2−11
〜私の日記〜
テストの時期が迫り、私はさすがに日々をぼんやりして過してばかりいるわけにもいかなくなった。
私は文系なので数学や化学系統のテストが必修である理系ほど忙しくはないが、やはりテストはテスト、勉強しないわけにもいかない。
「すまない、上原、ノートを貸してくれないか」
最近疎遠になっていた上原にも頭を下げ、私はなんとか遅れを取り戻そうとした。上原は別に自業自得の私を助ける事に難色を示したわけではないが、私に対しては非常に心配しているように見えた。
「中神…、なんか、すっかり、変わっちまったな」
上原はそう言って私を上から下まで見る。…確かに、それは自覚していた。私はここ一週間ほどで10キロ近くも体重が落ちていたし、食事もあまりまっとうなものをしていない。髪を整えたり、身の回りに気を配る余裕もなくなってしまった。ただひたすら、ある一つの事をのみ考えて過ごしてきた。
アサギ。
彼女を発見すること。
星河市には何度も訪れた。都市部と住宅部がはっきり分かれた工業都市で、遠くには山波が見渡せる。田舎ではないが都会とも言えぬ、何だか中途半端な地方都市だった。
私は内藤金融やその周囲のビルに至るまで、それと気づかれぬよう注意しながら何か手掛かりがないか探した。だが所詮は素人のやること、程度は知れている。それに「医者」の差し向けた「情報屋」たちが既に動いてくれているのだから、私があえてこのような危険極まりない行動に出る必要はなかったのだ。だが私は、じっとしてはいられなかった。何でもいいから、彼女に関する手掛かりが欲しい、彼女に関する、情報が欲しかったのだ。
もちろん収穫は一切なかった。それでも、私は星河市に向かった。新幹線で。
そして、何度も悔やんだ。なぜ、あの時、後からでも彼女を追いかけなかったのか。なぜ、もう一度彼女に迫り、説得しようとしなかったのか…。
そうだ、折角見知らぬ星河市まで来てしまったのだ、そのまま逃亡しても差し支えのない筈だった。もっと、もっと遠くまで。新幹線に乗り、もう誰も知らない土地へ、それこそ、「ユートピア」まで…。
…あるいは、ひょっとして、彼女もそれを望んでいたのではないか…。
そんなどうしようもないところまで、思考は飛躍していってしまっては、私を苛むのだった。
「中神…」
上原が、意を決したようにして言った。
「アサギさんの、事だね…?」
私はうなずく。今更隠そうとしても無駄だった。上原はぼうっとしているように見えて、時々かなり鋭いところがある。
「君はアサギさんにイカれちゃってるんだね…。普通の友達と考えていたらそんな風にはならない、かなり本気で好きになってる。でも彼女とは結ばれない、そのストレスが君をこんなにした…」
そこで言葉を切り、上原はもう一度私を見る。
「いや、違うな…、さらに何かあったみたいな感じがする…。なあ、本当に、このままじゃどうかしちまうよ? 中神。しっかりしてくれ。俺は、そんなおかしくなっていく君の事、見ていられないんだ」
彼はかなり辛そうに目を伏せる。だが、本当の事を言うわけにはいかない。言っても……多分、信じてはもらえないだろうから。
「もしかして、もうそれを言って、振られたとか、そんなんじゃないよな? …なあ、頼むよ、相談してくれ、俺をもっと信用してほしい。君にとって俺は最も気の置けない友達、何でも話せる親友、そうじゃなかったか?」
私は…、
いや…、
やはり、言えない。
ごめん。
心の中で彼に詫び、私は彼に背を向ける。「ノート、ありがとう」そうとだけ言い残して。
彼はなおも言い足りなそうだったが…一言だけ、「中神、俺はさ、」と言いかけんとした時、
私の携帯電話が鳴った。
私は彼の言葉を聞こえないふりをし、電話に出る。そうするしかなかった。
だが、電話に出てからは、本当に周りの音が全く聞こえなくなるとは思っていなかった。
「パシリか…? 俺だ、『医者』だ」
「…どうしました、何か新しい情報が?」
「いや…」
奴は言いにくそうに口を濁していたが、結局は思い切ったようにこう言った。
「アサギの死体が出た」
その瞬間。
私の世界が、壊れた。
☆ ☆
「医者」の病院の一室。
一瞬霊安室か、と思ったが、こんな規模の小さな病院にはないかもしれない、と思いなおす。おそらく、入院患者用の病室を使ったのだろう。
その、ベッドの上に、アサギの死体は置かれている―――ようだった。
「星河の連中が見つけてくれたんだ…、かなりの偶然によって発見されたらしい。山の中のゴミ溜めの中を探していたところ、奇妙なリュックのようなものがあって、その中をのぞいたら…」
私は思わず背筋が凍りそうになった。次いでくらり、と意識が遠のきかけ、足元がふらつくが、ここで倒れてはいけないとぐっと踏みとどまる。そして、意を決し、眼の前の物体にかけられた布をはがすことにした。後ろからは、「法律家」と「運び屋」も見ている。
私は、息をのみ、一息で白い布を取り去った。
それは、
それは…。
ああ。
あああ。
ああああああああああああああああああああああああ………!!
私はその場にうずくまり、胃の中身を戻してしまう。
最初、私にはそれがなんであるかわからなかった。
いや、知覚することを、脳が拒否していた。
でも、
でも、もう遅い、
わかってしまったものは、わかってしまったのだから…。
それは、
両手で抱えられるサイズになってしまった、小さな、小さな小さな、
あんなにも美しく、あんなにもかわいらしく、あんなにも私を魅了したアサギの…
首だ。
「うわああああああああああああああああ!!」
私は叫んだ! 他にどうしようという?! 他に私はどうすれば良かった?!
そんなものに答えはない!! 私は、私は叫ぶしかなかった、それしか、今の私を、一瞬でも、一秒でも、少しでも少しでも長く、ごまかすには、現実から目をそらせるには、それしかなかったのだから!!
「うううううううう………いやだ、いやだ、いやだ、いやだよアサギいいいぃぃぃぃぃぃ、そんな、そんなのウソだ、信じない、信じない、信じないこんなの、やめてくれ、やめてくれよ、アサギ、アサギ、アサギアサギアサギアサギアサギアサギアサギアサギアサギ
!!!」
…ここまで来るともう子供である。さすがに「医者」たちは呆れてしまったようだった。ボロボロと涙を流す私を、憮然として見下ろしていた。
「この通り、アサギは殺されちまった…。犯人はおそらく藤城組。これ以上は情報は無しだ。口封じのために殺されて、処理が大変だったのでバラバラにした、そして間抜けな組員が適当なゴミ溜めに首を放置してしまったために見つかった…と推測できるが、まあそれまでだな。他にどうしようもない」
「警察は!? これは殺人事件だろう!? どうして警察に連絡しないんだ!!」
私は「医者」に訴える。
「馬鹿言うな、それができないのはお前だって良く分かっているだろう? 俺たちはまっとうな人間じゃないんだ、自首するようなものさ。もし首だけを警察の目につくように仕向けても、同じことだ、結局俺達にたどり着いてしまう。そうなれば、俺たちもお縄だよ。そういうわけにはいかないんだ、この世界では。中神アキラくん。だから、内内で始末される死体も多いんだよ」
「だけど! このまま放っておいていいのか!? 大事なパートナーが殺されたのだろう!? 悔しくはないのか!!」
「そりゃ悔しいよ。でも、ルールというものがあるんだ、この世には。それを破るわけにはいかないんだ、たとえアサギのためであっても。だから、この場合、しくじったこっちが悪いということになる。…残念だが、復讐はなしだ」
「そんな!!」
私はなおも必死で訴えようとしたが、頭のどこかでは、それは無駄なのは分かっていた。おかしいのは―――おかしいのは、私の方なのだ。この世界では、「医者」のような考え方が普通。いくら腕のいい「情報屋」とは言え、たかが小娘一人のために、命をかけてまで復讐しようという奴はいないのだ。
加えてアサギは孤児だったのだ。親も、親類も、そして友人さえも…いない、この私を除いては。
だから…だから、「医者」が死亡届を書きさえすれば、彼女は戸籍上も死亡が確定し、その存在はいとも簡単にこの世から消えさる…こんなにもあっけなく。
「……そんな」
あんまりだ。
私は立ち上がり、もう一度彼女の顔を見た。もうずいぶん日が経っているので、顔の色は白く変色し、また殺害時に首でも絞められたのだろうか、顔は全体的にむくみ、まるで別人のようだった…だが、それは確かに彼女だった。髪や、顔のパーツの一つ一つ、そして耳の後ろのほくろ…すべて確認した。やはりこれは彼女なのだ。
私は彼女の前に立ち尽くした。…そして彼女の声を必死に聞こうとする。さぞ無念だったろう。悔しかったろう。孤児に生まれ、人と接する喜びを知らず、「医者」に目をつけられて危険な仕事をさせられ、最後はこんな無残で無意味な死を遂げてしまった…。
…アサギ…。
私は、彼女の首を前にして、今一度、彼女の名を呼んだ。
ごめん。
アサギ。
結局、君を助けることはできなかった。
結局私には何もできなかったんだ。
アサギ…。
本当に、ごめん。
…愛してる。
アサギ。
私は、醜くゆがんでしまったその顔に、最後のキスを落とした。「医者」や他の二人がはっと息を呑むのが分かった。
「…藤城組」
私は呟いた。
…そうだ。
こいつらが動かないなら、私がやってやるしかない。
私が…。
彼女の仇を…。
「おい」
「医者」が私に声をかける。
「何を考えてる。言っておくが、藤城組に対し勝手に復讐することは許さん。いや、接することすらだめだ。お前もただじゃすまないし、我々ももう商売を続けられなくなる。相手が悪すぎるんだ。…頼む、諦めてくれ、中神」
「医者」は言った。他の二人も何も言いはしないが、同じ意見であるのは明明白白だった。
「…そうか」
私は言った。
「分かった、奴らに対して何もしないことを約束しよう。…だが、覚えておいてくれ、アサギを殺したのは奴らだけじゃない、あんたらもだ。あんたらが危険極まりない仕事を平気で彼女に押しつけ続けた結果、こんなことになってしまったんだ。それを自覚しろ。覚えておけ、誰がなんと言おうと、あんたらだって、人殺しには変わりないんだ」
私は周囲を睨んで言い放った。三人とも何も言えずにこちらを見ている。まるで、何かひどくグロテスクな、見てはいけないものでも見たかのような、奇妙な目で。
「…お別れだ。これ以上お前らの顔は見たくない」
私はドアを開け、部屋を後にした。廊下を足早に歩き、この忌々しいビルからさっさと出てしまおうとする。途中、アサギの事務所の前を通った。相変わらずパソコンや資料がごちゃごちゃになって置かれていた。そして、その中心には、今もアサギが鎮座して、私ににっこり笑いかけてくれる―――気がした。だが、そんな夢幻は一瞬のうちに消えさり、後には寒々とした埃っぽい部屋の風景が残るのみだった。
かつて、私はあの部屋で彼女を抱いた。そして今、彼女は小さな首だけになり、ベッドに横たわっている…。
私は急いで会談を駆け降りた。涙がボロボロととめどなく流れおちてきた。口元を押さえるが、何の助けにもなりはしない。嗚咽を止めるなんて、今の私には何をしようとも無理な事だった。
目を閉じれば、彼女の笑顔が浮かんできた。ああ、アサギ…。どうしようもない、混乱。生まれて初めて味わう感覚だった。ああ、アサギ、助けて、アサギ。助けて、助けて、アサギ、お願いだから、私の目の前に、もう一度現れてくれ…!!
バタン!
私はドアを開け放ち、外へ出る。
もうすっかり暗くなっている。時刻は六時過ぎ。信号の赤が遠くににじんで見えた。私は、とにかく一度家に帰ろうと、混乱する頭を無理やり落ちつけ、方向を確かめてから歩き始める。その時だった。
「中神」
…私を呼びとめる者があった。
それは、よく聞きなれた声。
この場に、もっともふさわしくない声だった。
私はゆっくりと振り返る。その声の主は、反対方向の歩道で、私が出てくるのを待っていたようだ。
「…上原」
私は、声の主に対して言った。慌てて涙をぬぐおうとするが、もう遅い。完全に泣き顔を見られてしまった。
「どうして、泣いているの」
上原は言う。だが私は答えられない。何かいい言い訳を思いつくには、頭の中があまりにも混沌としすぎていた。だから、
「どうして、こんなところに」
やっとのことで振り絞った言葉がそれだった。
「悪いけど、君の後をつけさせてもらったんだ。あまりにも尋常じゃない様子だったから。…ねえ中神、どうして、どうしてそんな顔をしているんだ? 教えてくれ、本当にこのままじゃ、俺はどうにかしちまいそうなんだ…」
「……」
私は再び黙る。…本当のことを言うと、彼の気持ちはすでに分かっているが、それを受け止めるには今はちょっと混乱しすぎていた。どうか、これ以上私を困らせないでほしい。
「だって、俺は、俺はさ、」
上原は、さっき言いかけた言葉を、ついに口にしようとする。
――――ああ、お願い、今はやめてくれ。
私は願ったが。
それは結局無駄だった。
「中神の事、好きだから」
――――――――――ああ。
ありがとう。
嬉しいよ。
でも、ごめん。
それだけ言って、私は再び歩き出す。
上原は、そう言われるのは半ば分かっていたのか、がっくり肩を落としながらも、それ以上私に何か言ってくることはなかった。
…そうだろう。
私も、彼の気持ちには気づいていた。
恋とはどうしようもないものだ、たとえ相手に好きな相手がいるとしても、自分が好きならば、それはもうどうしようもない。
あれほど情熱的な恋をした私だから、それがわかる。
彼が私のことを好きで、それであれだけ色々なアプローチをしていたことも、痛いくらい分かっていた。
でも、どうしようもなかった。
申し訳なかったけど、私にはどうしてやることもできなかったのだ。
だって、私は、中身は男なんだから。
それゆえ女性しか、愛せないのだから。
…本当に、ごめん。
夕暮れも深まり、完全に街が夜に沈んでいく中、私は一人ゆっくりと家への道を歩き続けた。
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