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ほおずき

作者: いえやす

 梅雨のまだ明け切らぬ7月の初め、ほおずきを一鉢買って帰った。


 あれはわたしが何歳のときだったか。

 7月に入ってすぐ、母がほおずきを買って帰ってきた。

 その場に父がいなかったので、多分あれは金曜日のことなのだろう。

 わたしはてっきり母が一人でほおずき市に行ったのだと思ったのだが、母は貰い物だと言って薄く笑うだけだった。

 母は物静かでおとなしい人だった。

 細面の清楚な顔をうつむきがちに、いつもなにかに耐えているようにしていた。

 たしかに。母は幸薄い人だったのかもしれない。

 二十数年前の当時でもずいぶん珍しいことだったと思うのだが、父には公認の妾がいた。

 だからといって父が非道な人だったというわけではない。

 父はわたしたち母子を決してないがしろにはせず、十分過ぎるほどの責任感を持って大黒柱としての役割を果たしてくれた。子供のわたしにとっては厳格で立派な父であった記憶しかない。

 だが週末の金曜日には父は必ず妾宅に泊まってきた。

 わたしが物心付く前からずっとそうだった。


 母は買ってきたほおずきを庭に植えた。

 薄黄色の花が美しく、わたしも毎朝せっせと水をやったものだった。

 花が散り、実が少しづつ赤く染まろうというころ、父の帰りが遅くなることがあった。

 わたしは単純に仕事が忙しいのであろうと思っていたがそうではなかった。

 ある日、わたしは家の近くの公園で中年の女に声をかけられた。

 白い薄手の着物を着た中年の女。

 母より少し若いだろうか。しかし地味な母とは正反対の派手な女だった。

 厚い化粧も結い上げた髪も子供には慣れないもので、多分わたしは戸惑っていた。

 良く晴れた暑い夏の日で、女のさしていた白い日傘のことをよく覚えている。


 「こんにちは。あたしのこと知ってる? 」


 女はにこやかに話かけてきた。その馴れ馴れしさに胸のつかえる思いがした。

 それまで会ったことはなかったが、父の妾に違いない、そう思った。

 女はわたしを誘い、並んでベンチに腰掛けた。

 

 「おねえさんねえ、あなたのお父さんにとてもよくしてもらっているのよ。わかるかしら? 」


 わたしは黙ってうなづいた。


 「そう……。それにお母さんとも仲良くさせてもらっているのよね」


 それは意外だった。


 「びっくりした? 

 本当はこんな感じであなたと会うつもりは無かったのよ。

 ……けど、この子がね」


 女はそう言って自分の下腹部をなでた。


 「この子が授かってね。それを知らせて置きたかったの。

 お父さんはあなたがもう少し大きくなってからにしたいって言ってたんだけど」


 女の目が弧を描き細まり、わたしに近所の年寄りの猫を連想させた。


 「せっかく授かった赤ちゃんなんだもの。できればみんなに祝福して欲しいわ。

 あなただってうれしいでしょう? 弟ができることが」


 女はにっと笑った。暑さのせいか化粧が少し崩れ口元に大きなしわができていた。

 わたしは女の顔から目をそらし、元気な赤ちゃんが生まれるといい、とかなんとか口にしたと思う。

 本当にそう思っていたわけではなくて、早くその場を去りたかった、それだけのために。

 ありがとうと礼を言って見送ってくれた女とはそれきり二度と会うことは無かった。

 家に帰ると珍しく父が早く帰っていた。

 わたしは妙な衝動にかられ内緒にしておこうと思っていた女の話を父と母の目の前で話した。

 父は一瞬だけ眉をひそめたが、すぐにもとの表情に戻り。


 「なんだ、あいつは勝手に……。

 すまんな。お前に内緒にしていたわけじゃあなかったんだ。

 驚かせてやろうと思ってな。

 どうだ? うれしいだろ。

 お前にも年明けには弟ができるんだぞ」


 父は本当にうれしそうに言った。

 母はと見ると、いつもと変わらず黙ってうつむいている。


 「こんなところまで歩いてこれるなんて、もう安定期にはいったんですね」


 わたしは少し皮肉をこめて母に、あの女とはよく会っているのかとたずねた。


 「ときどきよ。季節ごとにご挨拶に行く程度ですよ」

 

 母はやはり薄く笑っていた。

 父も母もうれしそうにしているなら、いつまでもひねくれているわけにも行かない。

 わたしはなにか釈然としない思いを抱えたままだったが、それでその話は終わりになった。


 その夜。

 蒸し暑く寝苦しい夜だった。

 喉が渇いて水を飲もうと台所に行こうとして縁側で立ち止まった。

 月の明るい晩で、庭の様子が縁側から良く見えた。

 庭に母がいた。

 母は黙って背を向けるようにしゃがみこんでいる。表情はわからない。

 しかしなぜかその背はいつもの母と違い、こんな時間になにをしているのかと声をかけることができなった。

 わたしはぼんやりと母の背中を眺めながら、母のしゃがんでいる場所、あそこはほおずきが植わっている場所ではなかっただろうか、そんなことを考えていた。

 母は背中を向けたままぴくりともせずじっとしていた。

 どれくらいの時間がたったのか、わたしは急に寒気を覚え、母に気づかれないように布団にもどった。

 翌朝の朝食の席で、いつもの母を見てほっとしたことを覚えている。

 昨夜のあれは夢だったのだと、安心した。

 そんなことがあってからしばらくして、多分お盆の頃だった。

 夕方家に戻り、ふと縁側から庭を見てびっくりした。

 母が庭の手入れをし、雑草や落ち葉などを燃やそうとしていた。

 それはいつもの光景だったのだが、雑草の中にほおずきがあった。

 今朝ほどまで庭でひときわ綺麗な赤い実を付けていたはずのほおずきが。

 わたしが少し驚いた表情をしていたのに気づいた母が言った。


 「ああ。さっき見たら虫にやられてたのよ。他にうつるといけないからぬいちゃったの」


 母はなぜかうれしそうに言った。そして新聞紙を火種に履き集めた雑草に火をつけると、ゆっくりと立ち上っていく煙の行方を見上げながら楽しそうに微笑んでいた。

 その後、夏が終わり冬が来て年が明けるころになっても、わたしに弟ができることはなかった。

 聞いた話によるとあの女は夏の終わりに流産をしてしまったらしい。

 そのせいかどうか知らないが、まもなく父と女は別れたようだった。

 わたしは外泊をしなくなった父のことがやはりうれしかった。

 もし弟ができていたら父を取られてしまったかもしれないのだから。


 そう。

 それはそれだけの話。

 どこの家族にもある、あまり表ざたにできない裏話のようなこと。

 ずっとそう思っていた。ずっと。

 ほおずきの根が子供を堕ろす薬に使われていたことを知るまでは。

 あの夏からどれくらい経つのか。

 父はわたしが大学を卒業すると同時に亡くなり、母も一昨年亡くなった。

 女が流産をしたのは近所を散歩中に転んだからで、かわいそうだがまったくの事故だった。

 母のせいではない。

 しかし、ほおずき見るたびに思い出すのはあの夏のこと。

 陽炎のたつ公園。白い日傘。女の赤い唇。

 そして母の背中。赤く輝くほおずきをじっと見つめる母の背中。


 長い物思いから覚め、壁に目をやると、時計の針は12時を過ぎていた。

 空調がきいたマンションの一室は快適で、今が一番不快な時期であることを忘れさせてくれる。

 ……きっと今夜も帰ってこないのだろう。

 わたしはため息をつきながら窓のカーテンを閉めようと立ち上がった。

 ガラスに映ったわたしの顔はなんと母ににてきたことだろうか。

 テーブルの上には用意した食事が一人分、向かいの席にそのまま残されている。

 わたしの席には大きな封筒。一月前に受け取った興信所からの報告書がある。

 封筒の上にはくしゃくしゃになった写真が一枚。

 白くゆったりとしたマタニティドレスに身を包んだ女の写真。

 幸せそうに笑う女の写真。

 あの日、興信所からの帰り道、気が付くとほおずきを一鉢買っていた。

 これからどうしようか。

 どうするつもりなのか。

 わたしは途方にくれながらほおずきを見つめた。

 赤く輝くほおずきの実を。


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― 新着の感想 ―
[一言] ほうずきの赤が印象的でした.ふと,ある作品の中で永遠に輝いている檸檬を思い出しました(4作ほど続けて読ませていただきましたが,評価なんておこがましい,と感じるようになりましたので,今回は感想…
[一言] もっと長かったら、本になってるのを買いたい!と思えた作品でした。 淡々とした語り口が、物語とよく合っていて強烈な現実味を感じました。 ですから、短篇というのが残念です。最終的にほおずきを手に…
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