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ノブ、それって空耳 作者:奈備 光
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6 序曲

 伊知馨の亡骸は、会社兼自宅のマンションの植え込みの中で発見された。スーツ姿で、小ぶりのキャリーケースとハンドバッグが傍らに転がっていた。
 緑色のピクニックシートで隠されていたらしいが、台風のおかげで完全にめくれ上がってしまっていた。伊知の体はじっとりと濡れ、腐敗が進み始めていた。
 死体には後ろから首を絞められた跡があった。

 機械式駐車場の奥、誰も見向きもしないような常緑樹の植え込み。
 近所の小学生が近道と称してたまたま通り抜けるということがなければ、発見はさらに遅れただろう。

 発見は九月八日の午後三時。
 一見して、死後数日ほど経過していた。
 解剖結果によれば、犯行時刻は早くて九月一日の夜、遅い場合でも四日深夜までの間。
 連日降り続いた強い雨のせいで、犯行時刻はそれ以上絞りきれていない。

 ただ、転がっていたバッグには伊丹空港近くの時間貸し駐車場の領収書が残されていた。印字された出庫時刻は、四日の夜八時四十七分。
 また、伊知自身の携帯から三日の夜十時四十三分に会社宛のメールが送信されており、飛行機に乗り遅れたので明日の夜の便で帰る旨が記されてあった。
 マンションの玄関ロビーに設置された防犯カメラには、九月二日の午前七時半に伊知が出て行く姿が残されていたが、それ以降の姿は映っていない。
 そして死体発見時には、伊知の車はマンションの機械式駐車場の所定のパレットに停まっていた。

 これらのことによって、四日の二十時二十五分着のJALで札幌から伊丹へ帰阪し、空港近くの時間貸し駐車場に停めておいた自家用車でマンションまで帰ってきた。その直後、建物に入る前に襲われたのであろうと考えられた。
 空港からマンションまで、高速道路がすいておれば三十分もかからない。
 したがって想定される犯行時刻は、四日の夜九時過ぎから十時半にかけて。
 もし、直接マンションに帰って来なかったのなら時間の特定はできないが、それでも五日の早朝までの間ということになる。

 携帯電話も運転免許証などを入れたカードケースの類も、バッグの中から見つかっている。
 ただ、財布は見つかっていない。
 物取りの犯行かとも考えられたが、死体に真新しいピクニックシートが掛けられていたことから、計画的な犯行という線も捨て切れなかった。

 当時、天神橋筋は工事中で作業関係者が多くいたはずだが、交通量が多く、不審車両を見かけたという記憶を持っている作業員はいなかった。

 遡ること概ね一週間、九月一日。
 午後七時から芳川の主催するブログインタビュー二十回記念パーティが開かれた。
 会場は大阪市西区に建つ二十三階建てのオフィスビル「セイントプラザ土佐掘」のペントハウス。
 二十一階に芳川の税理士事務所が入り、その上、二十二階と二十三階を芳川がゲストハウスとして借りている。

 ビルオーナーが元々自分で住むために作った最上階のメゾネット型住戸。
 まるで空中の一戸建て。
 しかも相当なお屋敷の感覚。
 この階にはこの住戸があるのみで、両隣の建物は、はるかに低い。裏は土佐掘川。前の土佐掘通を走る車の音がときおり聞こえてくるだけで、都心にありながら静かな環境だ。

 招待状には、「音に集う会」と、パーティの名称が記されてあった。
 できればカップルで、というので生駒は優を伴って参加していた。

 パーティは立成の司会で幕を開けた。
「今日のご出席者は、芳川事務所の女性社員の方などを含めて、総勢三十二名だとお聞きしています。それだけの人数を余裕で収容できるこのリビングは、いったい何畳ほどもあるのでしょう。芳川先生からは、二、三の鍵の掛かっている部屋以外はどこでくつろいでもらっても構わないとおっしゃっていただいております。ではご挨拶やご紹介は後にして、まずは乾杯とまいりましょう」

 立成に指名されたのは、瀬謡佐知子という中年の女性だった。
「なんだかよくわからない会ですが、仕掛け人のひとりとして、また芳川さんの元に集う仲間のひとりとして、僭越ですが……」
 ベージュ色の大理石で縁取りされ、中央部は脚の長い若草色のカーペットが敷き詰められたゲストハウスのリビング。
 料理が盛り付けられている大きなテーブルを囲んで丸テーブルが適宜据えられ、着飾った男女が乾杯の声を待っている。

「こんな広い家に、芳川さんは奥様とおふたりきりで……」
 立成が苦笑いして「おいおい、乾杯やろ。それにお住まいじゃない」と瀬謡をせかす。
「だってさ、思ったことはとりあえず」
と、シャンペングラスを持った聴衆から苦笑いを取っている。
 優はと見れば、芳川の脇に立っている女性に眼をやっていた。
「では、ご唱和ください。乾杯!」

「先に皆さんをおひとりずつご紹介させていただこうと思っていましたが、少々プログラムを変更します。まずはテラスに出てみましょう。夕焼けがきれいです」
「おおっ」と声があがった。
 まさに大阪湾に沈まんとしている夕日が、空を染めていた。
 残照に輝く須磨の鉢伏山の稜線。
 その向こうには明石海峡大橋。
 風が強いせいか、大気に透明感があった。

 早速、ゲストたちは外に出ていく。
 テラスはウッドデッキ貼り。手すりにもたれると、下を流れる土佐掘川の水面がオレンジ色に輝いていた。

 優が生駒のそばを離れ、ひとりの女性に声をかけている。
 相手は少し驚いた様子を見せたが、すぐに思い出したのだろう。抱きつかんばかりの喜びようだ。

「まだあんまり遠くまで行かないでくださいよ。すぐに皆さんのご紹介を始めますから」
 テラスを回りこんでさっそく探検を始めた客に、立成が大声で呼びかけている。
 玄関とエレベーターホールのある東端部も含めて、この住まいはテラスに囲まれている。

 特に南側のメインテラスは圧巻だ。緑が茂った植え込みが見えるし、
「あ、あれプールじゃない?」
と、いつのまにか戻ってきていた優が指差した先、植え込みに囲まれて一段高くなったところには、プールサイドでおなじみのU字型の手すりが見えていた。
「今日は水を張っておきました」
 優が知り合いだという女性は飛び切りの美人だった。
「はあ」
「どなたか、プールでお遊びになるかもしれないので」
 明るいオレンジ色のドレスを着ているが、その鮮やかな色にも負けない華やかな笑顔を見せた。
「こちら瑠奈さん」
「始めまして。生駒といいます。芳川さんのお嬢様ですか?」
「え? いいえ」
 乾杯のとき、主催者側に控えていたし、事務所の社員らしからぬドレス姿なので、てっきり芳川の娘かと思ったのだ。

「ようこそお越しくださいました」
 瑠奈の笑顔たるや、生駒のくだらない疑問など軽く吹き飛ばしてしまう。
「プールがあるんやったら、案内状にそう書いてくれてたら、水着、持ってきたのにぃ」
 優が瑠奈の肩を叩く。
「私のを使えばいいじゃない」
「あ、そうか」
「でも、予報ではもうすぐ雨が降り始めるよ」
 プールは水中照明、水中スピーカー付きだという。
「長さ九メートル、深さも七十センチしかないんだけどね。ちょっと大きめの水風呂ってところかな」
「なにを贅沢言うてんのよ」

「ところでどういう関係なんだい?」
「あ、ごめん。いえ、すみません」
 優があわてて言い直す。
「社長、今宮戎の福娘って、知ってます?」
「もちろん。大阪人なんだから」
「それに受かった仲間なんです」
「へえ、すごいじゃないか」
 浪速区今宮にある恵比寿神社の福娘は、巫女の装束を来て笹を売る。そのオーディションは毎年大変な人気で、競争率は高い。
「生駒さん。その節はお世話になりました」
 瑠奈が改まって頭を下げた。
「は?」

「インタビューの場所、梅田のパパラッチでしたでしょう?」
「そうですが」
「そのイタリア料理店を経営しております。生駒さんのお見えになった日は、ちょうど混み合っておりまして、同席はさせていただけませんでしたが、ちらちらとお顔は拝見しておりました」
「ああ、そうだったんですか。そういや芳川さんは知人がやっている店だとおっしゃってましたね」
「はい。オーナーといっても、お金のことなどは人に任せておりまして、私はウェートレスの真似事みたいなことをしております。常々、従業員から、邪魔になると叱られております」
「いや、そんなことは。あの、お、お料理、とてもおいしかったですよ」
 こういう謙遜を初対面の、しかも飛び切りの美人にされたとき、生駒はうまい受け応えの仕方を知らない。

「あ、ルナ。もう結婚したん?」
「フフ。違うのよ。わ・た・しのお店」
「へえ! すごいやん!」

 立成の号令が掛かって、来客たちはリビングに戻った。出席者の紹介が始まるのだ。
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