とるにたらないある日のこと
祝日でも休日でも何かの記念日ですらない、ありふれた平日の昼下がり。
つけっぱなしのテレビからは、芸術に対する造詣の浅い僕でも知っているような有名どころのバレエが流れている。
たしか、チャイコフスキーのくるみわり人形。
金平糖の精のおどり。
ちょうどカラメルソースを作っているところだったので、なんとなく笑ってしまった。
コンペイトウをつくったことはさすがにないけれど、手元で溶けていく砂糖に、澄んだ音が飛び跳ねるイメージが重なる。
「真幸さん。焦がさないように注意してね」
ピシッと飛んできた指摘に首をすくめて、僕は手元の鍋を見つめた。
大丈夫。前回のような失敗はしていない・・・といいなぁと思う。
ゆとり教育からの転換とかで実施された補習につぐ補習から解放されて、ようやく本当の夏休みを享受しはじめて三日目の今日。
僕は、由香お義姉さんとプディングケーキを作っていた。
作ったことがない人にはわからないかもしれないが、ケーキ作りは力仕事だ。
立ちっぱなしで小麦粉をふるったり、生地を混ぜたり、生クリームを泡立てたりするのを、産休に入ったばかりの身重のお義姉さんに平気でさせられるほど、僕は楽観的な人間ではなかった。
・・・白状するなら、僕の趣味は製菓を含めた料理一般なのだ。
調理師学校を卒業した由香お義姉さんの技を盗む機会を無駄にするなんて、そんなもったいないことができるわけもない。
それを知った上で、「由香を頼むぞ」と言い置いて仕事に行った兄貴は、性質が悪いのか過保護なのか。
両方だろうなぁと思いながら、システムキッチンの一角にしゃがみこんでオーブンの向こうを観察する。
大きなおなかを抱えたお義姉さんに、あんまり無理をさせたくない。
男らしくないといわれつづけてきた僕の趣味を兄貴以外にはじめて認めてくれただけでなく、もてる技術や知識を惜しみなく与えてくれるお義姉さんの優しさと、調理に対して決して妥協することのないプロの姿勢は、僕の憧れなのだから。
スポンジケーキが焼けるいい匂いが、台所にただよいはじめた。
これなら、設定どおりの時間で大丈夫だろう。
そう思って、振り向いたときだった。
つけっぱなしのテレビが、何かよくない速報を伝える時の音をあたりに響かせたのは。
見れば、立派な舞台の上で、薄いピンクから白にグラデーションしていく生地に金の刺繍がされた衣装を身にまとって踊りつづけていた少女が、テレビの画面から消えるところだった。
代わりに現れたのは、白い壁を背景に机の上の原稿を読み上げるスーツ姿の男性。
高橋さんだったか、鈴木さんだったか、とにかく朝のニュースでよく見かける人だった 。
『本日、午後2時54分ごろ。
国道三直付近で玉突き事故が発生しました。
くりかえします。本日、午後2時54分ごろ・・・』
何の前置きもない悲報が、40歳はすぎてるんじゃないかって顔つきのおじさんによって沈痛な面持ちで繰り返されるのを、僕は微動だにせず見つめていた。
三直といえば、営業の仕事についてる兄貴がよく通る辺りだ。
そういえば今日も、3時半からの取引があるとか言ってたような・・・
ガシャン。
金属製の何かが床に落ちた音が、僕を思考から引き戻した。
「由香姉さん? 」
名前を呼びながら振り向く。
フローリングの床に転がる耐熱ガラスのボウルと、あたり一面に飛び散ったカスタードクリームの向こうに、今にも倒れそうなほど蒼白な顔をしたお義姉さんが立ち尽くしていた。
何を言ったのかよく覚えていない。
お義姉さんに、とにかくソファーに座るよう誘導して、飛び散ったカスタードクリームをおざなりにだけど一応は拭いて、つけっぱなしだったガスコンロの火を消して、ボウルを流しに置いた辺りは確かだ。
それから、ぬるめの蜂蜜ミルクを手早くつくって、二つのマグカップに注ぐ。
一つをお義姉さんに手渡して、もう一つを片手で持ったまま、僕もソファーに座った。
見つめる視線の先で、テレビが映し出す光景は次々と入れ替わった。
ヘリコプターから見下ろされた事故現場、机の前に座ったニュースキャスター、そして、救急車や警察や消防が入り乱れる現場の光景。
そのどれもに、不思議と現実味を感じられずに、僕は自分の分の蜂蜜ミルクを一口飲んだ。
・・・いつもなら、のどに浸透してくるようなあのやわらかさはどこにもなく、まるで砂を噛んでいるような気がした。
僕はぼんやりと薄型テレビの画面を見つめた。
後から後から入ってくる続報に、顔が歪むのを押えることはできなかった。
滅多にないような大事故だった。
対向路線から急カーブをきった乗用車が国道を数メートル逆走した上、数台を巻き込んで横転。そこに、後からやってきていた自動車とバイクが玉突き状態になり、更にはじめの乗用車からガソリンが流れ出て炎上、数台が巻き込まれた、らしい。
映画の中でしかありえないような光景が、高速道路ならまだしも一般道で繰り広げられていることが信じられずに、僕は手に取ったリモコンでチャンネルを変えた。
どこも、同じニュース一色に染まっていた。
なんでも事故車の中には修学旅行生の乗ったバスなんかも含まれていたとかで、三直付近は通行止めの上、大騒ぎになっているようだった。
「とにかく、連絡とってみるよ」
机の上に置きっぱなしにしていた携帯に手を伸ばす。
緊急用に、と教えてもらった番号をアドレス帳から引っ張り出して、そのままコールする。
いくら三直をよく通るとはいえ、それだけで事故に巻き込まれたと考えるのは明らかに早計だった。
大丈夫だ。
兄貴のことだから、どこか別の道を走ってるか、それとももう取引先についてるかどっちかだろう。
そう思い込めたのはつかの間だった。
『おかけになった電話番号は、電波の届かないところにあるか電源が入っていないため、かかりません』
女性の言葉で呟かれたお決まりの台詞に、僕は愕然と立ち尽くした。
仕事中は、携帯の電源を切らないことにしているはずなのに・・・
携帯を取り落としかけてた手の震えをなんとか押えて、僕はとにかくメールを打つことにした。真っ青な顔のお義姉さんの視線が、僕とテレビを行ったりきたりしていることに気づいていたから余計に、動揺するそぶりなんか見せられなかった。
だって、お義姉さんのおなかには赤ちゃんがいるのだ。
精神的なショックがどれだけ身体に悪いか、高校生の僕にだって分からないはずがない。
安否確認と、三直で起きた事故の状況、それから連絡を求める旨のメールを、いつもの三倍くらいの時間をかけて僕は送った。
祈るように携帯を握り締めて、ソファーに座りなおす。
テレビの中では、必死の救助が続いていた。
同時に、すでに救助された人の名前と搬送先の病院がリスト状に表示され、アナウンサーの男性によって読み上げられていた。
そこに、現実味はほとんど無く。
出来の悪いドラマを見ているようだ、と僕は思った。
「由香を頼むぞ」、と言い置いて出て行った兄貴の笑顔を思い出す。
ドラマだったら、あれはこの上ない伏線になるんだろう。
・・・納得できるわけが、ないけれど。
やくたいのないことを考える間にも、死亡が確認された人の名前が黒枠で囲まれていくのが見えた。
そのたびに、お義姉さんが隣で震えるのを感じて、僕は唇を噛む。
黒枠で囲む、というただそれだけのことの向こうがわで、人が1人命を落としているのだ、ということがどうしても納得できなかった。
「人間は、どんどん便利にしていく」
唐突に、今までに聴いたことのないようなかすれた声で、お義姉さんが言った。
テレビから目線をそらして、横目でその表情をうかがう。
血の気をなくした顔の中で、紫色の唇がはっきり分かるほど震えていた。
「歩くより早く、どこかにいけるようになって」
何を話そうとしているのか、よく分からないまま僕はただその言葉に耳を傾けた。
下手にお義姉さんを刺激して、何かとんでもないことが起きるのが怖かったのだ。
「便利になったね、って笑って」
嗚咽をこらえるような声で、お義姉さんは続ける。
震えを押し殺すように握りしめられたその手に、爪のあとが残るんじゃないか、と思った。
そうしなければ、うわべだけの冷静さもとりつくろえないほど動揺しているのだ、と頭で考えられたのはほんの数秒。
気づけば、ソファーに腰掛けたままの僕の足も、立ち上がれないほどに震えていた。
「・・・それで、ブラックボックスが増えて」
知らないところで、こうやって。
それ以上、お義姉さんの言葉は続かず、テレビの中のアナウンサーが挙げていく名前と容態と病院名の羅列だけが部屋に満ちた。
僕には分かっていた。
お義姉さんが、何を言おうとしたのかは。
だから、何も言えなかった。
半端な慰めが、今この場で何の役に立つというのだろう。
不意に、僕は。
本当にあっけなく、人は死んでしまんだ、と思った。
そんなふうに出かけて、二度と、戻らずに。
今日、死ぬことになるだなんて、誰も思わなかったろうに。
それでも、画面の中で黒枠に囲まれたあの人たちは、死んでしまったのだ。
切り替わった場面の中で、アナウンサーが生存者の状態を取り上げていた。
生きている人がいることが、僕にとっては何よりの救いだった。
その中に、兄貴がいるのかもしれない。
事故に関係のないところにいるなら、それが一番いいんだけど。
そうでなくても、助かっていて欲しい、と心から思う。
いや、兄貴だけじゃなくて。
今名前を読み上げられているすべての人が、無事ならいい、と僕は心の底から願った。
知らない人。知っているかもしれない人。
どこかで、すれ違ったことがあるかもしれないくらい、知らない人。
その全員が、無事ならいい。
ピルルルルルルル
何の前触れもなく鳴り響いた着信音に、僕はあわてて携帯を持ち上げた。
【公衆電話】、という表示に内心ぎょっとしながら、通話ボタンを押す。
「もしもし。」
まぎれもなく、兄貴の声。
張りつめていた糸は、そこでぷつりと切れて。
僕はなんとか一言だけ言葉にした。
「今、代わるから」
はじかれるように顔を上げたお義姉さんに、携帯を押し付ける。
「・・・ゴメン。充電切れてたんだ」
洩れ聞こえた兄貴の声は、元気そうで。
お義姉さんの頬を伝った涙を見なかったふりで、テレビの電源を切る。
生存者の名前を読み上げるアナウンサーの声が途切れて、台所にはお義姉さんと兄貴の会話だけが響いていた。
もう震えない足で立ち上がりながら、僕は頭の中で、台所の床を拭き直してプディングケーキを完成させる算段をつける。
今日が、祝日でも休日でも何かの記念日ですらない、ありふれた平日で、数日後には何をしていたか忘れてしまうような、とるにたらない一日だということが、この上なく幸せに思えた。
はじめまして。もしくは、お久しぶりです。
水音灯です。
あなたがそこに居てくださることが嬉しいです。
この作品を読んでくださって、ありがとうございます。
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