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  初恋 作者:後藤詩門
第二章
 八神翔太と明菜は例の地下室にいた。

「うわぁ、やっぱり気味の悪い所だねぇ、お兄ちゃん」

「まぁなぁ……でも少し雰囲気変わったような気もする。模様替えでもしたかな?」

 何故こんな所にいるのか? もちろん翔太が頼んだのだ。
 妹に初恋の昔話をしているうちに、どうしてもあのフォルマリン漬けの瓶が並ぶ思い出の部屋へ行きたくなった。
 そして今、彼は明菜に押してきてもらった車椅子に座り、その懐かしの部屋を見回しているのだ。

 多少……瓶の並びなど変わった所もあるようだが、この部屋はほぼ当時のまま。
 たくさんの瓶にフォルマリンの匂い。やっぱり昔のままだ。薄暗い室内もまた当時と同じ。

「おおっ、懐かしい。思い出すよ、我が少年時代を」

 兄が車椅子の上で体をねじり妹の方を振り返る。満面に笑みをたたえていた。
 こんな時、翔太の頬には女の子みたいなえくぼができる。本当に嬉しそうだ。

 陰気な地下の標本室に付き合わされて、ご機嫌斜めの妹であったが、こんな兄の笑顔を見ると何だかこっちまで楽しくなってくる。
 まるで少年みたいな笑い顔。思わず明菜の口元からも白いものが見えた。

 そういえば一昨年、突然癌で亡くなった母親もこんなえくぼをつくっていたっけ、と明菜は思い出していた。
 少しうらやましいなと思う。残念ながら彼女は父親似。どんなに笑ってもえくぼどころか、痘痕あばたすらできない。
 まぁ、実際に痘痕なんかができたら、それはそれでさぞ困るだろうけど……

「明菜、あそこだよ。彼女がいつも立っていた場所は」

 嬉しそうに翔太が指さすのは部屋の真ん中に据えられた本棚。そこには珍しい奇形の胎児たちがフォルマリン漬けにされて並んでいる。
 彼女にとってはこの地下室の中でも一際気持ち悪い場所だ。なるべく視線を合わせないように努力する明菜。
 だがそんな妹の思いとは裏腹に、兄は思い出の場所に上機嫌だ。

「あの子は、いつもあそこに立っていたんだよ。僕らは会った瞬間から仲が良くてね。時間を忘れて長いことこの部屋で遊んだんだ」

「へぇ、変わってるわよねぇ。こんな気味悪い所で遊べるなんて」

「まぁ、子供の頃はちょっとグロテスクなものに惹かれるものさ」

「だからぁ、それは特殊なんだって。お兄ちゃんもその彼女も絶対変だよ。って……あれ? そう言えばお兄ちゃん、私まだその彼女さんの名前聞いてないや。なんて人?」

「ああ、名前? それがなぁ……」

 妹の質問を聞いて、翔太は口元に皮肉な笑みをたたえていた。そして嫌味たっぷりにこう言う。

「なんと驚くなかれ、彼女はなぁ……お前と同じ名前なんだよ。あきなって言うんだ。漢字は聞いてないから分からないけど、お前と同じ発音のあきな。ちょっとショックだよなぁ」

「ええっ、うそぅ?本当に偶然だねぇ。でも……なんでショックなのよ!」

 ようやく兄の冷やかしに気づいた明菜。一方、翔太は車椅子に座りながらわざとらしく肩をすくめた。

「だってさぁ、彼女とお前じゃあ何て言うか……お淑やかさが全然違うんだもん。彼女のお陰で俺的には、あきなって名前は大和撫子のイメージなんだ。でも、お前はどっちかっていうと……日本武尊やまとたけるの方だろ?」

「なによぅ、その言い方。まるで私がお淑やかじゃないみたいじゃない! 分かりました。じゃあ、大和撫子じゃない私は足の悪い兄をここに置いて、さっさと帰るとしましょうか? 文句ないわよね」

「お、おい、冗談だよ。冗談。こんな薄気味悪い所に置いていくなよ」

「あら、平気だって言ってたじゃない?」

「あれは子供の頃の話だから……勘弁してくれ」

 仲の良い兄と妹がよくする、ぬるい兄弟喧嘩だった。案の定、しばらくするとどちらからともなく笑い声が沸き起こる。
 おかしくて仕方ないといった感じ。
 すぐに仲直りして、これでおしまい……のはずだった。

 だが、その時である。

 この二人の仲に割り込むかのような出来事が起こった。棚の向こうでささっと何かが動いたのだ。
 薄暗い室内である。よくは見えないが確かに何かいる。
 翔太にはそれが人影のように思えた。

 何故か昔からこの部屋には蛍光灯がない。白熱灯がわずかに二つ、淡い光を灯しているだけ。
 薄暗い室内でよく目をこらす翔太。視界の端では、まだ人影は動いていた。

 前にもこんな事があった気もするな、と翔太は感じていた。
 何だろ? このデジャブな感じは……
 奇妙な懐かしさを感じていた翔太だったが、明菜はまだ気づいていない。

「どしたの、お兄ちゃん?」

「しっ、明菜!」

 口に人差し指を立て黙るように合図する翔太。ついでに目配せして部屋の奥に妹の注意を向けさせた。あそこに誰かいるぞ、とその目は語る。

 翔太はすばやく頭を巡らせていた。謎の人影についてである。

(確かに誰かいる。誰だろ? 病院の人ならいいけど。もし、幽霊だったりしたら……どうしよう?)

 さすがの翔太も、大人の今はお化けは怖い。ましてや場所が場所だけに恐怖は倍増する。

「ね、ねぇ……お兄ちゃん、誰かいるの?」

 震える声で尋ねる妹に、兄はうなずく事で肯定した。明菜もやはり怖がっているようだ。ここは兄たる自分がしっかりしなければ。
 翔太は勇気を出して、少し大きな声でこう言った。

「あの、そこにいるのは誰ですか?」

 部屋の最奥、その壁際の棚あたりを凝視する翔太。ゴクリと生唾を呑み込む。
 人影が淡い光に照らされて再び動いた。そして、ゆっくりと彼の前に姿をあらわす。

 はたしてそれは……女性であった。
 フォルマリン漬けの瓶の影から現れた人影は、二十代くらいの若い女性だったのだ。

(違った、幽霊じゃない)

 ほっとする翔太。
 しかし、こんな所にいるこの人はいったい誰なんだろう?

(うーん、病院関係者には見えないよなぁ)

 彼女は涼しげな水色のワンピースを身に着けている。白衣でもナース服でもない。どうみても一般人の格好だ。
 ここ海南総合病院常連の翔太は、上は院長から下は掃除のおばさんまで顔なじみ。この女性は知らない人だ。
 だけど、どこか懐かしい感じもする……

 翔太は突然現れた彼女の様子をそれとなく観察した。
 腰まで伸ばした長い黒髪は艶やかで、淡い光に照らされ幻想的な輝きを放っている。
 そして、微笑みを絶やさないその表情は何ともいえずチャーミングである。
 しかも一番目を引くのは、その両頬にある可愛いえくぼ。
 心の底から美しいと翔太は感じた。そしてまた、懐かしさが胸の内でこみあがる。
 まさに彼が理想とする清楚な美人。この人には何処かで会った。いったい何処で?

「あ、あれぇ、そういえば! ひょっとして……あきなちゃん?」

 翔太が叫んだ。
 確かに面影がある。
 すると……
 あきなと呼ばれた女性がほほを赤く染め、はにかみながら深くうなずいたのだ。
 間違いない。翔太の初恋の人である。小学校の6年生以来の再会であった。

「あはぁ、懐かしいねぇ……元気だった?」

 あきなはやはり嬉しそうにうなずく。
 翔太はもう有頂天である。初恋の人、憧れの彼女にまた出会えた!
 こんなに嬉しいことはない。翔太にとっては人生最高の瞬間。

「あっ、そうだ! 妹を紹介するよ。明菜、こちら俺の幼友達のあきなさん。あの、あきなさん。これ俺の妹の明菜。名前、おんなじなんだよ。偶然でしょ?……って、あれ?」

 車椅子に座りながら初恋の彼女と妹を交互に見比べながら話していた翔太だったが、何かがおかしいと気づく。
 そう、妹の様子が変なのだ。さっきから黙り込んで翔太を見ている。
 何か気味の悪いものでも見ているかのように……

「どうした明菜。黙り込んじゃって?」

 兄の言葉に急に我に返る妹。その瞳には怯えの色が浮かんでいた。

「お兄ちゃん……いったい誰と話してるの?」

 想像もしないセリフが明菜の口から飛び出してくる。一瞬、ぎくりとする兄。

「だ、誰って……あきなさんだよ。ははっ、おかしなこと言うなぁ」

「あきなさん……てどこにいるの?」

 妹の明菜はただの一度も翔太の初恋の人を見ようとはしなかった。
 ただ、虚ろな目で辺りを見回すと、再び兄に視線を合わせてこう言う。

「あきなさんなんて……どこにもいないよ、お兄ちゃん!」

「ええっ?」

 驚きであった。あきなは確かに翔太の目の前にいる。
 この圧倒的な現実感は幻などでは決してない。なのに明菜には見えていないという。
 もしかして、からかっているのか?

 翔太が不審の眼差しを妹に向ける。
 だが、その兄の疑いの目を明菜は別の意味に捉えた。

(どうしよう、お兄ちゃんがおかしくなっちゃった!)

 無理もない。彼女には翔太が見えていると主張するものが、何一つ見えてこないのだから。さっきから兄が話しかけているその先には、大きな瓶が一つ鎮座する新しい本棚しかない。
 そして、その大きな瓶の中身はというと……頭のない胎児のフォルマリン漬けなのだ!
 なんともグロテスクな光景である。
 その頭のない胎児に向かって兄は親しげに話しかけていたのだ。明菜でなくとも気味悪く思うだろう。

 明菜は急に怖くなってきた。ここから急いで逃げないといけない。彼女の第六感がそう告げる。
 心臓が早鐘のように鳴り響き、汗が滝のように吹き出す。急がないと

「お兄ちゃん、は、早く出ようよ!」

「あ、ああ……だけどせっかくあきなさんに会えたのに」

 戸惑う翔太を叱りつけるように明菜が叫ぶ。

「あきなさんなんかどこにもいないよ! とにかく出るからね、お兄ちゃん!」

 妹はぐっと力を入れて兄の車椅子を180度回転させた。
 そして、出口に向かって猛ダッシュする。
 急がないと……その一心で。

 一方、兄は豹変した妹にただただ驚いている。いったい何があったんだ?
 だが、とにかくここは彼女に従う他ない。
 翔太は車椅子の上で何とか後ろを振り返ると、あきなに別れの挨拶を送ろうとする。
 しかし、それはできなかった。
 いや、別れどころか何と初恋の人あきなが猛烈な勢いで二人のあとを追いかけていたのだ。
 その表情は今までの彼女とは大きく異なり、おそろしく歪んでいる。初めてみるような顔だった。まさに……鬼の形相。
 その姿に翔太は初めて恐怖を感じた。

「あきなさん、また来るから。また来るから追いかけないで。頼む、頼むよ、あきなさん!」

 必死の翔太の懇願。だが、あきなは聞く耳を持たない。
 髪を振り乱し、一心不乱に駆け寄ってくる。
 そして、翔太と明菜が部屋を出る前にあっさり二人に追いついた。

 それから、翔太の初恋の人あきなが車椅子を押す明菜の肩に手をかけた。ひやりとした感触が伝わってくる。その時だ!

「きゃあーーーーーー」

 この世のものとは思えないような叫び声が部屋中に轟いた。それは妹、明菜の声。
 車椅子の上で振り向く翔太。彼の目に飛び込んできたのは……硬直した顔で崩れ落ちていく妹の姿だった。
 いつの間にか、あきなの姿は霧散して消えている。

 ドサリと鈍い音が響き、軽い衝撃がコンクリートの冷たい床から翔太の車椅子に伝わってきた。
 明菜は気絶してしまったのだ。

「明菜、どうした、しっかりしろ! しっかりするんだ明菜!」

 翔太の虚しい叫び声だけが、海南総合病院の地下の部屋に響く。
 だが、どんなに呼びかけても明菜はおきようとはしなかった。
 こんこんと、ただ眠り続けている。

 外ではあれほど激しかった夕立がピタリとやみ、静寂があたりを包む。陽はすっかり傾き、夜空には星が瞬き始めている。
 そんな中、ただひぐらしだけが消えそうな声で鳴いていた。
 聞く人の耳にその声は……まるで悲しみにくれる女性のすすり泣きのように聞こえたという。




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