37.会いたい気持ち
【会いたい気持ち】
「あ、お姉ちゃん!」
静かに玄関を開けた沙耶と、トイレから出てきた雄一が鉢合わせになった。
沙耶は『シーッ』と口封じをし、『ママたちには内緒にして』と片手で拝んだ。
同じトーンで返してくる雄一。
『お姉ちゃん。ご飯、一緒に食べようよ。ママとボクだけじゃ、何て言うか……息が詰まる。勉強のこととか、将来のこととか、もううんざりだよ』
『考えておく』
それだけ返事をすると、音の立たないようにドアを閉めた。
部屋に戻り、最初に目が行ったのはクローゼット。だが、取っ手に掛けた手を引っ込めた。
……やっぱり、見たくない。
携帯を充電器に戻し、トレイの上のカレー皿をじっと見る。冷め切っていて、食欲などない。
「なんか、あの店……異世界だよなぁ」
ぶつぶつとさっきのひと時を思い出すうちに、スゥッと意識が飛んだ。
風がフワッとよぎるような感覚に頬を撫でられ、ガバッと身を起こす。
「ここって――?」
自分は制服を着ていて、居るのは以前の住まい――家出したあの晩そのままだった。
ただ、今はほんわかと明るい。味噌汁の匂いがし、台所で物音がする。
「この匂い……――お祖母ちゃん!?」
その声に、廊下から懐かしい顔が覗いた。
「沙耶ちゃん。起きた? 朝ご飯よ」
「お祖母ちゃん!」
次の瞬間、抱きついていた。自分よりも小さくなった祖母に。
「お祖母ちゃん!」
「あら、あら。こんなに大きくなっても、沙耶ちゃんは甘えん坊さんだこと。さぁさ、ご飯にしましょうね」
「……お祖母ちゃん、元気なの?」
「えぇ、この通り。ピンピンしているわよ」
以前と変わらない優しい笑顔に、狐につままれたような気がする。
「さぁ、“いただきます”をしましょ」
居間の座卓の上には、具たくさんの味噌汁と炊き立てのご飯が湯気を立て、大根おろしを添えた秋刀魚の塩焼きに、キュウリのぬか漬けなど、懐かしいメニューが二人分用意されていた。
「お祖母ちゃん。みんなは?」
「お父さんもお母さんもお仕事よ。マンションのローンが大変なんですって。ご苦労様なことね。雄ちゃんは塾なの。お祖母ちゃんは心配だけれど、お母さんにはそのことを言わないで。お母さんなりに、考えがあってのことでしょうから、このお祖母ちゃんが口出ししても……ね」
あの時の苦笑いだ。急に現実を思い出し、胸が詰まる。
「そうだ。あたし……」
「なぁに?」
「お祖母ちゃんに、謝りたいことがあるの」
祖母はゆったりと箸を置いた。
「何でもお話ししてちょうだいな」
勇気を出して、口にした。
「あたし……捻くれてた。お祖母ちゃんにひどいことを言っちゃったし、お別れの時にちゃんと挨拶もしないままで……ずっと後悔してつらかったの。お祖母ちゃん、怒ってるだろうなって」
にこやかな表情を変えずに聞いてくれる。
「……それから、やっと会いに来る決心がついた時、あたし、前の日に電話をしたでしょう? ただ待っていて欲しかっただけなんだけど、結局それがお祖母ちゃんに、わざわざ遠くまで買い物に出掛けさせることになっちゃって……そのせいで、お祖母ちゃんが――」
目の前で微笑んでいる祖母に、“亡くなった理由”で謝るのは妙だったが、胸にあったものを吐き出さずにはいられなかった。
「あの日、黙って来ればよかった。ご馳走なんて――あたし、お祖母ちゃんが作ってくれる、このお味噌汁が、一番好きだったのに!」
いっそのこと叱り飛ばしてもらい、わんわんと泣きたいところだったが――ニコニコと聞かれては、涙も半分で済む。
「沙耶ちゃん。お祖母ちゃんは、ものすごく感謝しているのよ」
「感謝? あたしに? どうして!?」
頬を温かな手で包まれる。
「だって、『沙耶ちゃんが、私に会いに来てくれる』と思っただけで、とっても嬉しかったの。嬉しくて、嬉しくて、ついあれこれ欲張っちゃって、返って迷惑を掛けてしまったけれど」
優しい指が、涙を拭ってくれた。
「私ったら、沙耶ちゃんがこの味噌汁を好きだってこと、どうして忘れちゃっていたのかしら。あのマンションを見上げるたびに、沙耶ちゃんがハイカラなお嬢さんになったような気がして、だから、お料理もデパートの味がいいかと思ってしまったのよ。おっちょこちょいね」
ううん、ううんと首を振った。
「食べたかった。お祖母ちゃんの味、大好きだったんだもん!」
沙耶は、グウグウと鳴り出した腹の虫に急かされ、箸と椀を取る。飲み頃になっていた汁を一気に飲み干し、ナスやミョウガ、油揚げの具を掻っ込むように食した。
「あぁ、美味しい! 美味しい!」
言いながら、また涙がこぼれる。夢ではない。あと少しの時間しかないと、感じていた。
「お祖母ちゃん。ごめんなさい! もっと早くに会いに来ようと思えば来られたはずなのに! 生きているうちに、ちゃんと謝りたかったのに!」
その膝にうつ伏した。腰に手を回し、抱きつく。
「沙耶ちゃん。何も気にしないでいいの。嬉しかったって言ったでしょう? この世の最後に“会いたい気持ち”をありがとう。沙耶ちゃんからしかもらえなかった気持ちだわ。会いに来てくれると聞いただけで、どんなに嬉しかったか。お祖母ちゃんこそ、待っていてあげられなくてごめんなさいね。でも、いつも傍にいるから。お祖母ちゃんは、これからもずっと沙耶ちゃんの傍に――」
頭を撫でてくれる優しい手の温もりが、ふっと消えた。
「お祖母ちゃんっ!?」
だが、もうひと声、耳に残った。
「沙耶ちゃんはいい子よ。頑張れる子。お祖母ちゃん、いつも見ていますからね」
「お祖母ちゃん!!」
自分の大きな声で、我に返った。
「はっ……夢?」
祖母に抱きついていた姿勢は、ベッドの上での土下座となっていた。ゆっくりと身体を起こす。舌に、味噌汁の味が残っていた。
「夢……じゃない」
沙耶はまるで高い空を飛んでいるかのようなすっきりとした顔で、クローゼットに向かう。
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