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ASAGI 〜ユートピア殺人事件〜
作:K+K



2−4


〜私の日記〜

私は彼女と「恋人」同士となった。
と、思う。
なぜもっと自信を持って言えないかというと、彼女が自分からこの言葉を使ったことが無かったからだ。対する私の方も、そんな言葉は使っちゃいなかった。なぜなら、「恋人」という響きにどこか胡散臭い印象を刷り込まれていた私が、その印象を刷り込んでくれた張本人の前で当の言葉を使うなど、そんな身も蓋もないことができよう筈もなかったからだ。
彼女の定義だけを考えて言うなら、私は彼女の言うところの「友達」にも「恋人」にも当てはまりうる、微妙な存在。私は認めてもいいが、彼女の側が認めるかははっきりとはわからないし、それは今となっては大して重要な問題ではなかった、と思う。
とにかく、私は彼女を愛していた、というのは確かである。
この愛は、確かな手ごたえがあった、確かな感触があった。今まで出会った女性のいずれも持っていないものを、彼女は持っていた。この愛は、彼女と出会ったあの時から始まっていたか、それとも夢に彼女を見たあの日から始まっていたのか、釈然とはしなかった。
いずれにせよ、夢のような恋、と言えたであろう。
夢に始まり、夢のように美しく、夢のように純粋で、そして夢のように儚く、脆く…?
「…いかんな」
私はのっそり立ち上がった。どうもじっと横になっているとろくなことを考えない。
彼女は私の隣で寝息を立てていた。枕からこぼれる茶髪が、カーテンの隙間からあふれる陽光を反射して眩しい。裸の肩が、彼女が息をするたびに軽く上下していて、そんな何気ない自然な動作が妙に子供っぽく感じて、いっそふるいつきたくなるくらいに彼女を愛おしく感じる。
私は服を身につけ、鏡の前でネクタイを締める。今日は休日ではあったが、塾の講師のアルバイトが入っていた。学生という身分たれど、それなりに自分で稼がねば好きなことをする余裕はない。
私のマンションはワンルームだったが、寮暮らしなどをしている友人などの部屋と比べれば遙かに広い。こうして少しゆったりめのベッドも置けるし、テレビや冷蔵庫、その他本棚や洋服ダンスを置いてなお余りあるものだった。学生向けのマンションとしては破格の待遇といえよう。
私はもう一度ベッドの上の彼女を見下ろす。尚も天使のような寝顔をこちらに向け続けるアサギ。白い毛布が、彼女の形に滑らかな曲線を描いている。
時刻は七時を回っていた。私はそろそろいいだろうと、彼女を起こしてやろうと近づく。その時、ピンポーーンと間延びしたドアチャイムの音が響いた。
「…?こんな早朝から誰だ?」
私は玄関に向かう。魚眼レンズが一応あるが、普段なんとなく失礼な気がして私はそれをのぞかないようにしている。彼女のとの朝のひと時を邪魔された一瞬の苛立ちも手伝って、私はやや乱暴にドアを開けた。
「はい」
「あ、どうも」
そこには、すらっとした長身の男。なかなかの美丈夫で、少し長めの髪をしており、縁のない眼鏡をかけていた。見覚えはない。
「…どちらさまでしょうか」
私は怪訝そうに聞き返す。彼は私の顔を一瞥し、そのあと私の足元に目を移すと、不意にニヤッと笑みをつくり、白い歯を見せた。アサギの靴が見えてしまったかもしれなかった。
「いえね、お宅にうちの・・・アサギがお邪魔してないかと思いましてね」
私はとっさに身構えた。…この男、アサギを知っている。それに、『うちの』とは、なんとも気心の知れたような言い方ではないか。この男が何物かはわからないが、簡単にアサギを受け渡したくはない、そんな気持ちに駆られた。
「…質問に答えてください。あんたは何者ですか」
「…いや、はっはっは、申し訳ない、怪しい者ではないんだ。ただ、訳あって本名は名乗れない。…いや、その時点で十分怪しいか、はっはっは」
男は勝手に笑うだけ笑い、きっと真面目な表情を作った。忙しい人だ、と私は思った。
「失礼した。とにかく、アサギを出してくれ。…私のことは、『医者ドクター』と言ってくれればわかる」
男は、そう言った。

     ☆

驚いたことに、私が部屋に戻ったとき、アサギはすでに着衣を終え、身嗜みも整えていた。何とも早業である。男が来ることは予期していたのかもしれない。
医者ドクター」と名乗った男は、「よっ」などと気軽にあいさつし、私の部屋にどかどかと上がり込んできた。私としては冗談ではなかったが、アサギの方も平気な顔をして迎え入れるので無下に扱うこともできない。応接間などは存在しないので、仕方なく先ほどまで私とアサギが二人で寝ていたベッドに腰掛けてもらうしかなかった。…ううう、顔から火が出そうな思いだ。
一応客である、私は狭い台所に入って紅茶など入れて彼らのもとへ持って行った。しかし部屋に入ると男はすっかりくつろいで、足を組んで煙草など吸っていた。ぷかぷかと煙で輪など作っている。私は、二つあったカップのうち一つを持ち上げると、その場でガブガブ飲み始めた。
「おいおいおいおい、折角入れたのに自分で飲んでしまうのかい? それじゃちょっとかわいそうじゃないのかな、アサギが」
「…いや、今飲んだのはあんたの分だし」
私はアサギの前だけにカップを置いた。すると男ははっはっは、と大声で笑い、膝をバンバン叩いた。どの辺がツボにはまったのかよくわからないが、しかしよく笑う男である。実に鬱陶しい。
「いやいやいや、それは一本取られたな…。面白い人だよ、君は…。ときにアサギ、本題だ。新しい仕事依頼だ」
男はまたしてもさっと引きしまった表情を見せる。考えたくないが、あの大笑いやにやにや笑いは私を油断させるための策だというのか。だとしたら実に食えない野郎である。
男はアサギになにやら短い書類を見せる。アサギはそれを一瞥すると、了解した、というように男に頷き返す。その手際のよさ、言葉にせずとも共有している何かがあるというだけで私は嫉妬に駆られ、思わず私は声を荒げてしまった。
「おいおい、いったいあんたなんなんだ、突然入ってきたと思ったらアサギを連れていこうとでもいうのか。アサギは大学生なんだ、しなきゃいけない仕事なんてないはずだが」
「…ああ、そう、君はまだ知らないのね」
そう言って男はぽりぽりとこめかみのあたりを搔く。そしてちらとアサギの方をうかがうような仕草。私のイライラはさらに募る。一体なんだというのか。
「いやね、こいつの仕事…。実はね、こいつ、『情報屋』なの」
男はさらっと聞きなれない単語を口にした。
情報屋、情報屋…。私は何度か、その響きを舌の上でころころと転がしてみる。情報屋。うむ、私の辞書には載っていない言葉のようだ。
何となくその響きからは、アンダーグラウンドの世界の、一般では知られていない、いわゆる「裏情報」を扱うキケンな商売を連想してしまいそうだが、いやいやまさか、アサギがそんな世界に身を浸しているなんてことは…。
「そのまさかだよ」
医者ドクター」は、私の表情からまるで心を読み取ったかのようにそう言った。
「って、まだ何も言ってないじゃないですか…。一体全体、どういう事なんですか、情報屋って」
「ん〜、ま、その辺はこいつから直接いろいろ聞いてほしい。あんたこいつの友達なんだろ。まあまっとうなもんじゃねえけどさ、とにかくサボったらやばい商売だ、ってことだけ分かってくれればよろしい。時間がかかっちまってもね、こういう商売はよくないの。情報は鮮度があるからね、寿司ネタと同じで早くお届けしないと刻一刻と価値がなくなってくの。さらに客商売だから、余所の商売敵さん達に引けをとったら信用にかかわってきちゃうの。…まっ、そんなわけでアサギはここで返してもらうよ。友達さん」
私は胸がムカムカした。「友達」と二度も呼ぶな、せっかく恋人になれたところだというのに。それに、アサギを借りていくではなく、返してもらう・・・・・・と奴が表現したことも気に食わなかった。
「ん〜? そんなに睨むなよ、友達さん・・・・。アサギは、君とはちょっと住む世界が違う奴なのさ。今日のところは諦めて出直してくれると、こっちとしても助かるんだけどな」
そう言って男はやおら立ち上がる。アサギも無言ですっと立ち上がった。その表情からは何も読み取れなかったが、やりたくてやっているのではないだろう、という予測は私にでもついた。男が煙草を私のソーサーに押しつける。我慢の限界だった。
私は男の前に立ちふさがった。
「…まだなんかあんのか?」
医者ドクター」はわずかに苛立たしそうに凄んで見せる。しかし、そのくらいで引き下がる私でもなかった。
「アサギの意見を直接聞きましょう。話はそれからだ」
私は言った。全く、冗談じゃなかった。せっかくアサギと初めての、二人っきりの優雅な朝を楽しもうと思っていたのに、こんな無粋な男に邪魔をされて。ここですごすご引き下がっているようでは格好がつかないし、このモヤモヤが晴れてくれるとは思えない。アサギの前で、すごすご引き下がる所を見せるわけにはいかなかった。
「…はっ」
しかし、男は鼻で笑う。
「んじゃ、いいぜ。アサギ、こいつとの朝の時間と、俺の持ってきた仕事、今はどっちを優先する」
アサギは、いつも以上に感情のない冷静な瞳をしていた。そして私の顔など見もしようとせずに、「仕事です」と冷たく言い放った。視線は私の胸を通過してドアをも通過し、外に既に向いてしまっているかのようだ。
「ま、そういうことだ。残念だったな友達さん、まあまたすぐ大学で会えるんだ、寂しくなんかないだろう。今日のところはカンベンな。そんじゃ、今度会ったときゃよろしくしてやってくれ」
そうとだけ言い残し、男はアサギとともにドアの向こうに消えていった。
後には為す術なく立ち尽くす私だけが取り残された。


     ☆


「どうしたの、なーんか元気ないぜ」
上原が向かいの席に座ってきた。私は食堂で一人読書に耽っていたところだった。私はわざとあからさまに大きなため息をつく。
「またお前か。…私に元気がないのはいつものことだろう。それより何か用か」
「ちぇー、つれないのもいつものことだよな〜。ま、いいや。ところで聞いた?例の黒服のアサギさん、恋人ができたみたいだぜ」
「それは私だ」
「…あんまり面白くない冗談だな」
上原はじとっと私を見る。まあ本当だからしょうがない。
「ちぇー、あんだけ美人だし、恋人ができたとなるとちょっとがっかりだけどな〜。…だけど、まあ、でも悔しいっていうのとはちょっと違うかも」
「ん? どういうことだ」
「いや、なんていうか、彼女とは付き合いたいとは思わないんだよな。何となく、俺じゃ彼女のお相手は勤まらないというか。あの人と会話するのも困難っていう感じがする」
上原は言う。…まあ、そうだろう。あれだけ変わっている彼女だ、普通の人間じゃ相手をしていれば身が持つまい。
「その点、中神さんはわりといけそうだよね。アサギさん相手でも平気で話せてそうだし」
まあ、その通りである。どうせ変人同士、類は友を呼ぶというものだ。
「恋人、か…」
私はため息をついた。セックスをしたからといって恋人とは言えない、と彼女は言った。だが、きっと私が彼女を恋人と呼ぶ日は来るまい、そして彼女が私を恋人と呼ぶ日は来ないだろう。それは確信に近いものがあった。周りがなんと言おうと、本人がそれと口に出さねば事実にならない。彼女は永遠に、誰のものにもならない。アサギはアサギなのだ。それ以外の何でもない。
だからなんだというのだろう…?
「…くそ」
私の脳裏に、「医者ドクター」の影がちらつく。余計なことばかりが頭をかすめていく。「医者ドクター」が彼女に命令する。「医者ドクター」が彼女と親密そうに話している。「医者ドクター」が、夜の闇の中、彼女を抱いている…
「くそ!!」
思わずどん、と机を叩いた。上原がビクン、と驚いて飛び上る。額に汗が浮かんだ。…どうかしている。あの「医者ドクター」と出会ってしまった日から、私の中では何か疼くものがあった。私は、彼女の本当の顔を知らないのではないか、彼女が本当に信頼を寄せているのは私ではなくてあの男ではないか、という疑念が湧きはじめていた。あの時の、男が彼女を連れていこうとしたときの、冷やかで感情の見えない表情…。彼女の見えない部分、彼女の裏の顔、それが気になって、うまく夜も眠れなかった。
ひょっとしたらあの日、私と一夜を共にしたのも、案外彼女にして見ればよくあることではないのだろうか…。夜の道を二人、バイクで走り抜けた、あの時の高揚感は今はまるで夢だったかのように思われた。初恋のような喜びは、圧倒的な不安に刷り変わりつつある。
「ど、どうしたんだよ…。おかしいぜ、さっきから」
「あ、ああ、すまん」
そう言って私は目頭を押さえた。本当にどうかしている…。こんな醜態を人前にさらすなんてなんという不覚。上原が何を言ったわけでもないのに、こうも心が乱れてしまうとは、私はよっぽど彼女にイカれてしまっているのだろうか。
「『情報屋』・・・」
彼女はそう言っていた。情報屋。まるでテレビドラマの中の用語のよう。いったい、どんな仕事に彼女は手を染めているというのか…。
あれ以来、彼女を大学で見ていなかった。私といつも食堂で落ち合い、とりとめもない(だがやけに真剣な)議論を繰り広げていた彼女が姿を見せない、ということは、すなわち彼女が大学に来ていない、ということだろう。
今、彼女は何をしているのか。あるいは、何をさせられているのか…。
私はおもむろに立ち上がる。上原はまたしてもびっくりした様子で私を見上げた。
「…探しに行くか、彼女を」
私は呟いた。












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