30.避難場所/1
【避難場所】
その頃、肝心の沙耶は、埃くさい畳の上で手の平サイズの鏡を覗き込んでいた。
顔の左右を見比べては、舌打ちをする。
「あーぁ……」
携帯がまた震動した。立て続けに数度目の着信だった。
確認した相手が大輝と知ると、つれなく吐き捨てる。
「出るとでも思ってんの? バーカ、しつこいんだよ」
鏡に目を戻し、そっと指先で触れる。「チッ……痕が残ったら、どうしてくれるのさっ」
左目尻の下が赤く腫れている。
フレームの曲がってしまったメガネは、いくら捻ってみても、完全に元の形には戻らない。
……女の子を殴るなんて、最っ低ー!
歯軋りをして悔しがる。
それだけで済んだのは、不幸中の幸いだった。
だが、沙耶はそうは思わない。
「あたしの20万っ!」
角がひどく擦れてしまった財布の中を何度覗いても、空は空だ。
「あんなヤツらにブンどられるために、稼いだんじゃないのにっ!」
はぁぁ……と肩を揺らして溜め息をついた。
ポーチから絆創膏を出し、頬骨に沿って貼る。
「お腹空いたなぁ……」
ごろりと仰向けになる。
自分を探している面々が、その身を案じていることなど思いもかけずに、脳天気なものだ。
「エビグラタン――食べて置くんだった……」
昨日の夕方。
大輝を拘束する必要が無くなると、『帰れば?』と通り道を空けてやった。
発信させてもいない携帯に向かって喋りながら、もう用は無いことを示す。
その背中に、心の中で呟いた沙耶。
……『だれが、お前なんかと組むかってのっ』
携帯をカチャッと畳むと、フフッと鼻先で笑った。
「さぁ、面白くなってきた」
口と心は一致していない。
充実感のない遊び。援助交際から逃げ出した後の裏寒い気分と同じだ。
……さてと。今晩、どうしよう。いきなり今夜決行なんて、ちょっと焦ったかな。
泊まる当てなどなかった。
携帯の電話帳には友達と呼べる仲の名前はなく、部活動の連絡網に入れている同学年の子に連絡したところで、「今夜泊めて」などと言えるはずもない。
……とりあえず服買って、ネットカフェで夜明かしでもするか。
20枚あるうちの1枚で、会計を済ませる。
……あーぁ、遣っちゃった。また補充しなくちゃ……
自動ドアが開くのも、寂しく感じた。
見上げた細い月に、溜め息をつく。
「何もかも、面倒クサイー」
「ねぇ、キミ」
建物を出たところに、20代前半の男が立っていた。
カラシ色のTシャツを着て、髪も同じトーンの色だ。人懐っこい笑みを見る限り、悪い人間には見えなかった。
「キミさ、清廉でしょ? ちょっとだけ、話せないかな。ね、こっちでさ――」
それだけ言うと、建物の裏に歩いていく。
沙耶はもちろんついていくつもりはなく、無視して立ち去ろうとした。
「ねぇ、キミ! 頼むよ、ちょっとだけだからさぁ!」
振り向くと、その男がレンガの壁からピョコンと顔を出して、手招きをしている。
……ナンパ? ったるいんだけどっ。
そう思う半面で、ほんの少しワクワクもした。
駐車場は、他の客が頻繁に出入りしている。
夕食に寄ったのだろう。保育園帰りらしい幼児の姿も見えた。
男の顔がにこやかなことと、密室性のない空の下・公共的場所という感覚が、人恋しかった沙耶の気を緩めた。
……車に連れ込まれない限りは、大丈夫でしょ。いざとなったら、叫べばいいんだし。
「あの……なんでしょうか?」
建物と車の間のスペースで、ジーンズの尻ポケットに手を突っ込んで立っていた男に声をかけた。
「あのさ。ボク、清廉のOBなんだよね」
「あ、そうなんですか」
「うん、そう。学校のこと、聞きたいと思ってさ。えっと……山田先生って、まだ元気にしてるかなぁ?」
「山田先生? んー、居ないですけど」
「あれ? じゃあ、斉藤先生は?」
「斉藤? 男と女のどっちですか?」
「ん? 男だよ」
「わかった。ひろし先生でしょ」
「あ、それ! その、ひろし先生! 担任してもらったことがあるんだよ。懐かしいなぁ。元気にしてる?」
「えぇ、とっても」
……居ねぇよ、そんな名前の先生。テキトー言って、このあたしを騙せると思ってんのっ!? コイツ――!
誘いに応じたことを後悔した。
「じゃあ、あたし、このあと塾なんで……」
自分も適当にあしらって――そう思った。
だが、
「あのさぁ、さっき聞こえちゃったんだよね」
男のにこやかさの質が変わった。目が野性味を帯びる。
「……え?」
「“時給10万”のお仕事だけどさぁ、オレにやらせてよ」
……!?
「手加減すればいいんだろ? オレ、空手やってたし、関節外すのなんか、うまいもんだぜ。その辺は任せてくれていいよ」
……ヤッベェ。
途端に噴き出した冷や汗。
取り繕いの笑みを浮かべた沙耶は、なんとか切り抜けようと試みる。
「――あの話は、友だちとふざけて喋ってただけで、本気じゃないですから……」
だが、言い終わる直前、男に別の表情が浮かんだ。
「アニぃ、そろそろお願いしますよ」
声は沙耶を通り越した。
後ろから、別の声が聞く。
「で? 雇ってくれるってか?」
……連れ?
今まで、4、50代くらいの男たちから、何度も狡猾に金を巻き上げてきた。
だが、この状況は初めてだ。肩が強張る。
「だっ、だからあれは、友だちをからかってただけで――」
「オトコをからかっちゃあいけないなぁ」
後ろからだ。
怖くて振り向けない。足がすくむ。
目の前の男は、今はひどく安っぽく見えた。
さっき、ほんの少しでも「いいかも」っと思ってしまったのは、なんだったのか。
ひょうひょうと言ってくる。
「ねぇ、キミ。ひどいことされちゃうのと、大人しく金だけもらってもらうのと、どっちがいい? カワイイから、特別に選ばせてあげるよ」
「なっ、なにそれっ!? なんであたしがっ――」
「駄々こねると、後ろの人が怒るよ。オレのアニぃ、怖いよ。“色々”しちゃうよぉ」
後ろの声が継ぐ。
「ああ、“色々”な。――してやるか。それから金くれるってのが、オレらには一番おもしれぇよな」
低い笑い声。
あたりは、まだ薄明かりが残る満杯の駐車場。
国道には渋滞寸前の交通量がある。
だが、沙耶が求める人影は途切れていた。
「だから、お金なんか――っ」
「ウソもいけないなぁ。ちゃんと財布に入ってるじゃん」
目の前の男はニヤニヤしているだけ。
後ろの声には、動く気配がない。
走り出すタイミングがつかめなかった。
「“男を騙すウソつき女”は、やっぱ、お仕置きだな。――なぁ」
楽しそうな声に、身が縮んだ。
と、背中の気配がぐっと近づいた。両肩に指が食い込む。
「ひゃっ!? や、放してっ!」
「もうちょっと奥へ行って話そうか。なぁ、お嬢ちゃん」
「いっ、行かない! 人を呼ぶわよっ!」
「気が強いねぇ。さすが、援交で持ち逃げするだけあるやな」
……あ――。
「そう、そう。キミも立派な犯罪者だもんね。だからさぁ、騒がないで、仲良くしようよぉ」
……どうしよう。
前後から、罪を言及された。
一瞬だが、弱みを握られて、逆らえないような気になってしまった。
駐車場奥にぐいぐいと押されていく。
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