◇ epi.019 過去を知らない悪魔の本質は何処に
激痛に顰た眉間から脂汗が滴り伝う。限界まで力を込めて噛み合わせた奥歯がギリ……と砕けそうな音を響かせた。
辛うじて定まる意識を奮い立たせ、赤井は一歩ずつじりじりとジンに詰め寄ってゆく。が、それも虚しく三度目の凶弾を受ける羽目となった。
「愚かだな、赤井秀一。何をそこまで死に急ぐ? 俺には到底理解出来ねー。何が貴様を突き動かすのかがな」
「……グ! あんた本心から言ってるのか、ジン? 俺が……何も知らないとでも――?」
「何が言いたい。貴様が俺の何を知っているってんだ……。――まさか!? いや、そんな事ぁねー筈だ」
「その“まさか”だと言ったら?」
ジンの心を見透かすように、赤井は睨みと共に憐れみの眼差しを真っすぐに送り付けた。そこに秘められた思惑に思い当たったジンは苦い顔で赤井から目線を逃がす。
何故だかヤバいと感じた。思い当たった事実さえ偶然に近かった。けれど理屈でない事にも薄々気付いた。
“自分の記憶から失われている筈の何か”を、目の前にいる赤井が知っている現実を疑う気にはならないのだ。何がどうしてそう思わせるのかは解らないが、興味は引かれた。
が、しかし素直に認める訳にもいかない。詰まらない自尊心がそれを許してはくれない。だからジンは赤井に裏腹の言葉を返した。
「フ……ン、それが何だって言うんだ赤井? 貴様が俺の過去を知っていたとして、何かが変わるってのか? 悪いがそんな事に興味は無え。それ以上無駄口を叩くつもりなら、次は急所を撃ち抜くまでだ」
淡々と発せられた冷たい言葉の塊だった。しかし、俄かに生まれた感情を殺すには不十分な冷たさだ。
やはり完全に打ち消すのには無理があった。それぐらいに、赤井が投げ付けた言葉は鋭く、そして重いものだったのだ。
こうしている今も、赤井の目が強く己を搦め捕って離さない。思わず逸らしてから、ジンはある事に気付いた。
「まさか、な。いや、しかし――」
独り言のように呟き、逸らした目線を赤井に返したジンの双眸が大きく見開かれると、その先にはゆっくりと崩れてゆく仇敵の姿が飛び込んできた。
目の当たりにした状況がジンの何かを呼び覚ます。懐かしいようで狂おしい記憶の断片。その片隅に浮かんだのは遥か昔、幼き頃の他愛ない日常のひとコマだった。
――ほんの何秒か、ジンの中で時間が止まった。
ざわざわと周りから飛び込んでくる言葉の協奏に我へと返ったジンと、蘭の傍らでジンと赤井を遠巻きに見届けるコナンに哀。
日常に降り注いだ非日常に当惑しつつも、黒だかりの山は興味深げに一連のやり取りを固唾を飲んで傍観していた。
“怖いもの見たさ”が先行して目が離せないといったところか、無理矢理他人の肩に攀じ登ってまじまじと凝視する者がいたり、何を勘違いしたのか、携帯のカメラで記念撮影する者まで出る始末だ。
当事者としては収集を着けねばならない。コナンがそう考えた矢先、誰が通報したのか、遠くにパトカーのサイレンが聞こえてきた。
それにいち早く反応したジンが舌打ちした。かと思うと、目線をコナン達……というより傍らの蘭に合わせ、一瞬口端を引き上げて嗤った。
「今日のところは命拾いしたな、シェリー。そして工藤新一。だが、俺もこのまま何の手土産も無しに引き下がるつもりは無え。貴様等の代わりにその女をもらっていく事にする」
「な――っ!? ふざけんな! 蘭は関係ねーだろうがっ! 大体、そんな事させる訳ねーだろ」
「そうよ。何もかも自分の思い通りになるとでも? 相変わらず勝手な人ね。悪いけどジン……あなたに蘭さんは渡さないわ」
コナン達の言葉には耳を貸す気は毛頭ないジンは、構わず蘭に向かって靴音を刻んでゆく。あと三歩ほどで蘭に手が届く地点まで近づいたジンの前に、コナンと哀が立ちはだかった。
しかし、所詮は小学生の未熟で貧相な身体だ。盾としての効力は望める筈もなかった。
「退け」
「がぁ――っ!」
「! 工藤君――っ!」
一切の躊躇もなく、無慈悲な蹴りがコナンの鴟尾に刺さった。スイートスポットを捉えられたサッカーボールのように大きく弧を画いて吹き飛んでゆく。
十数メートル先に着地したコナンは、全身を強かに打ち付けてそのまま意識を遠退かせた。哀はただ茫然とその様子を目で追い、顔を両手で覆ってその場にへたりこんだ。刹那。
手首を掴まれた哀もそのまま引き上げられ、軽々と投げ出された。ビルの壁に激突して悲鳴をあげる哀を目端に捉え、ジンは足元に横たわる蘭を見下ろしほくそ笑んだ。
「お前に直接的な恨みは無え。まあ、周りの奴らを恨むんだな。それだけの時間と感情が残れば……だが。それも全てお前次第だ」
もの言わぬ蘭に一先ずの言葉を注いだジンは、意外にもその華奢な身体を優しく抱き上げた。まるで壊れ物でも扱うかのように、細心の注意を指先にまで払っているかに見える。
それが何を意味しているかなどジン本人さえ意識していなかっただろうが、ほんの一瞬だけ口許が柔和に綻んだ。が、直ぐに冷笑の浮かぶ普段のジンに戻った。
「さあ、行こうじゃねーか。今日からお前は組織のものだ。望もうと、望むまいとな」
その言葉を耳に留めたからなのかは定かではないが、蘭の眦が引き攣った。浅く薄い息を漏らす唇が強く引き結ばれ、無意識に拒絶しているかに見える。
「フ、気は強そうだな。が、いつまでそれが続くか――楽しみだ」
ポルシェに向かいながら蘭の顔を覗き込み、ジンはそう零した自分に失笑した。“楽しむ”との感情が残っていた事に少なからず動揺したからだ。人間性は当に捨てきったと思っていたのに、僅かにでもそれが残っていたとはお笑い種だ。
ジンは直ぐに打ち消し歩を速めた。そして助手席側のドアを開けて蘭の身体をシートに預け、そっと閉めた。
イグニッションを回して低く唸るエキゾーストを全身に感じ、暖気運転もそこそこにクラッチを踏み込み低速ギアを繋げる。若干カブりながらも強引にアクセルを開けると徐々に加速した。
助手席の蘭を一瞥したジンは、ただ一言語りかけた。
「『WILD HEAVEN』へようこそ」
その後、ジンは一度も目線を逸らす事なく前だけを見据えポルシェを駆った。暮れなずむ街に溶け込むように、滑らかに組織へとひた走ってゆく。
途中、何台かのパトカーと擦れ違ったが興味無しにやり過ごした。
――ざまぁねえ。今頃奴は悔しがってるだろうぜ。まあ、生きていやがったらの話だが。
胸の内で呟いて、おもむろにルームミラーに目を遣った。次第に小さくなり、やがて視界から消えるパトカー群を尻目にジンは再度ほくそ笑んだ。
一方、ジンが立ち去った後の現場では、相変わらずの黒山が遠巻きに様子を窺っていた。動きたくても動けない。一度興味を持ったモノからは最後まで目を離せない。そんな人間心理が色濃く滲み出ていた。
サイレンの音に人垣が割れ、掻き分けて入ってきた捜査員達は息を呑んで立ち竦んだ。
が、たった一人……ブロンドの麗女の美声だけが、突き抜けるように辺りを響き渡った。
「――秀一!?」
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