8.上客/1
【上客】
入ってきた桜子を見ると、うめは即座に自分から「いらっしゃいまし」と声を掛けた。
それは、いつもじっくりと客を見定めるまでは無言を通すうめの普段の振る舞いからすると、珍しいことである。
桜子は、目が慣れるまで薄暗い店の中の上下左右を数秒見回していたが、あとはその声に縋り、前に進んだ。
大人の女の足で十数歩程の細長い店内。緊張の余り、途中で一度ふらついた桜子は、咄嗟に古い箪笥に右手をついて身体を支えた。買うつもりのない商品に触れた事を謝ろうと頭を下げた桜子に、再びうめから声が掛かる。
「お客さん、よくここをお見つけになりましたこと。どなたにお聞きになって?」
「あ、あの――」
そこで、西山という客の言葉を思い出した。
――『それがね、“だれに聞いたか?”って聞かれたら、“だれ”とは絶対に言っちゃダメなんですって!』 ただ『風の便りに聞いた』って返事しないと、もうそれっきり相手にしてもらえなく……』
「は、はい! 『だれとは絶対に言うな』と、風の便りに――」
「あっ」と口を押さえた。言ってしまってから、最初の一言が余分だったと気付いても、出した言葉はもう戻せない。だが、蒼褪めた桜子とは対象的に、一方のうめは失笑した。沙耶の時とは、明らかに違う反応だ。
「そうなの。やっぱり、巷では今でもそんな風に伝わっているの。……でも、うっかり口にしてしまうなんて、ちょっとおっちょこちょいだけれど、裏のないお嬢さんね。正直で可愛いこと」
「い、いえ……あの、失礼なことを……ごめんなさい」
だが、うめはまだ桜子を試す。
「……それなら、お聞きになった通り、さぞたんまりとお持ちになったことでしょうね?」
「え、はい、あの――」
桜子は腕に掛けていた小型のボストンバッグに手を入れた。
タオルでくるんだ刃物の固い感触が手に当たり、自分が後戻りの利かないひとコマにもう歩を進めたことを実感する。その下になっていた分厚い封筒を底から取り出して両手に持つと、そっとうめに向けて差し出した。
「これは、いつか――いえ、今まで貯めた全部です。使っていた家具や電化製品も処分してきたのですが、思ったよりお金にならなくて……。ニ百万ちょっとしかありません。でもこれで、どうか」
死ぬための金――徹也に逢うために掻き集めた全て。いつか独立して、自分の美容院を持つ時の頭金に充てるつもりだった分も含めた全部だった。
桜子は目に必死の想いを込め、うめもじっと桜子を見据える。
二十代後半の桜子の服装は、シンプルで金のかかっていないもの。店では圭子の指示どおり、それ風に巻いて少しでも表情を明るく見せるようにしていた長い髪も、今日は後ろで一つにまとめて結び、職業上短い爪の指先は、ひどく荒れていて痛々しかった。
「ニ百……それがあなたの“精一杯”なの? 他にもお持ちなら、ここでは出し惜しみしても無駄ですよ。わかるのですから」
「えっ?」
ランドセルの男の子も言っていた。
――『うめバアさんは、黙っていても、ボクたちのこと、何でも……』
……透視ね――でも、そう言うってことは、二百じゃ足りないってことだわ。どうしよう。
途端に困った顔になった桜子は、無碍に追い返されることへの恐れを抱いた。声を上ずらせて、懇願する。
「お、お願いします! 何でも差し上げますから、どうかお願いしますっ。あと私がお渡しできるのは――」
使い込んだ二つ折りの財布を取り出すと、封筒に重ねた。「小銭しか入っていませんが、これもどうぞ。あとは、あとは……」
おどおどとした目で必死に思い巡らせる桜子。その激しい動悸が、うめにも伝わってくる。
「あとお渡しできるとしたら、この身くらいしかありませんが、それでよかったら喜んで。何でもします。何でもっ! ――あっ、でもその前に、どうか『願いを叶える』と、おっしゃって下さい! お願いします!」
「……そう」
うめは、眩しげに細めた目で桜子を見つめる。「身を差し出すということは、生半可なことではないとわかっていますか? どんな扱いを受けても我慢するということ。一生、ただ働きさせられても構わないということですよ? それほどまでしてでも、その人に逢いたいの……。なんて、いじらしいこと」
「えっ? どうして私の願い事を……? 私、まだ、何も――」
うめは「他愛もないこと」と言わんばかりに、ゆったりと首を振った。
「私をだれだと思って、わざわざそんな大金をこしらえてきたのかしら。『夢を叶えてもらえる』なんてとんでもない話を信用したからこそ、生活の全部をお金に替えていらしたのでしょう? でもね、変な噂を簡単に信じるのは、怖いことですよ。今後は気をつけないと、ね」
「やれやれ」と首を振るのは、うめの癖だ。
「そのお金は、あなたがこれから生きていくのに必要なものですよ。大事にしなくては。さ、早く仕舞っていただきましょうか」
今日、この古めかしい店の中で、自分の命を終わりにして貰い、徹也のもとに行くつもりだった桜子は、まだ「これからも生きていく」と言われ、きょとんとする。
……でも、それじゃ、徹也に逢えない。逢えないじゃない。
うめは口の端をつっと上げ、頷く。
「覚えておいて。私が欲しいのはお金ではないの。いつの間にか世間では、『金次第で動く強欲な年寄り』で、まかり通ってしまっているようですけれどね、私が本当に欲しいのは、“想いの深さ”というものよ。叶えたい望みがどれだけ深くて、どれだけ純粋なのかということ。それを見させてもらえるのが、今の私の生き甲斐なの」
「で、でも……」
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