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ASAGI 〜ユートピア殺人事件〜
解答編
〜孤島の連続殺人事件。もう誰も助からない、もう誰も犯人を暴けない。もう誰も、事件の真相を知ることはできない。…それでも尚、真実を求めるあなたへ。どうぞ、この日記を紐解いてください。今度は事件のバックグラウンドを、詳細に辿ってゆきます。〜
☆
これから皆様にお読みいただくのは、私の日記です。
ここに、およそ私の伝えたい全てのことが記されています。また、およそ皆様の知りたいことの全てが記されているはずです。
しかしながら、一度でも他人の日記をお読みになった経験のある方にはお分かりいただけるかと思いますが、他人の日記というものは、読み始めは軽い罪悪感とスリルで楽しめますが、幾らか読み進むと、非常に退屈で、また苛立たしいものに感じられてくるものです。そして最後には、もういいとばかりに、その日記を閉じてしまうのです。
えてして日記の中で人間は独善的になります。矛盾だらけの理論を平然と描き連ね、無茶苦茶な美学を気の済むまで語りつくし、これでもかというくらい自己の正当性をアピールして得意になります。それは日ごろいかに冷静、堅実、理性的で謙虚な人であっても差はありません。
勿論私の日記も例外ではなく、この稚拙な文章群の中には私の個人的な価値観があふれかえっています。それは時に理不尽、時に身勝手。皆さまが不快感を催すことも十分に予想されます。
ここまでお読みになり、私の文章に嫌悪感を感じた方、また感じそうな方は、この先を読まれない方が賢明でしょう。あの忌まわしい事件の、結果だけをただ知りたいのならば、事件の犯人だけを知りたいのならば、こんなまどろっこしい第二部など飛ばして、一気に第三部にお進みください。それで十分です。それであなたの中のあの事件は解決、万事すっきり、となることでしょう。
―――――でも。
もし、あの事件の本当の裏側が知りたいのなら。あの事件が起きた本当の理由を知りたいのなら。あの幾多の殺人がどういう方法で起こされたか知りたいのなら。
あの日、あの島で何があったか、心の底から知りたいと願うなら。
さあ、いざ、この日記の紐をお解きください。
ここに全てが記されています。
ここに全ての「答え」があります。
では、ごゆっくりとお楽しみ下さい。
☆
〜私の日記〜
三年後の自分へ。
お元気ですか。あなたは、今何をしていますか。
私は今受験生真っ最中です。志望の○○大学合格へ向けて一直線に努力しています。……おそらく三年後の私であるあなたなら、この受験の結果はとっくに分かっているでしょうね。それが、今あなたがしていることと直結するわけですから。
もし私の目論見どおりに事が進んでいれば、あなたは今大学の三年生、専門学部に進んで自分の好きな研究をしているのでしょう。私の今の進路は文系なので、おそらく法学部か経済学部か文学部あたり…。ごめんなさい、今の時点ではまだはっきり進路を確定していないのです。今後の成績の上昇次第で進路を決めていく予定です。
まあ、こんな悩みも今のあなたにとっては懐かしいだけものなのでしょうか。もし、こんな時期もあったなあ、と笑えるようになっていたなら、これほど嬉しいことはありません。それはきっといい三年間を過ごしてきた証左になるのですから。
さて、おそらくあなたの方が今の自分よりずっと多くのことを知っていると思われるので、これ以上余計なことは書くまいと思いますが、最後に一言。
三年後の自分へ。
ぜひ、幸せになっていてください。
尊敬される人になっていてください。勉強をしっかりして、世界のことをより深く知り、人の上に立てる人になっていてください。やりたいことを見つけていてください。
そして、願わくば愛する女性と巡り合っていてください。
その方と、手を取り合って、力強く見えない未来へ進んでいってください。
愛する人がいれば、愛してくれる人がいれば、決して人生は怖いものなどではない。何度転んでも、倒れても、きっと何度でも立ち上がることができる。きっと足を引きずり、歯を食いしばってでも、前へ進むことができる。
私は、そう信じています。
☆
こんな真っ昼間ににうららかな日差しの中、教授の胡乱げな声をBGMに、堂々と船を漕いでいられる学生という身分は、なんだかんだ言っても実に特権的なものであって、社会に出ればいやでもその貴重さと儚さを思い知るのである。だが、それももう少し未来の話だ。
どうやら私は、大学の机に突っ伏したまま眠ってしまっていたようだ。時計を見ると、一時間程度の時間が経過していた。あわてて目をこすり、ノートを取ろうと必死になるが、もう授業はとっくに先に進んでしまっていてちんぷんかんぷんだった。
私は、これがこの世の終わりかとでもいうような大げさなため息をついた。やはり、昨日レポート作成で徹夜してしまったのが失敗だったか。せっかく目を覚ましても、またついうつらうつらとしてしまう。この授業が終わったらすぐ帰って寝よう、私はそう心に決めた。
結局教授の話を右から左へ聞き流し、頬杖をついてぼうっとしていると、つい先ほどまで見ていた夢が思い出された。
そう、あれはどこの島だろう…、よくわからないが、絶海の孤島、という雰囲気の島だった。一番近くの島までも船で移動しないと連絡のとりようがない。そんな、さびしく恐ろしげな場所へ、私たちは船で何者かによって導かれていくのだ。
夢の中で私は高校生の少年であり、ガールフレンドとともに旅行の最中だった。目的地と異なる島へ漂流してしまった我々は、やがて連続殺人事件に巻き込まれる。主人公たる私(少年)は、知恵をしぼって犯人捜しをするのだが、その間にも旅行客は次々殺されていく。ガールフレンドも死んでしまったあとになって、私はようやく犯人を突き止めるのだが、その推理が間違っていると犯人自身に指摘され、その後に、私自身も犯人の手によって殺されてしまうのだった。
「……いやな夢だな……」
私はつぶやいた。教室には朗々と憂鬱な教授の話し声が響く。
なんだってあんな悪趣味な夢を見たのか……。私はもともとミステリ小説を読まない人間だし、ホラー映画だって興味はなかった。大体人間が次々殺されていく作品が、人の命を軽く扱っているような気がして好きになれない。
それなのに、どうしてああもスプラッタな夢を見てしまったのか……。私は軽くこめかみを押さえる。この頃、疲れが溜まっているのかもしれなかった。
このとき、私がこの大学に入学してはや半年が経とうとしていた。二学期が始まり、新しい授業が開講されて張り切っていた矢先にこれだった。このあとずるずるとやる気を失ってしまわなければいいのだが。
授業時間が終わり、講義棟を出る。抜けるような青空が広がっていた。キャンパスを覆っている並木の葉が、黄色く色づき始めていた。
私は一人、遊歩道を歩きだす。学生たちが他の講義棟からも一斉に溢れ出し、キャンパスは一気に賑やかな様相を見せる。カップル、友人同士、サークルの集まり、各々が身を寄せ合い、思い思いの時間を楽しむ。今日の授業はこれで終わりだった。
私は誰と話すでもなく、迷わずベンチに座って煙草に火をつけた。落ち葉が足元に落ち、カサリと音を立てる。
同じクラスの同級生が何人か私の目の前を横切った時、こちらをちらと一瞥していた。が、特に話かけるでもなく通り過ぎてしまう。これはいつものことだったので、私も別にこれといって気にすることはなかった。私はクラスに今一つなじんでいなかったが、なに、大学生になってクラスで仲良くも何もあるまい。私は大きく煙を吸い込んだ。
がやがやとした周囲の喧騒は私にとっては聞きなれたBGMでしかない。何気ない会話、何気ない触れ合い。それは幸せと退屈の象徴。私は高い空に向かってゆったりと煙を吐き出す。また一枚、落ち葉が眼の前を掠めていった。
私は受験に合格したころの頃を思い出す。そう、あの頃の自分は本当に幸せだった、と思う。未来に対し希望に満ちあふれていた。大学に入ったら、あれをしよう、これをしようと、色々な夢を描いた。あの頃の自分は無敵だった。何一つ遮るものもない、恐れるものも何一つない。合格発表を見た日の足が地につかなくなる感覚、まるで子供のように飛び上り喜んだ。あの日の自分ならきっと空へも飛んで行けた、と半ば本気で思っている。
あれから半年余り……。私は、なんだか自分のやりたいことを見失っている感じだった。
自分でもどうしてしまったのか、と思う。しかし、どうにもうまくいかないのだ。やろうとしたことは、ことごとく理想から大きく隔たっていることに気付かされ、自分の中でそれを素直に受け入れることができずに、手をひいてしまうことが多かった。
恋愛にしてもそうだった。大学に入る前は、美しい女性と出会い、恋に落ち、ドラマティックな毎日を送るのだ、と意気込んでいたこともあったが、実際にこういった生活をはじめて見てもそうそう劇的な出会いなどあるわけではない。むしろ、恋愛と友人関係の境界線がより曖昧になってしまったかのように感じた。
自分で言うのもなんだが、私は決してモテないわけではなかった。デートや食事に誘われることも少なくはなかったし、高校の頃から愛の告白というやつも何度か受けてはいる。
しかし、私はその度に断り続けてきた。別に相手が気に入らないわけではない。ただ、結局は友人としか思えない、というやつだった。贅沢に思われるかもしれないが、私は恋愛に関して妥協するつもりはなかった。本当に心から愛した女性としか、付き合わないつもりであった。そうでないと、そもそも相手に失礼ではないか。
私はすっかり短くなった煙草を、備え付けの灰皿に押しつけてもみ消した。すっくと立ち上がる。そろそろ、教授に指定された時間だ。今日はこの後、以前出したレポートについての簡単なアドバイスと添削を食らう予定だった。私は道の反対側の研究棟に向かって歩き出した。
しかし……。
私は思い出す。なかなか理想の女性と出会えない私だったが、つい先ほど見た夢、あの悪夢の中で、ほんの一瞬、心ときめく女性を発見した、そんな気がしていたのだ。
その女性は、奇妙な出で立ちをしていた。上から下まで黒ずくめの恰好。シャツ、ブラウス、パンツ、靴、帽子に至るまで、全てが黒。それでいて、髪は鮮やかな茶髪。見ていてうっとりするような、きめ細やかでしなやかなセミロングヘアー。なぜか、そんな女性の後ろ姿だけを鮮明に覚えていた。
他にも女性が登場していた。主人公たる私のガールフレンド、そしてもう一人の、しとやかながら薄幸そうな少女。もっとはっきり思いだそうとしてみるのだが、そう努力すればするほど顔の部分が靄がかかったように不鮮明になり、どうしても思い出せなくなる。
……いけないな、何を夢などに心を奪われているんだ、私は。どう見ても欲求不満ではないか。
私は頭を振って気を取り直し、研究棟のドアを開けた。軋む大型のガラス張りのドア。この棟はもう長年改装しておらず、全てが古い。そろそろ建て替え時だろうに、と思う。
エレベーターで上位階へと上がり、廊下を歩きながら教授の部屋を探す。この棟は隙間風がひどい。びゅうびゅうと不気味な音を立てては、足元を冷たい一陣の風が通り過ぎて行った。
地図を頼りに目当ての教授の研究室の前までたどり着く。しかし、向こうから指定してきた時間帯であったにも関わらず、教授は不在であった。……まったく、これだから困る。大学という空間は、どこか弛緩していて良くない。会社組織においてはあるまじきことも、こういう場では普通に行われてしまう。ゆえに、一つ一つの矛盾や怠慢にいちいち目くじらを立ててはいけない。その代り自分の側はそのような失敗を決して犯さないよう心に刻みつけるのだ。人のふり見てわがふり直せ。それが私が大学に入って一番最初に学んだことかもしれなかった。人間、その気になれば学ぶ機会は随所に存在する。ただ、それを意識するかしないかの違いなのだ。
仕方がないので、後でもう一度出直すことにし、私は棟の外へ出た。秋の西日が眩しくて、私は思わず目を細める。何一つ悩みなどなく、二人の間にも問題など存在しません、といわんばかりの笑顔を振りまきながら、一組のカップルが眼の前を通り過ぎて行った。
気が付くと小腹がすいている。私は一つくしゃみをすると、食堂に向かって歩きはじめた。
気だるくて中途半端な、秋の一日が、今日も終わろうとしていた。
未来は靄がかかって見えるはずもなく。
かといって過去には価値はなく。
そんな、宙ぶらりんな年代が過ぎていこうとしている。
☆
私は食堂に入り、適当なメニューを頼んで適当な席につき、適当に食事を始める。とくにうまいとも、まずいとも感じない夕食。学食程度に文句をつけるのもナンセンスだが、もう少しメニューごとに個性を出してもいいのではないか、と思う。
食堂の人の入りは三分の二程度だった。大テーブルにはサークルらしき二、三の集団が陣取って、会話に花を咲かせていた。あとはちらほらと、食堂で簡単に食事を済ませてしまいたい単身世帯の学生が見受けられる。私のように一人で食事をとっている者も多い。
時計を見る。…図書館などに行って本格的に勉強するには時間が半端だが、だからといって教授がもう戻っているという保証はない。どこか時間を潰す場所があれば、と私は一人静かにうめき声をあげる。
サークル活動は大分以前にやめていた。運動が好きなのでバスケットボールのサークルに入っていたのだが、どうも自分が浮いてしまって仕方がない状態でいることに気づき、続ける気がなくなってしまった。一般的にみると私はいわゆる「ネクラ」なのだろう、どうもサークルという集団の形態そのものに馴染めなかったのだ。
私は別に孤独は好きではない。好きではないが、かといって意味もなく徒党を組んでいつもワイワイやっていることにも意味を感じない。私は時間の非効率的な浪費を嫌う。それゆえ、どうしても無駄の多い集団行動を避ける傾向が出てしまい、結果単独行動が生活の大半を占めてしまうのだった。
寂しくない、というわけではない。
私はかちゃり、と使っていたスプーンをトレイに置く。もう空腹は満たされていた。器にはまだ半分ほど御飯が残されており、少しだけ頼みすぎたかな、と後悔した。
と、その時、後ろからポンと肩を叩かれた。
「なーにやってんの」
私は後ろを振り向く。同じクラスの上原だった。少々背が低く童顔で、まるで高校に上がりたての少年のように見える彼は、入学当初からよく私に付きまとっていた。どうやら気に入られてしまっているようだった。
「……別に。食事をしていただけだ」
私は答える。少々うんざり気味の声をわざと演出してみた。こうでもしないと、この男はわりと図に乗るのだ。
「そうなの?なんかやたらと暗い顔をしてたよー。まるでこの世の終わり、みたいな。そんな顔でメシ食ってたら、食堂のおばちゃんだって、あらそんなにまずかったかしら、って気にしちゃうぜえ。笑顔、笑顔」
そう言い上原はニッと笑みを見せてくる。私はそれをちらっと見ただけで、またすぐ食事に戻った。別にこいつの言うこと一つ一つに反応してやる義理はない。
「なんだよー、無視すんなよー。俺、そんなに気にさわること言ったか〜?」
上原がむくれる。こいつはいい奴というか、罪のないやつなんだが、時々大変うっとうしい。そういうときは放っておけば勝手に黙るものだと、私はつい最近学んだ。
「ま、いいか、それでこその君だもんな。何、それこそ君のあいでんてぃてぃーってやつ?背が高くて美形で、その上寡黙なんて、もうかっこよすぎだぜ。同性にもモテるタイプだな」
上原が必死に私を持ち上げている。私はちょっとだけ可笑しくなるが、それを顔には出さない。そう、それこそ私のあいでんてぃてぃー。むっつりとスープをすする。
「はー……。いくらアプローチすれども振り向いてくれないんだねチミは……。うー、もういいよ、もう二度と君なんかに話しかけないから。ふん。
……そういえば、なんか最近噂の例のヒト、見たことある?」
二度と話しかけないと言いながら早速話しかけてくる上原。突っ込む気力も起きない。……と、例のヒトとは何のことだ?
「お、やっと反応してくれたね。お兄さんはうれしいぞ〜。
えーと、なんか噂の編入生ってやつ?ここのキャンパスで最近よくうろついてる人らしいんだけど、上から下まで黒ずくめの恰好で、結構目立つくらいの長身らしい。君と同じくらいかなー。それで、これがビックリするくらいの美少女らしくてさー。うちのクラスの連中の間でも話題になってるんだよ、結構。誰と話すでもなく、君みたいにクールなんだけどね。見たことないかな?」
私は、いつの間にか食事する手を止めていた。……それは、ついさっき夢に見た少女との驚くべき符合。偶然にしてはあまりにできすぎており、出会いにしてはあまりにロマンチックに過ぎるというものではないか。…事実、私が以前からその少女についての噂を聞いていたというならともかく、全くの初耳だったのだ。
「……?お〜い、どうした?そんなに美少女が気になるのかな〜。もしもし〜」
「………。いや、何でもない。そんな少女には見覚えがないな…。しかし、さすがだな、美人情報はすぐに知れ渡るか」
「おう、当たり前だぜ。我々男子生徒は常に恋に愛に飢えているからね。オッサン教師の顔ばかり見て過ごす青春なんてもうこりごりだっつーの」
上原は豪快に笑った。私は内心動揺していたが、やはりそれを悟られぬように隠しながら食事を進めるばかりであった。もし私に少しでも、自分の感情を人に見せようという気が湧いたものなら、私の人間関係も今とはかなり違ったものになっていたかもしれないのに、現実の私にはどうしてもそれはできない相談だった。私はつくづくも、骨の髄までそういう人間だったのだ。
上から下まで黒づくめの少女……。
私はこの運命的な偶然に、少しばかりの期待を禁じ得なかった。まだ相手の何を知ったわけでもないのに、彼女に関して好奇心が疼きはじめる。こんな積極性は、私にしては珍しい事だった。
幻想は幻想のままでいい。夢は夢のままで構わない。
でも、いざそれがそうでなくなったとき、私は冷静でいられるだろうか。
秋の日が暮れようとしていた。
すべてが宙ぶらりんな一日が、今日も過ぎていこうとしていた。
☆
私は再び研究棟の前に立つ。もうあたりはすっかり暗くなっていた。あの後結局上原の雑談に三十分ほど付き合わされ、食堂を後にした時には日はとっぷりと暮れてしまっていた。時間の無為な使い方を嫌う私にとって、これは非常な不覚であったと言ってよい。
私は急ぎ足で棟内を歩き、教授の部屋を目指した。エレベーターが遅いので、階段を利用する。一段飛ばしで足を動かしながら、私は先ほどの話を反芻していた。
――――上から下まで黒ずくめの少女が。――――
なぜ、このキーワードがこんなにも私の心をとらえたのだろう。なぜ、こんなにも私の心を締め付けるのだろう。それは、あとになって思えば予感の類だったのかも知れない。しかし、このときの私にとっては、それは不思議な感情でしかなく、いっそ薄気味が悪いほどだった。
私は廊下を、コツコツと足音をたてつつ歩く。教授の部屋から明かりがもれている。よかった、どうやら在室しているようだ。ぼそぼそと話し声も漏れ聞こえて来るようだ。客が来ているのだろうか。
私はこんこんと扉をノックする。
「失礼します」
待たされた欝憤もあって、私はやや乱暴にドアを開いた。すぐ書類の山と積まれた教授の机と、眼鏡をかけて目をしょぼしょぼさせている白髪の教授の顔が目に入った。
そして次の瞬間、私は思いもよらないものを目にした。
それは最初は真っ黒な何かにしか見えなかった。人間大の、漆黒の塊。しかしすぐに、それは人間であると気づく。上から下まで、真っ黒な格好で統一した、背の高い人影だった。
そう認識し、次の瞬間、私は凍りつく。
それは、夢に出てきたあの少女そのものだった。まるで夢の中からそのまま抜け出してきたかのよう。凛とした視線、すっと伸びた背筋、思わず見とれてしまうような美しい髪、全てが夢のままだった。
少女は教授と何か言葉を交わしていたようだったが、私が入ってきたことに気づくと再び教授の方を向いて一礼、そして私にも目礼をして、すっと音もなく部屋を出ていった。
私はその可憐な背中をポカンとして見つめていた。まるで呆けたように、見つめているしかなかった。
「おお、君か、さっきは外出していて済まなかった。さあ、そこに座りなさい。・・ん?どうした?」
教授の声も私の耳を素通りしていった。私はその時、少女に完全に心を奪われていながら、それでいてついぞその背中を追いかけて部屋を飛び出していく、というそれだけのことすらできずにただただ立ち尽くしていた。
ただ、ただ立ち尽くしていた。
それが、鷹森アサギとの最初の出会いだった。
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