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ASAGI 〜ユートピア殺人事件〜
作:K+K



2−5


〜私の日記〜

「人間にあって、動物や機械にないものはなんだと思います?」
彼女は言った。
ここは薄暗い部屋の中。机の上にはデスクトップのコンピュータが一台、ノートパソコンが一台。その他にも、この部屋にはパソコンが窓際に二台、私の後ろの机に一台と、合計五台もあった。今はそのいずれも、スクリーンセイバーの七色のアメーバを映していた。
部屋にただ一つしかない蛍光灯はついていない。デスクのライトも同様。窓のブラインドの隙間からこぼれる西日が、彼女のシルエットをくっきり映していた。表情は見えないが、きっといつもの、一点の曇りもない微笑みを浮かべているのだろう。
机の上は書類が乱雑に積み上げられていた。壁の整理棚にも所狭しとファイルが並べられている。その一つ一つが、果たしてどのような業界の、どのような種類の「情報」を収めているのか、私にはとてもじゃないが予想がつかない。
彼女は室内においても黒づくめだった。黒のTシャツにラフなパンツ。背もたれのついた椅子にゆったりと腰掛け、目の前の机に両足を乗せていた。
「人間にしかないもの…、そうだな、心、とでも言うべきなのだろうか」
「それには賛同しかねますね。心はおそらく動物も持っています。犬も、猫も、牛や豚もおそらく心を持っているでしょう。彼らの行動を見ていればそんな気がしてきます」
「というか、そもそも心の定義がわからないからな」
「そういうことですね。では、思索する力か…、と言われれば、それも違います。思索は、それこそ動物にもコンピュータにも動物にも可能ですから」
「コンピュータにも、か?」
「そうです。今や、単なる『情報処理』と『思索』の境界は本当に曖昧になりつつあります。たとえば、人は資料を読むなどして情報を得、それを元にいくつかの仮定を立て、筋道を立ててそれを証明し、一つの結論に至ることができる。ことができます。大ざっぱに、すごく大ざっぱに言って、これが一つの『思索』の形だとしましょう。さて、これは果たしてコンピュータに不可能な過程なのでしょうか」
「そう願いたいがね」
「ところがそうはいかないのです。なぜだかわかりますか。コンピュータは、一度に大量の情報を処理することが可能です。そのスピードは、有機体たる人間の比ではありません。コンピュータは、そうするよう指示するプログラムなしに恣意的に情報を選択し抽出することはできません。それは確かに人間にだけ可能な、人間のアドバンテージであると言えるでしょう。それに加えて人間には『勘』、というものがある。意外と気付かれていませんが、この『勘』の有無によって人間の作業効率がどれだけ違ってくるかを知れば、きっとあなたも驚くと思われます。
…ともあれ、コンピュータは知能を持たないので自ら選択することはできません。しかし、その代り、膨大な量を隈なく、高速で、正確に、ミスすることなく処理することはできる。選択できないというハンディキャップを、一秒あたりに処理できる情報量を人間のそれの万倍にすることで、見事に埋めているわけですね」
「そして、それにより検閲し、統合した情報を、一つの『仮定』に仕立てる」
「そう。たとえば書類一つをまとめて精査し、もっとも多く登場した単語あるいはその類義語をその書類の『テーマ』に据える。そして『だが』『ならば』『ゆえに』などの単純な因果関係をプログラム言語に翻訳するソフトをインプットし、一つの論理体系に基づいて書類を『解読』する。さらに論理の矛盾点や綻び、そこから予想される結論を『仮定』し、それを裏付ける情報を広大なネットの海からサルベージする。裏付けられなかった『仮定』は破棄、証拠を得た『仮定』は結論として据え置く。…これだけできれば、コンピュータに思索は不可能、なんて二度と言えなくなるでしょう」
「そんなプログラムを作成することが本当に可能なのか?」
「可能ですよ。日本語というのは、余計な修飾語や無意味な擬態語を排せば、意外と簡単な論理構造をしているのです。それ故、プログラム言語に書き換えることも決して難しいことではない。日本語のニュアンスそのものは伝わりませんがね…、意味だけは伝達可能です。それは、『仮定』や『証明』の段階が難しくない、ということもそのまま意味しています。…ふふふ、言わばこれも一つの『思索』の形ですね」
「…では、一体なんなんだ、人間にしかないものとは。肉体は動物の方が優れているし、情報処理能力はコンピュータの方が優れている。知的欲求、とかか?」
「なるほど、悪くない発想ですね…。確かに勉強するのは人間だけです。何かをより深く知りたい、より深く研究したいという、三大欲求にも匹敵する強い欲望は人間の文化を発展させ、人を人たらしめてきました。しかし、動物には好奇心はあります。犬も身の周りのことは何でも知りたがるし、サルも一度興味を持った物に対ししつこくアプローチを繰り返すことが多い。様々に実験から、『知りたい』という欲望は人間だけのものではないと予想されています。もっとも、その理由は人間のものとは異なりますがね…。つまり、それは生きるためです。本人、いや本動物たちは意識してはいないでしょうが、好奇心は新しい発見のもとになります。それにより動物は効率の良い生存の術を得たり、行動域を広げたりできます。まあ、いずれにせよ、好奇心と知的欲求を厳密に区別するのは難しいですね」
「…わかったよ、降参だ。君の考えには私は及ばないみたいだよ。…なんだい、そのヒトにあって動物や機械にないものって」
私は大げさに両手をあげて見せる。アサギが、その仕草のオーバーさに、くすりと笑い声を洩らす。
「ヒトにはあって動物や機械にはないもの…。それについては、実は私がさっき少しだけ言及しているんですよ。…すなわち、『日本語そのもののニュアンスは機械では伝わらない』と言った部分です。
これで、私の考えていることがわかりました?」
「…ああ、ひょっとしてこう言いたいのか。人にしかないもの、それは『センス』であると」
「ピンポーン」
今度はアサギが大げさに親指を立ててみせる。おそらくあのとびきり魅惑的なウィンクもしていることだろう。逆光のせいで見えないのが残念だ。
…彼女はよく、こうして自分で考えたことを私にクイズのようにして出した。結論は、聞いてみればああなるほど、と納得できるものではあったが、どうにも私一人では思い至れない。私は頭が堅いのかもしれなかった。
「そう、センスは人にしかない。たとえば、先のコンピュータの話題で、コンピュータに日本語の論理構造をプログラム化して打ち込めば、理屈上翻訳は可能、と言いました。でも、その逆、つまりプログラム言語を日本語に翻訳するのは、コンピュータには絶対不可能です。たとえできても、『だが』や『つまり』が異様に多い、奇妙な日本語になってしまうことでしょう。
デジタルの世界では、事実上ONとOFFしか存在しない。0か1、イコールかノットイコール、白か黒、イエスかノー、単純な二元論。0.5とか、灰色とか、曖昧なものは許されないのです。
論理構造上、必要な接続詞は、実は意外なくらい少ない。せいぜいbutだがsoだからthenそしてそれにorまたはくらいでしょうか。
しかし、実際には、しかし、ところが、けれども、なぜなら、ゆえに、したがって、そのため、また、そのうえ、および、あるいは、もしくは、と実に様々な種類がある。英語でもbutのかわりにhoweverやstillが使える。これらをまとめて『逆説』とまとめればコンピュータにも解読は可能ですが、その反対は無理。どの言葉を選べば良いかなんて、場面に応じていくらでも変わってきます。それに臨機応変に対応できるのは、人間だけです」
「つまり、そういう時に発揮される人間特有の武器が『センス』である、と」
「そういうことです。同じ理由で、コンピュータには美しい日本語がわかりません。『古池や蛙飛び込む水の音』の良さはコンピュータには理解不能です。おそらく、その場でぱぱっと効率的に、『古池にカエルが飛び込んで水音をたてました』と翻訳するでしょう」
私は思わず吹き出してしまう。確かにその通りだ。
「抽象画のよさや音楽のよさ、顔の美醜、空間の心地よさ、などは人間に聞かないとわかりません。アシンメトリーはコンピュータにとっては作業能率が悪いため不都合なだけですが、人間はそこにシンメトリーにはない美を見出します。壊れやすい不安定なものはコンピュータにとって扱いにくいだけですが、人間はそこに哀愁や愛着を感じたりします。そして、そういったものをわざと作るのも人間です。不完全と未完成は根本的に違うのです」
「なるほどね…。確かにそれは動物にもコンピュータにもない特徴だな…。
でも、そういったものの価値や必要性は人間にしか理解できないな。人間のみに授けられたセンスの産物は、当然人間にしか理解できない。『センス』という存在は人間の中だけで自己完結している…」
「その通りなのです。だから、人間が滅び、世界に動物とコンピュータしか存在しなくなってしまったら、人間がどういう特徴を持っていたか、ということを誰も説明できなくなってしまう…」
「人間が滅びたのに説明とは妙だな」
私はくつくつと忍び笑いを洩らす。アサギもつられて笑った。
「それに、人間の産物であるコンピュータだけが残っているのも変ですね。でも、面白いとは思いませんか? ヒトが滅びても、コンピュータはカチカチと音を立てながら動いている。マニュアル通りに仕事を、電気の供給が止まるまで続ける。その仕事の依頼主は既に存在しないというのに…」
「電気の供給が永久機関などによって無尽蔵になればコンピュータの電源が落ちることもなくなり、半永久的にコンピュータの活動は続く。そのうち、コンピュータが自分で進化を遂げているかもしれない」
「ふふ、SFチックですね」
あ、笑われた。
「まあ、『センス』って解答には納得だな…。だが、少なくとも人間が生きていく上で絶対必要なものではないな。センスだけじゃ食っていけないからな」
「社会において食べていくにはセンスが必要ですがね」
「ちぇ、まったくすぐ上げ足をとる…。とにかく、その話はよくわかった。今回も私の負けだ。…ところで、君のその『センス』とやらは、いったいどのようなプロセスによって今の君をこのような状況に導いていったのかな?」
「ふふふ…。その質問こそ無粋ですよ。私はいるべきところにこうしているだけです。本来いるべきところ、本来するべきところ、落ち着くべき所に落ち着いた、といったところでしょうか。それは私が自分のレーゾンデートルの発見に成功した人間である、と言い変えてもよいでしょう、それくらいしっくりきているのです、私にとっては」
彼女は相変わらず表情の見えない黒いシルエットのままで私に語り続ける。ブラインドの隙間からこぼれる日差しが眩しかった。
「君は『情報屋』なんだね」
「ええ、私は情報屋です」
彼女ははっきり答える。思わずうっとりするくらい美しい発音だった。
私はあの後、姿を見せなくなった彼女について色々と調べ回って見た。最初は彼女の指導をしていた教授や、彼女を知っている生徒にあたって見たが、めぼしい情報はゼロ。続いて私は、漠然と、特にあてもなく街の中を探してみることにした。
彼女は「情報屋」だという。響きからして、それなりに裏の業界に通じており、また顔が広くないとおそらくは続けられない稼業だろう。ということで、普段の私ならばまず足を踏み入れないような、金融業者やあやしげな通販会社などに足を踏み入れてみることにした。私にしては異例の度胸だったと言えるだろう。たかが学生一人を探そうというのに、ここまでする人間はそう多くはない。恐らく、私はもうそれくらい彼女にいかれていた、ということなのだ。
だが、意外とそういった業者の人間は口が堅く、私ごとき若造にはそう簡単に情報を提供するつもりはないようだった。ただ、彼らは彼女に関して何も知らないわけではなさそうだったので、私はなんとか(少ないながら金なども用意して)彼らに交渉を試みようとした。しかし彼らは押せども引けども私を相手にはせず、これは長期戦になるか、と覚悟しかけていた時だった。
捜索はあっけなく成功してしまった。
何のことはない、彼女の方から私の目の前に現れたのだ。
三軒目のビデオ屋の事務所で門前払いを食らい、さあこれからどうするべきか、と思案を巡らせていたところ、私は肩を後ろから叩かれた。そして私が振り向くと、その人物は凄まじいスピードで私を引っ張っていき、とっととバイクの後部座席に乗せ、バイクを発進させた。そしてたどり着いたのがこの事務所というわけだ。
そう、彼女はまがりなりにも「情報屋」、あらゆる情報を集めてはそれを人様に提供して稼ぐ身なのである。私が彼女の行方を嗅ぎ回っていることが、彼女自身の耳に入らないわけがなかった。
「正直に申し上げますと、そういった行為は、大変迷惑です」
事務所のドアを閉めると開口一番、彼女はそう言った。まあそうだろう、どこの馬の骨とも知れない若造に行方を追われている「情報屋」などという肩書がつけば、仕事にはなるまい。立派な営業妨害だ。
「申し訳ない。ただ、どうしても君に会いたかったんだ」
私は降参のポーズを作った。彼女は嘆息してどっかといすに腰かけたが、それ以上は何も言ってこなかった。おとがめなし、ということだろうか。
彼女の「事務所」は、街の中心部を少し外れた、住宅街と繁華街の境界線、とでも言うべき場所に位置する雑居ビルの三階にあった。こじんまりとした、まさに個人が事務仕事に使える程度の部屋で、賃貸者の名義は「有限会社 ヤマモト」となっていた。おそらくはダミー会社だろう。ビルの他のフロアには、雀荘や派遣会社などのテナントが入っていた。
彼女は椅子の背もたれによりかかり、胸ポケットから煙草を取り出し、ライターで火をつけた。白い煙が部屋の中に漂い始める。ふーっと、放心したような表情で煙を吐き出す彼女の姿は、不思議なくらい様になっていた。
彼女は目を閉じ、じっとしている。この場面だけを写真のように切り取ったなら、あるいは彼女は眠っているようにも見えるが、私はそうでないことを知っている。これは、彼女が思考を巡らしているときのスタイルなのだ。彼女の頭は今高速で回転している。そして、私には彼女のその思考の経路を試みにも辿ってみることはできなかった。彼女はいつも、この思考ののち、およそ私の予想の斜め上を行く突飛なことばかりを言い出したからだ。それは、私たちのこれまでの会話の文脈に関係あるものかもしれないし、全く関係ないものかもしれない…。彼女は、彼女の世界を持ち、彼女の宇宙を持っているのだった。
しばらくして彼女はおもむろに目を開き、くるりとこちらに向き直った。彼女の表情が逆光で見えなくなり、影だけになる。私の顔は彼女からはよく見えるというのに、私は彼女の顔を見ることができない。……まるで仮面のようだ、と私は妙な連想をした。
彼女は、ふっと笑いのようなため息をつき、不意に話題を切り出したのだった。
「人間にあって、機械や動物にないものは何だと思います?」


そう、本当に彼女は「情報屋」の一員だった。
それは一般の人が「情報屋」と聞いて想像するイメージとさして遠くはない。彼女たちは依頼があれば様々な情報を得、そして売る。依頼主は裏の世界の住人が多く、当然彼女の持つ人脈もカタギではない連中で占められてくる。
彼女たちは情報収集についてはスペシャリストだった。「ネットは、一般の人間の利用するWWWワールドワイドウェブだけではない」と彼女は語る。新聞社や雑誌社に入ってくる情報の総量は、新聞や雑誌に実際に掲載されるものの比ではない、と彼女は語る。銀行、病院、学校、人の集まるところには常に情報が集まる、と彼女は語る。
「情報の収集は機械任せでは決して済ませることができないものです。それこそ、我々人間にしかない『センス』を持って臨機応変に対応し、取捨選択して、本当に大切なものだけを、またできるだけ安全に、そしてできるだけ多く…手に入れないと、この商売はやっていけません」
彼女は、入ってくる情報の9割は偽情報や役に立たないジャンクだ、と語る。
「コンピュータでは情報の真偽までは見極めることはできません。もちろんそれは我々人間にしても、100パーセント可能というわけではありませんが…。そう、最後には、究極的には経験による『勘』に頼らざるを得ない、といった場面もままあります」
彼女は語る。「情報屋」という仕事がいかに危険に満ちているかについて。味方が多い代わりに、敵も多いということについて。
「あの『医者ドクター』も私たち「情報屋」の一人です。いわゆる『闇医者』ですね。彼らのところには、彼らしか知りえない情報が飛び込んでくることもあります。私は、それらを用いて彼らと取引きしているのです。
彼が『私は医者ドクター』という通り名を持つならば…、そう、さしずめ私は、『密偵スパイ』といったところでしょうか」
彼女は語る。彼女は生まれた時から、裏の世界に通ずる運命だったと。
「単刀直入に言うと、私は君にはそんな危険な仕事をしてほしくはない。君の身に少しでも危険が及ぶような事態にはなってほしくない、と思っている。なぜ君は、そこまでしてこんな仕事を続けるのか?」
彼女は立ち上がる。再び煙を吐き出す。ポケットに手を入れる。すべての動作は無造作に、自然な、一連の流れして行われる。
「この仕事は収入もよく、私の能力を最大限発揮できるし、私に合っている、と感じているからです。
私にはもともと親がいません。孤児院で育ちましたが、一生何もかも援助してもらえる世の中ではありません。私は大学進学を希望したため、学費やマンションの家賃を稼がねばならなくなりましたが、この稼業のおかげでなんとか凌ぐことができました。
……私は自らの能力のおかげでそれほど生活に不自由はしませんでしたが、私の友人には、自分の身体を売ってなんとか糊口をしのいでいるものがいくらでもいます。取り立てて能力もなく、大学などへ行く余裕もない者はそうやって生きるしかないのです。……現代日本は、豊かになったようで、一方でこうした無数の社会的弱者の問題を抱えているのです」
「………」
私は彼女になにも言うことができなかった。私などのような、親の脛を齧って働きもせず、安穏と大学生活を送れる者にとって、彼女のような壮絶な人生はどうしたって理解できない、境界線の向こうの話なのだ。
「あのバイクにしたって、中古でやっと買ったものですし…。出資の半分ほどは『医者ドクター』によるものです」
私はぴくりと反応する。「医者ドクター」。奴は、彼女とはどの程度の関係なのだろう…? 彼女は、彼は「協力者」であると言った。「闇医者」であるともまた、言った。しかし…。
「なあ、アサギ。君は、その、『医者ドクター』とは、その…」
「はい?」
「まあ、その、恋人関係だったりするのかな」
私は思い切って訪ねた。
すると、彼女は一瞬きょとんとしたが、やがてくつくつと笑い始めた。煙草の煙が、灰皿から薄く立ち昇っている。
「恋人? …いいえ、それはありません。先日あなたとお話した、『恋人』の定義、あれのいずれも当てはまりません。別に私は彼を愛しているわけではありませんし、ましてや肉体関係などは神にかけてもないと誓えます。安心してください」
私は自分でもそれが態度に出ているとわかるくらいに安堵した。ふぅー、っと息をつく。「別に彼を愛していない」という言葉が、その時の私にとってどれだけ嬉しいものであった事か、ご想像いただけるだろうか。
安心ついでに調子に乗った私は、彼女を素早く抱きよせ、その額に軽くキスをした。彼女は一瞬驚いたようだったが、またすぐにいつもの余裕を取り戻した。くすり、と笑う声が聞こえた。
(私はアサギの恋人なのか?)
唐突に私の中に浮かんだ疑問。私はそれを、直接彼女に問うてみたい気もした。そう聞いたらなんと彼女は答えるか、想像するだにわくわくして、それと同じくらい不安になる、それはとてもスリリングな体験に思われた。
しかし、恋愛の定義についてあれだけ真面目に議論したあとでは少々気恥ずかしいものがある。大体、彼女はそういった展開は好まないのではないか、という漠然とした予感もあった。私はその質問を心の奥にしまっておくことに決める。
私はくるりと踵を返した。
「さて、私はそろそろ戻らないとな。…今日はこれから、大学の授業があってね。単位を落とせない授業なんだ。…君は、いつ頃になったら戻ってこれる?」
「そうですね、今の仕事が終わったら…、もう二〜三日は身動きがとれないかもしれませんが、それが終わったら、必ず、キャンパスに戻ろうと思っていますよ」
「そうか…」
私はガチャリ、とドアを開く。「情報屋」の仕事がどれだけ大変なのか、私には想像もつかないが、おそらく勉強を優先にするためにおろそかにしていい類のものではないだろう、ということは容易に想像がついた。
私は、まだ煙草のにおいがこもる部屋を後にするため、一歩を踏み出す。
「あ、そうそう」
ドアを出る前に、私はふと思い出して振り向いた。
「なんでしょう?」
「さっきの話さ、人にしかないものっていうやつ。あれ、『火を使うのは人間だけ』ってのはどうかな」
私は誰もがどこかで聞いた事のあるような回答を言ってみた。言ってから、あんまり面白くない答えだな、と自覚する。
アサギはまたにこりと微笑んで「考えておきます」とだけ言った。
私は部屋を出た。バタン、と背後でドアの閉まる音を聞いた。












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