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ひさ子

作者: 麻真

 気がついたら彼女が、私の隣にいた。彼女は大学で同じ研究室の同級生、ひさ子。背が高く、スポーツのできる、一見男勝りな明るい人だ。かと思うと、人が気づかないようなところに気がつく女性らしい面もあり、人間関係にもさりげなく気をつかう。さっぱりしていて、言いたいことをポンポン言っているように見えるのだけれど、実は言葉のひとつひとつまでよく考えてしゃべっているので、彼女に悪い感情を持っている人はいない。

 私も彼女に好感を持っていたけれど、人気者でいつも人に囲まれている彼女とは、とりたてて親しいわけではなかった。でもなぜか、私は彼女にとても会いたがっていたような気がする。

 私たちは並んで机についていて、彼女は私の右側にいた。机の上には一冊ずつ、小さなノートが広げてあり、彼女は黙ってそのノートに何か書き込んでいる。私も、その線もない真っ白いページに、いつも自分の日記にするように、思いついた言葉を並べていた。

 それにしても、ここはいったいどこなのだろう。大学の講義室にしては、少し様子が違う。私たちの他にも誰かいるような気がするのだけれど、目には入らない。

「ねえ、それ見せて。」

彼女がこっちを向いて、明るく話しかけてきた。たいしたことが書いてあるわけではないけれど、普通なら人に見せるようなものではない。

「うん、いいよ。」

けれどそのとき私は、開いたままのノートを、あっさり彼女に渡してしまった。彼女は私のノートを半分上の空で、けれど、いかにも読んでいるようなふりをしながらめくっていった。見たくて見せてと言ったのではないように思える。

「あなたのも見せて。」

もしかして、と思ってかけたこの言葉を、彼女は待っていたらしい。

「うん。」

うれしさを隠すような表情を浮かべながら、彼女は閉じている自分のノートをさし出した。受け取って、私もページをめくった。どのページにも、文字がびっしりと並んでいる。けれど、おかしなことに、読もうとしても文章が読みとれない。文字が小さいせいだろうか。あたりが少し薄暗いせいだろうか。

 私はどうしてもそれを読まなければいけないような気がして、目を凝らして必死で文字を追う。だけどやっぱり、文字の羅列が目に入るだけで、何が書いてあるのかわからない。彼女にとても悪い気がしたけれど、私はノートを読むのをあきらめてしまった。

 すると突然、彼女は私の前に一枚のサマーセーターをさし出した。色はベージュ。ゆるい編み目のセーターだ。彼女は編み物がうまいということを、最近誰かに聞いた気がする。

「これ、あなたが編んだの?」

「そう。」

彼女は微笑みながら答えた。

「すごーい!こんなに編み目がそろって、手編みだなんて思えないよ。」

 確かに彼女の編み物の腕はたいしたものだった。けれど、上手だからほめているというより、私はなぜか彼女を明るい気分にさせなければいけないという強迫観念のようなものを感じて、わざとはしゃいだ声で、おおげさにほめていた。そんな私の不自然な態度に気付かない彼女ではないはずだけれど、

「えへへ。」

彼女はうれしそうに笑った。その笑いに、少し無理があるように思えるのは、気のせいだろうか。それに、今日の彼女は、妙に無口だ。

 いったいどこから出してくるのか、彼女は次から次へとセーターを取り出しては私に手渡した。涼しい色のサマーセーターもあれば、真冬に着るような、ザックリしたのもある。どれもひと目ひと目ていねいに編んであり、彼女の器用さや、神経の細やかさがあらわれていた。私は一枚ずつ手の上に広げてみては、彼女の腕前をほめたたえた。

 十枚くらい見せてくれただろうか。もうそれで全部らしく、彼女は元気のない声でしゃべり始めた。

「もう一枚あったんだけど、ユミちゃんが買ってくれたから。」

ユミちゃんというのは、彼女と仲のいい同級生だ。

「買わなきゃいいのに。だって私もうすぐ…」

うつむき加減でしゃべっている彼女の言葉が途切れ、泣き声に変わった瞬間、私は自然に腕を伸ばし、彼女を抱きしめていた。次第に激しくしゃくりあげだした彼女といっしょに、いつの間にか私も泣いていた。

「○○ちゃんが悪いのよ!××ちゃんが悪いのよ!△△ちゃんは悪くないのよ!◇◇ちゃんも悪くないから、何も気にしなくていいのよ!!」

 彼女は、だだっ子のように頭を左右に振り、涙声をかすれさせたり裏返らせたりしながら、私の知らない名前をあげては、責めたりかばったりした。いつも冷静な彼女が、こんなに取り乱したのを今まで見たことがない。どんなふうになぐさめることもできず、私はただ、彼女をしっかりと抱きしめていた。

 しばらく我を失ったように泣きわめき、心の中にたまっていたものをみんな吐き出してしまったのか、私の肩にほほを置いて、彼女は静かに泣き続けた。腕の中の彼女はとても細かった。足に力が入らないみたいで、フラフラしている。それを支えているつもりの私も、抱き合ったままいっしょに、足元からゆらり、ゆらリ揺れていた。


 目頭から、涙が横に伝って落ちる感覚で、私は目を覚ました。うたた寝をしていたらしい。夢から覚めてもまだ、彼女と抱き合っていた感触がそのまま身体に残っている。私は目を覚ましたままの格好で、声もたてずに涙をぬぐい続けた。梅雨の真っただ中にしてはめずらしく、気持ちいいほどよく晴れた昼下がりだ。

 彼女は去年の三月に突然入院し、一年余りの入院生活の末、先月の初めに亡くなった。入院したばかりの頃、一度お見舞いに行ったのだけど、その後は自分の生活の忙しさにまぎれて、ずっと行っていなかった。同じ研究室の人たちは時々顔を出しているようなので、私ももう一度行ってみなければ、と思っていた矢先の訃報。信じられなかった。お葬式には参列させてもらったけれど、雨が降っていたため、棺の窓は開けられることなく、彼女は火葬場に運ばれていった。

 お別れした気がしないまま、ひと月以上が経っていた。彼女に会いたかったような気がしたのは、こんな理由があったからだったのだ。彼女が編み物が得意だったというのは、お葬式のとき、友人代表の言葉で知ったことだった。

 入院中、病状の変化は度々あったと聞いたけど、お見舞いに行った同級生たちから聞く彼女の様子は、それほど沈んだものではなかった。今年のお正月、彼女がくれた年賀状には、「今年の目標は、みんなと遊べる体力作りなのサ!」と、丸くはずんだ文字が並んでいた。入院が長すぎることに同情することはあっても、いつかは元気になって帰ってくるものと、みんなが信じていた。まるで彼女自身、自分がこれほど早く死んでいくなんて思いもせず、()ってしまったかのようだった。

 けれど、お葬式から何日か過ぎ、彼女がガンだったと聞かされたとき、あの敏感な人が自分の病気に気付いてなかったはずがないと思った。

「私はもうすぐガンで死んでいくかわいそうな女の子なんだゾー!!」

彼女が親しい友達に、おどけた調子で口走っていたという話を聞いたのは、ほんの二、三日前のこと。やっぱり彼女は知っていた。いつも周りに気を配る人だったから、みんなを悲しませないように、最後まで自分の気持ちを押し隠し、明るくふるまっていたのだ。

 ひとりで死んでいくことは、どんなに恐かっただろう。まだ二十一才になったばかりで、やりたいこともたくさんあったに違いない。教師になるという夢を持っていたひさ子。彼女なら、生徒の気持ちがわかるいい先生になったはずなのに。

 どうして自分だけが死んでいかなければならないのかと、同じ年頃で、先のある私たちのことを憎みそうになったこともあっただろう。だけど、責める相手などあるはずがないことを、彼女はもちろん知っていた。夢の中でしたように、誰かに感情をぶつけてしまえば、少しは楽になれたかもしれない。けれど、彼女のことだから、いつもそばにいてくれる家族の前でさえ、きっと泣きわめいたりはしなかったはず。ひとりきりで恐怖と戦い、あきらめるということを自分に言いきかせながら去っていった彼女は、本当に優しくて強い人だったのだと思う。

 私の夢の中で、日記を見せようとしたり、泣き叫んだりしたのは、「本当は悲しかったんだよ、怖かったんだよ」と、誰かに伝えたかったからなのだろうか。去ってしまった今だから、やっと自分に許してやった、彼女の一度だけのわがままだったのかもしれない。「買わなきゃいいのに。だって私もうすぐ…」という言葉は、死んだ人間が触れたものは、あまり気持ちのいいものではなかろうという、デリケートな彼女の心遣いかと感じた。

 どうしてそれほど親しくもなかった私のところに、彼女は会いにきてくれたのだろう。会いにきてくれたなんてうぬぼれで、私が彼女に会いたいと思っていたために見た、単なる夢だったのかもしれない。どちらにしても、こんなによく晴れた昼間の夢に登場するところが、やっぱり彼女らしいなと思った。

大学時代、私が仕上げていた数少ない作品の一つを、手直しして投稿します。彼女に「せっかく生きてるんだから、できることはちゃんとやりなさい!」って叱られないように、残りの人生は精一杯生きようと思います。

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― 新着の感想 ―
[一言]  あまり親しくなかった彼女にどうして私は会いたかったのか・・・  どうしてそんな私の所へ彼女がやってきたのか・・・ その辺りがあやふやなまま終わってしまいましたね。  この小説は、そんな“私…
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