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テントの前では、みんなで夕食の用意をしていた。今日は残っているバーベキューと、焼き鳥、それにカロリーメイトなどの非常食である。実は、今日は昼飯を食べていなかった。今日は食料節約のため全員が昼は抜きだったのだ。
ジュージューとうまそうな音を立てて焼ける串焼きを見て、陣野は思わずごくりと唾を飲み込んだ。
こんな状況でも、さすがに腹がへるのはどうしようもない。昨日の晩も満足に食べられなかったのだ、このまま食べずにいれば本当に力が出なくなり、いざというときに何もできなくなってしまう。例えば、突然犯人が襲撃してきたとき。
そう。陣野は、真犯人が再び現れることを恐れていた。
それすなわち、陣野自身は犯人ではないということ。
当たり前であった。何の因果で自分が犯人だなどと疑われなければならなかったのか。日ごろの行いが悪いから? は。いい加減にしてほしい。こっちだって下手をしたら殺されていたのだ、あのテントにいて一人助かっただけでも喜んでほしいものである。
バーベキューの炎を見ながら陣野は考える。あの、芦田が一瞬見せた、おびえたような目。たとえ一瞬にせよ、陣野が真犯人ではないかと疑いの目を向けたことは、もはや間違いなかった。
陣野は憤慨していた。彼はかつて、密かに芦田を思っていた時期があった。それは本格的な恋ではなく、話ができればうれしい、肩が触れ合えば嬉しい、目が合えば嬉しい、その程度の、男性ならだれもが持つスタイリッシュな女性への好感。実際芦田はすらりと背が高く、顔も悪くない。飛びぬけて聡明とか、押しが強いわけではないので、あまり目立つタイプではないが、大学内では比較的人気のある女性であった。
陣野は子供のころからあまり女性と接触する機会を持たなかった。中学校以降はずっと男子のみの私立校。小学校の頃も、口べたが災いし、あまり女の子の友達がいた記憶はない。
そして大学に入って見て初めて気づく…、そう、彼は女性が苦手になっていたのだ。
まず、女性が話しかけてくる。彼は全身が凍りつき、激しい緊張状態に陥る。冷汗が背中を伝う。女性の話に対し、普段どおりに返すことができない。顔は激しく引きつった笑顔で固定される。声が裏返る。時々自分でも何を言っているかわからなくなる。そして女性が軽く微笑みかけると、ボン! とばかりに真っ赤になってしまう。…ざっとこんな様子である。
そんな彼だから、せっかくそこそこ顔はいいというのに、大学三年になった今でも彼女はいなかった。もちろん童貞のまま。彼とて別に女性が嫌いなわけではなく、遠くから眺めている分には思わずニヤニヤしてしまう女好きではあるのだが、どうしても彼女らとつながりを持つことができなかったのである。
しかし、ただ一人例外がいた。
「おっそおおおおおおおおおい!! 遅すぎるよ陣野くん!!」
彼が部室に遅れて入ると、毎回のように言われた文句であった。
彼が二年のときに入ったサークルのメンバー、芦田真琴である。ちょっときついところもあったが、彼女は実に透明な女性で、男女分け隔てなく接してくれるし、元気もいいし、そこそこ美人でもあった。陣野は、なぜか彼女に対しては何の抵抗もなく話をすることができた。つまるところ、仲のいい男子と話すのと同じ感覚。それでいて、時として見せる魅力的な微笑み、立ち姿に、彼は思い出したようにどきりとすることが度々あった。もし彼女に告白したら、彼女は俺と交際してくれるだろうか、などと本気で考えたこともあった。しかしそれでも、彼にとって芦田真琴は芦田真琴でしかなく、それ以上でも以下でもなかった。
彼女はよき友人であり、彼の人生にささやかに彩りを添えてくれる花のようであった。
そんな印象が少しずつ変わりはじめたのはいつの頃からか…。OBである香坂さんが、サークルの部室にちょくちょく顔を出すようになってからだったろうか。
彼女は香坂さんと仲が良かった。香坂さんは身体的にも精神的にも非常によくできた人物で、サークルの連中のあこがれの的となっていた。ちょっと変態的なところがあるが、まあそこはご愛敬。そして他ならぬ芦田も、彼とは非常に仲がよさそうであった。
彼が部室を訪れると芦田は「香坂さん!」と叫び真っ先に彼のもとへ駆け寄った。その姿はまるで愛する彼の下の駆けよらんとする乙女のようで、いかに彼女に確固たる恋愛感情を認めていない陣野であっても、思わずムッとせざるを得なかった。もちろんそれは彼に限ったことではなく、むしろサークルのメンバーの共通認識であったらしいので、なにも彼一人を責められたものではなかったことは言うまでもない。
やがて、サークル内では「芦田と香坂がつきあっている」という噂がまことしやかに流れ始める。大半の物はそれを信じたろう。とくに疑う要素のないうわさは、簡単に信じられるものだ。陣野自身も、九割方信じてしまっていた、といってもいい。
それまではそこまで特殊な目で見ていなかった相手でも、他の相手と付き合いだすと急に気になりはじめる、ということは往々にしてあるだろう。この場合の彼も、なんだかよくわからないムラムラ、する必要のない嫉妬、そんなものに悩まされる結果となった。ずっと男子校で過ごしてきて、焼きもちらしい焼きもちを経験してこなかった彼だから、その効果はなおさらであった。彼はそのことがいつになっても頭を離れず、悶々とした夜をいくつも経験することになった。
そこである日彼は、芦田と部室に二人になったとき、思いきって聞いてみたことがある。
「芦田って、その、やっぱり香坂さんと付き合ってんのかよ」
芦田相手に赤くなり、緊張で顔がひきつったのはこの時が初めてであった。彼は上目づかいにそっと彼女の様子をうかがった。カメラの手入れをするふりをしながら、必死に手を動かして。
彼女は一瞬キョトンとしたが、直後にぷっと吹き出し、あははは、何言ってんの陣野くん、とモヤモヤしていた彼の不安を一瞬で笑い飛ばした。
「誰がそんなこといったのー? まったく、仲いいだけですぐ付き合ってるって噂すんのやめてほしいわねー。そうだ、こんどあんたももっといろいろ話してみたら?すごくいい人よ、香坂さんは。ちょっとヤラシイとことか、あんたにそっくりだけど」
そう言ってまたあははは、と笑った。
彼は、気が抜ける思いがした。同時に、なんで俺はこんなに安心してるんだろう、と不思議な気分になったものだ。
彼が香坂さんと仲良くなったのはそのすぐ後のこと。以来、三人はよく行動を共にするようになった。写真を撮るために山に登ったり、海へ行ったり、時には田舎へ行ったり、廃墟に立ち入ったり。洞窟に入ったり、夜のタワーに登ったり…。
香坂さんは実にいろいろなことを教えてくれた。どんなカメラがどんな撮影に向いているか。たとえデジカメでもいろいろと芸術的な写真を撮影できる可能性があること。社会に出ると、趣味の写真を続けるのがどれほど困難になるか、など……。
陣野は香坂さんが好きだったし、芦田との付き合いも相変わらずだった。彼らの付き合いには、暗い影とか、面倒なもつれた関係とか、そんなものは一切なかったのだ。
だが、それでも――――彼は、芦田が香坂にとびっきりの笑顔をみせるときのあの胸のチクリとした痛み、それだけは、いつまでも忘れることがなかった。
彼らはよく撮影旅行へ行った。北海道から沖縄まで、実に多種多様な自然を愛でてきた。今回の旅行だって、そんな撮影旅行の一つとして、実に気軽に参加しただけだったのだ。
だが、事態はこうも悲劇的なものへとすり変わってしまった。
芦田真琴。
事件が起こってからの彼女は急速に元気を失ってしまった。普段から旅行では体調を崩しやすく、色々と薬を持ち歩いていた彼女だったが、今回は服用する薬の量が目に見えて多かった。だいぶ精神が不安定なのかもしれない。
陣野はもっと彼女を励ましたかったが、いつもそばには香坂がおり、それゆえ自分の出番らしい出番はほとんどなかった。それでも、いざというときにはきっと自分が彼女を守る、と、こんな状況の中密かに張り切っていたのは事実である。
なのに、彼がテントに一人取り残され、周囲から疑いの目を向けられたとき。
芦田は、彼を、まるでおびえるような目で。
まるで、犯人を見るような目で。
あんたが犯人だ、と。
いうような目で。俺を。
俺を…。
「くそおおおおおおおお…………」
気づくと、俺はうめき声を漏らしてしまっていたらしい。鎌田とかいう胡散臭い少年が、面白そうにこちらをじろじろ見ていた。
「ちっ」
陣野は舌打ちをすると、いつの間にかすっかり焼けていた焼き鳥の串を持ち上げ、口に放り込んだ。久々の食事はやはり格別。胃袋が、はやくはやく、と焦っているかのようであった。
何かを調査しに行っていたマキ少年、アサギ、由梨乃の三人も帰ってきた。マキ少年が真っ先に食事に飛びつき、そのあとに由梨乃、アサギが肉に食らいつきはじめた。よほど腹が減っていたとみえる。
陣野はこの三人がわりと気に入っていた。とくに女の子二人は、美をつけてもいい容姿に優れた少女。彼の性格がこんなでなかったら、ぜひ話しかけてみたいと思っていた。
香坂と芦田は黙々と食事をしていた。優さんは立ったまま肉を焼いている。鎌田少年だけが、なにやら面白そうに、ふんふんと鼻歌を歌いながらあたりをうろうろし、人々の顔を覗き込んだり、思いだしたように肉をつまんだりしていた。
「ふんふんふん♪ 今度はだれが死ぬのかな〜♪ 今度はだれが死ぬのかな〜♪」
よく聞くと、鎌田少年の歌はこんなつぶやきにも聞こえる。だが……いや、さすがに気のせいだと思いたい。こんな胸糞悪い、人の死を嘲弄するような子供がいるとは思いたくない。多分、みんな幻聴なのだ。自分の気のせい。混乱し、憔悴しきった頭が勝手に作りだした妄想。大丈夫、もう誰も死にはしない。ここは日本、本土からさほど離れちゃいないただのつまらない島。こんだけかたまってりゃ犯人も手の出しようがない。すぐに助けが来るさ……。
ちらと芦田の方を見た。すると、偶然だろうか、彼女も陣野の方を見ていたようで、すっと目をそらした。意外なことに陣野は目をぱちくりさせる。
が、次の瞬間彼は絶望的な気分にたたき落とされることになる。
芦田が彼の方をもう一度向いたとき、そこには、恐怖と、はっきりとした嫌悪の色が見てとれた。それは、まるではなから彼が犯人だと決めてかかっているような、残酷な光。口では何と言っていても、心まではごまかしようがない、と言わんばかりの、それは、彼にとっては地獄の苦しみに匹敵する、一瞬の、視線。
そして彼女は香坂の後ろに回り込み、身を隠すようなそぶりまで見せたのだ。陣野は、あっけにとられ、ぽかんとするしかなかった。なんだこれは。どういうことだ。なんなんだよこれ、なんだよ、どうなってんだよ、なにがどうなってんだよ、
「いったいなんだっつうんだよ!!!」
気づくと、彼は叫んでいた。足元に食べかけの焼き鳥がぽとりと落ちる。
一同はぽかんと口をあけて立ち上がった彼を見上げていた。はあ、はあと彼の荒い息遣い。しかし、彼がなぜそんなことを突然言い出すのか、何に対して言っているのか、皆よくわからなかった。
しかし彼は構わず続けた。
「なんだよ!! そんな人を不審人物でも見るような目で見やがって。言いたいことあるんなら言えよ、はっきり言えよ! お前ら俺が犯人だと思ってんだろ!! いいよ、思ってんなら言ってみろよ!! 口に出せよ!!
なんだよ、言えねえのか!俺が犯人だなんて疑ってねえとでもいうのか!? じゃあ、そんな目で俺を見るのもやめろよ! なんだって、じろじろと観察するようなことしやがるんだ。いい加減にしてくれよ! こっちだって疲れたよ、犯人には怯えて、その上犯人だと疑われて、何回も同じ質問ばっかりしやがって。その上、犯人だと思ってるのにはっきり口に出せずにいるみたいな雰囲気作りやがって。もううんざりだ! てめえら全員、どいつもこいつも信用ならねえ!! 香坂さん、あんたが場所を移動しようとしたことだって、本当はどういう意図があったかわかったもんじゃねえな。案外、テントを張りなおして、どこからでも俺を監視できるような形にするのが目的だったのかもしれねえ。芦田!! お前だって、本当は俺を疑ってんだろ!? さっきの目、もっかいやってみろよ。どう見ても、犯人はお前だ、そう言ってる目だったぜ!? …くそっ、くそおおおおっ!!!」
もはや、止まらなかった。完全に切れていた。心にもないこと、一度も思ったはずのないこと、絶対に言いたくないようなセリフが、堰を切ったかのようにあふれだした。
気がつくと彼は涙を流していた。思わず手でぬぐおうとしたら、ポロリ、ポロリと次々に溢れ出した。自分でも信じられなかった。なぜ、なぜ俺はこんなことをしているのか…。心の奥底の、ひどく冷静な自分が、あきれ顔で情けない今の自分の姿を眺めていた。
一同は石になったかのように動かない。ただ、もはや彼を疑っているものはいないような、むしろこんなにも追い詰められている彼を皆憐れんでくれているような、そんな雰囲気が漂っていた。
「陣野くん……」
芦田が心底心配そうに、彼の方へ歩いてきた。ハンカチを取り出し、彼の肩に触れようとした。
その時、彼は思わずその手を払いのけてしまった。恥ずかしい。なんて恥ずかしいんだ、俺は。
彼が芦田と接するとき、真っ赤になってしまったのは、これが二度目。
彼はあまりの激しい羞恥心にこらえきれなくなり、だっと海の方向へ駆け出した。雨のため岩はぬめっており、何度も足を取られ転びそうになりながらも、陣野は必死にその場を離れようと走った。その後ろ姿は、もはや何とも言いようもなくみじめで、憐れみを誘うものでしかなかった。
芦田は思わず彼を追いかけようとしたが、大本優がすぐに彼女を押し戻し、「ここで待っていなさい」と言い置き、彼の後を追った。一同は茫然としていたが、なすすべはなく、大本が陣野を説得し、再び戻ってくるのを待つほかはなかった。
陣野は必死で走っていた。恥ずかしい。恥ずかしい。恥ずかしい。
自分はなんてことをしてしまったのだ。あんな恥、俺の人生で一度もない。殺人犯がうろついていて、みんな怖いのは一緒のはずなのに、みんなを守ってやるべき立場のはずの、年長の男である俺が、よりにもよって一番取り乱し、暴言を吐いて逃げ出してしまったのだ。情けない。心底情けない。逃げるのがより一層恥の上塗りであることは自覚していても、急ぐ足を止めることはできなかった。もう嫌だ。もう嫌だ。走ってどこへ行こうというものでもなく、結局はあの場所へ戻るしかなかったとしても、今はただ走るしかなかった。もうどうしようもない、こんな状況に対応する術を、彼は知らなかったのだ。
「陣野くーーーん!! 待ちなさーーーーい!!」
野太い声が背後から響いてきた。大本さんのものだった。彼は、彼に連れられて戻るという口実ができたことに、ほんの少しだけ安堵しながらも、それでもまだ少しは、という気持ちで走り続けた。雨は今朝ほど強くはなかったが、つかれた体を震えさせる程度には冷たく、彼の髪や、腕、足、服、全身にからみついて気持ちが悪かった。彼の眼鏡は水滴で汚れ、苛立つほどに視界は悪かった。
「陣野く―――――ん!!」
大本さんの声が近づいてきた。そろそろころ合いかと、彼はスピードを緩め始める。ここまで来ればもういいだろう、もう戻っても、きっと、もう誰も自分を犯人だと疑ってはいまい……。
そうさ、はは、確かにさっきのは情けなかったが、逆に考えればあんな間抜けさを披露したおかげで、俺はもう犯人候補からは外れることができたんじゃないのか?? ひゃはは、傑作だ、毒を以て毒を制す、ってやつか、あははは、俺に罪を着せるつもりだったのなら、ざまあみやがれクソ犯人め、どうだ、俺は自分の力で疑いを解いて見せたぞお、あははは、見たか、大馬鹿野郎、俺は犯人じゃねえんだよ、俺は犯人じゃねえんだよ!!
「俺は犯人じゃねえ――――――!!!」
声一杯に叫んだ。空を見上げる。気付かずに、また涙を流していたようだ。しかし、そんな涙ももう雨と見分けがつかない。ただただ冷たい水滴が頬を濡らし、俺は、中身が空虚になったような、すっきりしたような、言うなれば空っぽの気分を一人、味わっていた。
――――――芦田、真琴。
話がしたい。
この事件が終わったら、生きて帰れたら、彼女に、交際を申し込もう。彼女が好きだと言おう。そして、今まで以上に話をしよう。いろんなこと。写真のこと。勉強のこと。香坂さんのこと。…撮影旅行のこと。どこでどんな景色が見られるんだろう。夜景はどこがきれいかな。おいしい料理といえばやっぱりここでしょう。たくさん、たくさん写真を撮って、思い出を紡ぎ、そうして青春を謳歌していくのだ。
こんな殺人事件のことは、もう話さない。暗い過去は封印すればいいのだ。楽しいことだけを話すのだ。そう、彼女といるだけで、俺はあんなにも、幸せだったじゃないか。
――――――そうだよ。
俺は、君のことが、好きだったんだ。
今頃、気付いたよ。
……戻ろう。
君のもとへ、戻ろう。
今、その覚悟ができたから。
…………。
………………。
……………………。
おかしい。
大本さんが陣野の肩をつかみ、彼を振り向かせ、そして皆のもとへ彼を引っ張っていく―――はずだったのに、いつまでも彼の手が陣野の肩をたたくことはない。
おかしい。
どうしたのだろう。
そう思い、陣野は何も考えずに振り向いた、その瞬間、
彼はそこにいるはずのない人物を、見た。
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