35.沙耶の気持ち/1
【沙耶の気持ち】
「サイアク! サイテー! 佑香のバカッ! 放っておいてよ!」
静寂の戻った扉。その向こうには、だれもいないと知りつつ叫ぶ。
祖母を置いて引っ越した理由は、後になってわかった。のんびりとした暮らしぶりの祖母と気性の合わない母が一方的に飛び出しそうになり、慌てた父が打開策として所帯を分けると言い出したのだった。
そうとは知らず、沙耶は引越し直前まで、祖母に何度も頼み込んだ。
「お祖母ちゃん、一緒に行こう! お祖母ちゃんだけ残るなんて、そんなの沙耶はイヤ!」
「沙耶ちゃん。お祖母ちゃんは、このおうちがいいの。お祖父ちゃんの想い出がたくさんある、このおうちが」
「でも、『お祖母ちゃんと沙耶はずっと一緒』って、いつもお約束してたじゃない!」
「ごめんね、沙耶ちゃん。でもね……」
苦笑いで言葉尻を濁した祖母。「学校がお暇な時は、いつでも遊びにいらっしゃい。お祖母ちゃんは、ひとりで大丈夫だから。沙耶ちゃんは、ピカピカの新しいおうちにお引っ越しして、新しい学校で、お友だちもたくさん作って――」
「もういい!」
佑香と離れる。大好きな祖母とも離れる。
沙耶にとっては、どうして引っ越さなければならないのか、わからなかった。
「沙耶のお願いを聞いてくれないお祖母ちゃんなんか、大キライ!」
初めてそんな言葉を口にしてしまった。
もどかしさが募って感情的になりすぎたせいだったが、それきりそのことを謝れないまま引越しの日を迎えてしまった。
その朝。
「沙耶ちゃん。これ、お祖母ちゃんの代わりに連れていって」
温かい手が、沙耶の手の平に、そっと白いものをつかませてきた。
……あ、てるてる坊主。
「『沙耶ちゃんの胸の中が、いつも青空になりますように』って、願掛けしてあるから」
嬉しさとともにこみ上げた寂しさ。素直になれず、俯いた。
見送りに来ていた佑香に駆け寄ろうとした背に聞こえた声。
「お祖母ちゃんはずっとここに居るから、いつでも遊びにいらっしゃいね」
祖母の心境を思いやる余裕など、当時の沙耶にはなかった。
トラックのエンジンがかかる。
「……じゃ、お袋。行くから」
言葉少なに、妻の後から車に乗り込んだ沙耶の父。
「沙耶っ! 早く乗りなさいっ!」
車内から催促する母の声。
「私のこと、忘れないでね!」
佑香に向けた言葉は、祖母への気持ちでもあった。
「沙耶ちゃん。またね。バイバイ」
耳の端に聞こえた気がした祖母の声。
振り向かなかったことを、今でも深く後悔している。
「大体、最初っからあの家のニオイがイヤだったのよ」
引っ越した後の母は、夫だけでなく、子どもたちの前でさえも、堂々と祖母の悪口を並べるようになった。
それから間もなく「沙耶を中学受験させる」と言い出し、大手の塾に車で送り迎えするようになったが、それは沙耶から、祖母のもとに顔を出す時間を取り上げているようでもあった。
そして、祖母のほうからも、引っ越し先を訪れることは一度も無かった。
嫁姑のいさかいなど、その頃の沙耶にはわからない。
ただ、大人たちに失望した。
自分の頼みを聞き入れてくれなかった祖母にも、祖母を毛嫌いして、自分にまでその感情を押し付けてくる母にも、更に、そんな母の言うなりになっている父にも。
その頃から、沙耶は塞ぎ込むことが多くなった。
佑香への想いは膨らむ一方だったが、学校と塾の往復だけで一日が終わってしまうような忙しい小学生になった沙耶は、寄せ集めの時間で寂しい気持ちを正直に綴った何通もの手紙を、塾の横のポストへ投函するのが日課となった。
だが、返事は滅多に来なかったし、自分の寂しさに同調して欲しかった佑香が実際に書いてくる話題は、沙耶には眩しすぎた。
やがて年が明け、母の強い希望で大学付属中を受験したが、反抗心から、沙耶はわざと答案を穴抜きにした。
案の定、結果は不合格だった。そのことで押し寄せた波紋は二つ。
一つは、小学校三学区分を統括する地元公立中学に入学してみると、“受験失敗組”というのは、入学当初から「仲間外れ」の特別なマークがついてしまうということ。
そしてもう一つは、母の吐くため息の数が倍に増えたということ。
「お姉ちゃんはダメだったけど、雄一ならきっと大丈夫よ。ママと頑張ろうね?」
自分の分まで期待を背負わされた弟は可哀相だったが、やっと深呼吸が出来た覚えがある。
そして、高校受験。
そもそも沙耶が清廉を志望校に決めたのは、佑香が受けると知ったからだった。
夏の終わりのある日。帰宅した沙耶をつかまえて、“戦利品”を掲げた沙耶の母。
「今日スーパーで、佑香ちゃんのお母さんにバッタリ会ったの。『まだバスケに一生懸命で困るわー』とか言っていたけど、その割には、清廉が志望みたい」
「清廉?」
「そうよ。遠回しに探りを入れたら、やっと白状したわ。あそこも東大・京大進学率は抜群でしょう? バスケも、勉強もだなんて、佑香ちゃんってすごいのね。小学校じゃ、沙耶のほうが上だったはずなのに、あなた悔しくないの? ――大体、部活に時間を取られているわけでもないあなたの成績が伸びないのはどういうわけなの? 幼馴染みに、負けてもいいの? お母さんたちが、塾にどれだけお金を払っていると思うの。それもこれも、全部あなたの将来のためなのよ。女の幸せはね、結婚相手次第なの。パパを見なさいよ。ママ、すごく後悔しているわ。だからせめて沙耶だけでもいい結婚相手を選べるように、名の通った大学に入って、一流の会社に就職して……」
くどくどと喋り続ける母の声などただの雑音と化していたが、その横で、沙耶はしばらくぶりにワクワクした気分を味わっていた。
……そっか。あたしも清廉を受ければ、また!
偏差値は足りなかったが、確固とした目標が決まってからは、塾でも、学校でも必死に勉強した。
受験校を決める最終の三者面談では、担任の目前で母と大喧嘩をしたが、最後まで意志を貫いて清廉を受験した。
やがて、合格発表の日。
沙耶はいち早く掲示板を見上げ、自分の合格を知ると、先ずは小さくホッとした。あとは佑香だ。今か今かと、その姿を待った。
(沙耶の気持ち/2へ) |