春に眠る
これは企画小説「春小説」に参加している作品です。「春小説」で検索すると他の作家さんの作品を読むことが出来ます。
煙草もセックスも十五の時に済ませた。
何となく経験して置かないといけないような気がしたから。
煙草は学校帰りに自販機で買って、人気のない公園で火を点けた。
美味しいとも不味いとも思わなかった。セックスだって同じようなものだった。
少し舞い上がって一気に冷めた。少女で居たかった気持ちを少し引きずりながらも、どうせ少女のままじゃいられないのをわかっていたから。
だから私は、自分で捨てた。
【春に眠る】
「花火がしたい」
志穂と私が、いわゆる友達以上の関係になったのは、志穂の発したこの言葉がキッカケになったんだと思う。
志穂は掴み所のない少女だった。黒目がちな瞳と、少し厚い唇に細い顎、真っ直ぐな漆黒の黒髪が印象的ではあったけれど、表情は豊かでもなければ乏しいわけでもない、際立って目立つタイプではなかった。ただでさえ地味な高校の制服を、あくまで標準的に着こなしている少女を、思春期特有の(個性という名の自己主張こそが人間の価値を決める)という強迫観念に支配されていた私は、単なる地味な生徒の一人として、どこか侮蔑にも似た感情を持って見ていたと思う。
そんな私が彼女と初めて言葉を交わしたのは、蝉の喚き声と蒸し暑い七月の終わりの空気が密閉されたかのような教室だった。その日は、期末試験の追試日で、その会場となる教室では、試験前特有の焦りと高揚の入り混じったざわめきを十数人の落第者が作り上げていた。あぁやばい、とか、全然勉強してない、とか、お互いを慰めあうかのような声の中、志穂は静かに席についていた。私は必然的に志穂に話しかける事になった。何故なら、私のクラスからの追試者は、私と志穂の二人だけだったから。
「水島さん、追試だったんだ」
志穂の苗字は水島という。私の問いかけに、志穂は笑顔で答えた。
「うん。数学って全然ダメなんだよね。点数一桁だった」
「え?嘘、私も」
私は、志穂は勉強が出来るものだと思い込んでいたから、自分同じような点数をとっていた事に驚いた。そして、いわゆる名門進学校で、落ち零れていた私は、妙に志穂を親しいもののように感じた。といっても、志穂はこの学校で決して落ち零れていたわけではない。現国や世界史といった文型科目は、ほとんど満点に近かった。だから余計に、彼女に親近感を持ったのかもしれない。全てを器用にこなせない、どこか欠けたものがある人間として。
それから、志穂とはよく会話を交わすようになった。休み時間に談笑したり、駅まで一緒に帰ったりするくらいだったけれど。知れば知るほど、志穂という存在に惹かれた。
何を考えているのかわからない、不思議な少女だった。村上春樹を読んでいると思ったら、次の日には悪魔の辞典なんて本を読んでいたり、いきなり「これ、どう思う?」なんて言って、やけにグロテスクな深海魚の写真を見せてきたりした。夏季の課外授業が終わる八月には、クラスの全員から、「変わり者」のレッテルを貼られていた。志穂は、そのレッテルをどこか寂しそうな笑顔で受け流すだけだった。
まだ焼け付く陽も、蝉の声も、不快な湿度も健在する八月の終わり、二人だけになった教室で、志穂は唐突に言った。花火がしたい、と。私は志穂の古文のノートと格闘している最中だった。古文で満点をとった事のある彼女のノートを写せば完璧だろうと思ったのが運の尽き、渡されたノートは解読不可能なくらい雑な字で、訳文が乱雑に走り書きされているだけだった。私は半ば諦めて、志穂の誘いに乗った。
校舎を抜けて、コンビニで花火を調達した私達は、じりじりと西日に皮膚を焼かれながら、ぼやけて見える生温い道を歩き続けた。出来れば、学校の人間に見つからない、でもそんなに遠くない距離で、花火が出来る場所を見つけたかった。じわりと汗が滲む。八月の西日は、眩しくて熱い。夏服の白いブラウスにも、汗が滲んで透ける。ゆらめく視界に映る陽は一生沈まないんじゃないかというくらいに私達の体力を蝕む。
「もう、ここでいいんじゃない?」
志穂は、石段の前で立ち止まってそう言った。華奢な指のさす先には、廃れた神社があった。気の遠くなるような石段を上りながら、神社って花火してもよかったんだっけ?と思ったけれど、他に場所を探す気力もなかった。
神社は鬱蒼とした緑の木々に囲まれて影を落としていた。その影に隠れるように、薄汚れたベンチに座って、陽の落ちるのを待った。揺れる緑の先にある太陽は、濃いオレンジのまま、中々沈まない。
「暗くならないね」
「うん。今何時?」
「六時半」
「じゃあ、あと一時間くらいは明るいかもね」
志穂はじっと空を仰いだ。湿度の高い風が静かに目にかかる黒髪を揺らしている。澄んだ色の瞳が夕陽に映える。次第にお互い無言になってしまって、蝉の声だけがうるさく響く。学校という場所を出てしまうと、私たちには、何の共通の話題もないのだ。いまさらながら、そんな事に気付いた。
「火、点けてみよっか?」
空をただ見上げるのにも、飽きてしまって私はそう言った。
「そうだね。明るいうちにやってみるのも、面白いかも。」
志穂も笑って、ライターで花火に火を点けた。
灰色の煙と火薬の匂いをふりまいて、白い火花が散る。志穂の持つ花火から、火を貰って、二つの花が咲く。立ち上る煙が、風に揺れて何度もその花を包む。綺麗、とは言えない。どちらかといえば、煙の量がすごくて、私はそれに気をとられた。
「すごい煙」
「全然綺麗じゃないね」
勢いをなくした火の雫がちらちらと舞う中、私たちは苦笑した。
闇の中じゃなきゃ、この花たちは輝けないのだ。火の消えた夕暮れの中、私たちはベンチに座り直した。くすんだ空気の中に、独特な火薬のにおいだけが残っている。志穂はごく自然な動作で、ポケットから煙草を取り出して火を付けた。メンソールの匂いが、静かに漂う。
「志穂って、煙草吸うんだ」
それは、意外だった。今時、煙草を吸う高校生なんて珍しくもないけれど、なんとなく志穂はそういうタイプではないと思っていた。でも、その煙草を吸う姿は、彼女にとても馴染んでいて。
「吸う?」
差し出された煙草を、少しためらいながら受け取る。煙草は十五の時に吸ったっきりで、それから一度も口にしていなかった。煙草を吸う事自体に抵抗はないけど、志穂のように綺麗に煙草を嗜む自信がなくて、それを志穂に知られるのは恥ずかしい気がしたのだ。
白く細く、煙がゆっくりと立ちのぼる。
目の前の少女は、その煙を見つめ、何を思っているのだろう。
もどかしいような気持ちが、自分の中に広がる。そんな私の気を知ってか知らずか、志穂は私の手に触れた。自分よりも少し低い体温を感じながら、何か必死に言葉を探す。その間に、私の手から煙草は奪われて、白い土の上にそれは音もなく落ちた。
やっぱり、私は流される人間なんだろう。自分よりも強い意志には、為す術もなく従ってしまう。でもそれは、楽な事。自分の意識を放棄して、ただ何かに流されるうちに、それが自分の望みなんだと錯覚する。その錯覚にただ身を任せる事は、その刹那に、そういう自分が存在する事を認識できる。
私は流されるままに、彼女の指を、身体を受け入れた。唇が合わさった時、女の唇が、男のそれに比べて、ずっと柔らかい事を知った。私は初めて覚えた男の味と彼女をやっぱり比較してしまう。私にとっては、彼女の方が心地好かったからだ。首筋から流れ落ちてくる黒髪の手触り、匂い。私の脳裏には、いつか読んだ詩の一節が浮かんでいた。
〈さうしてこの人気のない野原の中で、わたしたちは蛇のやうなあそびをしよう、〉
その時は、自分の中で、いままで何もわかっていなかった志穂の事が、解ったような気がして、どこか誇らしかったのだ。
短い夏休みはあっという間に終わった。課外授業のない束の間の休み、志穂と連絡を取り合う事はなかった。一人になると、熱に冒されたように私は不安になった。自分がどこにも存在しないかのような気分に似た不安。私の頭から、志穂の残像が離れなかった。自分は結局、あの時彼女が何を考えていたのか、わからない事に思い至った。単なる好奇心?
気まぐれ?じゃあ自分はどうだっただろうか?考えるほどに、休みが終わり志穂とまた顔を会わせることすら、怖くなっていた。
「うわ、変な子だとは思ってたけど、そんな趣味があったとはねぇ。あんまり関わらない方がいいんじゃない?道間違えるよ」
気晴らしに相談したつもりが、友達の言葉に更に気が重くなった。その時まで、私は何故か、志穂との行為が一般的に受け入れられないものだというところに、思い至ってなかったのだ。異常だというなら、流された私も異常である。その行為に何の嫌悪も持たなかった。それどころか、志穂の事ばかり考えているんだから。志穂が単なる気紛れで私に触れたなら、私は彼女よりも性質が悪い事に、それに嵌ってしまっているのだ。私は、自分が恐ろしくなった。
重い気分を引き摺ったまま、新学期はやってきた。夏は永遠に終わらないかのような熱気を残したままだ。体育館で行われる始業式は、退屈なまま終わるはずだった。
それを壊したのは、最後の学年主任の挨拶だった。
「夏季課外の間に、神社で無断で花火をやっている生徒がいると報告があった。近くに住んでいる方の話では、うちの高校の制服で、煙草も吸っていたそうだ。」
周りの生徒は、相変わらず退屈そうに立っていた。私は、俯いたまま、とんでもない事をしでかした罪人の気分で必死に時間が経つのを待った。停学、退学、処分、そんな言葉が頭をちらついて、震えそうになる足をこらえるのに、背中を嫌な汗が伝う。自分は、何て気が弱いのだろう、と泣きたくなった。
自分にとっての災難は続いた。私は、あの夏の日にした事すべてが重大な罪のような気さえした。その報いを今受けているのではないかと思うほど。
私と志穂のひみつの遊びは、思った以上に誇張されて広まってしまっていたのだ。
当事者の私自身、その秘密を抱えこめなかったわけだから、それを広めたであろう友達が、それを胸のうちにしまうのは到底無理な話だったのだろう。私は何も言えなかった。
煙草や花火の事が、私たちの事だとばれなかったのは不幸中の幸いだったけれど、それでも学校生活は苦痛に近くなった。
広まった噂は、残酷だった。平凡な私は大して問題視されなかった。すべては志穂へと向かった。あの成績が優秀な生徒は、やっぱり頭がおかしかった、変だとは思っていたけど、同性が好きなんだ、真面目な人間ばかりの退屈な進学校では、唯一の楽しみを見つけたかのように、毎日、志穂を見にきては、変な詮索をして帰っていった。
私は、輪の外に追いやられていて、たまに誰かが、志穂がどういう人間なのかを聞きにくる程度だった。志穂は志穂で、冷めた目でそれをかわし、ほとんど何もしゃべらなくなっていた。私は妙な罪悪感だけに囚われて、でも何も出来なかった。志穂をこういう状況に追いやっておいて、自分だけはのうのうと生活をしている。それに、たまらない罪悪感を感じながらも、どこかで、巻き込まれなくてほっとしている醜い感情に気付いていたのに。
そんな慌しい日が一月過ぎた頃、志穂が休み時間に私のもとへ来た。あの夏の日以来、志穂と関わるのはそれが始めてだった。
「ねぇ」
志穂が私のブレザーの袖に触れる。教室中の視線がそこに集中しているかのような錯覚。
いや、実際クラスの人間は、好奇の目で、こちらを見ている。私は曖昧な笑みだけを返すので精一杯だった。志穂はそれを一瞥して、すぐに自分の席へと帰ってしまう。華奢な背中を見つめて、とてつもない後悔にさいなまれたけれど、私は結局何も出来ないままだった。
それからすぐの事だった。志穂が中間試験で、数学で満点をとったのは。
クラス内では、志穂が今まで数学で赤点をとっていたのは、私に近づくためだとかいう邪推で沸いた。それは、進学校特有の嫉妬のようなものが存在していたと思う。
私に、その噂の真偽はわからないけれど、ただぼんやりと、それは志穂からの別れの意味だろうと思った。
志穂はそれからも、優秀な点数を取り続けた。私は相変わらず散々な点数ばかりだった。
二年に上がると当然のようにクラスは別れ、三年になる頃には、受験一色にクラスは染まり、誰も志穂と私の事など、話題に上げなくなった。だからといって、私と志穂がまた会話を交わす事はなかったけれど。
色のない学生生活はあっけなく幕を下ろす。周りでは、涙を流したり、笑ったり、嘆いたり、忙しそうに浮き立っている。卒業式。いつもよりもどこか気合の入った化粧に髪形の生徒たち。私はその中で、一番そこにふさわしくない表情をしている。
喪失感に似た後悔。
いつまでも少女じゃいられない事はとっくの昔にわかっていたことなのに。
春のなまぬるい風すら、私の心を激しく揺らす。私は、ここで何を得て、何から卒業するのだろう。あの時、私がひみつを漏らしたりしなければ、私と志穂はまだ肩を並べていたのだろうか。もっと彼女を知る事が出来たのだろうか。志穂が私の袖に触れたとき、彼女はどのくらい勇気が、覚悟が必要だったんだろう。私にもそのくらいの勇気と覚悟があれば、今は変わっていたのだろうか。
ひとつひとつ、取り戻しようもない後悔が、頭を巡る。それでも時間は戻らないし、私はもうこの場所にもいられなくなる。胸の中にこみ上げてくるものは沢山あるのに、どこか、空虚な心の中。私は式が終わると同時に逃げるように、校舎を出た。
足が地についていないかのような不安、高鳴る鼓動。昨夜の雨が嘘のような染み一つない高い空。単なる感傷なのだろうか。石段には、雨のせいで散った桜が色あせて張り付いている。黒いローファーで、それを踏みにじりながらゆっくりと上る。寂れたままの神社が、そこにあった。あの頃とは全く違って見えるのは、覆う木の緑が、白い桜になっているからだろうか。
「志穂」
何年か振りに、声に出すその言葉。
時の止まったような世界に、彼女は立っていた。
志穂は少し驚いたようにこちらを見た。すぐに目をそらしてしまったけれど。
そして、そのまま何を思ったのか、地に伏せてしまう。白い土肌に頬を寄せて、動かない。
あの頃より少し伸びた髪が、土の上に広がっている。
「服、汚れるよ」
私がそう言って近づくと、彼女は始めて笑った。
「いいの、この服を着るのは最後だから。」
そういって、私を手招きした。
私も地面に腰を下ろす。膝に触れる土は、春の陽を浴びてあたたかい。
「私、土になりたい。」
志穂は、手のひらで地を撫でながら言う。
「はじめは、普通でいたかった。だけど、みんな、私の事を変って言うの。どこか違うって。オカシイって。目立たないようにしても、駄目なの。高校では、ちゃんとしよう、って思ったけど駄目だった」
志穂は寂しそうに笑う。うっすらと瞳に涙が浮かぶ。
「何が変なのか、わからなかった。誰も自分の事なんてわからないって。皆、言うの。でも、私はそれがたまらなかった。皆が理解できない人間でも、傷付いたりするのに。寂しいって思ったりするのに」
志穂は、私の手を握った。頬を伝う滴が、陽を浴びて白く光る。私は、その手を握り返しながら、心がひどく疼くのを感じた。
私もどこかで、思っていたはずだ。彼女が、他の人とは何か違う類の者だと。
私は、許しを請うように、彼女の隣に横になった。土は柔らかな温もりとともに、私たちを支える。まだ高い陽射しが、ゆらゆらと桜を反射する。
「土になりたい」
手を繋いだまま、眩むような陽を浴びて、私達は目を閉じた。
了