挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
ブックマークする場合はログインしてください。

短編集

武蔵野線番外地

作者:篠崎フクシ
 武蔵野線が悲しい路線だと考えているのは俺くらいじゃないかと、古里シンはいつも思う。今夜も取引先との接待で美味くもない酒を呑み、もう日付が変わろうとしている。たかが二十数年間の人生だとヒトは笑うかもしれないが、同世代の少なくない連中と同じくらいには世界に絶望していた。
 LINEで彼女に誕生日プレゼントをねだられ、通販サイトのリンクを確認してから「り」などと適当な返信をする。リンクの写真は確かスワロフスキーの銀のネックレスだったが、すぐに忘れた。もう見ることもないだろうと思い、アイコンを長押しし、LINEアプリを消去した。
 タバコ、すいてえな、と思う。
 でももう、良識のなかに生きる自分にとっては叶わない願いだった。クソが、と小さく吐き捨てる。
 スマートフォンの音楽アプリを立ち上げ、毎日毎日毎日聴いている音楽を今夜も聴くことにする。イヤーピースを雑に突っ込み、ぼんやりと窓の外を眺める。夜景などという洒落た表現ができればいいが、ここは武蔵野線番外地。貧相に点在する街灯や窓明りが無言で通り過ぎるだけだった。
 東所沢駅で多くの乗客が降り、空いたシートに腰を下ろす。するとほぼ同時に、向かい側のシートに高校生が一人、座った。彼女はブレザーの制服を着、髪はロングで、清楚な感じだった。左目の下に小さな黒子がある。泣き黒子か。古里シンは相手を一瞥してから、趣味じゃねえなと思い、音楽に集中した。
 ところが向かいの泣き黒子の少女は、シンに視線を合わせ、妙な合図を送りはじめた。苺のように赤く光る唇を、開いたり閉じたりしている。声は出していないが、同じ言葉を何度か繰り返しているらしい。シンは怪訝な顔をして、無視を決め込もうとしたがダメだった。一度気になり出したら止まらない。
 仕方ねえな、と思い、子守でもするような気分で向かいの女子高生の隣に腰を掛けた。まさか、誘っているわけじゃねえよな。向かいの車窓に、古里シンと少女の姿が映る。トンネルに入った。流れる背景の色は、黒だ。
「ガキがこんなに遅くまで制服でうろちょろしてると、補導されるよ」
 イヤホンを外し、ぶっきらぼうな調子で言う。しかし少女は人形のように無表情で、シンの言葉には反応せず、一言だけ呟いた。
「最後から二番目の思想」
「え?」
 ただでさえ武蔵野線の車内は煩いのに、トンネルの中ではさらによく聞こえない。しかし、言葉の断片と少女の口の動きからすぐに理解できた。イヤホンから音漏れしていないことも確認した。
「それは、俺の聴いている曲のタイトルだ。なぜ分かった?」
「サティの曲を聴いている人は、表情で分かります。とくに〈最後から二番目の思想〉なんて、あなたらしいわ」
 訳知り顔の女子高生の言い方に、シンはちょっとムッとしたが、それ以上に好奇心を掻き立てられた。
「随分と俺のことに詳しいじゃないか。可愛い顔して、あんた、新手のストーカーか?」
 ふっと、少女は微笑み、シンの問いには答えず口を開いた。
「あなたのことなら何でも知ってますよ。例えば明日の朝、線路に飛び込むつもりだということも」
 まさか……。シンの顔は瞬時に蒼ざめた。言葉が出ない。
「そこで一つ提案があります。死ぬのは自由です。が、死ぬ前に、先ほどあなたが消したLINEのアプリを復活させてみてください。一人で彼の世に行くのも寂しいじゃないですか。冥土の土産をあなたにプレゼントしたいのです」
 シンは視線を逸らし、向かいの車窓を見てまたもや愕然とした。泣き黒子の少女の姿は忽然と消えていたのだ。
 列車は新秋津駅で停まり、扉が開く。数人の酔客とともに、古里シンもホームへと吐き出されていった。

 ✳︎

 目覚めても、まだ夢の中のような気がする。万年布団から這い出し、やっとの思いで台所に立つ。食欲がないので、何種類もの薬を水道水で流し込んだ。この半年飲み続けた抗鬱剤の入った紙袋を見て、ああそうだった、もう今日で必要ないんだ、と思う。鬱に抗うのは、もう終わりだ。
 古里シンは、ずっと考えてきたことを実行できることに、ある種の清々しさを感じていた。ようやく楽になれる。
 下らないとは思いながらも、顔を洗い髪を整えアイロンをあてたワイシャツを着て、ネクタイを締める。仕事か……。
 取引先の会社から無理難題を突きつけられることは、それほど苦ではなかった。営業職をやる以上、もとより覚悟していたからだ。許せないのは、責任を取ろうとしない上司があまりにも多すぎることだった。昨日は、東南アジアの工場にサンダルの大量発注をかけたが、直後に取引先から待ったがかかった。納期を早めた上、単価をさらに引き下げろという。ギリギリまで調整はつづいたが、結局交渉はまとまらず、一つ仕事を逃してしまった。
「古里、お前、死ねよ。お前みたいな部下のせいで、俺の昇進が遅れてるんだよ」
 でっぷり太った課長はデスクを叩いて言い放った。ほんの数日前には、俺が責任を取るから思い切りやってこいとかなんとか、ドラマのセリフみたいなことを言っていた口が、これだ。
「んだよ、その目は、このクズ。給料泥棒! 頼むから早く死んでくれ。死ね!死ね!」
 そんないつものやり取りの後、接待で夜遅くまで酒を呑んだのだ。疲れた、というより、感情はすっかり麻痺していた。
 もう終わりにしよう。そう思った。
 西武線から乗り換え、新秋津駅でそれを実行するつもりだった。ぞろぞろと通勤客は地下のホームへと流れて行く。いつも通りだ。いつも通りの場所に立ち、この世界とお別れする。ただ、それだけ。
 武蔵野線は悲しい路線だ、と古里シンはいつも思っていた。理由なんて忘れてしまったが、毎日聴いているサティの曲が関係しているかもしれなかった。〈最後から二番目の思想〉は、曲というよりもそのタイトルに強く惹かれていた。昔、下手くそな詩を書いていたからかもしれない。
 オレンジ色のいつもの車体が、遠くから近づいてくる。さあ、終わりにしよう。
 そう思った瞬間、ふと、泣き黒子の少女を思い出した。なぜこんな時に、と古里シンは苛々しながらスマートフォンを手にし、LINEアプリをダウンロードした。着実に列車は近づいている。早く早く。いつもより時間が長く感じられる。早く早く。彼の世に飛び込まなければならないのに!

 列車は定刻どおり新秋津駅に停まり定刻どおり、東京方面へ出発した。
 古里シンはホームに立ちつくしていた。列車が去った後、向かいの府中本町方面ホームに女が一人立っているのがわかった。手を振っている。LINEのメッセージがわずかにシンの判断を鈍らせた。
 〔いま、わたし、どこにいると思う? なんと、シンの向かい側のホームにいるよー!〕
 昨夜、スワロフスキーをねだってきた彼女が、満面の笑みでこちらに手を振っている。大学時代から付き合っている彼女は、いつでもシンの気持ちなんかおかまいなしだった。
 でも何故か、今朝だけはそんな彼女の天然ぶりが愛おしく思えた。シンは仕方ねえなという顔をして、軽く手を挙げた。
 ーー、ここは武蔵野線番外地。
 人びとの魂が交差する、彼の世と此の世の小さなあわい。【了】
 

評価や感想は作者の原動力となります。
読了後の評価にご協力をお願いします。 ⇒評価システムについて

文法・文章評価


物語(ストーリー)評価
※評価するにはログインしてください。
感想を書く場合はログインしてください。
お薦めレビューを書く場合はログインしてください。
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ