表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

【牢獄のセプテット外伝】英国娘と消えた茶筒

作者: 伊吹契

作中に於きまして、アーサー・コナン・ドイル著「まだらの紐」の真相に多少触れています。未読の方はご注意下さい。


 鼻先を撫でた潮風が、錆色の海へと抜けていく。

 蛇のように羽毛のように、中空に乱れる頭髪を左手で軽く抑え、朝露に濡れたレンガ道へと足を踏み出した。ひちゃりとした感触が靴底を捉え、何故か背筋を駆け上った寒気に思わず身震いする。

「寒いし……」

 誰にともなく呟き、それから小さく息を吐く。白み掛かった呼気が眼界を埋め尽くす港の風景へと溶けて消え、何処か物寂しい余韻を残した。

 一九〇九年、三月の六日。英国はバロウィンハーネスの港町にて船に乗り込み日本へとやって来てから凡そ三ヶ月。同じような曇り空の下、同じような船を使い、同じような鮨詰めの客室に収まって、今日わたしは再び海を往く。目的地はやっぱり同じ町バロウィンハーネス。三ヶ月前に辿った海路を逆さになぞって進み往く、記憶に近しい四〇日。違うことと言えば一つだけ。今度の旅路には、相棒が存在する。

「アリサ、もう少し早く歩いてくれ。時間がない」

 前を歩く彼が、苛立ちを含んだ台詞とともにわたしを見る。お洒落なスーツにお洒落なコート。右手には大きなスーツケースがぶら下がる。鶴見の平屋で暮らしていたときには気がつかなかったけれど、こうして距離を隔てて見つめてみると、なかなかどうして悪くない。思わず零れた笑みを隠すように、大きな声で返事をする。わたしの相棒として英国の地を踏ませるのだから、格好良いに越したことはないはずだ。

「家出るのが遅いんだよ。朝ごはんも食べられなかったし」

 言えば、再び前方へと踏み出されようとしていた彼の長い足がその動きを止める。苛立ちは何やら別の感情へと変わってしまったみたいで、返された言葉は吐息に塗れていた。

「君が寝坊したせいだろう。朝飯だって、俺はきちんと食べたぞ」

 黒いコートの裾を海風に棚引かせ、彼は歩調を速める。肩から提げた革鞄をはたはたと揺れ動かしながら、わたしは慌てて後を追った。

 フランス共和国内バスティーユ王国。高い壁に覆われた閉鎖都市への潜入の命を受けたのは、今から凡そ四ヶ月前。一九〇八年一一月のことだった。分厚い紙の束をわたしへと手渡した軍服のおじさんは終始険しい表情を浮かべていて、随分と落ち着かなかったことを覚えている。陸軍省の良く分からない施設の良く分からない一室で、硬い椅子に腰掛け硬いテーブルに両肘を突いたわたしは、やっぱり良く分からない説明に四時間もの間耳を傾けさせられた。お菓子も出なかったし飲み物も出なかった。酷く酷く、それは辛い時間だった。

 だけど良いこともあった。それは多額の調査費が支給されたことだった。わたしがお茶目な勘違いをしてしまったせいで都市への潜入を凡そ四〇日後に控えた本日現在、調査費は既に底をついてしまっているけれど、お陰で日本での生活を満喫することができた。探偵業を生業とする少し歳の離れた相棒とも仲を深めることができたし、お菓子だって沢山食べられた。潜入任務を無事終えた暁には、報奨金も支払われるらしい。その大半は相棒への借金返済に消えることになっているけれど、頑張って値切ろうと思う。

「君は三等客室だ。四人部屋だそうだから、まあ仲良くやってくれ」

 気がつけば、彼が目の前に立っていた。指先で摘んだ紙切れを、わたしに向かって差し出している。チケットの半券だろうか。彼を挟んだ向こうには、巨大な貨客船の甲板へと向かって続く階段が見て取れる。

「玲人郎は? 一緒の部屋?」

 尋ねれば、ゆるゆると首を横に振られた。端整なその顔からは、何の感情も読み取れない。

「俺は二等客室。一人部屋だ。一応言っておくが、代わってやるつもりはない」

 口調は穏やか。だけど言っていることは冷たい。もう手遅れな気はするけれど、一応粘ってみることにする。

「嘘でしょっ? 一六の女の子をおじさんだらけの四人部屋に放り込んで、自分は一人部屋なのっ?」

 事情は一応理解している。愛すべきわたしの相棒碓氷玲人郎の旅券は、日本国政府から支給されたもの。本来母国であるイギリスから直接フランスへと向かうはずだったわたしには、日本からイギリスへの旅券なんて当然支給されていない。わたしがこれから四〇日間を過ごす三等客室は、彼が身銭を切って押さえてくれたものだ。文句を言える立場ではない。だけどやっぱり文句は言いたい。

「おじさんだらけかどうかは知らん。だが二等客室は押さえられなかった。諦めてくれ」

 こともなげにそう言われ、こめかみがひきりと音を立てて軋む。止むを得ない。止むを得ないのは分かっているけれど、それにしたって優しくない。わたしに背を向け階段を上り始めた彼に向かい、思い切り頬を膨らませる。

「早くしろ。もう出るぞ」

 声と共に周囲がざわめき出し、貨客船が小さく揺れる。

 鹿撃帽を右手で押さえ、急いで階段を駆け上った。



「わたしさ、船乗るの三ヶ月ぶりなんだよね」

 甲板の淵から海を見下ろし、背後に立つ彼にそう声を掛ける。潮風が頬を撫で、自慢のロングヘアをひらひらと中空に導いていく。ありがたいことに船酔いとは無縁な体質。どこまでも広がる海原を眺め、四〇日後に始まるスリリングな日々に想いを馳せる。それは確かな、癒しの時間だった。

 宛がわれた三等客室は、予想に違わずおじさんの巣窟だった。イギリスの血が入ったわたしの容姿は同室の彼らにとってそれなりに珍しいものであったみたいで、入室と同時に、身体がむず痒くなるような好奇の視線に晒された。居心地の悪さに耐えかね、二等客室で本を読んでいた相棒を連れ出し甲板へ。いつの間にか胸の中に宿っていた欝とした感情は、爽やかな風が吹き飛ばしてくれたみたいだった。

「わたしさ、思うんだよ」

 海面に視線を落としたまま、わたしは言葉を継ぐ。いろいろ考えた末、やっぱり言うべきことは言っておこうとそう思ったためだった。

「これから四〇日近くも、乗客は皆船の中で過ごすわけでしょ?」

 娯楽は少ない。貨客船だから、どうしたって狭苦しい思いを強いられる。

「面白いことなんて何にもない。言ってみればさ、禁欲生活だよ禁欲生活」

 三等客室の乗客は特にそうだ。見知らぬ人達との四人部屋。心休まる暇なんかあるはずもない。

「危ないと思うんだ。わたし可愛いし、大人しそうって言うかさ、お淑やかな雰囲気あるじゃん? 何かの拍子にさ、同じ部屋のおじさんがわたしに襲い掛かってきても、何の不思議もないと思うんだ」

 考えれば考えるほど、危機感は募る。勿論、女の子に襲い掛かるなんて、そんなのはいけないことだ。三等客室のおじさんがもしそんなことをしたのなら大問題。甲板から海に放り投げられたって文句は言えない。だけど、ことこの状況に関しては、単純におじさんが悪いと言えるだろうか。

「考えてみてよ玲人郎。可愛いのは良いことだよ。でもさ、何事にも限度ってのはあると思うんだ」

 狭苦しい船室に四〇日間も閉じ込められ、楽しいことなんて何もなく、常に他人の視線に晒されているから、安らげる時間を持つことだって難しい。そしてそんな状況で、目の前手の届く場所に、天使のような女の子がいる。魔が差したって、不思議はない。

「玲人郎。わたしやっぱり可愛過ぎる気が……」

 台詞とともに、瞳をできるだけ潤ませて振り返る。わたしの話に耳を傾けていたはずの相棒の姿がない。それどころかだだっ広い甲板には誰の姿もない。いや違う。良く見ると隅っこのほうに鴎が一羽止まっている。

「やっぱりさ、優しくないよね……」

 風が冷たい。心も冷たい。何だか最近少しずつ、彼のわたしに対する態度が悪くなっている気がする。三ヶ月間毎日ご飯をつくってあげて、毎日部屋を掃除してあげて、毎日お風呂を沸かしてあげたのに、この扱いはいかがなものだろう。

 どすどすと床を踏み鳴らし、甲板を出、廊下を歩き、二等客室へと飛び込む。めらめらと燃え盛っていた怒りの炎が、好奇心の風に吹き消された。

「日本刀? 何でそんなの持ってるのっ? 玲人郎はサムライなのっ?」

 思わず弾んだ声を漏らし、慌てて口を噤む。探偵はベッドの上で巨大なスーツケースを開き、艶めく鞘の日本刀を握りしめていた。

「違う。それから声がでかい」

 言って、探偵は小袋から良く分からない器具を取り出すと、丁寧に丁寧に、刀を分解し始めた。日本刀とはどうやら、分解することのできる武器であるらしかった。珍しい光景に心奪われ、わたしは黙って目を凝らす。

 君は何ができる。

 探偵は言った。

 英国政府は何故君を調査員に選んだ。

 探偵はまたも言った。

 失礼な質問を重ねながら、スーツの探偵は手を動かす。スーツケースの内張りを剥がし刀身をその向こうへと隠す。茶筒の蓋を開け、柄と鍔とをそっとしまい込む。分解するなら家でやってくれば良いのに。そう思わないでもなかったけれど、何だか不機嫌そうだったので口にするのはやめておいた。

 特別な技能は何もない。フランス語だって話せない。だから通訳よろしくね。そう答えたわたしに、やっぱり不機嫌そうな彼。驚愕の表情を浮かべたかと思うと、そのまま黙りこくってしまった。

 フランス語ができないことを話さなかったのはわたしの落ち度。だけどそんなに頭を抱えなくたって良いじゃないか。どうにもこうにも納得いかない。

 わたしがどれだけ役に立つ女の子か、彼にはきちんと、知ってもらう必要があるみたいだった。



「玲人郎っ。大変なことが起きたよっ」

 水平線の向こうへと太陽が姿を消して数刻。夜の帳に包まれた甲板へと飛び出したわたしは、つまらなそうに海面を見つめていたスーツ姿の相棒へと必死に呼び掛ける。

 幾らかの間の後に振り向いた探偵は、やっぱりつまらなそうな表情で、つんと立てた人差し指を自身の唇へと押し当てた。

「静かにしろ。もう眠っている者もいる」

「分かるけどっ。でも大変なんだよ玲人郎っ」

 当たり前だけれど、彼には状況が理解できていないみたいだった。少し迷った後わたしは彼の手を取り、駆けるように甲板を出る。ときどき彼に煩いと注意されながら、それでも真っ直ぐ前を見て、船内に足を進める。目指すは二等客室。碓氷玲人郎のねぐら。事件現場はそこだった。

「俺の部屋か? 何がやりたいんだ君は」

 戸惑ったような声を上げる彼。心なしか手のひらが汗ばんでいるような気がする。わたしに手を握られて緊張しているのかもしれない。だとしたら、なかなか可愛いところもあるじゃないか。

「見れば分かるよ。入って」

 二等客室の戸を開き、大きな背中を両手で押して、中へと彼を押し込む。気怠げに頭を掻きながら、探偵は大きく息を吐き出した。

「何だこれは?」

 狭苦しい部屋の中。やたらと目立つベッドの上。真っ白なシーツに沈み込む巨大なスーツケースの端の端。一枚の紙切れが貼り付けられている。

「茶筒は頂いた。アルセーヌ・ルパン……名前からするとフランス人か。何者だ?」

 不審気に眉を寄せ、彼は呟く。偉大なる大泥棒、アルセーヌ・ルパン。どうやら探偵は、その名を知らないみたいだった。

「知らない? ルパン」

 思わず問い掛ける。探偵はスーツケースから剥がした紙切れを指先で弄びながら、冷めた目でわたしを見た。

「二、三年前にフランスで発表された小説だよ。その主人公。大泥棒なんだよ」

 新しい作品ではある。わたしの住むイギリスでは既に訳書が出ているけれど、日本にはまだ入ってきていないのかもしれない。果たして探偵は、理解したと言うように頷いてみせた。

「発表が二、三年前なら、間違いなく日本には入ってないだろう。まあ何にせよ、つまりは架空の人物という訳か。馬鹿馬鹿しい話だなアリサ」

「何でわたし見るのっ? 誰かがさ、つまりルパンの名を語って茶筒を盗んだんだよっ。犯人見つけなきゃ。あと茶筒探さなきゃっ」

 一向にスーツケースを開こうとしない様子にしびれを切らし、わたしはそっと彼を押しのける。スーツケースをがぱりと開けば、昼間は確かにあったはずの茶筒がない。

「声明文は日本語か。しかし何故茶筒なんだ?」

 茶筒には、分解した彼の愛刀、雉丸の柄が収められている。茶筒がなくなるということは、大切な武器である雉丸が使えなくなるということを意味する。これはとんでもなく大変な事態だ。

「見つけよう玲人郎。わたしも手伝うからさっ」

 勢い込んでそう言えば、返ってきたのはまたもや冷たい視線。君に一体何ができるのかと、そう言われているように感じた。

「わたしに任せて玲人郎。絶対見つけてあげるからっ」

 鹿討帽をそっと押さえ、大きく胸を張った。



「手伝ってくれるのはありがたいがなアリサ。君に見つけられるのか? 特別な技能は何もないと、昼間言っていただろう?」

 扉を閉めた二等客室。狭苦しい室内で向かい合い、わたしと彼とは言葉を交わす。声明文を丸めてくず箱に放り込んだ彼は、小さく息を吐いてベッドの縁へと座り込む。

「わたしさ、こう見えて推理小説とか結構好きなんだよね。イギリスはさ、ほら、推理小説の本場だし」

 答えれば、まあ落ち着けと彼は言い、隣に腰掛けるよう促してくる。勧めに従いベッドに腰を下ろせば、固い感触がお尻を包んだ。

「推理小説の本場か。ルー・モルグの人殺しは、アメリカの作品ではなかったか?」

 ルー・モルグの人殺し。聞いたことのないタイトル。エドガー・アラン・ポーのモルグ街の殺人のことだろう。数十年前にアメリカで発表された、世界初の推理小説。日本ではルー・モルグの人殺しと、そう訳されているみたいだ。

「まあそうだけどさ。でもイギリスにはホームズがいるからね。わたし沢山読んだし」

 名探偵シャーロック・ホームズ。アーサー・コナン・ドイルの手によって生み出された、世界中で大人気の探偵小説シリーズだ。

「ああ、ホームズか。俺も幾つか読んだよ。『禿頭倶楽部』はなかなか面白かった。君は読んだか?」

 また妙な日本語訳。気になるので訂正する。

「『赤毛組合』ね。日本でもホームズ読めるんだね。でも日本語訳変だよ。何で禿げてるの?」

 彼は笑い、赤毛は日本では伝わりにくいとそう答える。

「後は、そうだな。『毒蛇の秘密』。あれも良くできていた。君は?」

 思っていた以上に、彼は推理小説が好きらしい。こんな話をしている場合ではないと言いたいけれど、質問されるとついつい応じてしまう。彼と穏やかに雑談する機会は、考えてみればあまりなかった。ちょっとだけ、嬉しいような気さえする。

「『まだらの紐』ね。その日本語訳はダメでしょ。タイトルで真相分かっちゃうじゃんそれ」

 イギリス人で良かった。日本ではホームズはあまり楽しめなさそうだ。

「他には何があったか。ああそうだ。『神通力』。あれも良かったな。ホームズの優秀性が印象的に描かれていた」

「『緋色の研究』。てか探そうよ茶筒。刀使えないと玲人郎困るでしょ?」

 急かせば、そうだなと、漸く彼は腰を上げる。スーツケースを一瞥し、それから取っ手近くに取り付けられていたダイヤル錠にそっと触れた。この部屋に二人で入ってきた時には、既に解錠されていたものだ。

「ダイヤル錠が解かれている。盗っ人は番号を知っていたのだろうか。どう思うアリサ?」

 尋ねられ、少し戸惑う。何だか意外な思いがする。もしかしてわたしは、頼られているのだろうか。

「分からないけど、泥棒さんはそういうの開けられるんじゃないかな。番号知らなくても」

「なるほどな。番号は俺しか知らない。自宅の書斎の引き出しに番号を記した紙が入っているが、君は見たことはあるか?」

 わたしが三ヶ月間を彼と過ごした鶴見の平屋。書斎には彼が家を空けているときに何度も入った。大抵は、面白そうな本を探すためだった。

「ないよ。引き出し漁ったりなんかしないよわたし」

 答える。彼は笑い、そうかと満足そうに頷いた。

「引き出しには、新聞のスクラップを纏めたものも入れてあった。日本ではホームズの訳書というのはまだ出ていなくてな。新聞に載るんだ、時々な。読み返したくなったときのためにとっておいている」

「そう。玲人郎がそんなに推理小説好きだなんて思わなかったよ」

 わたしの目を真っ直ぐに見つめ、彼は押し黙る。何かを促しているようにも感じられ、何だか怖い。見つめ返し、見つめ返され、室内には沈黙が満ちる。

「怖いっす」

 息とともに漸く言葉を吐き出せば、彼はまた笑い、再びベッドへと腰を下ろす。そうしてゆっくりとした所作でわたしに向かって右手を突き出すと、大きな手のひらをそっと開いてみせた。

「茶筒を出せ、アリサ」

 残念なことに、わたしの負けみたいだった。



「わたしじゃないよっ。ルパンだよルパンっ」

 完全にバレている。完全にバレているけれど、粘れるだけ粘りたい。そう思って、精一杯無実を主張する。彼は穏やかな表情で、だけど真っ直ぐわたしを見つめている。

「わたしじゃないもん……」

 自分の声に、段々勢いがなくなっていくのが分かる。罪悪感がぴしぴしと、音を立てて胸に広がる。

 茶筒を盗んだのは、彼の言うとおりわたしだ。

 盗み隠した茶筒を彼の前で発見してみせ、役に立つんだと示したかった。それからできることなら、褒めても貰いたかった。優しくない彼へのお仕置き。ちょっとした悪戯のつもりだった。だけどもしかしたら、これはやり過ぎだったかもしれない。今更ながら、そんな気がしてくる。

「君じゃないのか? では何故嘘をついた?」

「嘘って?」

「自宅の書斎の引き出しだ。君は中を見たろう? ダイヤル錠の番号は、そこで知ったはずだ」

 やっぱりバレている。何もかも全部バレている。わたしは押し黙り、彼の顔から視線を逸らす。

「茶筒を出せアリサ。その鞄の中だろう? 返すんだ」

 罪悪感と敗北感。ごちゃ混ぜになった不思議な感情が、糸で吊られたかのように力を失った腕を動かす。

 肩から提げた革鞄。口を開いて茶筒を取り出すと、彼にそっと手渡した。ごめんなさいと、やっぱり自然に唇が動く。

「良いさ。大方、隠した茶筒を見つけてみせて、自分の有用性を示しでもしたかったんだろう。あんまり馬鹿なことをするな」

 視線はあくまで柔らかく。口調はあくまで穏やかに。言葉を紡ぐ背の高い彼は、何だか随時と優しかった。

「ねえ、何で分かったの……?」

 尋ねる。彼は受け取った茶筒をスーツケースにしまい込みながら、わたしに視線を向けずに言った。

「何について訊いている? 犯人についてか? それとも茶筒の隠し場所についてか?」

「じゃあ、犯人……」

 小さな声でぼそりと、わたしは答える。スーツケースを閉じた彼は錠前のダイヤルを回しながら、ホームズだよと、そう答えた。

「君の国でどうかは知らないが、日本では海外の小説なんてのは、妙な訳され方をするものなんだ。『赤毛組合』は『禿頭倶楽部』。『まだらの紐』は『毒蛇の秘密』。『緋色の研究』は『神通力』。滅茶苦茶さ」

「うん……」

「君は先刻、俺が口にした邦題を一つ一つ原題に直していったな?」

 そうだ。気になったので都度訂正した。良く分からないけれど、それがいけなかったのだろうか。

「『禿頭倶楽部』は『赤毛組合』。これはまあ良い。ドイルの作品に組合や連合、連盟、倶楽部といった単語のつく作品は他にないからな。倶楽部という単語から『赤毛組合』を導き出すのはそう難しいことじゃない」

「えっと、うん……」

「次に、『毒蛇の秘密』。君は直ぐに『まだらの紐』と訂正したが、まあこれも分かる。まだらの紐は、物語の仕掛けに毒蛇が関わっているからな。内容を知っていれば、結びつけることは容易だ。だが、『神通力』と『緋色の研究』、これはどうだ?」

「あ……」

 言われてみれば確かにそうだ。知っていたからつい、直ぐ様訂正してしまった。

「原題と邦題は似ても似つかない。神通力という言葉も、内容にはさして深く関わらない。恐らくだが原文に、神通力に類する言葉は出て来すらしないんじゃないか?」

 彼の言うとおりだ。『神通力と『緋色の研究。二つのタイトルを繋ぎ合わせる要素は殆どない。探偵は頷き、また少し表情を緩めた。

「つまり、君がこの邦題と原題を即座に結びつけることができるのは、不自然なんだ。『神通力』との邦題で翻訳された、その作品そのものを読んででもいない限りはな」

 わたしは彼の書斎で、新聞のスクラップを見つけた。読み始めて直ぐに、それがドイル作品を翻訳したものだと気がついた。勿論ダイヤル錠の番号も、そのときに目にしたものだ。

「だからわたしが、書斎の机漁ってないってのが嘘だって思ったの? ドイルの作品を、玲人郎の書斎じゃなくて街中でたまたま見かけた可能性は考えなかったの?」

「街中で? 数ヶ月前の、或いは数年前の新聞記事をか?」

「あ、そっか……」

「君は俺がホームズを読むと知ったとき、日本でも読めるんだとそう答えたろう? 実際には書斎で読んで知っていたのに、それを隠した訳だ。知ったのが街中でなら、隠す必要は何処にもない」

 ふしゅりと、唇の端から息が漏れた。肩と膝から力が抜け、思わずベッドに寝転んでしまいたくなる。

 日本で三ヶ月間、彼と過ごした。探偵と聞いていたから期待したけれど、わたしの印象と、実際の探偵の仕事は少し違った。彼は毎日夜には家に帰ってきたし、受ける依頼も、人捜しが大半みたいだった。だからほんの少しだけ、がっかりもしていた。ホームズみたいな、デュパンみたいな、そんな物語の中の探偵と、碓氷玲人郎はどうやったって重ならなかった。

 だけど、それもやっぱり違った。大きな事件なんて起こらなくても、格好良く犯人を名指ししたりなんてしなくても、それでも探偵は、探偵だった。

「最初からさ、もしかして分かってた?」

 彼はドイル作品の話を長々と続けていた。考えてみれば、それは不自然なことだった。

「盗まれたのはただの茶筒。犯行声明は日本語。書かれていた名はアルセーヌ・ルパン。日本語が堪能で、日本にはまだ入ってきていない小説の登場人物を知っていて、尚且つ茶筒の価値を理解している人間。君以外に誰がいる?」

 静かにはっきり、探偵は言った。

「だよね……」

 笑みを返し肩を落とし、わたしは笑う。

「ごめんなさい。玲人郎」

 それからぽそりと、謝罪の言葉を口にした。今度はちゃんと、自分の意志で。



 数分。ほんの数分、沈黙が続いた。彼は何も言わず考え事をしているみたいで、だからわたしも、何も口にすることはできなかった。

 だけどふいに、彼は立ち上がった。スーツケースを持ち上げて、わたしの横を通り抜け、そのまま何処かへ行ってしまおうとする。わたしは慌てて、言葉を継いだ。

「そうだっ。隠し場所はっ? 何で鞄の中だって分かったの?」

 部屋を去ろうとする彼の姿に、胸のうちに宿っていた後悔の念が重みを増す。悪戯が過ぎた。意地悪が過ぎた。彼をすっかり、怒らせてしまった。そう思った。

「三ヶ月も俺の家にいたろう。君がどんな人物かは粗方理解している」

「答えになってないし……」

 二等客室の扉が押し開かれる。彼は一度足を止め、振り返って言った。

「俺を困らせようと、或いは己の有用性を示そうと茶筒を隠した。だからこそ、君はその茶筒の所在には責任を持ちたかった。万が一にも紛失して本当に俺を困らせるような結果にはすまいと考えた。だから鞄に入れて、肌身離さず持ち歩いた。間違っているか?」

 何だか優しい。そう思った。わたしが彼の茶筒を鞄に隠したのは、結局のところただの悪戯に過ぎなかった。深い意味はなかったし、特別な想いも篭もってなんかいなかった。ほんの少し、彼がわたしを見直してくれればそれで良い。褒めてくれたなら大満足。その程度の気持ちで手を染めた行為だった。

 だけど彼には、何か思うところがあったみたいだった。そう感じてしまうほど、彼の口調は優しかった。

「三等客室は四人部屋だったな? 二段ベッドか?」

 唐突に、妙なことを尋ねられた。見れば彼は、何とも感情の読み取れない表情を浮かべている。

「そうだけど。何で?」

「君は、上段か? それとも下段か?」

 また分からない質問。上段だと答えれば、返ってきたのは丁度良いという言葉だった。

「また何か盗まれるのは御免だからな。今日から暫く、君のベッドを借りる。でかい旅行鞄だ。重量もある。二段ベッドの上段に置いておけば、盗みにくいだろう」

 そう言って、彼は部屋を出て行く。去り際に一言、悪いが君は俺の部屋を使ってくれと、そう言い残して。

「滅茶苦茶だよ」

 どうしようもなく、本当にどうしようもなく滅茶苦茶だ。四人部屋の二段ベッド。どう考えたって、一人部屋の方が安全だ。わたしに部屋を譲ってくれようとしているのが丸分かりだった。

 俯き、胸に手を当てて深呼吸。

 泣いたりはしないけれど。そんな大したことじゃないけれど。それでも彼は優しくて。僅かに仄かにちょっとだけ、とくんと胸が高鳴った。

 閉じられた二等客室の戸を暫く見つめ、それからわたしはベッドへと倒れ込む。毛布を手繰り寄せ身体に巻き付け、静かにそっと目を閉じる。

 彼は優しい。本当はちゃんと分かってた。予定を無視して勝手に日本に来たわたしを居候させてくれた。お小遣いだってくれたし、可愛いワンピースも買ってくれた。何だかんだでわたしのことをいつも、見守ってくれている。

 探偵・碓氷玲人郎。大事な大事なわたしの相棒。彼とならきっとやっていける。バスティーユで何が待っていようとも、わたしはちゃんと戦える。

 枕に顔を押し付け、こつこつと廊下に響く足音に耳を澄ませる。一定のリズムで刻まれる誰かの足音は子守歌みたい。段々瞼が重くなり、心地良い浮遊感が身体を包む。

 優しい彼。頼りになる、格好良い彼。

 わたし頑張るから。ちゃんと君を守るから。だからこの先、何が起きても

「おいアリサ」

 扉が乱暴に引き開かれ、甘酸っぱい妄想は唐突に途切れる。顔を上げれば目の前に彼。出て行ったときと同じ格好で、スーツケースを片手にぶら下げている。

「下の親父の鼾が煩くて眠れん。やっぱり交替はなしだ。部屋に戻れ」

 探偵の整った顔を見る。何を考えているのか分からない、だけどちょっぴり冷たい目。わたしの身体から毛布を剥ぎ取らんと、長い手が伸びてくる。

「絶対やだっ」

 叫んで勢い良く毛布を被る。

 前言撤回。やっぱりこいつは優しくない。

 暗い暗い海の向こう。

 遠くで小さく、鴎が鳴いた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ