◆ epi.006 翻弄の兆し
蘭を泣くままにさせ、男は自らの記憶を辿った。何故そんな事をするのかと己自身に問い、思い当たったように囁きに近い声を漏らした。
「やはりお前は泣いてばかりいるな」
「……え?」
掛けられた言葉の意図を飲み込めず、逆に蘭が瞳で問い返す。そんな時のふとした仕種でさえもが、薄れかけた男の記憶を呼び覚ました。
「――あけ、み」
「……はい? わたし、そんな名前じゃありませんけど。あの、どうしたんですか?」
蘭の返り言葉に、男は我に帰った。引き寄せてしまった過去を濁すように、失笑して場を繕う。
けれどそれも無意味だと悟ったのか、浅く長い吐息と共に、男は重い口をゆっくりと開いた。
「済まない。ちぃとばかし昔を思い出しちまってな。『あいつ』も、今のお前のように泣いてばかりいたもんで、つい――」
「もしかして彼女さんですか? なんか……辛そうですけど大丈夫…ですか?」
蘭に問われて気付いた。今まで他人の前では平気を装ってきたが、実は全く違ったという事を。
忘れる事は出来ていなかった。それ以前に、忘れられる訳が無かった。
かつて、あれほどまでに一人の女を愛した事など他にあっただろうか、と生涯を振り返った。そして答えは決まっていた。
「滑稽だな。やっとあの日の自分に目を向ける事が出来るとは、な」
「……あ、の――?」
一人だけで納得したように瞼を閉じて感慨に耽る男を、蘭が訝しげに見つめる。その様子に気付いた男は一刹那考えた。
初対面に近い女子高生に話すべきか否か、話せば自分の贖罪が晴らされる訳でもないのにだ。
それ以前に男は、蘭の泣いた理由を問うた事さえ既に忘れていた。
自嘲の念に駆られた男は改めて蘭を真っ直ぐに見つめ、そして問う。
「俺みたいなので良ければだが、話ぐらいなら聞いてやれる。虫が良いかも知れない。……が、放っておけなくなっちまった。どうする?」
「え? それって、どういう――」
そう問いかけて口をつぐんだ。呼び止めたのは自分自身なのに、今更何のつもりも無いものだ、と呆れる。
無理に引き止めてしまった罪悪感と、申し入れを留めて貰えた嬉しさの間で、蘭は涙の残る瞳を細めた。
間近に構えられた喫茶店に向かう二人。男は無言で目線を斜に遣り、蘭はその三歩後ろを歩いた。
腰の下で掌を組んだ蘭は、俯き加減から上目使いに男の背中を見つめる。見慣れたものとは違う広さをつい新一のそれと重ね合わせ、ハッと息を呑んだ。
一時間ほど前の会話が耳に蘇り、蘭は堪らず耳を両の手で塞いだ。その気配に気付いた男が振り向きざま、怪訝そうな顔を蘭に向ける。
「どうした? そんなに辛いなら無理に話す必要は無いんだぞ。誰にでも一つや二つは、抱えるものがあってもおかしくはないからな」
「……いえ、平気です。それに、誰かに話してすっきりしたいし。かといって、誰にでも話せる内容じゃないんです。でも、あなたになら――」
「何故そう思うんだ? 俺だって他の奴らと何ら代わらないと思うが」
男の言う通りだと思った。そもそも、何故この男に話す気になったかが分からない。偶然が重なって再会しただけだ。
ただ、上手く言えないが『運命』を感じたのだ。雪の日に出会い、また雪の日に再会した。それを至純に偶然として片付けるのを、もう一人の自分が拒否した、ような気がする。
蘭は小さく息をついて、緩く微笑んだ。
この人なら信じてくれるよね? と、根拠の不確かな思いを載せて。
ぎこちない空気の中、目的地であるオープンカフェに着いた二人は、空席を求めて目線を巡らせた。
そして通りに面した二人掛けの席に腰を落ち着かせようとした刹那、男の表情が瞬く間に凍り付いた。
「? どうしたんですか?」
その問いには応えず、男は鋭い目で一点を見据えていた。蘭が男の目線を追った先では、黒塗りのクラシックカーから、黒ずくめに身を固めた長身痩躯な男が降りてきた。
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