◆ epi.029 プロとしての自信
煌々と点った「手術中」の三文字。薄暗い廊下にぼやけて同化してゆく赤。小五郎が放った言葉を助長するように、一瞬そのきらめきが強まった。
凍りついた時間が緩やかに溶けはじめ、固まって動けなかった佐藤達の息遣いが一際大きな響きで廊下を流れてゆく。
異様な緊張が雫となって目暮、それから佐藤の額から頬を伝ってポタリと床に落ちた。まるで合図だったように立ち上がった小五郎に、佐藤が詰め寄る。
「どういう意味……でしょう、毛利さん? もしかして毛利さんは知って……?」
佐藤の言葉が小五郎が知る真実の扉を抵抗なく解き放った。これ以上は自分の胸だけにしまっておくことは出来ないだろう、そう考えた小五郎は佐藤と目暮を交互に見遣り、大仰に肩をすくめてみせた。
「知っていましたよ。……初めから、ね。阿笠博士から聞いてましたからねえ」
「も、毛利くん……それは本当かね!? しかし、信じられんよ。あまりにも――」
「現実離れした話、ですからねえ。わたしも阿笠博士に聞いた時は正直……自分の耳を疑いましたから」
当時を振り返り、半ば遠い目で廊下の先を臨む小五郎は、首を二度三度横に振って小さくため息を零した。事実として話しながら、自分でも完全には信じきれていなかったからだ。
コナン……新一本人に確かめる機会は今までに幾度もあったのにそれをしなかったのも、あるいは認めてしまうのが怖かったからに違いない。だから暴こうとしなかったのだ。
そう強引に結論つけるが、こうなってしまった以上は認めざるを得なかった。だから小五郎は掘り下げるために、深呼吸をして気を落ち着かせると再度口を開いた。
「まあ、百パーセントはっきりと教えてもらった訳ではありませんが。あれは蘭がコナンを連れてきた日のことです。二人が帰ってくる前に、博士から電話が掛かってきたんですが。『今から蘭くんが連れ帰る男の子は少し訳ありだが、きみの身近な人物の仮の姿なんじゃ。詮索するなとは言わん。じゃが、好きなようにやらせてあげてはくれんか』――と、そう言われましてね」
そこで一旦言葉を切り、思い出したように微笑を零すと、小五郎は呆れ顔で後を続けた。コナンを見た時点で阿笠の言わんとすることに思い当たった驚きや、何故こんな姿になってしまったのか、という疑問が次々に湧いては消え、消えてはまた湧き冷静を装うのに苦労したことが記憶に蘇る。
何も知らないふりをして接しなければならないため、随分精神的に追い詰められて煙草や酒の量が増えてしまったことへの不平などを、冗談を織り交ぜて一通り話してみせた。
するとそれまで静かに、口を挟まずに聞き入っていた佐藤がふと気づいたように率直な疑問を差し挟んだ。
「あの……毛利さん? 今聞いた話からは、コナンくんが工藤新一くんであることははっきりと断言出来ないんじゃ。実際本人に聞いた訳ではないんでしょ?」
「そうだ、毛利くん。訳ありというだけで、阿笠博士がそう言ったのでもない。憶測だけで決めつけるのもどうか、と思うが」
佐藤の指摘を拾った目暮に否定的な意見を返され、小五郎の表情が俄かに険しく、引き攣ったような困惑を滲ませる。
けれど佐藤達の反応でさえ、小五郎にとっては予想の範疇だった。確たる証拠を示していないのだから仕方がない、それが当然の反応だと承知していた。
しかしもう後には引けないところまできているのだ……と、自分なりの根拠をつきつけることにした。
小五郎が『コナン=新一』の根拠(※蘭と視点が同じなため割愛)を吐露している廊下とは壁を隔てた一室では、生命の戦いが繰り広げられていた。
病院一の広さを誇り、最大三人を同時に収容出来るこの手術室で、今まさに極限まで死力が尽くされているのだ。
少しでも気を抜けば取り返しのつかないミスを冒してしまいかねない。室内を席巻する緊張と、それに負けないだけの技術の応酬が続く。
「麻生先生、こっちの女の子……バイタルが振れません! 出血点もいまいち特定出来なくて!」
「麻生先生っ! こちらの男性もかなり危険な状態です。もう五単位以上の輸血をしていて、これ以上は適応障害の危険性も出てきますっ」
「何とか保たせてくれ! わたしも今手が離せないんだ。――ちくしょう! 何でこんなに粉々に砕けてるんだ!? 幾らなんでもひど過ぎる」
「麻生先生!」
「麻生、先生っ! 指示をください!」
計算を誤った訳ではなかった。実際、ここまでの苦戦を強いられるとも思っていなかった。だからといって甘く見ていた訳では決してない。努力が足りない訳でもない。
麻生達のスキルを遥かに超えた最悪な状況が立ちはだかっただけのことだった。言い換えれば安直に早まってしまった……傍からはそう取られても言い訳出来ない。
だからと言って、他に手がなかったのも事実だ。そして、一度走りだしたらもう止まることは敗北を認めてしまうことだ。それだけはしたくない、と強く願わずにいられない。
「弱音を吐くな! わたし達はプロだろう。この手に……きみ達の手にすべてが懸かってるんだ! 頼むから最後まで諦めないでくれ」
「でもどうしたら!? ここまでひどい症例、扱ったことがないんです。……自信がありません」
「ぼくもです。正直、怖いです。この手で目の前の命を摘み取ってしまいそうで……怖いです。怖くて堪りません」
急降下してゆくモチベーションを見兼ね、麻生は憤りで歯噛みしたい思いに駆られた。けれど自分も実は迷っていた。チームを最後までたきつけ続けることが出来るのか、と。
揺らいでしまう自分自身に嫌気がさす。嫌悪感が増殖してゆく。この悪循環をどこかで絶たなければ最悪の結果を生んでしまうのは必至だろう。そう考えた麻生は足元を見据えた。
「なあ、自信って何だと思う? きみ達は自信がないなんて言うが、本当にそうか?」
「そんなこと言われても、解らないんです」
「そうですよ。ぼくは自分の未熟さに打ちのめされるばかりですよ。自信なんて」
患者を目の前にして無力感に打ちひしがれている暇はない。だのに実際はどうだ。
経験が足りないからなのか、気持ちを切り替える余裕がないのも仕方がないのかも知れない。しかしだ、本当はそのことに気づいていないだけに過ぎない。
麻生はそれを気づかせるために危険を顧みずに手先を止めてチームの面々を見渡し、言葉をかけた。
「今まで歩いてきた道を振り返ってごらん。そこにすべての答があるはずだから」
麻生に言われて、各々が目を閉じて過去を振り返る。
「これまでの経験がそのまま自信になるんだ。失敗も……成功もすべてだ。きみ達の自信をこの場で見せつけてくれよ。頼む!」
檄をとばされて医師達の顔つきが変わった。行き着いた答に皆が士気を高める。比例して手術室の空気が熱くたぎる。
もうそこに一切の弱音は存在しないし、出来なくなった。
「すみませんでした。もうわたし達は大丈夫です。そうだよね、みんな?」
「ああ! ぼく達はプロだ。もう迷わないさ。最後まで全力を尽くそうぜ?」
完全にふっ切れたプロは頼もしいものだ。命の前でこれほど強い存在はいない。麻生は改めてこのチームで戦えることに感謝し、長い戦いが始まったばかりだということを痛感した。
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