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昭和懐古シリーズ

すれ違いの恋

 香りが記憶を呼び覚ます、と聞いたことがある。例えば香水、例えば食べ物。それほどに香りとは、人間にとって刺激的なものなのだろう。

 特に予定の無かった日曜日、街をぶらぶら歩き。
 気になった店に片っ端から入って冷やかす。疲れたらその辺の茶店で一休み。流行のカフェよりは、ちょっと寂れた裏通りに隠れるようにやっている純喫茶が良い。大概のマスターは旨い珈琲を淹れてくれるからだ。たまにハズレも引くけれど。
 珈琲とハムサンド、後は好きな小説を用意したら、しばし至福の時を楽しむ。
 今日の店はBGMの選曲が好みだった。名前までは分からないけれど落ち着いたテンポのジャズが、客のひとときを邪魔しない音量で流れている。マスターはセンスがかなり良いみたいだ。
 テーブルに濃いめの珈琲と、軽くトーストした厚切りのパンに、これまた厚いハムがチーズと共に挟まれたサンドウィッチが運ばれてきた。皿にはマッシュポテトも添えられていて、控えめだが心憎いサービスに思わず顔がほころぶ。
 全てのセッティングが整ったところで、鞄から小説を取り出し表紙を開くと楽しい時間が始まった。

 夢の時間は小説の終わりと共に目覚めを迎える。マスターに旨い珈琲の礼を言って店を出る。白髪の、渋い大人の男は多くを語らず、微笑みと会釈で見送ってくれた。
 外に出ると日が傾きかけていて、かなり長いこと居座ってしまったと申し訳ない気持ちになる。さて、夕食の買い物をして帰ろう。

 それから仕事が忙しくなり、何ヶ月も家と会社の往復をするだけの日々が続いた。
 ある日、人もまばらな遅い時間の電車に乗り、疲れ切って座席に身を投げると、どこからかあの日の珈琲の香りが立ち上った。ぼんやりしていた頭がたちどころに覚醒する。
 辺りを見回しても、珈琲を飲んでいる乗客は見当たらない。この電車はローカルの三両編成だから、隣の車両からかと思い移動してみたがこちらにも見つけられなかった。
 かぐわしい珈琲の香りがいつまでも鼻孔に残り、帰ってもあの喫茶店のことばかり考えて眠れない。幸い、明日は仕事が休みなので久方ぶりに行くことに決めた。

 次の日、喫茶店のある街に降り立った。この前は何となしに来たのであまり周りを覚えていなかったのだが、よく見ると街自体が昭和の面影を残した、懐かしい匂いのする佇まいであることが分かる。やはりこういう所にお洒落なカフェは似合わない。
 足早に目的の喫茶店へと急ぐ。繁華な商店街、ちょっと脇道に入った薄暗い通りに出てどん詰まりの、一層暗い場所にそこはひっそりと店を構えていた。
 わくわくしながら扉の前に立つ。重厚な木の扉の、年季の入った真鍮の引き手を引く。が、びくともしない。何度も引いてみたが、鍵がかかっているようで一向に開く気配はない。
 どうやらこの店は不定休のようだ。待ちわびた再会をすっぽかされ、その日は一日どんよりとした気持ちで過ごす羽目になった。

 それからも、暇さえあればあの喫茶店に足を運んだが一度も扉を開けることができなかった。
 あまりの恋しさに、マスターの淹れた珈琲以外の飲み物が全て不味く感じるような錯覚さえ起こし始め、気が狂いそうだ。
 仕事にも身が入らなくなり、ミスを連発する。上司に叱られている最中も上の空になってしまう。まるで、生まれて初めての恋をした乙女のよう。本格的におかしくなる前に何としてもあの珈琲に再会しなければ。

 その日、もう何度歩いたか分からない商店街の裏通りに入ると、そこには見慣れない光景が。
 ヘルメットを被り作業着を着た体格の良い男たちが、あの喫茶店の周りに金属の棒やら板やらで囲いをしているではないか。これはいったい何なのだ。
 と、店から少し離れた路上にマスターが立っていた。その顔は、寂しそうだった。じっと店を見つめている。
 声を掛けていいものか逡巡していると、マスターがこちらに気づき向こうから話し掛けてきてくれた。たった一度の客を覚えていてくれたことが、無性に嬉しかった。

 マスターは言った。この店は、取り壊すのだと。
 この街にも再開発の波は容赦なく押し寄せ、商店街は無くなり代わりに巨大な複合施設に生まれ変わるのだと。加えて、マスター自身が高齢になり病を得たことで引退を決意したという。
 あの日偶然店に入ってきた自分が、実は最後の客だったので顔を良く覚えていた。旨そうに自分の淹れた珈琲を飲む顔が忘れられなかったと言った。

 ありがとう。
 静かに、しかし真心のこもった声で、マスターは別れの挨拶をこれまでの全ての客と、そして愛する店に言い残し、舞台から去っていった。

 もう二度と、恋い焦がれたマスターの珈琲を飲むことは叶わない。
 あの日の珈琲は、失恋にも似た苦い後味と、かぐわしい香りだけを心に刻み込んで手の届かない彼方へと行ってしまった。

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