◇ epi.015 抽斗の奥の記憶
「……待って、工藤君。今日は……ね?」
「? 何だよ、灰原。せっかくのチャンスなんだぜ? それに今日を逃しちまったら、次のチャンスがいつくるか分かんねーだろ」
「それは……! そうだけど。……お願いよ」
今まで自分の思惑を肯定してくれていた哀が、懇願するような眼差しで見つめてくる。コナンは意図が掴めず困った顔で哀を見つめ返した。
花弁のような肉薄な唇を一文字に引き結ぶ哀は、何か言いたげに潤んだ瞳で訴えかける。言葉に出来ないぐらいの哀しみを湛え、コナンの手を強く引き寄せてポツリと呟いた。
「今日のジンは普段以上に殺気だってるわ。恐らく取引が拗れてしまったんでしょうね。少しでも刺激すれば――」
「――刺激すれば、何だよ? まさかオレみてーなガキんちょにまで手は出さねーだろ」
「甘いわ、工藤君。彼がその気になったら、生まれたばかりの赤ん坊にだって容赦なく銃を向けるわ。そういう人なの――!」
二度三度顔を横に振り、哀は頑なにコナンの手を解くそぶりを見せない。そればかりか逸るコナンの行く手を邪魔する為、掴んだ手を尚も引き寄せた。
無言の抵抗であるが故余計に、籠められた哀の想いはコナンに圧力をかける。結局負ける形となったコナンは、大きく息を吐き出して肩を深く沈めるしかなかった。
「わぁった。今日はオメーの言葉に従う事にしてやるよ。ま、発信器も着けたし……日を改めるってのも出来ない訳じゃねーし、な」
「……呆れた。いつの間に? 興奮していた割には抜目ないのね。でも、ありがとう」
さらりとした口ぶりで応えた哀は、気付かれないようにホッと安堵の息をついた。意外に素直に聞き入れてくれた事に、正直面食らってしまったほどだ。
ふと感じた視線に振り向き、コナンと目が合う。心臓が早鐘のように高鳴り、身体の芯に生まれた熱が意識を虚わせる。
打ち消す事の叶わない不安が過ぎり、意思とは反比例して重く言葉を零した。
「早く蘭さんに伝える事を伝えなきゃ。そうじゃないと前に進めないものね。彼女には残酷過ぎる現実かも知れない。でも――」
「暗くなんなよ。別にオメーが気に病むこっちゃねんだからよ。堂々としてろ。蘭にはオレの口から――」
「ダメよ……! けじめを着けなければいけないのはわたしもなんだし、避けて通る訳にはいかないの。判って……」
とは言っても後ろめたい気持ちは拭いきれない。許されるものならば逃げ出したくて仕方がないのだ。それでも前に進みたい想いが勝っている。
だから哀は、引き結んだ唇を強く噛み締めてコナンを見据えた。
「はぁ。ほん……っと強情っ張りだな、オメーは。わぁったよ。じゃ、来いよ」
「……ええ、行きましょ。探偵事務所で良いのかしら?」
「多分な。あいつは学校が終わったらほとんど寄り道せずに帰るからな。恐らく今日も──」
「どうかした? 何を見ているの──」
コナンの目線を追った哀が言葉尻を飲み込んだ。追いついた先に蘭の姿を見とめたからだ。自分達に向けられる刺すような視線をまともに受けて、身じろぐ事も出来ない。
固まっていたかに思えた覚悟は、音も起てずに崩れ去る。そんな感覚の中、哀はコナンの背に自分の身を隠した。
哀とかち合った蘭の瞳が俄かに曇った。予期していなかったバッティングに、心がざわざわと騒ぎだした。
そんな蘭を訝しげに捉えた赤井は、蘭の見つめる先に意識を走らせ目を見張った。
「! ジン!? 戻ってきたのか。ヤバいな、まさか彼等はジンを追跡するつもりじゃないのか? だとしたら止めなければ、な」
「……は? はい、でも。さっきも言ったように、新一が簡単に言う事を聞くとは思えませんけど」
「だったら力ずくでも止めるさ。彼の正体に勘付かれる前にな。──そんな訳で、お前とはここでお別れだ。フ……意外と楽しかった。が、出来ればもう顔を合わせる事がないように祈ってろ」
言い終わらないうちに席を立った赤井は、外套を翻して足早に店の玄関に向かってゆく。座ったままの蘭は目線で追うしか出来ずにいた。風が吹き抜けるが如く消えた背中を、蘭は名残惜しげに見送った。そして。
テーブルに戻そうとした目が、一枚の紙片を見とめた。
「? 何だろ? もしかして、赤井さんの……」
床に落ちていた紙片を拾い上げ、蘭はふと気づいた。ただの紙切れではなさそうだ、と思って裏返して無意識に呟く。
「……写真? 仲が良い姉妹みたいだけど、赤井さんの知り合いなのかなぁ。きれいな黒のロングヘアーの……お姉さん? と、茶髪の女の子か。そういえばこの二人、どこかで見た事……あるよね?」
ぼやけた記憶を辿るように、蘭は頭の抽斗を順番に開けていった。身内ではない事は確かだった為、新一と小五郎が係わった事件を虱潰しに当たり関係者の顔を思い浮かべた。
けれど直接絡んだ訳でもない蘭にとって、容易に辿り着ける答ではなかった。それでも必死に考えたがやはり思い当たる人物は見当たらない。だが、途方に暮れ諦めかけたその時、稲妻が走るようにその顔は脳裏に浮かび上がった。
「広田雅美さん!? それと、もしかして……哀ちゃん──?」
思いも寄らなかった事実が目の前に突きつけられた事で蘭の心臓はパンク寸前にまで鼓動を速めた。重度の眩暈を引き起こしたみたいに、目の前が急に暗くなってゆく。
ほんの刹那瞼をきつく閉じ、その一瞬で採るべき行動を決めた。
既に赤井が到達しつつある地点を一瞥した蘭は、ゆっくりと時間をかけて腰を上げ玄関に向かった。
|