私の日常縦書き表示RDF


原稿用紙18枚程度です。長いと感じる方もいらっしゃるでしょうが、ゆっくりと読んでいただければ幸いです。よろしくお願いします。
私の日常
作:れんじ


 人が私を見たら、大半の人間は「疲れた中年サラリーマン」といった印象を持つだろう。事実、その通りだ。私は疲れていた。朝の出勤前、家にいるときでさえ、私は疲れた表情をしているだろう。
多くの人間が歩むレールの上を、私も歩いているのだと思っていた。だが、それは違ったらしい。私には旧友と呼べる者もいなかったし、同窓会にも呼ばれたこともない。
それなりに生きてきたつもりだが、私に親しい人物はいなかった。それは妻にも娘にも当てはまる。妻と娘には疎まれて会話はない。こちらをちらりと見ることがあっても、その顔には何の表情もない。私は自分が否定されているように感じる。
 何の挨拶も会話もなく、私は今日も、会社へ出かけた。

 私には不思議な力があった。それはひどく馬鹿げたことだった。結論から言うと、私には幽霊が見える。それは中学生だったか、高校生だったか、よく覚えていないが、その頃からあったようだった。幼少の頃に幽霊が見える子供がいるという話を聞いたことがあったが、私に幽霊が見えるようになったのは、思春期の頃だった。
 確か、あれは教室で、数学の授業を受けているときだった。
教師が関数について黒板に何かを書いていた。私はそれを自分のノートに書き写していた。黒板を見て、机の上のノートに書き込む。その繰り返し。私は黒板に書かれたことをノートに書き込み、それから、黒板を見ようと顔を上げると、不思議なことにそれまでいなかったはずの女子生徒が必死に黒板を消していた。教室を見渡したが、席を立っている女子生徒はクラスにいなかった。隣のクラスからやってきたとしても、扉を開ける音で気づくはずだ。
黒板の左側に教師がおり、何かを説明していた。右側に女子生徒がいた。私から見ると、彼女は後ろ向きでどんな表情なのか分からなかった。けれど、右手に黒板消しを持ち、黒板に書かれた文字を消そうしているかのように、必死に右手を上下させていることは分かった。ただ、黒板の右側には、何も書かれていなかった。
私が声を上げると、女子生徒は跡形もなく、すっと消えた。
 私はそれからたびたび幽霊を見るようになった。最初は驚いたものの、次第に慣れ、平静でいられるように努めることにした。
それは幽霊を見ても気にしないほうが賢明だと思ったことが理由だった。教師や家族に幽霊が見えると伝えても、相手にしてくれなかったからだ。真実を伝えて、おかしな生徒だと思われるより、見たものを伝えず、ただ平凡な生徒だと思われるほうが良いと、私は判断した。
 
 私は電車が到着するアナウンスで物思いからさめた。
 電車内はいつもどおり、混み合っていた。私は満員電車が嫌いだった。今日は特に嫌いだった。それは、電車の扉側に押しつけられていたからだ。こちら側の扉は開かない。それはとてもいいことのように思えたが、私はこの扉から見える風景が嫌いだった。今から十五分も走れば、この線路から少し離れた場所に、火葬場が見える。私はそれが嫌いだった。火葬場そのものではなく、火葬場の上空、というべきか。
 電車が規則的な音をたてて、走っていく。
 やがて、火葬場が私の視界に入った。火葬場の上空に、何かが空へ昇っていくのが見えた。何か、というのは、私には分かっていた。もう何度も見たからだ。今日は若い女性のようだった。彼女は空を見上げて、ゆっくりと昇っていっていた。
 線路から少し離れているにも関わらず、私にはこの若い女性の顔が、どうしてなのか分からないが、はっきりと見える。いつも、そうだ。まるで双眼鏡を通して、彼女の顔を見ているようだった。彼女は(たいてい、火葬場から空へ昇っていく幽霊たちは)きまって、なぜか、こちらを見る。私のほうを、だ。
そして、彼女は、ほかの幽霊たちと同様、すこし寂しげに私を見る。私はこれが嫌だった。例えようのないない苦しみが、私の体を支配する。じっとりと汗をかき、息苦しさを感じる。数秒間―――私にはとても長い時間に思えたが―――見つめあった後に、彼女は私を見るのをやめて、空へ顔を向けなおし、ゆっくりと昇っていった。
 彼女が目を離してくれたので、私は息苦しさから解放され、体中を駆け巡った苦しみも、消えていった。
 
 私の仕事は、いたって簡単なことだった。
窓際の席に座り、仕事をする同僚や上司、部下を見ることだった。たまに窓の外を見たりもする。私には、何の仕事もこない。同期で入社した大橋くんは今はもう部長らしい。入社当時からお互いに話したことはなかったが、彼が出世を強く願っていることはすぐに分かった。彼はよく働いたし、人間関係もうまかったようだ。私はそれに比べて、失敗ばかりだったように感じる。その差が、今の状況に結びつくのだろう。
 私はいつもどおり、退屈に過ごした。
 家での出来事を思い起こした。いつからだろう、こんな生活になったのは。

 郊外の一軒家を買い、妻との間には、娘を授かった。その頃は、私はとても充実していたように感じる。けれど、いつの頃からか、妻も娘も話しかけてくれなくなった。
 まだ娘が小さい頃だった。私がそばによって、抱っこをしようとすると、ひどく泣き出した。たまたま虫の居所が悪かったのだろうと思ったが、それからは私が近づくだけで泣き出すようになった。私は娘に好かれていないようだった。心が徐々に重くなっていった。思えば、あの頃から、私の心に虚無感が住み着き始めたのかもしれない。
 それから、私は妻が浮気している節があると気づいた。妻に真偽を確かめようとしたが、相手にされなかった。私へのあてつけなのか、妻は浮気をやめないどころか、ますます、浮気をエスカレートさせていったらしい。夜、家に帰ると、知らない男が妻と娘と一緒に食事をしていたのだ。
 この頃の私の心は、まだ生きていたのかもしれない。私は知らない男を家にあげた妻を大声で叱った。娘は泣き出した。遠い記憶だが、確か、私はその知らない男と殴り合いになった気がする。
気がつくと、私は誰も寝床として使用していない和室に寝かされていた。体が痛み、手で顔に触れると、腫れているようだった。どうやら、殴り合いで私は気絶させられてしまったようだ。
 私は当初、この男とよく喧嘩になったが、あるとき、ぱったりとやめた。それは妻と娘が、この男のほうに味方していると気づいたからだった。たまにやってくるあの男のほうが大事なのだと、そう妻と娘は思っているらしかった。私は家での居場所を失った。この明らかな浮気を―――もはや浮気と表現していいのか分からないが―――黙認することにした。離婚する勇気がなかった。それは勇気なのだろうか。私の田舎の実家には両親がいる。私は年老いた両親に息子がこのような状況にあることを知られるのが怖かった。しかし、なにより、私は多くの人間が歩むレールから外れることを恐れた。離婚はレールから外れる行為だと私は思っていた。
私は心を死なすことで、その状況を受け入れることにしたのだ。

 窓の外を眺めながら、あのときにレールから外れてしまったのだろうか、と考えていた。窓から職場に目をやると、みなが昼食をとり始めていた。休憩時間のようだった。いつの間にこんなに時間が過ぎてしまったのだろう。
 私は席を立ち、自動販売機へと向かった。特に何のすることのない私に昼食など不要だった。いつもどおり、紅茶を買い、飲み干した。
 私が大きな窓の近くの長椅子に座った。
隣に座っている男が肩を落としてため息をついた。
「今日、僕は妻に弁当を作ってくれないかと言ったが、あっさりと断られてしまったよ……」
 隣の男がタバコの煙を吐き出して、つぶやいた。
「私の家も同じだろうな。だけど、頼む前に、すでに諦めてしまっているよ……」
 私はそう答えたが、私の場合、妻が返事をしてくれるかどうかも怪しかった。
「寂しいもんだね」
 窓から外を見ている男が言う。
「でも妻が家にいるだけ、ましじゃないか」
 窓を向いていた男が振り向き、自嘲気味に笑った。
「俺は逃げられてしまったよ。金が稼げない男は用なしか……」
 そういって、カップに入ったコーヒーを寂しそうに見つめていた。
 私は彼に同情した。彼も私も似たようなものだった。
「私の家も逃げられてしまったも同然だ。口も聞いてくれない」
 最近、会話したのはいつだったか? 思い出せない。妻が逃げていっただけ彼は幸運なんじゃないかとさえ、思えた。妻がいなければ会話がないのも分かる。妻がいるにもかかわらず、存在を無視される私は、一体なんなんだろう。
 しかも、私の妻は、私がいるときでさえ、あの男を連れ込む。そして、私には見せたこともないような笑顔を、あの男に見せる。憎しみも悔しさももうなかったが、そのたびに、私の心の中に虚無感がしみこんでいく。そうして、私はますます人間味を失って、何も感じないロボット―――古びたできそこないのロボットのようになっていく気がした。
「この年じゃ、やり直しもきかないしな。僕は家に帰ると、妻がいないんじゃないかと不安だよ……」
 隣の男はまた大きく煙を吐いた。タバコの火がちりちりと燃えていく。タバコの先から煙がゆらりと上がっていく。今日の電車から見えた火葬場上空を昇る若い女の幽霊を思い出し、胸が悪くなった。いや、ひょっとしたら、それは電車から見えた幽霊を思い出したからではなく、妻と会話できる隣の男に嫉妬心を覚えたからかもしれなかった。
「私は妻ともう何年も口を利いていないよ。あなたは会話があるだけましだと思える」
 率直な感想を言った。
 窓のそばの男も相槌を打った。
「そうだな……。だが、まだ会話が出来るのなら関係も修復できるかもしれないよ」
 妻と会話ができる。それだけのことだが、窓のそばに立っている男も私も、無理だったのだ。窓のそばに立っている男は、妻に逃げられたそうなので、おそらく一生無理なのだろう。そして、私も、一生無理だろう。妻の顔を思い浮かべても、笑顔は思い浮かばず、ただ無表情にこちらを見る顔しか思い浮かばなかった。
「ここ最近かわされた会話は、勇気を出して言ってみた、弁当を作ってくれないか、という僕の台詞に対して、妻の、嫌よ、という一言だけだよ……。これをどうやって修復していけばいいのか、僕にはとうてい分からない……」
 しばらく気まずい沈黙が続いた。
「こんな会社に拘束されて、家の中には居場所がない。俺は自由になりたいよ。妻が逃げてからはよくそう思うんだ」
 窓のそばの男は、コーヒーを飲み干して、紙コップを握りつぶした。彼の顔は、苦渋に満ちていた。
「自由か……。私はそんなこと考えてもみなかった。人生はずっと耐え続けるものだと、思っていた……」
 私に他の人生があるだろうか。自由など、私には縁遠い、いや、縁のないものだと思っていたし、これからもそうだろう。私は幼い頃より、帰属意識が強かった。自由になることには、恐怖を感じていた。
「僕にとっては、それでも大事な家族。路頭に迷わすようなことは決してしたくない。自由になることにも憧れるけれど、僕はこの会社に意地でもしがみついてやる」
 タバコをくゆらせ、隣に座る男は決意ある口調で、そう言った。
「家族は、大事……か」
 私は窓から見えるオフィス街を見ながら、ぼんやりと考えた。
 大事な家族―――と隣の男は言った。私ははたしてそこまで言い切れる自信があるだろうか。私がいなくても、たまにやってくるあの男が、妻と子供を守れるのではないだろうか。私に守られるより、あの男に守られることのほうを、妻も娘も望んでいるだろう。そう考えて、私はまた虚無感に包まれた。
「そういうところが、俺とあんたの違いかもな。俺はそこまで家族を重視していなかったのかもしれない……」
 会話はそこで終了した。握りつぶした紙コップをゴミ箱に捨て、窓のそばの男が立ち去った。
隣の男もタバコを灰皿に押し付けて火を消し、去っていった。
 私もほんのしばらく窓の外を眺めた後に、いつもの窓際の席に戻った。

午後はいつもどおり窓際の席で過ごした。何もやることはなかった。窓の外が暗くなり、鏡のようになった。そこには、皆が帰り支度を始める様子が映っていた。私も席を立ち、帰り支度を始める。誰にも挨拶されることなく、私は会社を出た。
 帰りの電車内は朝ほどではないが、やはり混雑していた。窮屈に感じながら、自分の降りる駅まで立っていた。途中の揺れで、隣に立っていた会社員風の男が、私にぶつかってきたように感じたが、特に謝られることもなかった。
 私が電車を降り、駅の改札口を抜けたところで、雨が降っていることに気づいた。あいにく私は傘を持っていなかった。傘を届けにきてくれるような人間も私にはいなかった。近くの店で傘を買おうかと思ったが、やめておいた。
 私は雨の中、とぼとぼと家に向かって歩き出した。
いつもより近道をしようと思って、幽霊のいる公園を横切ることにした。火葬場の幽霊とは違い、彼らは死んだことに気づいていない。私は自分から話しかけることはしないが、彼らがはやく成仏してくれることを願った。彼らを見ていると、とても寂しく、哀れに思える。
 ぎいぎいとブランコに座っている小さな男の子の幽霊がいた。下を向いてなにかつぶやいている。以前、少し近寄って何をつぶやいているのか、耳を傾けたことがあった。「お母さんが迎えに来ない……。お母さんが迎えに来ない……」と繰り返し、つぶやいているようだった。
この子は自分が死んだことに気づかず、母親が迎えに来ることを待っているのだろう。
そして今日も同じ事をつぶやいているようだった。私は寂しげな表情で少年を一瞥した。
 公園をはやく出ようと歩を早めた。公園の出入り口の横のベンチに、老人が座っていた。この老人はたいていここに座っている。公園に来る人間を見ているようだった。以前、目があったとき、「あのブランコの幼い子は可哀想じゃな……」と寂しげな表情で話しかけられた。私はあなたも同じだと言いたかったが、聞こえないふりをしてそのまま公園を出た。
 今日は目を合わせなかった。老人はこちらを見ているようだったが、私はまっすぐ前を見て歩いた。老人がどんな表情だったか分からなかったが、私はなぜか体中が重く感じた。汗をかき、息苦しさに苦しむ。それでも歩調を変えず、私は公園を後にした。公園から離れると、息苦しさは消えた。
 家に着く。服が雨でずぶぬれになっているのではないかと思ったが、服はぬれていなかった。どうやら、そんなにひどい雨ではなかったようだ。
私が「ただいま」と言ったが、妻からも娘からも返事はなかった。この時間は二人は家にいるはずだった。
 リビングを覗くと、二人の会話が聞こえた。娘が沈んだ口調で喋っていた。
「どうして、お父さんは家に毎日帰ってこないの?」
 おかしなことを言う。私は毎日帰ってきているじゃないか。
 妻がすこし困った顔をする。
「お父さんは出張ばかりだから……」
 私は出張に行った事がない。私はいつもあの窓際の席で過ごしている。
 妻が続けた。
「ごめんね。でも、お父さんはちゃんとあなたのことを愛しているわよ」
 娘が母の顔を見て、申し訳なさそうな表情をした。
「お母さんを困らすつもりはなかったの……。ごめんなさい。……部屋に戻るね」
 そう言うと、娘はリビングから出ようとこちらへ向かってきた。
 私は、小さな声で「今、帰ったよ」と言ったが、娘は聞こえないかのように私を無視して、二階へ上がっていった。どうやら、私を父親であると認めていないようだ。そして、あの男をお父さんと呼んでいる。私の心に虚無感がまとい、心はより一層重くなった。
 私は休憩時間の会話を思い出した。自由……。私は強く目を閉じた。それから、深くため息をついた。自由を選択することは、私には無理なようだ。こんな日常でも、私は捨て去ることが出来ない。私は、自由になることが、とても怖かったのだ。

 朝が来た。
私はいつものように、妻や娘と何の挨拶も会話もないまま、会社へ出かけた。


お気軽に評価、感想などをおねがいします。













ケータイ表示 | 小説情報 | 小説評価/感想 | 縦書き表示 | TXTファイル | トラックバック(0) | 作者紹介ページ


小説の責任/著作権は特に記載のない場合は作者にあります。
作者の許可なく小説を無断転載することは法律で堅く禁じられています。




◆BACK
小説家になろう