を持つ人を実際に見たのは初めてだった。
中神アキラさん。
彼女…、いや彼は、見た目は明らかに女性だ。それもかなり魅力的な、すらりとして美しい美少女と言える。
だが、中身は完全に男性なのだった。
単に同性愛者というわけではない。本当に、根本から性が違うのだ。男性の考え方をし、男性と変わらぬそぶりをする。…特にそういったものが決まっているのではないので、これについて言及しようとすれば差別的発言につながりそうではあるが、とにかく、彼女は男性なのだった。
故に、当然女性に愛情を抱く。
そして、その相手が、私だというのだ。
正直、最初は戸惑った。
女性が、自分は本当は男性で、そのため自分の事を愛してしまったなどと言われて、にわかに信じることはできなかった。(正確には愛を告白されたのは男性であることを告白された後のことだったが)
だが、中神さんと話していくうち、それがまぎれもない、本当の話だということがわかった。
いや、それ以上に、理解し始めていた。
彼の半生。彼が、今までどれだけ悩んできたか。どれだけの苦しみを強いられてきたか。
そして、どれだけ私を愛しているか。
…私もまた、彼にひかれ始めていた。
中神アキラ。
彼に抱きしめられたとき、何と気持ちが良かったことだろう。何と暖かかったことだろう。それまでほとんど友達もできず、一人で孤独に生きてきた私にとって、たとえ相手が女性のからだをしていたとしても、それは紛れもない愛の抱擁だったのだ。
彼は、男性であるが故に、異性愛者である。
では、私自身はどうなのだろう。
同性愛者ということになるのだろうか。
私は…。
でも、そんなことは、徐々に些細な問題に思えてきた。
たとえ、中神アキラさんの、あの人の体が女性だったとしても、私は単純に、あの人が好き。
それで十分なのだろう。
私は…。
彼を愛している、
そして、
情報屋でもある。
私は。
もう、別れの時が近づいているのを、薄々感じている。
でも、きっと後悔はしない。
貴方との思い出は、きっと一生忘れない。
貴方のその美しい顔、美しいからだ、一生忘れたくても忘れられないだろう。
中神さん。
一瞬でもこんな私に、
夢を見せてくれてありがとう。
……さようなら。
☆ ☆
〜私の日記〜
幼いころより、違和感を感じてはいた。
少しずつ、落ち着かなさ、気持ち悪さを知覚するようになった。
しかし、小さかった私には、当然ながら「心と体の性が異なる」という障害が存在することなど知れよう筈もなく、ただ漠然と、自分の身体は完全ではないんだ、と思っていただけだった。
私は、もうそれに慣れてしまったために一人称を「私」としているが、実際には中身は男性だった。その為、ひどく幼いころは、周りの男子に合わせて自分のことを「俺」と呼んでいた。
当時私の両親はよく心配した。私がどこからどう見ても女の子なのに、男の子とばかり遊び、男の言葉を使い、戦隊ものや少年向けの漫画ばかり見ていたからである。
もちろんそういった女の子は決して珍しくはなく、私の場合も周囲の環境に男の子が多かったためたまたま感化されただけで、物心がついてくれば自然と女性らしくなるだろう、と、周囲の大人たちは考えていたそうだ。
しかし、そうはならなかった。
逆に、私は成長するほど、男性よりの言動が多くなっていった。
小学校では男子に交じって野球やサッカーをし、着る服は男物ばかり。髪は短く切り、部屋は乱雑。…別に男みんながこうだとは言わないが、少なくとも女性よりの行動は皆無であろう。
そして、何より、私自身自分は男にしか思えない、ということがあった。
これは、もはや理屈の問題ではない。それは当たり前と言えばあまりに当たり前すぎて、説明するも愚、といった具合だった。私は自分が女性として分類され、女性と行動することを強制され、また男子から恋愛対象として見られることに、不快とまでは言わずともどうしようもない違和感を禁じえなかった。
初潮が訪れてのちも、それは変わらなかった。ただ、ああ、やはり私は生物学的には女性なのだな、と深い落胆を感じたのを覚えている。ほうっておけばいつか自分にも男根が生えてくるだろうというような――――幼く無邪気な子供が考えるような発想はとうに捨てていたものの、自分には生理は訪れないのではないか、という一縷の希望が胸にあったことは否定できない。しかしその希望の欠片すら、この期に打ち砕かれてしまったのである。
女性として行動することが嫌だと正面を切って言う事は出来なかった。それは周囲の女性に対しあまりに失礼だからだ。ただ、どうしようもなくすわりが悪い。違和感が常に私を取り囲む空気を満たしているように感じる。…息苦しい。
医師は、こういった事は決して珍しい現象ではないと説明した。何度かカウンセリングを行ったが、かといってそれで悩みが晴れるわけでもない。さりとて、性転換をするのも躊躇われる。…結局自分がどうすればいいのかはっきりとした答えを出せぬまま、私は大学まで来てしまった。
女性と行動するのは照れ臭かったし、少しだけ後ろめたい気もした。特に女性用のトイレを使ったり、女湯に入った時は、興奮こそしないものの、鼓動が高まるのは抑えられなかった。私は年相応に、女性に対する関心を育んでいたからだ。
そしてまた、男子から色目を使われるのも嫌だった。…私は自意識過剰ではないつもりだが、確かに自分の容姿は悪くはないようだった。それが証拠によく男子からは告白されたし、デートに誘われたり、贈り物をされたりした。
私は、いつしかそれが怖くなった。友人としか思えない相手が、自分を恋愛の対象として見ている…。異性ならばともかく、それが皆同性だとしたら、果たして嬉しくなれるものだろうか。…いわば贅沢な悩みだったが、絶対に応えられない自分がいることが分かっている手前、それは十分に驚異たりえたのだった。
私は…。
女性と、恋愛がしたかった。
そして、見つけたのだ。
人生で二人と巡り合えない、
最愛の人を。
☆ ☆
私はその日、アサギの事務所にいた。
「医者」に頼み、鍵を貸してもらったのである。
先日あんなことがあったばかりなので気まずいことこの上なかったが、私はできるだけ自然な態度を装ったし、奴の方もそんなことは気にもしていない様子だった。
理由は「資料を整理しておきたいから」としておいた。アサギがいなくなったとはいえ、ここは情報の巣窟なのだ。「医者」たちも新しい情報屋を雇うことになるだろうし、彼ら自身が使うかも知れない。いずれにしろ、持ち主がいなくなった以上、ある程度利用しやすい形態にしておかないといけないだろう。私がそう言うと、「医者」は案外あっさりと鍵を懐から取り出してくれた。「余計なことはするなよ」と一言釘は刺された。
部屋は相変わらず寒々としており、あまり陽の入りも良くなかった。私は、手始めに壁の端の資料から手に取る。ファイルの中にぎっしりとパソコンからプリントされた文書やら図やらが差し込まれており、気が遠くなりそうだった。
勿論、私は単に資料整理のためにこの部屋に来たのではない。…少しでも、アサギの仇である「藤城組」に関する情報を集めたかったのであった。
ここならば何かあるのではないか…。ひそかにそう踏んだ私は、片っぱしから資料を当たることを思いついた。しかし、この膨大な量を前にすると、はたして何年かかるか…と途方もない気持ちにさせられるのだった。
それとも、電子的な記録を当たった方が早いだろうか…、と思い直した。私は決してパソコンが得意な方ではないが、パソコンのファイルは木構造で管理が紙書類よりはるかに行き届きやすいこと、重箱の隅にあるような資料でも検索にかければ簡単にサルベージできること、などは常識として知っていた。だから、彼女のパソコン、あるいはデータとして持っていたCO−ROMなどに有益な情報が入ってはいないだろういか、と考えたのだ。
しかし…私は思い直す。だからこそ、本当に大事な情報はパソコンには入っていないかもしれない、と。もしこの事務所が何らかの理由で差し押さえられたとき、本当にばれてはいけない情報は、そんな検索可能な媒体に残さない可能性がある、という事である。まあ、パスワードなどでの認証は必要なので、そう簡単に破れはしないだろうが。
しかし…その理屈でいえば、この大量の資料の中にも肝心のものはないかもしれないな…。
どこか、彼女しか知らない秘密の場所があり、そこに彼女しか知ってはいけない情報が隠されているのかもしれない…。
そこまで考えてから、私は、手元のファイルに関してあることに気づいた。
そこには「相川製本株式会社」の自社株に関する資料が乗せられていた。次のページには「有限会社アイダ」の人事に関する資料。次は…。
もしや、と思いパラパラとページをめくる。
…やっぱりだ。ファイルの背には何とも書いていないが、この並び方は…。
いかにも大ざっぱなようで細かいところで几帳面なアサギらしい。私は不覚にもクスリとしてしまう。
この資料は、アイウエオ順で並んでいる。
それならば話は非常に早い。「藤城組」のあるべき所を調べれば、簡単な資料だけでも手に入るかもしれない。
私はざっと目測し、「ふ」のありそうな部分まで行きつく。そして重たいファイルを引き出し、パラパラとめくる。
…間違いない。このファイルには、「ふ」で始まる団体に関する資料しか入っていない。
さすがはアサギの仕事、検索力も抜群だ。…セキュリティが弱い気もするが。
その時、ああ、そういう事か、と納得した。
彼女には、秘密の場所、などある筈もなかったのだ。
この場所しか、彼女には居場所がなかったのだから。
彼女には、ここしかなかった。彼女はずっと一人だったし、金銭的な余裕もなかった。おそらく、このビルに寝泊まりしていたのだろう。帰って来られないときは、外のカプセルホテルか、あるいは寝ずに夜を過ごしたか…。いずれにせよ、彼女には他に行き場はなかった。
だから、言いようによっては、こここそが、唯一の彼女にとっての秘密の場所だったのだ。
ここを置いて、他に隠せる場所などない。
だから、この部屋には、彼女の短き人生の、全てが詰まっている。
この部屋は、彼女の人生そのものの縮図なのだ。
…そう考えると、少し悲しくなった。
…アサギ。
もっと、喜びを教えてやりたかった。
私と過ごした最後の数週間、
彼女は、本当に幸せだったのだろうか…。
そして、ついにパラパラと本をめくる手が止まる。
…あった。
そこには、まぎれもない彼女の字で「藤城組」と書かれたメモがクリップで留められており、その下に同組に関する資料がプリントアウトされて詰められていた。
…私は、資料に手を伸ばす。
その時、不意に部屋のドアがキイ、と開く。反射的に私はビクリと身構えた。
「…よう」
「医者」だった。私は自分が調べ物をしていることを悟られたかと一瞬警戒したが、どうやらそういう事ではないようだった。扉に寄りかかったまま、ゆっくりと煙草に火をつけ、煙を吐き出しながら、世間話でもするように私に話しかけた。
「お前、さっき言ったな、『新しい情報屋を雇うのだろうから』、と」
「…それがどうした」
「医者」はすこし間を置くようにじっと私を見つめ、それから口を開く。
「…お前が情報屋になったらどうだ」
「え?」
私は一瞬自分の耳を疑った。こいつは今、なんて言った?
「だから、お前が今度はなったらどうだ、と言ったんだ。確かに俺は前に、お前なんかに危険な仕事をさせられない、と言ったが、アサギがいなくなっちまった以上、代りの人材が必要なのは事実。…そこで、第二のアサギとしては、お前が適任か、と思ってな」
「…何だと?」
私は彼を睨みつける。…なんと言う、厚かましい提案だろうか?
「いや、そう睨むなよ…。俺はね、ビジネスの話をしているんだ。君は中身が男だそうだが、見た目はどこからどう見てもか弱い女性だ。しかも美人と来ている。そして頭の回転も速いし、運動神経も優れてる。なかなか適任だと思わないか?」
「ふざけるな!」
私は一喝した。この男の図々しさ、無神経さに呆れかえってしまった。…私に第二のアサギになれだと? 冗談も甚だしい。そうやって、この男はまた、私を殺そうというのか?
「…いやね、正直言おう。アサギがいなくなった今、君がいなくなると俺は寂しいんだよ」
奴はおどけた様子で掌を上向けながら言う。何を言い出すのだろう、この男は。
「だから―――」
おもむろに奴が近づいてきた。
「お前がアサギになれよ!!」
「医者」は、突然私の首を締め始めた。不意のことなので抵抗もできない。私が驚いているところを、奴はさらに両手を差し押さえ、私を押し倒した。
「お前に、お前にアサギになってほしいって言ってるんだよ! 俺は、俺はあいつのことが好きだった。だけど、あいつに何度俺の思いを打ち明けてもあいつは俺の気持ちに応えてはくれなかった。好きな相手に相手にされないあのどうしようもない気持ち、お前にわかるか!? わかんねえよなあ、お前はあいつとあっという間に恋人同士になっちまったんだからなあ!! しっかし驚いたぜ、あいつが同性愛者だったとはな! 俺は面喰らったが、最終的にはお前に嫉妬するようになっていったよ。何しろ、力ずくで自分の女にできるような奴じゃなかったしよ、こう見えても俺は紳士だからな、アサギには好きになってもらうまで待つしかなかった。だけど、結局それは叶わなかったよ。死んじまったからな。…確かに、あいつに大量の仕事を与えたのは俺だ。でも、それは何も今に始まったことじゃない、ずっと前からそうだった! あいつは、あのくらいの仕事難なくこなしてケロッとしている奴だった。それが、それがお前と出会ってから少しずつおかしくなり始めた。人間味が出始めたんだ。機械みたいに仕事してたあいつに、ブレが生じ始めたんだよ。普通の少女みたいに、戸惑ったり、照れたりと言った表情を見せるようになった。…俺はそれがものすごく嫌だった。だからこそ、だからこそお前を排除しようとしたんだ。
俺があいつに大量に仕事をやらせたのは嫌がらせでも何でもない、前のあいつに戻ってほしかったからなんだ。機械のように仕事をし、冷たく、人間らしくないアサギ。俺はな、そういうあいつが好きだったんだ。あんな人間臭い女、もはやアサギじゃない。機械としてのアサギが好きだったんだよ。そして俺もまた、あいつには機械のように愛してほしかったんだ。
…くくく、歪んでるだろう? だがそれが事実なんだ。俺は真実、そう思っていた。だからこそ、お前が本当に憎かった。お前をあいつの目の前から消し去りたかった。…だが、あいつが死んでしまった今となってはお前を恨んでも詮ないことだ。
…だからよ、俺は、お前をアサギにしたい。お前を、整形して、髪も染めて、アサギと同じにしてやりたい。…くくく、嬉しいだろ? 恋愛の究極の望みは、最愛の人と合体することだ。つまり、その人自身になる事なんだよ。お前は、あれほど愛したアサギになれるんだ!! こんなに嬉しいことはないはずだぜ?! 喜べよ、俺がそれをしてやるというんだから!!」
…私は恐怖を覚えた。この男、確実に正気の目をしていない。このままではいけない。
「医者」は、息を荒くしながら、私の身体に手を伸ばしてくる。…襲うつもりか。しかし、その手にはメスが握られていた。
「動くなよおぉぉぉぉぉぉぉ!! 俺が奇麗に、整形してやるからあぁぁぁ!!」
男がメスを近づけてくる。
私は渾身の力で男を振りほどき、その手を逆につかみかえし…
そこで、私の記憶は、少し曖昧になる。
気づくと、私は、奴の上に馬乗りになっていた。
そして、奴の顔面を、何度も何度も、腫れ上がるまでに殴っていた。
何度も何度も、何度も何度も何度も。
死ね、死ね、死ね、死ね、死ね。
そう繰り返していた気がする。だがそれも定かではない。
奴は鼻と口から血を出してぐったりしていた。私は自分のしていることの恐ろしさに気づき、慌てて手を引っ込める。
「ひ…」
私はまわりを見回す。足元には奴の持ってきたメスが転がっている。そして机の上には、「ふ」の文字に相当する団体の資料ファイルがいまだに開かれたまま載っていた。
私はそのファイルをつかみ取り、鍵を机の上に置くと、その部屋を退散することにした。幸い息の音は聞こえるので、「医者」は死んではいないようだった。しかし、私はもうこの男が気持ち悪くて、起こしてやる気にはならなかった。
その時、くくく、と笑い声が、下方から聞こえた。
「医者」が、笑っている。
「くくく、…くくくくくくくくくく。くくくくくくくくく」
私は何も言えずに固まっていた。そして逃げるように事務所を後にする。
「っくくく…忘れんなよ、お前は、きっと、きっともう一度俺のもとへ来る。アサギになりたいと、アサギにしてくれと、俺にきっと、頼みに来る」
「医者」は私がドアを閉める直前にそう呟いて…いた気がするが、定かではなかった。私は大急ぎで鍵を閉め、階段を駆け足で降りた。手が、足が震えた。思わず踏み外しそうになるが、そのために走るスピードを緩めるのさえ怖かった。私は必死に、あの男から逃げていた。
階段を駆け下りている間に、哄笑が―――あの部屋から響いてくる。ぐわんぐわんと、それが私の頭の中で反響し、無限に繰り返され、私から冷静に考える力を奪っていった。それでも手にしたファイルだけは決して離すまいと、私は必死に右手に力を込めた。
外に出る。必死に走る。街の雑音が耳に入り、外の正気な世界が私をしっかり受け止めてくれて―――それでも尚、まだあの笑い声が聞こえてくる気がしていた。私は走り続けた。
|