15.ポン太/2
父娘を戸口まで見送ったうめに、治夫が握手を求めて、手を差し出してきた。
仕事以外で男性の手に触るのは何年ぶりだろう。心の緊張を悟られないように、わざと元気よく掴んだ。
――『死に別れでコブ付きの俺なんぞ……でも、うめさん。好きでした』
息苦しいほどの想いは、心に響いたものか、直接耳で聞こえたものだったのか、わからなくなってしまった。鼻の頭を赤くしたうめは、もう片手も添えて、治夫の手の平を包んだ。
「どうぞ……お元気で。新しい土地でも、きっとお二人で楽しく暮らせます。……次に綾乃ちゃんが子猫を連れてきたら……」
一瞬、深く目を瞑ったうめ。軽く頷き、言い添えた。
「その時は飼って上げて下さい。それからしばらくしたら、もう一つ、きっと新しい出逢いがありますよ。その子猫を通じて」
「うめさん……」
長く握り合っている大人たちの手に、綾乃は可愛い手を載せてきた。
「お父さんったらー! いつまでおばちゃんのおててにさわってるのー!? こんどは綾乃のばんー!」
それきり手を離し、照れ笑いをしながら、涙を誤魔化した治夫。うめは、それに気付かぬ振りで、きつく綾乃を抱き締めると頬摺りをした。
小さなときめきが、また一つ蕾のままで終わった。
その日から子猫との暮らしが始まった。名前は綾乃が決めた通り「ポン太」。もしもうめが名をつけ直したなら「俊三さん」になってしまったかも知れない。
やがて、うめがしょっちゅう身体を撫でていたせいか、不思議なことにポン太は普通の猫とは違うところを見せ始めた。
古本を見に寄った客が
「おい、ポン太。元気か?」
と声を掛けるのを聞いたうめが、不思議に思って尋ねた。
「あら、どうしてその子の名前を?」
「何でかな。この前、通りで見かけた時に背中を撫でたら頭に浮かんだのですよ。きっと『ポン太』って名前だろうなって」
そしてまた、『ゆめや』としての仕事の時に、ポン太も傍に来て一緒になって固唾を飲み、ひげ先を震わせていることにも気付いた。
「ポン太、お前、もしかしたら、私を手伝ってくれているの?」
「ニャー」
「綾乃ちゃんの言いつけを守って? すごい、すごい。言った通りになったじゃないの!」
その摩訶不思議さに驚くとともに、力を授かったという同じ立場に嬉しくなった。「ありがとう。ポン太。うちに来てくれて、ありがとう」
そしてもう一つ不思議なことに、『夢屋』の相談者に一緒に仕事をすると、それがポン太の肉体的寿命を延ばしていくように思えた。なぜなら今のポン太は、同じ名を受け継がせた別猫ではなく、半世紀前の当時からうめと一緒にいるポン太なのだから。
相手が胸に抱いて来る「逢いたい」という情熱や真剣さをコピーして、自分の中にも取り込むという感覚のうめの傍で、同じことがポン太にも起こっているのかも知れないと思うようになった。
だが、自然の摂理が定めた寿命なのに、後天的に伸びていく事が果たしていいのかどうか、それはうめにもよくわからないこと。自分も年の取り方がゆっくりの気がする。己の寿命も限りないように思えてしまうが、それは考えないようにしてきた。
「私が死ぬときは、どうかポン太と一緒に」
と、最近では切に思うようになっていた。
今、二〇〇七年のうめの生活は、人が噂する『大金次第』などとは程遠く、本当に年金だけで足りるほどの質素な生活ぶりで、ポン太を唯一の伴侶、そして小学生たちを話し相手とする日々だった。
今日は、立て続けに、桜子と浩司たちに力を使ったせいか、さっきから心臓が苦しくて仕方がない。何か特別なことが起きる前のような感じもして、気持ちも妙に落ち着かなかった。
「ポン太、今日はお前さんも疲れて――あら? どこへ行ったの?」
ふと気付けば、いつもの場所に姿は見えなかった。風通しに開けておく戸口からも、最近は外へ出ることはなくなっていたのだが。
外へ探しに出ようかと立ち上がったところに、文机の右脇に置いてある昔ながらの黒い電話が鳴った。
|