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俺は教室に戻る。ガラリ。あの後結局「溜まり場」で色々と話し込んでしまったおかげで、結構授業時間ギリギリになってしまった。後ろから「早く入れー! 図体でかいんだから立ち止まるなー!」などというどっかのバカの喚き声がするが、まあ今はどうでもいい。そんなことより、教室には少しだけ不思議な光景が広がっていた。
俺たちの席のから少し離れた窓際に、京介の恋人さん・美雪さんと、もう一人少女が座って何かおしゃべりをしていた。彼女はこのクラスではないので、少し驚いてしまったのだ。
「あれっ? 美音子ちゃんじゃない。どうしたの?」
由梨乃が声をかける。それは、隣のクラスの秋沢美音子さんだった。大人しくて、笑顔の似合うかわいい女の子である。肌が透き通るように白く、真っ黒で腰まである美しい髪と対照的である。その奇妙でありながら魅惑的なコントラストは、同時に少女に儚げな雰囲気も付与していた。彼女にはこの間、ちょっとしたトラブルがあったようだが…、まあこの際それはいい。名前を呼ばれた彼女はくるりと振り返り、その瞳がまっすぐに由梨乃をとらえる。次いで、美雪さんも振り向いた。
「あ、由梨乃さん。おひさです」
美音子さんが由梨乃にぺこりと頭を下げる。礼儀正しい人である。由梨乃は、「あ〜っやっぱり美音子ちゃんはかわいいな〜!」とか言いながら彼女に抱きつき、そのまま三人の会話の中に入っていった。
「さて…俺たちは授業の準備でもしますか」
京介が言う。確かに、女の子だけの話になっては俺達に立ち入る隙はない。
「ま、それはいいけど…、由梨乃、お前クラス違うよな。なんで俺たちのクラスに来たんだっけ?」
「え…、あ、そーだ!! 忘れてた!! マキに教科書借りに来たんだった!! もう時間ないじゃん! てか早く言えよっ!! この馬鹿マキ!」
キーンコーンカーンコーン。
「あーー!! 早くしろーー!!」
わざとゆっくりとした動作で俺は教科書を取り出してやる。由梨乃の奴がどたばたと足踏みをしていた。今にも走りださんとしており、鼻息も荒い。
………な〜んか、こういうの見てるとからかいたくなるよなあ。
「ほらよ、教科書」
「うおおお、早く早く!!」
うおおはねえだろ。いくらなんでも。
「ほらよっ!!」
俺は手を伸ばしてきた由梨乃の手からさっと教科書を抜きとり、美音子さんにパスした。
美音子さんは最初キョトンとしていたが、俺と目が合うと、にこっと白い歯を見せて笑った。
「ほら、美音子さんも次授業なんだから早く教室もどらなきゃダメなんだろ?」
「ふふっ、そうですね」
そう言って美音子さんは走りはじめた。
「こら! 待て!! 美音子ちゃーーーん!!」
あははは、と笑いながら彼女はドアの向こうに走り去る。そのあとを由梨乃がマッハ5くらいのスピードで追いかけ、2秒で追いついた。二人がもつれあい、廊下に倒れこむ。あはははは、という笑い声が廊下に響いた。授業に入ってこようとした教師が、しかめ面を作る。あはは、すみません、と二人は笑って立ち上がり、ぱたぱたと自分のクラスへと走っていった。
美音子さんは、とても楽しそうに笑っていた。
とても、幸せそうに笑っていた。
☆
んで、当日。
胸がすくような快晴。雲ひとつない。
もう一人は誰になるか、ということを微妙に楽しみにしながら俺は由梨乃邸を目指したわけだが、そこにはあろうことか京介の野郎が突っ立っていやがった。
「なんだ、結局来ることにしたのか、お前」
「いいや」
んなわけあるか、とそっぽを向くゴリラ。
「見送りだ。まあせいぜい楽しんでくるんだな」
「…お前、実は微妙に羨ましいんだろう?」
「別に」
「ふう〜〜ん? ま、いいや、今日のところは許してやるよ。土産話でも楽しみにしてろ」
ニヤニヤしながら俺は言う。しかし、妙なことに由梨乃の奴の姿も、誘ってくるといったもう一人の姿も見えない。叔父も、叔父の車もない。もう八時になるというのに、なにをしているのか。
その時、由梨乃宅のドアが開き、重そうな荷物を持って、麦わら帽をかぶった年中ハイテンション女・由梨乃嬢が登場。
「おー、マキちゃん到着ね。ちゃんと自転車で来てくれたんだ」
「ああ、悪いが旅行中この自転車そこの車庫に入れてもらえるか? たぶん邪魔にはならないと思うが…」
「は? 何言ってんの? この自転車で港まで行くのよ」
「あー、そうなのか。港まで…って、いったい何キロあると思ってるんだ!! 俺はてっきり叔父さんとやらが送ってくれるものと…」
「あー、叔父さんとは港で集合。ちなみにもう一人の子も港で待ち合わせよ。いいじゃない、そのために余裕持って集合時間を決めたんだから。さ、荷物載せて載せて」
「はぁ!!? 俺がお前の荷物を持つんかい!! お前も自転車なんだろ! 自分で持てよ!」
「あー、あたしはこれ。ごめんね」
と、ヤツが車庫から引き出してきたのは、ピカピカのスクーターだった。
「お、お前いつの間に免許なんか取って…」
「さ、時間ないんだからとっとと行くわよ。ほら荷物」
「まて、なんで俺なんだ!! この条件ならスクーターに乗せる方が楽だろ!! おい待て!! おーーーーーーーーーぃ…」
ドルルルルン、と軽快なエンジン音を残してスクーターは発進する。あとに残される俺は、必死で数十キロに及ぶ重り付きサイクリングへと漕ぎ出していくのであった。ボン・ボヤージュ。そんな光景を、京介はこの上ないニヤニヤ顔で眺めていやがった。先ほどと全く立場逆転である。……これは、行かないと明言した京介の方が勝ち組だったかもな…。
輝く太陽が不安をあおりすぎる。今日の最高気温、確認してくれば良かった…。
結論から言う。失敗だった。何がって、自転車で来たことがである。おそらく由梨乃宅までの行程さえ不精せず徒歩にしていれば、今頃こんな地獄を見てはいなかったろうに。いくら由梨乃が無神経でアホで人の気持ちがわからんサルだとしても、車輪がないんじゃどうしようもない、しょうがないわねもう、胸触ったら殺すからね、とかツン照れつつスクーターの後部に乗せてくれるに違いない。そして「由梨乃の背中、あったかいな…」「ば、馬鹿! 離れろ、変態!」とかいいながらも運転中なので手を離せず、密着状態のまま小一時間のドライブ…などという楽園が広がっていたに違いないというのに!! …とか、どうせありえないと自覚の上で今の苦しみから逃れるために妄想を逞しくしていた俺なのであった。大体、原付で二人乗りができるか。そのくらい知ってるわい。
いや、そもそもの失敗は今回の旅行に「行く」と言ってしまったことそのものではないのか。いや、それを言うならあの「溜まり場」メンバーになったこと自体が、いやいや、そもそも由梨乃みたいな宇宙人と仲がいいこと自体が人生における決定的な間違いだったのではないか…、いやいやいや…………。
いやいやいやと繰り返しながら俺が汗だくでひいひい言っているわけは、当然俺が自転車で、ありえないほどの傾斜の坂道を、二人分の旅行鞄を搭載した上で全力で漕いでいるからである。少し前を、鼻歌交じりで涼しそうに由梨乃のスクーターが行く。いや、ほんと荷物持ってくれって。シャレになってねえ。
本当なら港まで20キロの道のりだが、由梨乃の「こっちが近道よ」の一言で、俺たちはよくわからない峠を越すことになってしまった。山を迂回していくより、登って降りた方が早く「感じる」からだそうだ。おい、お前は原動機付きだから楽かもしれんが、こっちは坂道の負荷がもろに足にかかってくるんだ…。その上、雲ひとつない快晴、四月にしては珍しいほどの高気温だと、何とかしろ。しかしその必死の抗議ももう尽きてしまった。声を出している余裕などない。今は呼吸のリズムを乱さずに一定の速度で坂を登り続けることが最優先事項、というか我が最大限である。太陽がじりじりして意地悪なほど暑く感じる。多分力を抜けば盛大に倒れてあーーれーーーと坂道を転がっていくことだろう。それもいいが、せめて一回登りきって下り道でやるべきだろうか。しかし、喉乾いた喉乾いた喉乾いた……このあとの一杯が、くぅ〜〜〜たまんねえんだよな、飲み物ってこんなにうまかったっけと感じる瞬間、あれってひょっとして人生で一番幸福な一瞬じゃないかと俺は常々考えておりましていいええあああああああああ………
「ぎゃあああああああああ…………」
「あーっ、何やってんの、馬鹿―」
すいません、頂上まで持ちませんでした……。
「くぅ〜〜〜〜これがたまらん!!」
俺がオヤジ臭いセリフとともに由梨乃からもらったスポーツドリンクを飲みほす。さすがに盛大にこけたばかりでなくそのまま坂を転がってガードレールに激突し、のみならずもともと傾いていたガードレールを飛び越えて木々の間を絶叫とともに転げ落ちていく俺を見て、さすがの人類外生命体・由梨乃も不安になったのか(己の荷物がだが)、一応荷物を持ってくれるようになった。さらに、こうして飲み物まで分けてくれた。信じられん。これがあの由梨乃か。どういう変わり身だ。まあ、ありがたいのでたっぷりいただいておくが。
「もうちょっとで頂上なんだから、しっかりしなさい!」
「お、おう、サンキュー。ところで間に合うんだろうな、その、叔父さんたちとの待ち合わせは」
「ああ、それなら大丈夫。12時までに港に着けばいいから。そこからは連絡船でM島まで一直線。よかったわね、ゆっくり休めるわよ」
ああ、ほんとによかった、と安堵のため息を漏らす俺をよそに、由梨乃の方は早く出発したい様子だ。なぜだろう、まだ9時半、坂を下る時間はさらに短縮されることを考慮すればかなり時間的には余裕があると思われるが………。
そよそよと木々の間を吹き抜ける風が頬をくすぐる。峠道は視界いっぱいの木々に覆われていた。道路は一応舗装されているが、先ほどから一台も車が通過するのを見ない。そもそもこの幅では車がすれ違えるかどうかも疑問だ。そんな自然味あふれる景色を、俺と由梨乃は二人きりで独占しているのだった。これで相手がもっと清楚で情感豊かな美少女なら―――――そう、たとえば美雪さんのような――――もっといい感じの、甘酸っぱい青春の一ページとして記憶されてもおかしくないような光景だ。ああ、京介。お前は本当についているなあ。彼女、幸せにしてやるんだぞ。この人間界で、清楚でおしとやかで美人なんて、絶滅危惧種である。そんな男にとって果てしなく都合のいい女性なんて、物語の中かアニメくらいにしか登場しないのである。だから、京介、お前は何があっても―――・・。
「うわー! 見て見てマキ!! でっかい毛虫!! うっわ、動きはやーーーっ!!!」
………。ま。現実はざっとこんなものである。まあこいつも一緒にいて飽きないし、これはこれでいいやつなのだが。いや、こいつとはそういう特殊な関係ではないぞ。断じてない。
などと定番のごまかし台詞を心の中で呟いていると、やおら由梨乃がスクーターにまたがった。山登りの再開である。
俺は心中、もう一度大きなため息をつくと、先ほどの転倒で籠のひしゃげた自転車に再びまたがった。
☆
「やっっっっっっっっっほおおおおおおおおおおーーーーーーっっっ!!!」
由梨乃が眼の前の広大な空間に向かって大声で叫ぶ。いやはや・・・。
俺たちは、海に臨む高い高い丘の上に二人立っていた。目の前には視界いっぱいの青い海。青い空。水平線がはっきりしないほど両者の色は似通っており、境界上にぼんやりと何艘かの漁船らしき影が見えた。
はるか彼方には緑に覆われた巨大な島がぼんやりと見える。さらに、その付近には小さな離れ小島らしきぽつぽつとした影。海水浴場では気の早いヨットやクルーザーが自由に往来しているようだ。
由梨乃が急いで山を登っていた目的は、この景色だったのだ。確かに俺も、どんどん45度に近づいているかのような急激な坂道を登るのに疲れ切り、今度こそぶっ倒れてガードレールの彼方まで吹っ飛んで行こうかというまさにその時、突然180度の視界が一気に開け、この雄大な景色を望むに至ったのである。
俺は思わず言葉を失った。傾斜45度の疲れも吹っ飛んだかのようである。おお、なんだ、この湧き上がってくる「何かをやり遂げた感」のようなものは!? 感動か!? 俺は感動しようとしているのか!? 泣きそうなのか!?
ふと隣をみると、由梨乃の方もすっかり大仕事をやり遂げたかのようなさっぱりした顔で、景色を見つめていた。それで先ほどの「やっほー」である。おいおい、それは山々の景色の中でこだまさせるために叫ぶんじゃないか……などという無粋な突っ込みは、俺はしなかった。由梨乃が俺に、できれば俺達にこの景色を見せてやりたくてわざわざこの峠を登ったこと、この景色も彼女の言う「サプライズ企画」に含まれていたことを、俺は気づいたからだ。
遠く、潮の香りがする。微かだが波の音も聞こえてくるようだ。極めつけのカモメの鳴き声は残念ながら聞こえないが、もう少し近づけばそれも聞こえるようになるだろう。
海だ。
海で、夏のようだった。
俺は何も言わず、ぐいとスポーツドリンクを飲みほす。
由梨乃は深呼吸をした。もう一度叫ぶのかと思ったが、結局は何も言わず、再びスクーターにまたがるのだった。
「よし、いこ」
由梨乃が誘う。俺はうなずき、再び景色に目を移した。
景色は素晴しかったが、俺はそれを敢えて写真に撮って残そうとは思わなかった。もともと、俺は風景の写真というのがあまり好きではない。よく友人が携帯のカメラで、旅行先の景色や珍しいものの写真を撮っているが、俺はそういったことをしないタイプだ。日本人は「思い出」を大切にする傾向が強いといわれる。一生に一度の出会い、自分やその家族、友人がそこにいた、そこにやってきた軌跡を記録に残し、同時に記憶にも残そうと、我々はいたる所でシャッターを押す。忘れないように、いつでもその時の記憶を楽しめるようにと、自分だけのアルバムを文字通り積み重ねていく。
しかし、子供の成長過程や家族の記念写真ならいざ知らず、俺の個人的な行動にはたして記録が必要だろうか。出会った世界を、今見ているような美しい景色を、忘れずにとっておくためにはそれを写真に残さなくてはいけないのだろうか。……否。俺はそうは考えない。
別に思い出を大切にしないわけではない。写真に残してしまえば、その景色は「そういう景色だった」という、ある種の型ができてしまう。この目で、肉眼で見た景色が、写真を見返すたびにその型に収まったコンパクトな景色へと修正され、変質し、最後はこじんまりとした記憶の箱におさまって終わる。その景色を、その世界を初めて見た時の、これは自分の今の器では抱えきれない、とりこぼしてしまいそうだというような手に余るほどの感動、驚愕、感銘、そういったものがいつしか失われていくような気がするのだ。
忘れることは決して悪いことではない、と思う。一度見た世界をぼんやりとしか思い出せなくても、そこに「すごいもの」があったという印象、その記憶が残っていることの方が、お手軽サイズの景色を持ち歩くよりよっぽど大切なことのような気がするのだ。
…前置きが長くなった。まあつまりは、俺はこの由梨乃が見せてくれた景色を写真に撮らない代わりに、もう一度強く目に焼き付けようとしたのだ。こういうときはあまり細部を見ようとしないで、全体をとりまく雰囲気ごと見ようと試み、そこから何らかの印象をくみ取るというイメージが大切である。
と。その時、M島からはるか遠く、俺の肉眼でもギリギリで捉えられるか捉えられないか、というほどの沖に、一つ雰囲気の違う離島が存在するのに気がついた。
その島は、他の小島に比べて緑が濃く深く――――いや、むしろあれは黒に近いと言っていいだろう。どことなく陰鬱な、不気味なオーラを発している島。他の小島たちは仲良く寄り添っているという印象なら、その島は一つだけのけものにされて隅でじっとうずくまっている――――そんなイメージが浮かんだ。
なぜだろう。その時俺の中に、猛烈に嫌な感覚が広がった。胸やけのような、嘔吐感のような。…のちになって思えば、あれは予感の類だったのか。
「どうしたのマキ?もう行くよ」
「あ、ああ……」
俺は再び自転車にまたがる。この嫌な感覚を忘れようと、首を振りながらペダルをこぎ出す。坂道は登りも急なら下りも急だったらしく、俺は一瞬で自転車の持つ最高速度に達した。
「のわああああああーーー!?」
「馬鹿―――!! 余所見すんなーーー!!」
朽ちかけていたポンコツブレーキでは煙が出るほどのタイヤの高速回転を止めることはできず……。俺は再び木々の懐へと突っ込んだ。
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